ふるさと
秋田県仙北郡太田町。この町に入ると「秋田県民歌のふるさと」と看板が目に入る。
日本3大県民歌といわれる秋田県民歌は昭和5年に制定された。この歌は作曲が「浜辺の歌」で知られる成田為三、作詞が太田町出身の倉田政嗣である。修正が高野辰之とある。
高野辰之。あの「ふるさと」の作詞者。高野は明治9年、長野県下水内郡永田村大字永江(現豊田村)の生れ。
年表によると
1897(明30)21歳 長野県師範学校卒業。下水内高等小学校訓導となる。
1925(大14)49歳 論文「日本歌謡史」により東京帝国大学から文学博士の学位を授与される。
秋田県民歌が制定された昭和5年。高野辰之(54歳)は皇太后陛下に「道成寺」を御進講申し上げている。
「高野は、明治の終わりから大正の始めにかけて作曲家岡野貞一と組み、『日の丸の旗』『紅葉』『春が来た』『春の小川』『故郷』『朧月夜』などの作詞をした。
日本人にながく愛唱されているこれらの歌には、故郷によせる優しい思いがこめられている。歌う人、聞く人の誰の心にも親しみと日本人が持つ叙情への深い共感がわく名曲である。辰之の全人生をかけた学問的業績もすべては同じく日本の心の故郷を求める仕事であった」(おぼろ月夜の館・高野辰之博士の業績より)
作曲の岡野貞一は鳥取市の出身である。
10年前、秋田県協和町に眠る秋田戊辰の役戦没鳥取藩士の遺族を訪ねた後、鳥取県庁近くを歩いていたら、公園の中から「ふるさと」の歌が聞こえてきた。引き寄せられるようにふるさとの曲に近づいていったら、大きな石碑が見えた。
それは鳥取出身の作曲家岡野貞一の「ふるさと」の記念碑であった。石碑にはふるさとの歌詞が彫り込まれ、ボタンを押すと歌が流れてくる仕掛けがしてある。
ふるさとの作詞者、高野辰之のふるさとにはいったことがない。
高野が晩年に過ごした、いで湯の街、長野県野沢温泉村に高野辰之博士(1876〜1947)の業績とその人柄を称えた「おぼろ月夜の館」が建っている。
次の文章は小生が毎月出している「ふるさと呑風便」の今年の6月号、NO170に書いた巻頭言です。
おぼろ月夜
一枚のファックスが届いた。 5月12日。北海道の水口正之さんからだ。彼は北海道の地域づくりの仕掛け人代表格。新聞記事が掲載されていて、車椅子サックス奏者の写真がのっている。渡部昭彦(56)さん。演奏曲目が「イマジン」「オールオブミー」他を熱演とある。5月25日に新潟でライブがあるので、それ以降、秋田でのライブをご検討くださいとあった。
水口さんに電話して聞くと、「渡部さんは滝川で奥さんとスナックをやってるんですが、いい奥さんで音楽に理解があるんですね」という。
私は、悶々としている元プロのサックス奏者の旦那にこういっただろうと推測した。
「あなた、お店は私がやりますから、サックスをもって全国で障害者の方々を励ましたら」この夫婦愛に勝手に感動して、考えた。
この機会に大館の車椅子歌姫との約束を果たそう。
去年の12月21日。大館北秋ホテル。拙書「青春旅故郷づくり」の出版会。車椅子の畠山ひとみさんが駆けつけてくれて、自作の歌まで披露してくれた。
以前、私は彼女を大館の車椅子の歌姫と勝手に名づけ、NHKのど自慢大会にも参加してもらったこともある。
結婚して子どもが生まれ、スナック「ひとみ」を閉めてからは、歌謡教室を開いて、念願だった老人ホームを慰問している。
彼女に「秋田の日赤病院で歌いませんか、院長先生をよく知ってますから」といったら、目を輝かせて、「ぜひぜひ、日赤で歌うのが夢だったんです」
私はひとみさんの秘めたる想いを知る由もなく、氣安くいってしまった。
「よっしゃ、来年、花の咲く頃、日赤でやってもらいましょう」
5月23日。秋田赤十字病院の院長室。毎日新聞論説委員の三木賢治氏から送られてきた児童図書30冊を、七井辰男秋田支局長から宮下正弘院長へ寄贈してもらう。
その際、大館の車椅子の歌姫と北海道の車椅子サックス奏者のジョイントライブを6月3日にお願いすると、院長先生は患者さんの励みになると快諾してくれた。
6月1日。秋田市大町・第一会館で秋田・長野県人会が開かれた。私は長野県出身の参議院議員の秘書をした縁で十年前から入会させてもらっている。
小県郡東部町出身の宮下院長から、大館の車椅子歌姫のことを聞かれた。
「彼女はバスガイドでしたか。旧姓は?。田村さん!そうだ、僕が二〇年前に診察した患者さんだよ。元気に車椅子でがんばっている。それはよかった。じゃあ、私は彼女の歌をハーモニカで伴奏しよう」
これは大変だと大館のひとみさんに電話した。
「先生、院長になられてたんですか。すごーい。先生は北海道の学会の帰りだといって私にこけしのペン立を買ってきてくれたんですよ。今でもそのペン立を大事にしてます」
その日6月3日の午後。秋田日赤病院ロビィ。ここで繰り広げられた、宮下先生とひとみさんのジョイントライブの感動的な情景を記するには、残念ながら三木賢治記者のような筆力がない。
宮下先生が伴奏して、車椅子の歌姫が歌ったのは「おぼろ月夜」だった。
昭和8年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
朧月夜(おぼろづきよ)
一、
菜の花畠に、入日(いりひ)薄(うす)れ、
見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし。
春風(はるかぜ)そよふく、空を見れば、
夕月(ゆうづき)かかりて、にほひ淡し。
二、
里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路(こみち)をたどる人も、
蛙(かわず)のなくねも、かねの音も、
さながら霞(かすみ)める朧月夜(おぼろづきよ)。