大正天皇御成婚記念公会堂・御即位記念会館(略称記念館)
〜秋田にはかって、こんなに美しい建物があった〜
記念館(大正天皇御即位記念会館)の見える風景 威知義曜(たけちよしてる)画伯
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威知義曜(たけちよしてる)画伯 略 歴
大正元年12月15日生まれ。(秋田市手形新町上丁14番地)
大正8年秋田市立明徳小学校入学。小泉良蔵先生、佐々木ミヤ先生、小松寛先生に学ぶ。
大正13年明徳小学校尋常科卒業。
昭和5年秋田県立秋田工業高等学校建築科入学。
昭和8年秋田県立秋田工業高等学校建築科卒業。
元各大学講師・元秋田工学校教諭・元秋田建築高等修学校教諭
昭和21年 日本美術会会員 元全日本美術会会員 元全日本美術会秋田 県支部長
フランス国、パリ秀作美術展日本代表 フランス国、ソウーズ美術展日本代表
オーストラリア国、ザルツブルグ展日本代表
パリ画廊選抜展2回受賞、同新鋭展受賞、同推薦賞受賞、パリ画廊祭典招待出品受賞
スペイン国際展受賞、毎日現代美術展入選、独立展連続入選、二科展連続8回入選
現代水墨画全国精選展受賞7回、入選10回
(特賞)最高賞3回、準グランプリ1回、奨励賞2回、佳作賞1回、計7回受賞
渡仏、渡英、ギリシャ、ペルシャ、オランダ、ドイツ、その他ヨーロッパ外遊
秋田県公会堂と記念館
凱旋記念(昭和8年)満州事変の凱旋を記念した
ものと思われる。記念館でかなりの多くの市民が
秋田の軍隊の凱旋を出迎えていたようだ。
目で見る秋田・男鹿・南秋の100年 (郷土出版社発行より) 大正7年(1918年)秋田市全図 (クリックして下さい)
燃えたルネッサンス建築 ー公会堂と県民会館ー (目でみる秋田の今昔 岩田友記写真集から)
久保田の森は「文化の森」でもあった。まず明治37年に文化の殿堂がない県が、今の県民会館の所に竣工したのが県公会堂。当時の金で工費は88、000円。盛大に行った式典だけで150円ナリ。明治の開化思想をも輸入した。建築部門で流行ったがルネッサンス調。この公会堂もそんな香りのする豪華な建築だった。
大正天皇の御成婚記念として、国をあげての祝賀事業の一つであったが、大正7年4月29日に炎上、南側の一部が残っただけだった。折しも半年後には隣り合って県記念館が完成に向かって槌音が響いていた時の皮肉な事件であった。
記念館は「大正天皇御即位記念会館」として大正4年10月に着工されている。工費108、140円、設計は東京の日銀本店や赤レンガの東京駅を手がけた辰野金吾で、新装の記念館も木造であるがルネッサンス式のもので、公会堂がもし焼けなかったら、久保田の森に二つの大建築が併立するはずであった。こちらは収容人員1、400人。建築にあたってのエピソードを一つ。
公会堂は諸会合を開けても、宴会場がなく、ハイカラ紳士が料亭の座敷で祝宴を開くわけにもいかないというので、洋式、立食のできる場所ーというわけである。その肝心の公会堂が、記念館の完成目前に燃えたのだのだから、連隊から近くにあった師範、中学、工業の生徒までが駆けつけて消化を手伝ったが、処置なしだった。ペンキ塗り替え中の失火だったとか。
公会堂は短命であったが、東宮時代の大正天皇はじめ宮様たちが次々に訪れたし、栄光に包まれた歴史を形づくった。記念館の方は長い文化史の舞台となったが、中でもバイオリニストのジンバリスト、ピアノのラザール演奏会もあったし、政治家、作家、劇団が相次いで訪れたが、戦後、県民会館へ。
秋田県公会堂。明治37年11月3日完工。そして 大正7年4月29日消失した。 |
大正天皇御即位記念秋田記念会館。大正7年10月 31日完工。昭和35年解体。 |
明治33年5月、武田千代三郎秋田県知事は大正天皇御成婚御慶事記念として、県議会に総工費5万円の公会堂建築案を提出した。2階建て洋館で、内外部の装飾は仏国ルイ16世式を採用する、という設計が当時の見解議員をびっくりさせた。が、これは満場一致で可決された。
文化知事として県民親しまれた武田は、その完成を見ずに山口県知事に発令された。送別会を料亭で開催
との県民有志から申し出に手をふり、「県会議事堂で音楽会を催させてほしい」と希望を述べ、当日、送別会場では正面に赤い幕を張り、それに送別と白い文字を浮かし、窓辺には色とりどりの造花が飾られた。
いよいよ式は、武田を真ん中にして、「金剛も磨かずば・・・」を合唱し、終わってからピアノとバイオリンの合奏
が流れた。酒は一切なかったし、美辞麗句による送別の演説もなかったが、送る人と送られる人の、心と心が温かくさわやかに触れ合った。そして明治35年2月なつかしい秋田を去った。
公会堂開堂式は(現県民会館の地)は明治37年11月3日に、天皇の佳節の日に行われた。山口県知事を休職し、鬱々とした浪人生活をしていた武田前知事はこの開堂式に招待され、次のような祝辞を述べている。
「曽(かつ)て在任の日設計したる本会堂は県民の尽瘁(じんすい)によりて落成を告くるに至りたるは、予の最も欣喜に堪へさる所なり」
明治42年7月、時の森正隆知事は、秋田のよさを宣伝するために、東京の新聞雑誌記者20余名を秋田に招いた。このとき公会堂を見た記者たちの評をきいてみよう(滝沢武編『知られたる秋田』明治42年12より)
この公会堂は有名なる千秋公園の入り口にある大きな洋風建築で、5万円でできたそうだ。仏国式の装飾もなかなかハイカラづくり、出羽の辺域にこんなのがあろうとは、まったくもって思いも設けなかった(日本新聞記者・谷河梅人)
公会堂は鬱乎たる公園の森林に拠り、巍々たる新式の西洋館である。一個の公会堂もない東京市は恥じ入る次第(東京二六新聞記者・吉田渟)
県公会堂は明治30年代、市唯一の大洋館であって、大きな集会場として最も利用され、しかも木造ではあるが、今日では見られない堅実優美性があった。会議や講演、演説会用には便宜ではあるが、食事用には不便だったため、大正四年大正天皇御即位記念事業として、南西側(今の県立図書館の地)に県記念会館を建て、公会堂を集会用、記念会館を大食堂に併用するために計画して、7年記念会館工事が終わろうとしていた時、ペンキ塗り替え作業中、公会堂は炎上してしまう。
県記念会館の方は<県記念館>の略称で親しまれ、その後文化行事の殿堂になり、大正14年10月15日から18日まで摂政宮(今上天皇・昭和天皇)の御宿泊所になったこともあって、昭和34年まで美しい姿を保った。
(読者とともに120年・秋田魁新報)
記念館
秋田市千秋明徳町。県民会館の前身で、老巧のため、
1960年(昭35年)6月に解体された。正式名称は大正天皇御即位記 念会館である。1904年(明治37)落成の県有公会堂が手狭のため、 1915年(大正4)10月着工、1918年(大正7)4月完工した。
工費108,104円。総面積 1,744・7平方b、収容1,400人。三基のドーム型頂部で飾るルネサンス式木造洋館は、左右相称の典雅な 姿を見せ、秋田の文化の殿堂として親しまれた。1922年(大正11)以 来の、秋田魁新報社文化講演会には大山郁夫、永井隆太郎らが招かれ、1925年(大正14)には摂政宮(今生天皇・昭和天皇)がお泊まりになられた。以降、政治文化の集会、講演、鑑賞に果たした役割は計り知れないものがあった。大きなホールとしては県内唯一の存在で、その美しい建築とともに、長く記録されていくだろう。
解体された一ヶ月後、県民会館が図書館と並んで着工された。<井上隆明> (秋田大百科事典)
市川房枝さんも来たる
記念館での東北婦人参政権大会(昭和6年)
前から2列目、右から5人目が和崎ハル、最前列
右から5人目市川房枝、2人置いて山高しげり。
昭和22年 明徳小学校入学記念(記念館前)
(写真をクリックすると拡大され、懐かしい恩師、あの同級生もいます)
秋田県記念公会堂・記念会館 青写真と写真 (秋田県公文書館蔵)
記念館模型 (秋田県民会館蔵)