ふるさと呑風便  第93号〜103号  (平成9年1月〜12月)
 
 おみくじ  涙がでるほど・・  君は日本国民の将来のことを考えられないのか  もう一回又、「恥」
 おおい野呂さん、よ。  嘘  松  コンピューター  杉ゲリラ  落伍者  きちみちくり  電話 



●第93号/平成9年1月20日

  おみくじ

 運勢・第十五「凶」
 年乗数亦孤 久病未能蘇
 岸危舟未発 龍臥失明珠
 (何事もおもひのままにならず久しく苦しむかたちなれば、龍がふたたび珠を得て昇天するのときをまつべし)
 新年早々縁起は悪いが、寅さんの柴又・題経寺で引いたおみくじ。凶なんてめったに引くことがないと手帳にはさんで持っていた。
「願望 願いがたし 病人長びく 待人 来たらず 失物 出でず 其他 当分見込みなし」確かに「凶」とはひどいもんです。
 これは平成5年4月。葛飾柴又・帝釈天。題経寺境内にある尾崎士郎の「人生劇場青春立志の碑」を見にいった時のもの。おみくじをひいて、「凶だ、ひでえな」といったら、「何、逆も真なり、だよ」と隣にいた、笠智衆が鳥打帽子をかぶったような御仁に慰められた。その方、太田隆三さんは、帝釈天の産湯ではないが、湧水をくみに来ている人だった。寅さんの実家とされる「とらや」に案内してもらい、一緒にビールを飲んだ。
「俺の家はここから歩いて15分ぐらいだから泊まっていてくれ」と何度もいわれて困った。
 茨城県出身の太田さんは隆三さんだから、三男か三番目だろう。

 私は戦後の日本を創ってきたのは、農家の三男坊と出稼ぎ農民、そして飲み屋のママさんだと思う。
 農村から出ざるを得なかった次三男坊は都会へでてひたすら働き、結婚して家を建てた。仕事やうるさい女房が嫌になり、飲み屋で会社を辞めるとか女房と別れるとかをいい、それを「大変ねえ」とママに聞いてもらって家に帰り、翌日は又、元気に働きに出る。
 高度経済成長の底辺を支えた長男の出稼ぎ農民は、家族のために危険な土木作業に従事してきた。たまに行く飲み屋のママに「大変ねえ」と慰められて、翌日まつふるさとの家族を想って肉体労働に汗を流す。この思いは小生の出稼ぎ体験からきた実感でもある。

 「男はつらいよ」の寅さんの本名は車寅次郎。高度経済成長の底辺を支えたとはいえまいが、「それをいっちゃあおしまいよ」と、日本人は寅さんから人情と家族をいうものを学んだ。感謝・合掌。
 1960年代、高校時代に良く見た日活映画の「渡り鳥」シリーズ。主人公・小林旭の名前は「滝伸次」。弟分の赤木圭一郎は「滝二」で宍戸錠は「譲二」だった。
 皆、映画の主人公が次男坊なのは、戦後に都会へ出てきた農家の次三男達から共感を呼ぶためか。
 高倉健は花田秀次郎だった。

 我がパソコンに登録している人的財産録を出してみる。霧ソフトで独自に創ったもの。
 本県の名簿で年賀状宛先・2014人を入力している。一覧表形式でだし、選択機能を押し、名前の欄に一か太と入力すると、瞬時にでてくる。一とつく人が何と258人、太郎などが30人。長男と考えられる人が288人いる。一方、次二とつく名前は71人であった。ちなみに三がつく名前が61人。
 長男が断然、秋田に残っているということか。小生は名前のとおり三男であり、農村から都会へでていったが、ふるさとを創りたいと帰ってきた。次男ではないからどうも主人公にはなれないだろう。

 正月は、去年の暮れからインフルエンザにやられ寝込んでいた。
 15日にやっと、秋田市千秋公園の彌高神社に初詣。おみくじを引いた。今年は、「中吉」でした。
 「願い事 おどろくことがありますが、あわれなければかないます。学問 あぶないです。全力をつくしなさい。商売 さわがぬことです。利益があります。求人 女性ならよろしいでしょう。
 縁談 他人にさまたげられて破談するおそれがあります」


●第94号/平成9年2月20日
  
  涙がでるほど・・

 あすの秋田を創る運動協会の元気印・伊藤利彦さんがいい本を持ってきてくれた。「涙がでるほどいい話」(小さな親切運動本部編)そのなかから一つ紹介したい。
「故郷のおふくろ・・」
埼玉県越谷市 落合むめ(八十五歳)
「毎週、下町の老人福祉センターに通い、踊りや珠算、詞などを教えていただくのを生き甲斐にしている女性です。
 先日、センターからの帰り、小さな食堂で好みのものを食べて、代金を払おうとしましたら、店の人が『先ほど、男の人が払っていかれました』とのこと。
 別に知り合いもおりませんでしたので不思議に思い、詳しくおたずねしたところ、『なんだか故郷のおふくろを思い出したから、あの隅で食べているおばあさんの分も払っておくよ』といって、出ていかれたそうです。
 どこのどなたか全然わかりませんが、おふくろさんの代わりにと親切にしていただき、涙がでるほどありがたかったです。本当にありがとうございました」

 私のおふくろも生きていれば今、落合さんと同じくらいの年になる。
 風来坊時代におふくろを感じた話を「小さな親切運動本部」に応募したつもりでひとつ。
「ごくろうさま」
 ある代議士の八番目の秘書をやってた頃。昭和四十五年の冬。大きな挫折感を覚えて、衆議院議員会館にさよならをした。体を動かして、先を考えようと二十四歳の誕生日の当日から牛乳配達を始めた。
 西武新宿線下井草駅に近い明治乳業店。前日、心配した学友、商社マンになった若林正彦がついてきてくれたのは嬉しかった。
 二月十八日の早朝五時。初日の私は自転車の荷台に牛乳を積んで地図片手に三十軒ほど回った。
 だんだん慣れてくると、お客に余分の牛乳をサービスするようになる。当時、私の配達地域には武蔵野の面影がいっぱい残っていて、林も畑もいたる所にあった。
 ある大きな農家の門横に置いてある箱に牛乳を入れる。庭先に犬がいて走ってきては毎日吠えられた。嫌なおもいで隣の家の台所の小窓の前に、牛乳とオレンジジュースの瓶を置く。と、中から「ごくろうさま」とやさしい声が聞こえてくる。嬉しくなった私はそこに何回も牛乳を一本おまけに置いてきた。ある日、いつもの「ごくろうさま」の声が聞こえない。私は小窓をたたいて、あのやさしい声を待った。故郷のおふくろの声を待っているような。そしたら、ごくろうさまの声と同時に小窓が開けられた。牛乳瓶を受け取ってから、小窓の奥から手が差し出されてきた。何か青い小さな箱が握られている。『主人が吸っているものですけど』といって。それはタバコのピースだった。
 「ごくろうさま」のおふくろさんから頂いたピースを、三畳間の下宿に帰っていっぷく吸った。
 ひどく辛かった。肺だけではなく、奥の胸にもじーんときた。

 涙が出るほどではないが、いい話をもうひとつおまけ。
 まだソ連邦時代、訪ソ青年の船に乗って行った時の出来事です。
「レニングラードのドルショップ。中には日本の我が秋田人のみ。あれやこれやの買い物で忙しい。そこに入ってきた、中年のちょっと太めのロシアのご婦人。犬の人形を手にとって、ルーブルで代金を払おうとした。金髪の若い女店員。大きな声で『ニエット!ドル、エン』そのおばさん、すごすごとその人形をもとへ返して外へ。これを見ていた日本男児、その人形をエンで買って急いで外へでた。信号待ちしていたそのおばさんを見つけた。走っていって人形を渡した。あっけにとられた彼女、大声をあげる。チンプンカンプンのその日本人、頭をかいて逃げ出した」


●第95号/平成9年3月20日

  君は日本国民の将来のことを考えられないのか

 盟友三木賢治氏がサンデー毎日の編集長となった。
 彼は毎日新聞秋田支局時代、四冊もの著書を表した。その一つ「無重力の風土」(秋田書房)は秋田県人論の古典といっていい。又、終戦っ子の私達、中学同級生を足で書いた「都会の空はにごってた」(毎日新聞刊)は一つの戦後史でもあった。
 彼が編集長になった11月からサンデー毎日をとっている。
 政治評論家の岩見隆夫氏の連載「政治に必要なのは、言葉と想像力と、ほんの少しのお金」がいい。
 と題して12月1日号に松村謙三先生のことが書かれていた。
 「じいさんには怒られたなあ。えらいやりあったんだよ」毎日新聞元政治部長、金野宗次の述懐。
 じいさんというのは松村謙三。自民党党人派の長老として、日中正常化に後半生を捧げ尽くした硬骨漢である」

 松村先生の次女、小堀治子さんからこの記事のコピーが送られてきた。小堀さんは松村先生に随行されて何度も中国を訪れ、周恩来から可愛がられた方である。
「父のような政治家がほんとにいなくなりました」と手紙にある。

 サンデー毎日の記事を続ける。
 「松村が戦後はじめて中国に渡ったのは1959年秋。当時日中関係は岸首相が台湾を訪問したりして貿易も断絶、最悪の状態に陥っていた。松村は『中国の国内事情視察』を名目に訪中を決意する。
 第一次松村訪中団のメンバーは松村団長に竹山祐太郎、井出一太郎、古井喜実の三衆議院議員、田川誠一秘書ら、それに金野たち七人の記者団が随行として加わった。松村は滞在中、周恩来首相はじめ約五十人の各界要人と会談をこなした。
 金野とやりあったのは、あす周首相が記者団と会見するという日である。金野は、
「国交回復のとき、中国は賠償金をどのくらい日本に請求するつもりなのか、聞く」と主張した。それを耳にした松村は、
「君は非礼だ、だめだ」と怒った。
「お前の言葉だが、復交の最大の問題じゃないですか。新聞記者にとしては当然聞きますよ」
「やめたほうがいい」と応酬になったのだ。
 翌早朝、記者団が泊まっていた別のホテルの金野の部屋に、松村は一人でやってきた。
「金野君、きのうの話は変わらんかな」
「変わりません。周さんに直接聞きます」
「それはいかん。やめろ」
「そうか。君がもしそれを周さんに聞いたら、周さんの立場ではおそらくウニャムニャ言ってごまかすわけにはいかんじゃろう。すると、万が一にも何兆円とか具体的な数字を言ったら、君はすぐ報道するだろう」「します」
「いまそういうものが活字になって世界に広まったら、何年か先かわからんが日本復交が具体化したときに、その数字が基準になる。そのときの中国側は周さんが口にした過去の数字を減らすことはできないぞ。そうすると、日本人はその金のためにどこまで苦しむか。君はそこまで考えられないのか」
「君は自分のことを考えて、日本国民の将来のことを考えられないのか」「・・・・・・」―中略
「あのとき、政治家というのは何十年先の日本のことまで考えなければいかんのだなあ、とほんとに目からウロコが落ちる感じだった。あんな人、いまはいない」と金野は言う。

 近く、秋田県の将来を決める知事選挙がある。県民の問いたい。
「君は自分のことを考えて、秋田県民の将来のことを考えられないのか」


●第96号/平成9年4月20日

  もう一回又、「恥」

「僕、出身地を聞かれても答えないことにしてるんだ。秋田県は恥ずかしいよ」
 との書き出しで一年前のここで書いた。テーマは「恥」。春休みに帰ってきた大学生の息子の言葉だった。又、同じ主題で書かなければならない。食料費問題で秋田県は全国に恥をかいた。今度の知事選挙で、またもや、秋田県が天下に恥をさらす事態になるやもしれないからだ。

 4月1日、午後9時30分頃。高校の同期生から電話があった。彼から家に電話があったのは初めて。一緒に飲みたいとは思わない男だ。「どうした」と聞くと、「今度こっちに来たら、お前は『村八分』だ」という。知事選挙で私の動きを知って、県庁の窓際だからだろうとかいう。気の弱いくせに誰に言われたのか脅しをかけてきた。人をオチョクルのが好きな男だったが、エイプリルフールのいたずらでもない。そんな男がこの秋田にいるのが恥で情けない。

 小さい頃からオフクロにいわれていた。「人様の前で恥ずかしいことはするな」
 学生時代のクラブの先輩がいっていた。「世界のどこへ出ても恥ずかしくない人間になれ」

 県職員となって秋田市寺内の自治研修所で初めて研修があった。
 職員バッチのことで話し合いがあって、「繁華街の川反へ飲みに行く時は胸に付けたバッチを外せばいい」という奴がいた。思わず「馬鹿やろうと」といってしまった。25年もたって、そんな情けないのが偉くなって、バッチを外して川反行って、税金でタダ酒を食らってたのだろう。
 全く自慢ではないが、県庁職員となって25年、職員バッチを胸に付けたことは一度もない。自治研修所で馬鹿といってから、川反へ行っても行かなくてもバッチは付けないと決めた。どこで飲もうと、何をしようが秋田県民として胸をはって行動していれば、職員バッチなどはどうでもいい。

 今は益々、職員バッチはつけたくない。県職員でいることが恥ずかしいからである。
 この三月六日、秋田県職員労働組合の定期大会があった。次期知事選に自民党の推した前総務部次長を支持する声が大多数だったという。翌日の秋田魁新報に載っている。民間出身の相手候補に対して、県職労の代議員が「一日たりとも停滞が許されない県政をゼロから教え込むには時間がかかる」と発言している。教え込むとは、なんという尊大な発言だろうか。その職員は一体自分を何様だと思っているのか。県民から学ぶという姿勢、謙虚さがゼロのその職員はどんな顔をして仕事をしてきてきたのか。県民に背を向け、上司に顔を向けてきたのであろう。内部事情に詳しい上司がいる組織ほど、新しい発想が生まれず、返って仕事が進まないことがあることを知らないのだろうか。県職員の仕事甲斐とは、県民の笑顔にあるのだ。
 こんな恥ずかしい県職労にはいたくないと考え、三月中旬、本庁支部長宛脱退届けを出した。
 そうしたら、組合費他毎月一万円程、給料から引かれないことがわかった。4月からは、駅前久保田で月に3回も飲めることになる。ただ、うちのおっ家内がその分寄こしてくれたらの話だが。

 3月に秋田新幹線こまちが開通した。だが、秋田銘菓と書かれた「金萬」や「かおる堂」の袋を持っては恥ずかしくて山手線に乗れない。県職員は秋田県と印刷された角封筒を隠して、地下鉄に乗っている。
 知事選挙で秋田県の名誉を回復し、胸を張って歩ける秋田県を創っていきたいのである。
●第97号/平成9年5月20日
  
  おおい野呂さん、よ

 北の秋田の桜はまだ蕾が赤くふくらんだまま。4月20日、比内町公民会館体育館。野呂金悦大人合同神葬祭が執り行なわれている。ここは故人が役場職員だった頃の最後の職場であった。突然、体育館の屋根がバラバラバラと音をたてた。雨、涙雨だ。

 「おおい、ふるさと塾の面々にも電話をいれてくれたか」
 「おお、金ちゃんか。とっくに連絡ずみだよ。それより県北の方は大丈夫かよ」
 4月13日、日曜日の朝八時きっかりに電話がきた。前夜、東京六大学野球連盟勝手連の集まりに知事選挙に立候補した寺田典城氏に来ていただき、家に帰ったのが12時前。娘に伝言があった。夜10時まで帰ったら電話くれと、野呂さんから連絡があったという。今思うと肝臓病を抱えながら、選挙運動に相当無理してたのだろう。
 野呂金悦氏。49歳。16日選挙運動中に倒れ、18日早暁死亡。肝臓ガンだった。神葬祭で、貴方の命とひき換えに勝利を得ることができたと寺田新知事が弔辞を述べた。

 秋風亭とんぼ。秋田県議会議員野呂金悦氏のもう一つの名前。
 とんぼ師匠には随分とお世話になりました。高校時代から落語が好きで、日本大学に入学して迷わず落語研究会に入会。卒業後は役者になれといわれたが、役場に入った。(本人の弁)青年会活動にも熱心で、秋田県連合青年会の副会長にまでなった。彼を知り合ったのはその頃。もう20年にもなる。
 琴丘町体育館での青年会研究集会。布団を畳んで車座になって飲んでいる。
 夜中、気がついたら野呂金ちゃんと2人だけで飲んでいた。
 がんばる愛のコンサートでは秋風亭とんぼ師匠で「饅頭こわい」
 ふるさと塾人間道場では「源平盛衰記」を。
 去年11月の秋田ふるさと塾寄席では、秋田県庁の食糧費問題をひっかけて「味噌蔵」。
 とんぼ師匠は年々、円熟味を増やしてきていた。今年8月17日開催予定の秋田早稲田寄席ではトリをつとめてもらう約束だった。

 第一回ふるさと塾が平成元年4月に秋田市川反塾舎で始まった。
 その第一回地域づくりセミナーの講師がとりとん共和国野呂金悦大統領であった。
 演題が「とりとん共和国国連加盟」。その彼が県議会議員選挙に出馬。婦人集会に女性講談師を呼んでくれという。
 婦人には男性がいいだろうと地域おこし落語家三遊亭歌之助師匠を比内町農協会館に案内した。歌之助師匠は落語家でなく噺家だといい、大受けだった。
 当選の翌朝、明るい声で我が家に電話があった。「大統領から県会議員に格下げになったよ」

 県会議員一期目の後半、彼は肝臓をやられたといって、秋田大学病院に検査入院。その後、秋田駅前の成人病予防センターに入院していた。仕事場が近かったので読書家の彼の病室によく本を持って遊びに行った。
 芸術も愛した彼は、退院したら県外出身の秋田在住アーチストのネットワークをつくって彼らを支援しようという。
 それは実現した。野呂県議の夢は、比内町に明石康国連事務次長の国連記念館をつくることだった。
 神葬祭ではニューヨークの明石さんから、心のこもった弔電が最初に披露された。
 彼の夢は子供達に引き継がれよう。

 桂米丸師匠に似た金さんの笑顔が頭に浮かび、パソコン画面がうるんできてキーを打てない。
 秋風亭とんぼ風にいうと金ちゃんはこういっただろう。
 「ちょっと、天国に単身赴任してくるよ」
 とんぼ師匠、盟友・野呂金さんよ、無念。ありがとう。(合掌)
●第98号/平成9年6月20日
 
   

「動燃クン」。子供達がうそつきのことをいう代名詞。その前は「岡光クン」だったろうか。
「秋田県庁クン」とまではいわれなかったろうか。
 ウソつき動燃。動力炉・核燃料開発事業団(動燃)東海事業所の「アスファルト固化処理施設」で火災・爆発事故が発生した。今年三月十一日のこと。最初は「放射能漏れはない」と報告、実は放射能を浴びた作業員は三十七人もいたことがわかった。
 この法人には前科がある。一昨年の福井県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」の配管からナトリウムが漏れ、火災が発生した事故。動燃は事故直後に撮影したビデオを隠しているのだ。
 「動燃クン」達も組織を擁護するためにウソをついたといわれるが、いや、そうじゃあねえなあ。体質だなあ。
 秋田県庁の不正支出問題の全庁調査が六月九日に始まった。これで三度目。これまでの隠微体質にメスが入れられるだろうか。

 亡き盟友、野呂金悦氏こと秋風亭とんぼ師匠から、去年十一月の秋田ふるさと塾人間寄席で話してもらった。古典落語の味噌蔵。

 味噌屋の吝兵衛の噺。徹底的なケチで嫁を貰うのも金がかかるってんで独身を通したが、親戚から結婚しなければつきあいも取引もことわるといわれとうとう嫁を迎えた。
 子供が産まれて、女房の里で産ませれば金がかからないと里に帰した。
 話は進んで、十月十日め。里から子がうまれたという知らせがあり、吝兵衛が供を連れて里へ出かけることになった。留守中、もしも火事騒ぎが起きたら大切な味噌蔵の目塗りをきっちりするように番頭に言いつける。「土じゃなくてみそを使いなさい。乾いたらはがして皆のおかずになるからね」吝兵衛が出かけると、店の者一同が番頭の前に顔を揃え「これまでろくなものを食べていない。
 旦那の留守に帳簿をごまかして何か旨いものを食べさせてくれ」と必死の願いだ。番頭はハナからそのつもり。
「当たり前だよ。世間に、うちの旦那くらい、しみったれな人はないよ。私だって、たまにはうまい物を食べたいし、お酒の一杯も飲みたいじゃないか。今晩は幸いに、旦那が留守なんだから、皆で大いに飲んだり、食べたりしようじゃないか。費用のほうは、私が何とか、帳簿をごまかしておくよ」
「ほんとに大丈夫ですかい、番頭さん」「ダイビョウブ。秋田県庁の食糧費のようにやりゃあいいんだよ」(爆笑)

 動燃や秋田県庁の隠微体質を無くすには簡単である。職員(味噌屋の奉公人)の心のアンテナの向きを上役から県民に変えさせ、いい仕事甲斐(旨いもの)を与えることである。

 こんな嘘だったらいいだろう。秋田県の日照時間は日本一長い。
 ウッソオ、全国で下から二番目に日照時間が短いんだろ、いやホントの事。居酒屋で気象台の人が話していたのを盗み聞きした友人から聞いた。秋田は、春から秋にかけて日照時間が日本一長い。
 伊藤公吉・元秋田大学教授が全国の主要都市22ヶ所を対象に、51年から80年までの30年間の平均日照時間をはじき出したところ、秋田市の4〜10月までの合計日照時間は1365時間。東京より269時間、宮崎より41時間長く全国一だった。(8・8・24 毎日新聞秋田版)
 だから秋田の米は美味しいのである。今年はエルニーニョ現象とやらで冷害が心配される。今から田んぼへ充分に手をかけてやらないと又、外米のお世話にならないといけない。
 人間の集団は嘘をつく可能性を持っているが、植物は嘘をつかない。


●第99号/平成9年7月20日

  

 平成元年4月。呑風便創刊号の巻頭言のタイトルは「あなた」でした。
 南極越冬隊員の無事な帰りを待つ妻の三文字電報「あ・な・た」の事を紹介し、あななた電報のように心を込めて呑風便をお届けしたいと書いた。
 何とか百号まで続いたのは呑風便を待っていてくれたあなた様のお陰。待つ、松、有り難う。

 正月の門松。能舞台の背景は松。吉原の遊女の最高の位が「松の位」花笠音頭で歌うは「めでためでたの若松様よ」松は日本そのものと司馬遼太郎はいう。
 私の松の思い出は「松ヤニ」である。これでも小さい頃は科学少年だった。
 家の縁側の片隅を科学実験室にした。アルコールランプや試験管を準備し、ロケットを作ったことがある。
 洋傘の先っぽを十五aほど切り、下部にピストル玉の火薬を詰め、銀紙を丸めて蓋をして完成。木枠で傾斜三十度の発射台を作り、下から松ヤニを燃やし、ロケットの火薬の部分を熱して爆発させ、その勢いで飛ばそうと考えた。
 導火線は松ヤニを溶かし、紙紐を浸して作った。
 発射実験日。子分の助手を連れ、近くの田んぼに発射台を設置。十bほど離れて導火線に点火。黒い煙をあげて燃えて行く。身を伏せた。バーンと大爆音。白い煙が立ちのぼっている。ロケットは何処へ飛んだか不明。発射台は無惨に壊れていた。
 それ以来、野球少年に戻った。

 全国でマツクイムシ被害が広がっている。松が枯れはじめているのは、元気がなくなって松ヤニを出さなくなったからだろう。
 秋田県の日本海沿岸に黒松林が続く。砂防林として先人の労苦の賜。国道7号線を走ると所々、鉄サビ色の松林が目立つ。気になる。
 マツクイムシの正体はマツノザイセンチュウという線虫。マツノマダラカミキリで松の小枝から進入し、増殖させて松を枯らす。カミキリムシの縄張りは百b前後というから、風かトラック等に乗って北上してきたものだろう。
 秋田市から国道7号線を南下し、左に入って折渡峠を越え大内町に入って数分。鳥海山が美しい姿を現す。そこに気品のある赤松の大樹があった。憩いの松として町民に親しまれていた。去年の夏、この誇りの松はマツクイムシにやられ、惜しくも姿を消した。
 昨年の大内町で伐採した松は実に3120本。その費用が何と8300万円、まさにマツクイムシは金食い虫でもある。

「松の緑を守ろう」と元一橋大学学長の増田四郎先生が「地域の力」にこう書いておられる。
「この国の樹木の中で、いわば国民性を象徴するほどの高い深い歴史的意味をもっているのは、ほかならぬ松の緑であろう。赤松であれ黒松であれ、みなそれぞれの味わいを持ち、気品をそなえ、四季を通じて変わらぬ緑で目を楽しませてくれる。
 盆栽や松には、昔からお酒をかけると蘇生すると聞いていたので、私は同窓会雑誌に「松の木と灘の生一本」という随想を書き、母校の松の枯れるのを防ぐ方法を講じたいと訴えた。それと同時に、農学部や試験場の専門家五、六名に現地をつぶさに診てもらって、どうすればよいかの対策を立ててもらった」
 増田先生は大学キャンパスの松の緑を蘇らせた。
 地域の力、誇りでもあった「憩いの松」にせめて秋田銘酒をかけて元気にすればよかったろうか。
 ふるさと呑風便も、松のように気品のある「地域の力」になれたらと号にして思う。
 元気のでる、ふるさと呑風便をこれからもお待ちください。


●第100号/平成9年8月20日
 
  コンピューター

 ふるさと呑風便百号記念パーティーに読者50人程集まって頂いた。7月22日、秋田市彌高会館。
 あいさつでお陰様と話したが、道具の発達のお陰でもある。ワープロの発達には目を見張る。
 創刊時の機種はNECの文豪ミニだった。印刷した原稿を台紙に張りつけ、彌高神社のコピー機を借り、裏表を印刷するのに半日かかった。パソコンのワープロにしてから、今の機種は4台目。IBMのノートパソコンとNECのデスクトップ型を併用している。字体は創刊時と比べて問題にならないほどキレイになった。
 発行日の20日近くになって、せっぱつまって原稿を書き始めるのは今も変わらない。
 鳥海良寛編集長に原稿のフロッピーを渡すと、すぐに編集、印刷してくれる。次号からは、インターネットの電子メールで彼に原稿を送るだけでよくなった。コンピューターの便利さはここまできたかと感心する。

 コンピューターとの初めての出会いはCTG(コンピューター・テクニック・グループ)だった。
 昭和43年秋。国会議員の秘書時代。居候していた東京・青山の日本キューバ文化交流研究所で東大工学部大学院生だった槌屋治紀(現自在エンジニアリング研究所長)と会った。
 彼は藤田組の学生重役の仲間達とCTGを作り、東大助教授の名前でコンピューター入門という本を出し、もらった印税で芝西久保のマンションを借りているという。
 毎週水曜日夜、そこで勉強会をやっているからと誘われた。東京タワーのすぐ下のマンションに行くと、今まで会ったことのない面白い男達がCTGに集まっていた。
 ビートルズのジョン・レノンみたいな髭顔の幸村真佐男(現東北芸術工科大学教授)等がいて、コンピューターを全然知らないのがいてもいいだろうと仲間にいれてもらった。CTGは日本初のコンピューターグラフィックの作品を発表していた。今度はコンピューター映画を作るという。
 幸村がコンピューターアートによるカレンダー作成の仕事を印刷会社から百万円で引き受け、現ナマを持ってきた。
 一万円札百枚。初めての大金をCTGマンションでさわった。意外と薄っぺらだ。この金が映画制作資金である。
 永田町のIBM研究所のコンピューターを夜中の12時から朝6時までタダで借りた。印刷会社にはコンピューターの使用料一時間数万円として、幸村が百万円せしめたのである。
 彼は10数年後、CTGが版権を持つコンピューターグラフィックの作品を大手出版社が無断転用したといって、また百万円せしめた。その金をどうするかと千葉県鴨川に昔の仲間十人が全国から集まった。コテージを建てることになった。 私も山小屋づくりに参加したが、完成後は誰も使ってない。創る課程が面白いからだろう。

 さて、日本で初めてのコンピュータームービー作り。ディスプレイに映し出されたマリリン・モンローノの画像がクチャクチャになっていくのを十六ミリ映写機で撮影。カレンダー用の写真はプロから撮られる。私はバッハの絵を電送写真にして、その黒点をXY軸に数値化してコンピューターに打ち込む作業をやった。そそっかしい私の間違いが多くてほとんど使いものにならなかったようだ。

 先日。呑風便百号おめでとうと昔のCTGの仲間、柿崎純一郎氏から電子メールが届いた。99号にあった電子メールの記号が間違っていると指摘してくれた。
 donpu@jst・・とやってしまっていた。tではなくnでした。donpu@jsn.justnet.or.jpが正しい。
 小生、そそっかしいのは昔も今も変わりません。
 お詫び訂正です。


●第101号/平成9年9月20日

  杉ゲリラ

 花ゲリラを始めて二十数年。秋田県を面白くする会の決行場所は秋田市内某所、柳並木の根元である。植えた植物は、朝顔、コスモス、チューリップ、カボチャ、アスパラガス等々。お父さんと花に水をかけてくれた料亭のお嬢さんの為に水仙を秋に植えた。
 花ゲリラ作戦を始めて嬉しかったことは、新聞に投書があったことである。「心の安らぎの花が…」だった。日本銀行秋田支店に勤務する女性行員が毎朝、柳並木の根元に咲いている植え人知らずの朝顔から心を明るく、なごませてもらっていた。ところがある朝、楽しみにしていた朝顔が雑草と一緒に刈られ、柳の幹に咲けないでいる朝顔のツルがからまっていた、やすらぎの花が可哀想で身を切られた思いだったと。
 この夏に又、同じ事があった。竿燈前に、街をきれいにしようと、県の土木事務所が雇用対策事務所で道路沿いの雑草を取る作業がある。八月初め、花ゲリラ作戦場所の前を車で走っていたら、それらしき人達が柳並木の根元の雑草を取っていた。大丈夫かなと思った後で見に行ったら、朝顔は雑草と一緒にむしり取られていた。
 又、植えりゃあいいんだが、せめて朝顔の苗と一緒にとらないようにいってもらおうと土木事務所の担当者に電話した。
「植えるのはかまいませんが、それはできません。花を植えたと立て看板でも立ててください。よろしくどうぞ」花ゲリラだからこそこっそり植えている訳で、不粋な役人には花の心は通じない。

 花ゲリラは植えるのだが、切るゲリラをやろうかなと考えている。
 ふるさと秋田の三大美人に美酒に美林である。美人は、そうでなくとも秋田出身だというと秋田美人とされ、これはブランド。美酒も酒造業界の努力で秋田ブランドを保っている。
 美林、これはもう目を覆いたくなるほどだ。手入れを怠っているからだ。
 道路沿いの杉林に入ろうとするが、下枝が伸び、ツタがからまってとても中には入れない。多少の枝打ちしている杉林に入って行くが中は暗い。陽光が差し込んでこないから、昆虫もいない。鳥もこない。死の世界になっている。だから水を貯める力もない。秋田の杉は泣いているのです。可哀想に涙木になっている。

 秋田空港に降り、秋田市方向に向かって走る。二つのトンネルをくぐるとそこは雄物川だった。
 東京のドブ川しか見慣れてない都会人は、初めて見る秋田の自然に感動する。川沿いを走って行くと、雄物川が消える。杉林が豊かな景観を邪魔しているからだ。そこは間伐も、枝打ちもしていないので川が見えない。一瞬、暗くうっとうしい気分になる。
 秋田県内の人口杉の面積は約37万f。全国一である。だが、昭和30年以降に造林した杉林の八割が放置されたままだと聞く。

 日本は、森林を育てることで文化を養ってきた。農地を守るために、我々の先祖は山に木を植え、育て、大気を浄化し、きれいな水をつくり、水害を防ぐために治山、治水を行ってきた。今、森林の荒廃は山も川も海も、空気さえも姿を変えてしまっている。

 むつみ造園土木の杉村文夫専務に相談した。「杉村さん、杉ゲリラをやりませんか。儲からないとほったらかしにされてる道端の杉林にこっそり入って枝打ちして、日本を明るくしたいんですよ」
 杉村さんはビックリしたが、名前が名前だから賛同してくれた。京都の鍛冶屋さんから特注した枝打ち用の鎌を持っているという。
「杉山先輩、杉沢君、高杉さん、下杉社長、いかがでしょうか」


●第102号/平成9年10月20日

  落伍者

 東京・新宿にある末広亭がなくなるという。この夏、東京から帰省した息子が、向こうの新聞に載ってて、存続運動が起こっているとの事。末広亭がなくなるとしたら、最後の寄席が失われる。江戸情緒がなくなる。

 寄席とは、江戸初期から辻咄や講釈などが葦簾(よしず)張りの小屋で行われていたが、後、咄(はなし)家の自宅や貸席で行われるようになり、寛永年間に江戸で常設の演芸場ができたという。

 落語を聞きに新宿の末広亭という寄席に行ったは昭和39年。末広亭に入って落語を聞いて、私は初めて東京に来たんだという実感をもった。
 田舎の三年、京の昼寝という。田舎にいるといかに情報に疎くなるかのたとえだが、今は情報化時代で地方にいても瞬時に中央の情報がとれる。しかしながら、臨場感はない。国会議事堂近くにいた頃、すぐ側から日本の政治経済の情報が発信されているという実感があった。そして、末広亭にも行こうと思えばすぐ行けた。
 寄席は東京にしかない。

 横手いい落語を聞く会の百回記念講座の案内を佐々木隆一会長から頂いた。11月25日に横手市で志し橋師匠を迎える。秋田にいてもいい落語を聞ける機会を作ってくれている佐々木さんに感謝している。
 彼と飲んでいてこちらのたった一つの自慢は、志し生を見た、聞いたということ。これも末広亭だった。噺の中身は覚えていない。中身がないのだ。それでも志ん生師匠が楽屋から出てきて大きな拍手。名人、と声がかかる。名人はさすがに酔っぱらって寝てしまい、弟子にかつがれて退場ということにはならなかったが。
 三平師匠も末広亭で見た。たいしたことのないギャグでも三平師匠だからこそ拍手喝采。
「この間、高座から落っこちたらいわれました。落伍者だあ。スイマセーン」(爆笑)

 東京出張で会議が終わり、新宿の末広亭で落語を聞き、紀伊国屋書店裏の焼鳥屋「雀の叔父さん」で友人と一杯やって夜行列車に乗って帰るのがいつものパターンだった。
 今年の冬のこと。末広亭に行ったら、一ヶ月前に見た同じ芸人達が出ている。こん平が急に来れなくなったと代わりの噺家が背広姿で出てきた。酔っぱらっていて、下ネタと芸人の悪口噺。寄席に出ても金にならないんだ。
 つまらんと途中から出てきた。
 以前、若手の三遊亭歌之介師匠から聞いた話。寄席から貰う金は入場者数の歩合。一番高いのは柳家小さん師匠で一人当たり二百円。歌之介師匠は二十円足らず。彼は土曜日に浅草演芸場の高座に出ているが入場者が何時もまばら。一日数千円しか貰えない。だから稽古のつもりで出ているという。
 彼と浦和の日本ふるさと塾で会ったのが、十年前。地域づくり落語も得意で、五万円でも行きますからという。
 盟友野呂金悦氏の県議選初出馬に際し、婦人部結成大会に歌之介師匠から応援に来て貰った。
 司会者に頼む。縁起が悪いから師匠を落語家といわないで噺家と紹介してくれと頼んだ。
 野呂金悦さんは見事当選した。

 落語家でもあった野呂金悦氏は人生の落伍者ではなかった。この春、知事選挙の最中、応援演説中に倒れ、急逝した。私は、彼から勇気を引き継いだと思っている。
 先頃、大館市のスナックで畏敬する宮原文弥住職が小林旭の「惚れた女が死んだ夜は」を歌ってくれた。
 そうだとうなずく歌詞が画面に写される。「♪ いい奴ばかりが先にいく。どうでもいいのが残される」
 カウンターで、「そのとおりだな」と金さんを想い、残されたどうでもいいのが献杯をした。


●第103号/平成9年11月20日

  きちみちくり

 九州・大分市。大分西鉄グランドホテル12階のバー。眼下に大分川がゆっくり流れている。

 東京六大学秋田野球連盟の大分遠征選抜チーム一行14人が11月14日午後4時50分、福岡空港に到着。
 レンタカー2台に分乗し、高速道路を約2時間走る。別府湾の夜景が美しい。大分市には8時過ぎに到着。
 ホテルに東京六大学大分野球連盟の幹部達が待ち受けてくれ、懇親会が開かれた。
 佐々木満団長が「四年前の神宮決勝は大分チームに14対1で負けましたが、今回は決して雪辱に参った訳ではありません。胸を借りる気持ちでやってまいりました」と挨拶。佐々木三知夫監督が「前回の神宮での前夜祭では大分の焼酎にやられましたので、今回は秋田銘酒を持ってまいりました。皆様のご健闘を期して」と乾杯の音頭。終了後、秋田チームは作戦会議と称して、ホテルの十二階のバーに集合。美形従業員から大分弁を聞いた。
「来てみてください」は「きちみちくり」だという。

 平成5年12月4日だった。憧れの神宮球場で東京六大学秋田野球連盟選抜チームが大分選抜チームと対抗試合を決行。秋田野球連盟が結成されて八年目に、大分合同新聞を通じて試合を申し込んだ。
 そこで神宮決戦となった訳だが、大学野球出身のバリバリの選手を多く擁する大分チームには大敗。終了後の交流会で、大分チームの団長で大分放送の若杉四郎氏と、今度は大分か秋田で再会しようと約束をしたのであった。

 この春、大分放送に電話。若杉という人はおりませんという。神宮で会った中公児アナウンサーにつないでもらうと、何と彼は亡くなったという。中野氏から同門の仲間に手配をしてくれて、新大分球場での試合となったのである。

 翌15日朝、ホテルから球場に向かう。ナイター設備があり、球場の芝生が美しい。ともかく恥ずかしくない試合をしようと始まる。
 九回まで戦い、6対1で善戦した。永井、高野の両投手が踏ん張り、三浦助監督の左中間のタイムリーヒットで1点をあげた。
 ところが予期せぬハプニングがあった。一回途中、一塁守備についていたO選手が気分が悪いと急遽、小生に変わった。試合後、彼はバランス感覚がなくて歩けない、肩を貸してくれという。これはもしかしたら、大分側に救急病院へとお願い。東大OBの高山龍五郎氏が車で大分中村病院へ案内してくれた。O選手を車椅子に乗せ、すぐに集中治療室へ。血圧が200。CTスキャンを撮るとのこと。しばらくして医者に呼ばれ、こっちはユニフォーム姿のまま写真説明を受ける。脳内出血だった。小脳の部分に小さい楕円形の白い陰が見える。ここに出血しているが、手術する程でもないので消えるまでしばらく様子をみましょうという。一安心。※教訓―普段、血圧の高い者がめまい、バランス感覚がなくなったという症状を訴えたらすぐ、救急車を呼ぶべし。
 O選手の奥さんに電話し、大分に着く時間が分かったら大島マネージャーの携帯電話に電話を貰うことにし、我々は湯布院に向かう。
 大分から高速で北へ約30分。宿泊先の「あゆ家」のご主人・衛藤成治さんはO選手の奥さんの大分のホテルを手配してますという。大分側のまとめ役岩尾久一氏は、奥さんを別宅に住んでもらうといってくれる。
 大分側の素早いホスピタリティ(もてなしの心)には感激。あゆ家にて、大分・秋田の交流会が開かれた。終わりに各校の校歌を歌う。東大チームは欠席なので皆で東京音頭を合唱する。
 来年は秋田で、大分チームをまごころ秋田のホスピタリティで迎えたい。どうぞ「きちみちくり」


●第104号/平成9年12月20日

  電話

♪元気でいるか 町には慣れたか
 友達できたか・・・
 さだまさしが歌う「案山子」。
 都会へでていった息子から便りがないのを案じて、歌う。
♪手紙がだめなら 電話でもいい
 カネタノムの一言でもいい
 この歌、郵政省関係者からは歌われない。

「はい、ささきです」
「ボク、ママと代わって」
 都会へ出ていった息子からかかってくる電話はいつもこれ。父親の権威がなくなっている訳ですぐ母親に代わる。「文化祭が終わってから後輩におごらなきゃあならないから」とかいわれておふくろは、カネオクルらしい。

「夜分恐れ入ります、私は・・」早大野球部戸塚寮のマネージャー室。
 主将がロッテの監督だった八木沢投手の頃である。名マネージャーといわれた本荘高校出身の斎藤勝郎先輩が電話をしている。夜九時ちょっと過ぎ。それを聞いて以来私は、夜九時過ぎ以降の電話は遠慮している。しても「夜分恐れ入りますが」といってことわって電話する。
 運動部のマネージャーを経験すると対外交渉を学べる。電話のかけ方もそうである。
「交渉の技術の本質は、人の心を導いて自分の思うところに落ち着かせること」(仏外交官・カリエール)といわれる。
 交渉を成功させる最も確かな方法は、交渉の相手がこちらの提案を自分にとって有利だと思うように仕向けること。
 現役学生から10時過ぎに電話を貰ったことがある。夜分恐れ入ります、もない。学生が夜遅くに電話して頼み事などとんでもない。

「ハイッ 若林事務所です」
参議院議員の秘書時代、こういって電話を受ける。第一秘書の栗原文大さんに教わる。元気な声で受ける。秘書が元気だと議員も元気だと思われる。職場が変わってもつい「ハイッ 若林事務所です」とやって何度も失笑を買った。

(株)ダイヤモンドスターの堀池友治会長著「続布衣之交」を堀池治子さん(松村謙三先生次女)から送って頂いた。
 堀池さんは政官財、海外に広い知己を持ち、反骨の事業家といわれる。
 著書の中に電話のことがあった。「私はほとんど自分で電話を掛ける。秘書等は使わない。田川(元自治相)さんが、電話を自分で掛ける政治家は大成していると言った。私の友人の政治家もほとんど秘書等は使わず、自分自身が電話してくる。大体自分の用件で電話を掛けて、秘書に出させて当方がでたら、秘書が一寸お待ち下さいなどというのは失礼である。
 私は社員に、当然の事だが自分が掛けた電話は自分の用件が済んでから切っても良いが、目上の人、そして相手から掛かって来た電話は相手が切る迄は切っては駄目だと教えている」
 堀池さんに手紙でお礼を申したら、すぐに電話を頂き恐縮した。

 未知の人への電話は勇気がいる。手紙を出し、親しみを感じてから電話はいい。電話はしかし、相手の顔がみえないから、何気ないことをいったつもりでも、すべてを壊すこともある。仕事でも、恋も、愛にも。
 金庫も、心の扉も、二階の飾り窓もバタンと閉められる。

 先日、吉永小百合さんに手紙を出した。
 彼女の電話番号を母校の奥島孝康総長から教えて頂いたが、とても電話する勇気はない。
 秋田県に現在、被爆者が76人おられる。来年夏、秋田で原爆の詩の朗読を彼女にお願いした。
 便りの最後に自分の電話番号を書いた。

 ♪手紙がだめなら 電話でもいい
   被爆者に聞かせてやってくれ
    (また恐れ入ります、郵政省殿)