ふるさと呑風便  第81号〜92号 (平成8年1月〜12月)

   一日一笑 笑門来福  個 性  手紙   恥  春眠  酒害  こころ ニンニクチャーハン 
   こころ  ヤクニン  八


●第八十一号/平成八年一月二十日

  一日一笑 笑門来福

 キューバのカストロ首相が日本に立ち寄った。去年の十二月初め中国からの帰り。空港で待ちかまえていた記者達のカメラをみて、「日本のカメラは優秀だから、日本製ですか」とジョーク。すっかり髭が白くなったカストロ首相をテレビでみて、茶目っ気とユーモアは変わらないなあと嬉しかった。

 昭和四十二年七月末、キューバの東、革命の発祥地であるサンチャゴデクーバにいた。そこからバスで十時間もかかるグランティエラ。コーヒー農園を新たに造った所。そこで夕方からカストロの演説があった。私は少しでも近くで見ようと、演壇から降りてくるフィデル・カストロを待ちかまえていた。一緒にいたメキシコとキューバの娘達が「フィデール、フィデール」と叫ぶ。目の前を通り過ぎる軍服姿のフィデルがちらっとこっちを見た。護衛兵を押しのけて、来た。いたずらっぽい目をしていう。
「どっからきたんだ」「メヒコよ」メキシコのアリアアントニオはサインをもらった。キューバ娘のニレテが私にカードを渡して、ミチもサインしてもらいなさいという。
ニレテ「フィデル、彼は日本の学生代表団の団長よ。彼にもサインしてやって」
フィデル「おお、娘、そんなに重労働させないでくれよ」
(といって、緑色のボールペンでカードにサインしてくれた。握手)
ミチ「どうぞよろしく、日本の学生です。マキコヤマモトの紹介です」
フィデル「おお、マキーコ。今、話し合う時間がなくて非常に残念に思う。日本に帰ったら日本の学生によろしく」
ミチ「・・・・・・?」
フィデル「お前達、俺の演説が短かったから、腹は減ってないだろ」

 キューバ革命の英雄カストロ。その手はやさしく柔らかかった。彼と何を話したか全然覚えていない。後日、フィデルが私と何を話したか教えてくれと、サンチャゴデクーバのニレテに手紙を出し、ハバナのホテルで返事をもらった。それが前途の内容である。
 サインを重労働とか、長い演説するカストロが、短い演説だったので、お前ら腹へってないだろ、と、茶化して立ち去ったのだった。

 同じ髭でも、まだ白くなっていないミュージシャンのケーシー・ランキンのトークも面白い。さだまさしのユーモアとは違う。さださんは秋田以外のコンサート会場で言っているらしい。「秋田駅前で幸せな名前の饅頭が売っている。キン、マン」さだまさしは、文芸春秋にも広告が載っている銘菓「金萬」のことをいっているのだが、誤解している。名前の由来は、昔秋田駅前にあった金座街の饅頭、ということで「金萬」なのである。
 ケーシーはアメリカ人だが、日本在住二十余年、演奏の合間にカミサンのヒロコさんをよく引き合いにだして語る。三平師匠もよく、うちのヨシコが、といっていた。
 「うちのヒロコ、凄いんですよ。ニューヨークに住んでいた頃、日本語で通してた。スーパー行っても、売り子さんに『ちょっと、袋持ってきて』、そういうとちゃんと持って来る」「ケーシー、私、日本語話せない外人は嫌いだから、家には連れて来ないでよ」
 「恐妻連盟じゃわからないから、佐々木さんと『おっ家内クラブ』をつくろうかと思っているんです」

 うちのおっ家内と十二月のある日曜日、アトリオンの音楽会へ行った。そこで聞いた、ピアノの羽田健太郎師匠の冗句を一席。
 「東京では、日曜日になるとあちこちのホールで第九が歌われるんです、ほんと。これを称して日曜だいく」

 一日一笑 笑門来福 日々是笑日。で、今年も皆様、お元気で。
●第八十二号/平成八年二月二十日

  個 性

「自分の個性に忠実に生きろ」と、中西睦先生にいわれた。

 九州・小倉出身。豪放磊落で又、暖かさがあった中西先生。先生と初めて会ったのが、昭和四十一年の春。早稲田大学構内にある大隈庭園内の茶室だった。学内紛争が納まり、教師と学生とのコミュニケーションが足りないとの反省からか、教師側の呼び掛けだった。
 貿易英語クラスから三十人程集まった。中西先生は投じ二十代後半の講師。がっちりした身体、高校時代から柔道の選手で一見恐そうだが笑顔に愛敬がある。酒がまわるうち、誰かが先生に飲み屋の女にもてる方法を聞いた。
「店では絶対、女にさわっちゃいかん。そして、最後に俺についてこいといえばいい」
 これに学生達は、「そりゃあ先生だからできるんだ」という。
 私は中西先生に惚れてしまった。(この教えを今でも忠実に守っている。だが、最後のついてこいとは、いえない。ほんと)

 中西先生のゼミ、「交通問題の研究」に入りたいと思った。四年になってからだったが面接試験を受けた。面接は中西先生ではなく、大学院生で助手の方だった。
「君はレスリングをやってたのか。レスリング部の宮野は俺の親友だよ」これで決まった。中西ゼミは成績優秀か、どこか変わった人間を入れると聞いていた。当然、後者で合格。その面接の方は今でも兄貴分と慕う中西ゼミ一期生杉山雅洋先輩(現商学部教授)だった。

 四年の夏にキューバへ行く事になり、日本学生キューバ友好視察団を組織した。最初六人いた団員が出発間近になって辞め、三人だけになった。不安とあせりを感じ、中西先生の研究室を訪ねた。出発五日前だった。昭和四十二年七月四日の日記に、先生から勇気づけられたことを書いている。
「一つの勇気を得られた。先生が自分に大きな期待をかけれくれていることだ。『現実に負けてはいけない。戦うことだ。理想と現実との断絶に橋をかけるのはお前の役目ではないか。何のためにキューバへ行くのだ。現実に挫折するな。栗原と一緒にバッチを付けてくれ』先生の期待に答えることが心よい自分の義務に思われる」

 中西ゼミの秋合宿が長野県松本市の浅間温泉で開かれた。ゼミの機関誌を作る事になり、旅館の先生の部屋で人生観を聞いた。
 その時にいわれたのが、卒業していく学生達に望むこととして
「自分の個性に忠実に生きろ」
そして、「国家予算を読めるようになれ」ということだった。
 そういわれた先生は、昨年十二月八日、突然に逝かれてしまった。
 一昨年の二月二十五日、先生と東京・品川で会い、自分の決意を述べ、大いに感激して頂いた。お前は役人には似合わないからなあといわれていた。先生は千葉の館山へ行くとおっしゃって、車で品川駅まで送ってもらったのが最後。先生は今、館山に眠っておられる。
 自分は中西先生の期待に答える事もできずに、五十歳になった。

 自分の個性に忠実に生きられたらいい。司馬遼太郎は「何事かを成し遂げるのはその人の才能ではなく、性格である」といった。
 個性とはその人特有の性格。中西先生のいう個性とは司馬遼太郎のいう、性格と同じことだろう。
 二月十二日深夜、テレビのニュース速報で司馬遼太郎の訃報を見てアアーッと声をあげてしまった。
 司馬遼の「坂の上の雲」を読めといってくれたのは、中西ゼミの杉山雅洋先輩。「近代国家としての完成した日本」を書いたといわれるこの本を再読しよう。そして、徳義を失った今の日本を考え、中西先生を偲びたい。(合掌)
●第八十三号/平成八年三月二十日

  手紙

 ハガキエッセイ「国際交流」と題する、横浜市の主婦のいい話が載っている。(中央公論三月号)

「おーい、みっちーだがー?ガイジンさんつれできだぞー」
 寒い冬のある夕方、国道でヒッチハイクをしていた外人さんを父がひろってきた。はちゃめちゃなブロークンイングリッシュではずかしげもなく父はその外人さんに話しかける。側で聞いている私にさえ意味不明な父のえいご(?)は彼に通じるわけがない。結局、大学の冬休みで里帰りしていた私が通訳をかってでた。
 どうやら彼はスコットランドからやって来て、事もあろうにこの真冬の東北をヒッチハイクで一周しようという大胆な計画をたて、六日目にしてこのいなか町にたどりついたのだという。父はほとんど親切の押し売り状態で彼を我家に泊めることにし、まずは日本の文化的財産(?)≠ニいって誇らしげにコタツを指さし、彼にあたたまるよう促した。(中略)
 翌朝、ようやく朝日が登りかけた頃、無口で素朴な彼は「Thank you」とだけひとこといって頭を深々と下げると白い雪の中に消えて行った。
 やがてこの北の町にも遅い春が訪れた頃、スコットランドから一枚のポストカードが届けられた。

 秋田・百笑村の佐々木義美さん。二十年前、高校の卒業式が終わって友人と二人でヒッチハイクに出かけた。十一日間、九州・熊本の阿蘇にも、淡路島へも渡る。帰ってからお世話になった四十四人全員へ礼状を出した。阿蘇の畜産農家とは今でも手紙の交流がある。
 私は学生時代、アメリカ・ロスアンゼルスの日系人の家庭に一週間もお世話になった。にもかかわらず、メキシコからは出したが、日本からは一枚の葉書も出さなかった。今思うと情けない。筆不精は言い訳ではなく、信を失う恥だと思う。大人になってなかった。

 司馬遼太郎さんはほんとうに日本の優しい大人≠セったと思う。
―川崎市に住む絵手紙の主婦Fさんは、「ずうずうしいと思ったのですが」絵手紙の著書を司馬先生のところへ送った。すると司馬さんから、絵手紙の返事が届いたというのである。「それが鉛筆がきの素晴らしい絵だったんです。ただただ感激しました」とFさん。一面識もない主婦に司馬さんが送った絵手紙はどんなだったろう。見せてもらうのを楽しみにしている。(産経抄・三月四日)―
「われわれはニューヨークを歩いても、パリにいても、日本文化があるからこそごく自然にふるまうことができます。もし世阿弥ももたず、光悦・光琳ももたず、西鶴ももたず、桂離宮も持たず、『姫路城ももたず、法隆寺ももたず、幕藩体制史をもたなかったら、われわれはおちおち世界を歩けないでしょう。文章は自分で書いているというより、日本の文化や伝統が書かせていると考えるべきでしょう」(産経新聞二月十四日)
 これは、司馬遼太郎さんが産経新聞の福島靖夫編集委員へあてた手紙の一節である。福島さんはこの手紙を読んで、みるみる元気になったとある。
 地域活性化とは住む人の誇りと自信、心の輝きを創り出すこと。それを司馬さんは、誇り得る文化を持つ事なのだと教えてくれた。

 手紙アルバムを作った。宮崎県の元観光課長・長沼武之さんから頂いた絵手紙が何枚も収まっている。鹿角市・元祖キリタンポ料理の加藤照子さんは手紙の封に、毛筆で「心」と書く。
 吉永小百合さんへ三月十三日の誕生祝いにバラの花を送った。礼状は結構とメッセージに書いたのだが、ちゃんと手紙を頂いた。勿論自筆。アルバムに収めます。
●第八十四号/平成八年四月二十日

  恥

 「僕、出身地を聞かれても答えないことにしてるんだ。秋田県は恥ずかしいよ」。ドキリとした。
 この春休み。東京から帰ってきた大学生の息子がいう。ビールを飲みながら、急に言った。秋田県庁は食糧費問題などで天下に恥をさらした。息子は親父が県庁職員だとはもっといえないだろう。
 地域おこしの仲間で、私が県職員だと知らなかった男はいたが。

 県職員となって半年がたった頃。当時の県税事務所の職場には公衆電話がなく、机の上に私用電話用の箱が置いてあった。代金を入れるのは係りで私だけ。係長に呼ばれた。「役得だと思って、私用の電話に金をいれないで欲しい」
「いや、他の人が私用電話に金を払わなくても、いいんです。これは私の信念ですから」
 私は公衆電話が役所に入るまで金を入れた。このことで職場の同僚と関係が悪くなった訳はない。
 昭和五十三年、県庁民生部のある課にきた。直属の上司。権力をかさにきて、人に恩を着せて威張り、タダ飲みが得意だった。私の友人も被害にあい、何とかしてくれと頼まれたことがあった。課内でも公私混同がひどく何時かやっつけてやろうと考えていた。その時がきて、やりあった。こっちも頭にきて、その上司の机を靴底でおもいっきり蹴飛ばしてやった。
 そしたら真っ赤に怒っていた。
「お前は明日から県庁に来るな」
「俺はお前に使われているんじゃねえ。県民に使われているんだ。
 今思うと若気の至りで気恥ずかしい。が、「県民に使われているんだ」とタンカをきったことは恥ずべきことではない。
 七年前。部下のあることないことを上役に告げ口するのが好きな課長がいた。秋田県の人口減対策になる新しい施策を提案したら、新しい事はやらないと却下された。その課長に「あなたには仕事と関係のないお客が一日に二十人くる」といわれた。「お客に来るなといえますか」とつっぱねた。そんなにお客が来るなら商売変えしてる。

 官官接待。これに自分には関係ある。五年前、厚生省の若い役人がきて、秋田市の料亭で上司と接待。二次会は秋田駅前「多良」へ連れて行って、自腹。自前の肝肝接待で、自宅までのタクシー代も馬鹿にならない。礼状は勿論こない。

 大蔵省の上級試験を受かった若い役人。三十歳前で税務署長になる。父親のような部下も使えるようにとのことで、地方に派遣されるらしい。馬鹿殿修業である。
 昭和七十年秋。大館市酒販会館。若い税務署長が、玄関先で受付の税務署員にたしなめられた。「署長、ここは土足厳禁です」
「僕はいいだろう」といって靴のままドタドタと二階へ上がっていった。パタパタとスリッパで後をついていく、馬鹿殿の親父くらいの税務署員の姿。忘れられない。
 国は県より上、県は市町村より上という意識を変えないといけない。国は県から、県は市町村から仕事をして頂くのが仕事。国の役人は県に出張してきたらお土産持って県の職員を接待し、県は市町村の職員を接待すべき。この姿勢を持たない限り、保身に長けた、上から見下げる意識を持つ国や県の役人はなくならない。

 日本人は卑しくなったと怒って逝かれた司馬遼太郎さん。四月一日、NHKの「司馬遼太郎の遺産@」で語られている。「人間として世界とつきあっていくにはまごころを持たないといけません相手の痛みや歴史を知り、身につまされて感じる神経を持たないと日本はこれから生きて行けない」
 息子には、学生時代に司馬遼の本を全部読めといってやった。
 親父は黒マルっ秋田の一隅で、まごころ秋田を創り続けたい。
●第八十五号/平成八年五月二十日

  春眠

 陽気がよくなって、日が射すのが早い。春眠何とかだが、目が覚めるのも早くなった。年のせいだといわれそうだが違う。眩しいのがダメで、一時、テレビも目が痛くなって見られなかった。
 風来坊時代のこと。居候していた青山の山本権兵衛のお孫さんから、西郷どんの孫がやっている六本木の西郷眼科を紹介された。
 西郷先生は他のお客さんをいっぱい待たして爺さんのいった言葉を教えてくれた。「過ちを過ちと知らざれば、直ちに一歩踏み出すべし」。後年、「西郷何州遺訓」の中からその言葉を見つけた。
「過ちを改るには、自ら過ったとさえ思い付かば、夫れにて善し、其事をば棄て顧みず、直に一歩踏出す可し」
 結局、遠視の眼鏡を買う事になるのだが、面倒でほとんどかけたことがない。披露宴で、会場を暗くして新郎新婦が登場する。スポットライトでこっちの目が射される。痛くて顔を背けてしまう。

 昼、明るい時は眠らない訳ではない。特に、会議中にはよくこっくりこっくりやる。講演を聞きにいっても気がゆるんできて眠る。数分間でも実に気持ちがいい。
 電車で本を読んでいて夢中になり、目的駅を乗り越してしまったことも昔からよくあった。そんなときはあわてない事にする。慌てて問題が解決することはない。
 先日、仙台での結婚式の帰り、新幹線に乗り、北上駅で乗換えのつもりが気がついたら新花巻駅だった。田沢湖線は新幹線工事のため、この一年間運休になっている。盛岡から引き返して、北上から秋田まで帰った。おかげで司馬遼太郎の「この国の形(四)」をじっくり読むことができた。
 乗り越してしまったのは、酔っぱらっていて寝てしまってたからであるが、旅行には電車がいい。
 ただ、たまに今のJRの鈍行に乗ると昔の情緒がいっさいなくなった。秋田駅から羽後線に乗って、海を見ながら足を伸ばして本を読む、なんてことはできなくなった。東京の通勤電車みたいに外側はカラフルになった。一杯飲って帰りは本荘駅や岩谷駅から乗る。中は箱型ではなく長椅子型、缶ビールを置くところがない。国鉄が民営化されサービスは一段と向上したが、情緒と酒飲みへのサービスは低下。

 長距離列車はいい。読みたい本を二、三冊持っていって乗る。缶ビールを買って、帆立の貝柱をつまみに飲みながら読む。眠くなる。うとうとする。目がさめて又、本を取り出して読む。
 元早稲田大学総長の西原春夫先生は、自宅のある国立まで、電車のなかで吉川英治の「宮本武蔵」を読破したとおっしゃる。当時、大学紛争の矢面に立たされ、神経がズタズタになっておられた先生は、電車の中で小説を読む事によって、別世界に入れた。おかげでストレス解消のために、車中読書は大きな効果があったといわれる。
 西原総長から聞いた言葉。
「心の底から欲して命がけで頑張れば、この世で成らぬ物事はない」
 先生が乗り越されたことがあったかどうか、は聞けなかった。

 電車通勤ではない私は、枕頭に何時も本を二、三冊積んで置く。眠られない時、悩んでも仕方がないと読書にふける。眠くなるまで読む。電気を消す。それでも眠られないときは又電気をつけれ本を読む。これを二、三度繰り返す内に眠っている。無理に寝ようとするから眠れない。

 朝ゆっくり眠れるようにと「庶光性」という表示がついたカーテンを窓につけてもらった。ところが、朝になっての眩しさは前のカーテンと変わりがない。どうもこの性は「のようなもの」の意味か。
 春眠は会議中で行うしかないか。
●第八十六号/平成八年六月二十日

  酒害

 「これはいけねえ」
 大酒飲み―五十代で通常の六倍―痴ほう症 という大きな見出しを見つけた。五月二十三日付け河北新報にある。
 「アルコールを長期・多量にのむ「大酒飲み」の男性は、飲まない人に比べ五十代で六倍、六十代で二倍も痴ほう症になることを秋田大学医学部精神神経学教室の苗村育郎助教授らのチームが突き止めた」
 深酒を続けると痴ほう症になると何かの本で読んだことがあるが、今回はそれが科学的に立証されたことになる。身につまされる。
 「苗村助教授は、アルコール過飲と高血圧症が脳の前頭部を萎縮させることに着目。秋田県内の二つの総合病院精神科を受診者二十歳以上のうち、過飲歴のあるグループ四百六十人と、過飲・高脂血症・高血圧が全くないグループ九百四十人に分け、痴ほう症患者の発生割合を比較した。その結果、男性の過飲グループの発生率は五十代が十二%で、対象グループの六倍、六十代は四十六%で二倍の高い割合。苗村助教授は『大量飲酒や高血圧など、あらゆる因果が痴ほう症に集結することがはっきりした。近い将来は痴ほう症になるかどうかを高い精度で予測できるだろう。初老期の痴ほう症に及ぼすアルコール危険度は、肺がんに及ぼすたばことほぼ同じ。酒の害をもっと知って欲しい』と話している。

 酒害。平成四年八月の統計だが、東京医科歯科大学の高野建人教授らがまとめた。アルコールの飲み過ぎによる経済的損失は、年間に六兆六千万円以上ある。まず、治療費、死亡者の損失額、生活保護費、自動車事故など二十二種類の統計データを分析したものである。  一番大きいのが飲み過ぎで仕事の能率が下がったり、休んだりすることによる生産性の低下である。  アルコール依存の傾向がみられる「問題飲酒者」の生産性低下の割合は二十一%という日本に当てはめると、社会的ロスは四兆二千四百七十三億円とはじき出された。

 秋田保健所時代に「転ばぬ酒の杖のために」―アル中王国の実状から―と題して研究発表し、昭和五十九年三月三十日河北新報に顔写真入りで報道されたこともあった。
 偉そうなことをいっている。
一 バッカスのため息(省略)
二 アル中になりやすい御仁は(省略)
三 アル中王国からの脱却への道
 アル中の三大犯罪は無銭飲食、わいせつ、自動車事故である。全国二百万といわれるアル中の巻き起こす事故の損害額はm二千六百億円と計算される。この額は厚生省の保険衛生対策費(五十三年)とほぼ同額である。アル中という石が池に投げられると不幸という波紋がどんどん広がっていく。要は呑まれるなということに尽きるが、周囲が酒飲みに対して厳しさとやさしさを合わせ持つことが肝心である。肝休日、酒休二日制などの敵酒運動をひろめ、社会教育の面での酒害教育もすすめたい。表にあるように県民所得とアルコール症の精神病院入院患者数が因果関係があるとするならば、明るく、豊かな、生き甲斐のある秋田県の創造こそが、アル中王国の汚名を返上する道となろうか。

 研究発表から十年。二日酔いで国家に損失を与えることはないが、人の名前を覚えることに関しては自信喪失。パソコンで原稿を打っていても、保存を二回もしてしまう。原因は酒にある。
 呑風便は読者や、先輩から飲み過ぎた、二次会は無駄だとか心配やお叱りを受ける。
 花は半開を看 酒は微酔に飲む(菜根譚)
 わかってはいるんです。ハイ。
●第八十七号/平成八年七月二十日

  こころ

 厚生省。ほんとにどうしようもない心なき所。更正しよう。

 心がある、ないと誰かにいわせたと記憶にあった司馬遼太郎の「箱根の坂」を再読した。あった。
 小田原城主だった大森氏親が弟の箱根権現・別当海実へいう。息子藤親には「心というものがない」海実は「心とは如何ん」と問う。「他人を傷む情、季節の移りをあわれんと思う情、古きよりの家来の横顔にふと老いを見たときの悲しみ、敵の勇者をよう者と思う情」
 この、他人を傷む情が厚生省にはないのではないか。厚生省・病院医師・製薬会社のぐるで多くの尊い命を奪った。
 その厚生省は帝京大学医学部と昔からぐるになっているのではないかと、自分の体験から疑っている。
 故石田小十郎さんの奥さんから電話があった。この五月末。「お陰様で東四郎さんに傷害年金が降りることになりました。主人にも報告しました」「それは秋田テレビの大友直ちゃんのお陰ですよ」と答えた。
 東四郎さんは、戦後、戦死と国から認定されていた石田東四郎さん。奇跡的に戦後五十年も中国河南省で記憶喪失のまま、孫保傑一家に助けられ生きていたことが判明。弟の小十郎さんのご尽力で秋田県増田町の故郷に帰国。そして、戦病者傷害年金を申請したが、一度は却下され、不服申し立ての結果、認定になったものである。
 秋田テレビの大友記者は最後まであきらめずに、冷たい県庁の担当者と喧嘩をしながら、石田さんの家族を励まし、厚生省と直接掛け合い、一度はダメになった傷害年金を勝ち取らせたといえる。

 それは平成四年の六月だった。石田小十郎さんが奥さんと私の職場にやってこられた。読売新聞の記事を持っている。戦友が中国で発見したというこの記事の写真は兄に似ている。厚生省に話して、調査をしてもらいたいとのことだった。厚生省の援護課にすぐ電話したら、その権は外務省に文書で調査依頼をする予定だ。その方の爪と髪の毛、レントゲン写真も預かっているという。何とか早く調査をするようにお願いしたら、三ヶ月くらいしたら又、連絡してくださいと担当官。小十郎さんは
「そんなに待てない。高齢の兄は何時死ぬかも知れない。実家ではその方がたとえ兄でなくとも引き取ってもいいといっている」という。心の広い石田家に感激した。
 その後、何度か厚生省に電話しても、らちがあかない。髪の毛の血液型の検査もしてない。それじゃあ、こっちでやりますからそれらを送ってくださいといった。
 秋田大学法医学の吉岡尚文教授に依頼するとすぐ結果がでた。血液型はO型で石田小十郎さんと兄弟の可能性が高い。最後は血液鑑定だ。その後、東四郎さんの血液が日本に届き、厚生省に電話して、血液鑑定をお願いしたら、「帝京大学」に依頼しており、二、三十万円かかるという。じゃあ、こっちでやるといってしまった。
 心豊かな吉岡先生の所でも鑑定できることがわかり、福祉保険部長名の鑑定依頼文書をすみやかに(半日で)作成し、秋田大学に届けた。血液鑑定の結果、石田東四郎さんと判明し、それを最初に報道したのが、大友直記者だった。
 私はその後、部所が変わったが、上海から自宅に電話があった。平成五年春、石田小十郎さんが兄を連れて帰ることになった、秋田空港に記者会見室を用意してくれという。大友記者は忙しい合間に、私におみやげまで買ってきてくれた。三知夫と彫られた印鑑だった。

 彼は心の狭い秋田県庁にまだ腹を立てているだろう。近く、石田東四郎氏・孫保傑一家支援秋田委員会の有志で、直ちゃんの慰労会を開く。秋田県も更正しよう。
●第八十八号/平成八年八月二十日

   ニンニクチャーハン

 アトランタオリンピック。野球の決勝戦をテレビ観戦。八月三日朝。対キューバ戦。エース杉浦がキューバの強力打線に打ち込まれ二回でもう六点も取られた。もうアカン。ここでニンニクチャーハンのことを思い出した。

 昭和四十四年秋。後楽園球場一塁側。日本シリーズ巨人・阪急戦をキューバのナショナルチームの監督・マネージャーと観戦していた。目前の一塁ベースに王貞治がいる。
 試合が終わると、監督のホセが巨人の牧野コーチに会いたいという。約束してんのと聞いたがしてない。大丈夫かいなと思ったが、控室へ行って、牧野コーチを呼んでもらった。小柄で温和な感じの牧野コーチがユニフォーム姿で現れた。キューバのホセ監督はキューバ大使館に来てもらいたいという。「六時半頃まで行きましょう」と牧野さん。
 六本木の大使館に、牧野コーチがやってきた。巨人のマスコットバットやボールをいっぱい持参。キューバからはレコードが牧野コーチに贈られた。
 牧野さんは、良かったらご馳走したいとのことで、我々三人は六本木のレストランへ案内された。
 キューバチームの監督、マネージャーが日本に残った訳は、牧野コーチをキューバに招聘する任務を帯びていたからだ。二十五歳のホセ監督は牧野コーチにいった。
「キューバに来て、ナショナルチームをコーチしてもらいたい。これはフィデル(カストロ首相)も望んでいることです」
 私は牧野さんに聞かれた「キューバの野球はどうなんですか」
「キューバの子供達は空き地でサッカーではなく、キャッチボールをしてますよ。野球はキューバの国技のようなもんです。でも、牧野さん、キューバへ一度行ったら、アメリカへ帰りは渡れませんよ」
「そうか、じゃあ、キューバへ行けるのは読売を辞めてからだなあ」
 ステーキをご馳走になった後、牧野さんがボーイさんに何時ものといって頼んだ。出てきたのがチャーハン。旨い。「うちの若い選手にも良く食べさせるんですよ」ニンニクチャーハンだった。キューバの彼らも「ブエノ」うまいといって食べる。国に帰ったら選手に食べさせますという。

 故牧野茂氏直伝のニンニクチャーハンを食ってキューバは強くなったのか。二十七年後のアトランタ。三回でもう六対〇。我が家の二人の雌猫は日本は負けよと風呂屋へ行く準備をしている。「ニンニクチャーハンを作ってくれ」といったら、「自分で作ったら」といって作り方を教え、さっさと出かけてしまった。

・ニンニク二個を微塵切り
・半熟の卵焼き
・ニンニクをフライパンにて弱火で狐色になるまで焼く
・そこへ卵焼きをいれ、ご飯を入れて強火で何度もほごす
・塩と胡椒、ほんの少々の味の素をかけれ、出来上がり

 何とか作ってみる。味は少し塩っけが足りない。どうも妙に甘い。味の素をかけ過ぎたのかもしれない。六本木のニンニクチャーハンのようにはいかんなあと思っていたら、何と日本チームは五回に四番松中の満塁ホームランで同点になった。こりゃあ大変だ。
 テレビの解説者は法政のエースだった山中正竹元日本チーム監督。彼はバルセロナ以後、キューバに対して、「知・学・慣・倒・越」で臨んできた。キューバを知り、学び、慣れて、倒し、越える。
 だが、結局、十三対九。日本はキューバを倒し、越えることはできなかった。しかし、杉浦の目の涙、捕手の大久保のぼろぼろ涙はとても美しかった。ニンニクチャーハンを食べて、涙に涙だった。
●第八十九号/平成八年九月二十日「


   ヤクニン

「役人と観音様」と題して、秋田中央ロータリークラブでスピーチをした。中学校の野球部後輩、佐々木博君の要請。八月三十日の昼、秋田メトロポリタンホテル。
 役人と観音様が一体、どういう関係になるのか期待されたが、全然関係ない。
 すぐやる課を作って役所仕事に革命を起こして有名になった千葉県の松戸市役所。昔そこを訪ねた話から始めた。

 市役所ロビーに松戸市役所とはと書かれた看板があった。松戸市民の為に役に立つ人がいる所、とある。なる程そのとおりだと思う。
 当時の新聞の投書欄に、松戸市役所のエレベーターに乗ろうとしたら、職員からお先にどうぞを譲られて、感心したとあった。これも実は当然のこと。どうも人間は威張りたがる動物で、官は民に譲るという当然のことが行われていないのは、役人という言葉がうまれてこのかた、何百年のこと。
 観音様とは、秋田市の歓楽街、川反に観音様を建立しようという話である。役人とは、与えられた自分の部署、司つかさでお役に立てることしかできない。それ以外に地域活動やボランティア活動、いやそんな難しいことはいわなくてもいい。地域の人に少しでも喜んで貰えることをしたいから、観音様を考えた。
 秋田戊辰の役戦乱のきっかけとなった、秋田藩士による仙台藩通史の暗殺。慶応四年七月四日。その日、川反五丁目橋のたもとに仙台藩士五人の首がされされた。暗殺された通史の代表格、志茂又左右衛門の首に、夜陰に乗じてそっと羽織をかけていった女性があった。おそらくその女性は、志茂又左右衛門とねんごろになった美しくも心優しい川反芸者だろうと想像したい。
 さらし首となった場所にあった小料理店「でんえん」の市川史郎さんが長年仙台藩士の供養を続けてこられた。この春に五丁目橋の拡張工事で店を閉めざるを得なくなる。これを機会に、何か慰霊碑を建てようとの話になった。
 この川反芸者の話を聞いて、それじゃあ慰霊碑は観音様にしようとなった訳である。
 ただ、公有地に宗教関係の建物を建てると憲法違反になるようで、観音様をどうするか思案中である。官官接待自粛で、川反の灯が消えかかっており、川反の新しい名所作りにもなると考えている。
 川反の店に募金箱を置くので協力して頂きたいとお願いした。
 司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んでいたら、「ヤクニン」という言葉が出てきた。幕末に、ヤクニンという言葉は、ローニンと同様に国際語になっていたようだ。
 列強諸国は幕府や長州藩との談判の際に見せる保身に長けた役人の態度に業を煮やしていた。
 ヤクニンとは、極度に事なかれ主義で、何事も決定したがらず、漠然と上司という言葉を使い、上司の命であるからといって、明快な答えを回避し、後は役人特有の魚のように無言になる。一国一藩の安危よりも、自分の保身から物事を思考し、大事を決めるときは必ず会議をして、すべての責任は会議にして蒸発してしまう。

 全国的にあぶり出されたヤクニンの食糧費問題は、この「上司」という言葉に起因する。国民や県民の為ではなく、上司の為にタダで酒を用意し、税金で自分達も意地汚くタダ酒を飲むようになった。
 だから、ヤクニンは個人の名前を出すのを嫌う。
 では、なんとす、ヤクニン。電話は自分の名前をいって取れ。何々課ではなく、自分の名前をいって電話しろ。ここから始めろ。トップが率先垂範して、命令したらできる。
 それがヤクニンから役立つ人への第一歩である。
●第九十号/平成八年十月二十日

   こころ
 
 若妻達の話です。どうも照れくさいが、じーんときてしまいます。

 若妻が頑張った本荘市深沢地区。ここの海岸に六十三年前の十二月一日、ウラジオストックの漁船が漂流してきた。マストの折れた船に四人の漁民が乗っていたが、一人ニコライ少年が死んでいた。深沢部落の人々は彼を共同墓地にねんごろに葬った。そこは今、夕陽がみえる日露友好公園として整備され、露国遭難漁民慰霊碑が建立されている。この慰霊碑建立までの秘話。
 地元の町内会長で慰霊委員会の会長、小川隆一さんから慰霊碑建立後、本荘市での忘年会に呼ばれた。そこで、女房には参ったという話を聞かされた。最初、募金がなかなか集まらず、悩んでいたら、奥さんにいわれた。
「父さん、たんぽ売ろう!」
 それから、深沢の若妻達が先頭にたって、募金活動が始まる。夫婦での地元の家々を回り、玄関先で亭主が「五百円でも」というと、若妻が「ダメ、一口千円をお願いします」
 お陰で、小川さんちのたんぽは売られずにすみ、ごみ捨て場だった所が公園となり、立派な慰霊碑が建立された。ふるさと深沢の子供達に素晴らしい贈り物を残した。
 七月にこの話を、鹿角市の「まほろぼ塾」でした。地域づくりは若妻が先頭にたって頑張ればうまくいくと。そしたら、九州出身の若妻?から、若妻ではなく、「ナイスミディ」といってくださいとたしなめられた。
 八月に鹿角市の古代焼きに呼ばれた。ストーンサークル近くの会場で、そのナイスミディが焼き鳥を焼いていた。長野出身のナイスミディも古代焼きの手伝いをしている。地元のイベントで活躍している彼女の姿を見ていたら、何故か、じーんときてしまった。

 「へばなんとす通信」がこの十月で発行一年を迎える。県外出身のナイスミディ達の新聞である。発行が生活エンジョイくらぶインあきた・井戸端ゼミナール。
 九月二十六日発行の「へばなんとす通信」第十一号を紹介したい。
 千葉県出身の井戸端ゼミ代表の高杉静子さんが書かれた巻頭エッセイ「これまで、そしてこれから」からの抜粋である。
「井戸端ゼミナールの会を始めて一年が過ぎようとしている。多くの人がこの会に集い、私も多くの人とめぐり会うことができた。
―秋田に住んで、十五年。それでもまだまだ分からない秋田弁や習慣がある。寂しくもあり、根無し草のような気分でもある。けれど、秋田というところは私のような余所者には、味わっても味わい尽くせないほどの深さと広さがある。
―秋田のすばらしいところは昔から私たちの祖先も持っていたすばらしさであって、秋田のどうも好きになれないところは、私の中にある狡さやいい加減さと共通する。そんなことをこのごろ感じるようになった。これからも、なにができるか、なにをしなくてはいけないか。まだまだ模索が続きそうだ」

 江戸っ子で編集部の渡部紀代子さんの「井戸端ゼミナールの新たなる出発」から。
「―この会は他県から都会からきた人も、根っからの秋田の人も会員であるという特徴をもっております。秋田っ子の仙花美也子さんが秋田県人の性格を素朴だと思えばハラは立たない、人との付き合いも遮断するから冷たいのではなく、相手を尊重するから踏み込まないのです。あまりがっかりしないでがんばって、とエールをいただきました―」

 ところで、ナイスミディとは何歳からで、どんな人かと聞かれそうです。「日本と今いる地域を愛する素敵な女性」としましょう。
●第九十一号/平成八年十一月二十日

   竜馬

「りょうまぜよ」
 秋田県上小阿仁村で「べいなす」の特産地にしようと、先進地の高知県へ協力と了解を求めた。
 坂本竜馬の国のべいなすの担当者が、そういって了承されたという。これは最近、秋田県広報課長のマッチャンこと松田美博さんから聞いた話。羨ましさは高知人。

 坂本竜馬の名を聞いたのは学生時代。日本経済史の授業だった。高知県出身の入交好保先生の講義で、覚えているのは、「徳川幕藩体制」という言葉と、「日本で初めて株式会社を作ったのは坂本竜馬だ」ということ。
 昭和三十九年の夏。レスリング部の合宿地が四国の高知。稽古休みの日、部員全員が桂浜へ行くことになった。だが、そこは人がいっぱいだということで、種崎海岸に変更された。お陰で、桂浜に立つ坂本竜馬の銅像を拝めなかった。

 桂浜に立つ、スエズ以東最大の銅像の絵葉書をこの夏、呑風便編集長の鳥海良寛氏からいただいた。
 その銅像は、昭和三年、高知県青年建立とある。あの朴訥そうな入交好保先生が学生時代、先頭に立って、竜馬像建立運動を起したと後で知った。先生は授業中にそのことに一切ふれなかった。

 私は「坂本竜馬ファンクラブ」秋田県支部長である。このことは今まで忘れていた。昭和五十三年頃だったか。オリンピック記念青少年センターでの研修会で高知県南国市の和田義許氏と一緒になった。近くの飲み屋で坂本竜馬の話になり、幕末の志士で竜馬が一番好きだといったら、彼、竜馬ファンクラブの会長をやっているという。その場で秋田県支部長に任命された。会費を送ったら、竜馬が新政府のヴィジョンを示した「船中八策」の条文を書いた暖簾が送られてきた。この八策が後の五箇条のご誓文となったのは有名。

 国会議員の秘書時代、「維新の夜明けへ二つの潮流」というレポートをある学習会で発表したことがある。その潮流の源は佐久間象山とした。象山が江戸で開いた塾に吉田松陰が、勝海舟もいた。
 松陰は象山から受け継いだ思想を松下村塾で高杉晋作達へ教えた。海舟は象山の教えを坂本竜馬に伝え、竜馬は維新回天への海図を描いた。この二つの潮流は交わることもあったが、長州の風雲児高杉晋作(二十七歳)の死、天下の快男児坂本竜馬(三十三歳)の暗殺によって、二つの流れは生き残った薩長の二流の志士によって、変わっていった、と話した。

 竜馬は手帳を持ち歩いていた。自戒の言葉として、「われ死すときは命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」と書いている。さらに「世に生を得るは、事をなすにあり」
 京都の親友斉藤哲雄と、竜馬が襲撃された河原町四条上ルの醤油屋「近江屋」跡を探した。そこは旅行社になっていた。入口には「坂本竜馬・中岡慎太郎遭難之地」と書かれた小さく細長い石碑がある。
 竜馬の定宿であった京都伏見の寺田屋へも行った。おりょうさんが裸で飛び出した風呂場は見ないでしまった。
 竜馬の面倒をみた女将のお登勢さんの曾孫にあたるだろうか。寺田屋の跡取り娘だった京美人の鈴木則子さん。今、東京でご主人と感性総合研究所「きらり塾」を主宰され、事をなされている。

 七年前の夏、戊辰戦争戦没者の調査のため京都東山の霊山(りょうぜん)に登った。草いきれの中、薮蚊に刺されながら、斜面の墓地を歩いた。偶然、竜馬の小さな墓に出会った。かなり風化していたが、高知藩坂本竜馬とみえる。
 事をなすにあり、、か。、、
●第九十二号/平成八年十二月二十日

  八

 平成八年。自分の好きな数字の年である。縁起のいい〇二つの8。
 漢字の八には、分ける、開く、などの意味がある。八方、八頭身、八面六臂、八面玲瓏などの言葉となる。米は八十八に分解できる。
 八木(はちぼく)とは代表的な八種の木のことで、松、柏、桑、棗(なつめ)、橘、柘植(つげ)、楡(にれ)、竹のこと。八木には、米の字を分解すると八と木にもなるから米の意味もある。

 末広がりの八の年。ところが、この縁起のいいはずの八年は怪我だらけの一年だった。怪我はほとんど野球の試合。無理をするからか、年のせいか。骨粗鬆症になってしまったのか。骨折に打撲に擦り傷等、様々。さんざんであった。
 七月に秋田市総社神社前で、自転車から地球に頭からスライディングして、右目上が血だらけになり、お岩みたいに腫れ、右手薬指のつけ根が骨折していた。
 九月。秋田市向浜グラウンドでの早慶戦。最終回同点打を打ち、一塁にヘッドスライディングして右肘を擦りむく。十月、西目町グラウンドではフライを倒れながらキャッチし、左の尻を打撲。最後が同月、県立球場でデットボールを受け、左第七肋骨骨折。イテテテて。

 小学校四年生の時。教員室前の掲示板に、学年別に選ばれた野球選手名簿が貼られた。一人だけ特別に選ばれていた。これが我が野球人生の始まり。生選手になれたのは五年生になってからで、センターだった。ヤンキースのミッキー・マントルもセンターだった。
 野球ゲームもやった。漫画「野球少年」の付録にあった。選手の写真入りのカードで、裏には十二までの点数によってヒット、三振などとある。サイコロを振って出た数字で進塁して勝敗を決める。
 先輩達は巨人や阪神、西鉄等の人気球団を先に選んでいて、ミチオ少年は毎日オリオンズを選んだ。当時のオリオンズはミサイル打線で有名。葛城、榎本、別当、田宮がいて、四番バッターが山内一弘だった。野球少年は山内ファンとなった。尊敬する人物が山内選手だとし、彼の信条の「努力」を自分のモットーとした。少年時代の事です。そして、山内選手が行く球団のファンとなった。
 山内が阪神・小山投手との劇的トレードで大毎から阪神に移ってからは、阪神ファン。そして広島へ行ってからは広島ファン。引退後は巨人の川上監督に請われて巨人へ打撃コーチとして入団。だが巨人ファンには、ならない。巨人を離れ、中日の監督となってからは中日ファンとなった。その後、山内一弘氏は南海、阪急、ロッテなどの打撃コーチ等をつとめた。コーチ時代のあだ名が「かっぱえびせん」、食べだしたらとまらないではなく、選手にコーチをしだしたら喋りが止まらないから。
 今はひいきの球団はない。ま、隠れ阪神ファンといったところか。

 山内の背番号が八番だった。以来小生のユニフォームの背番号はずーっと8を付けてきた。
 大館時代に作った役所の野球部の背番号が八番。中学時代の野球部仲間と秋田市で作った「川上若連中」、東京六大学秋田野球連盟を作り稲門野球部、そして、五百歳野球の大内町OBチームでも8。

 広島・衣笠の二千二百十五日の連続試合出場の世界記録を更新した、大リーガー・リプケンの背番号が八番。大記録達成の時にいった彼の言葉が「僕にできることは誰にでもできる」だった。偉い。
 平成八年もまもなく終わる。次は九年。我に七難八苦痛はもう結構。怪我をしないよう野球は続ける。優勝した今年、稲門野球部の監督は引退。選手として来年はホームランを打ちたい。無理かな。せめて連続試合出場を目指そう。