ふるさと呑風便巻頭言  NO16〜30  1990.7〜1991.9
 花咲爺 朝顔 月見草 人情産地・さが 李君からの手紙  タッチ やっぱり 野水仙 日本雪上野球哀史 謙虚さ 
 葬式まんじゅう ルスキー島 夾竹桃 イワギキョウ 

●第16号/平成2年7月15日

  花咲爺

 第3回『花咲爺の会』の案内を頂いた。地域づくりの師匠を仰ぐ、日本ふるさと塾を主宰される萩原茂裕先生からである。
「皆さんのマチづくりを知りたがっている、聞きたがっている仲間がいっぱいです。
 夏祭りの前、ふるさとの酒とさかなを持ってお集まり下さい」
 日時 平成二年六月十七日
 場所 日本ふるさと塾塾舎

 6月17日(日)朝、秋田駅で秋田銘酒を買う。同行のパイオニアエンジニアリング社長の鈴木憲一さんは天鷺ワインを、由利町の木内忠一さんは由利特産なめこの缶詰を先生宅へ宅配便で送っている。行き先は浦和市。羽越線経由新潟から新幹線で大宮で乗換え、京浜東北線の北浦和駅。

 秋田駅で鈴木社長と落ち合い、本荘駅から木内さんが合流。象潟駅のホームで「南極の氷」二ケースを金浦町役場の小柳さんから受け取る。金浦町の渡部幸徳さんは昨日から向かっている。
 北浦和駅に着いた。午後2時半。もう夏。30度はあろうか。アジアジー。駅前からタクシーに乗り、日本ふるさと塾へというと、運ちゃんは無線で聞いてくれた。十分後、浦和市郊外の狭い道に入っていくと、木立の中に日本ふるさと塾の看板がみえた。玄関前の駐車場には東京浅草と書いたワゴン車が止まっている。入り口には大理石に刻まれた日本ふるさと塾の看板。
 玄関に奥さんと息子さんの笑顔が見える。玄関横の箱の中はへ会費を入れる。入って右側のドアを開けると、わあっーとさんざめき。四十人近い人が集まっていた。板の間にテーブルが十ほど並び、席が出来上がっていた。皆、打ち解けた顔々。誰かが自己紹介をしていた。その横に萩原先生が笑顔で座っておられる。
 秋田人の3人は自己紹介用の用紙に書き込み、壁に張りつける。

 空いている席に座り、秋田銘酒を出す。もう一人の秋田人の幸徳さんは白瀬南極探検隊記念館のパンフを周りに配りながら、すっかり仲間と打ち解けた様子。
 宮崎県の長沼氏のあいさつが終わり、名刺やパンフを持っての人間交流が始まった。鈴木の憲ちゃんはものおじする御仁ではなく、彼の笑い声が近くに聞こえる。気の弱い小生は酒を少々飲んでからと、コップを片手に部屋のなかを見渡す。
 天井から大きなカヌーが下げられ、壁には静岡の丸い大きな凧や全国での萩原先生の講演ポスターなどが貼られている。すげえーなあと感じていると、全国の地域づくり人達が来られてしまった。岐阜・美濃加茂市中山道若衆会の亀谷さん、静岡県袋井市の鈴木さん、釧路市の浜木さん、高知のくろしお地域研究所の吉田さん(吉田文彦氏は先般秋田市で開催された食文化と地域社会シンポジウムに参加され、川反で一献す)他他。
 こちらからもと淡路島の木村さん、中畑清のふるさと福島県矢吹町の渡邊さん、倉敷の谷口さん達と人間交流。
 と、そこへ「山のあなあな…」の落語家三遊亭歌奴の孫弟子、歌之介がやってきた。
 萩原先生の紹介では地域づくりに理解を示している真打ちとのこと。好青年風。鹿児島出身。彼、私の前で秋田音頭のすけべな替え歌を披露してくれた。大師匠の奥さんは秋田県出身だという。「いつか秋田でお会いしましょう。秋田音頭の艶歌集も見つけて送りましょう」と約束してしまった。

 日本全国2300余りの市町村のほとんどを歩かれ、地域おこしへの種を播き、枯れ木に花を咲かせておられる花咲爺こと萩原先生は終始ニコニコ顔。師匠の益々のご活躍を願いながら、スバラシキ人々、ウマイ酒がそこにあった。


●第17号/平成2年8月15日

   朝顔

 アパートの軒下。地面から色付針金を十本ほど窓枠にのばしている。猫の額のような空地から朝顔のつるが針金にからんで伸びてきた。葉のつけねから茎がでて、青紫色の丸い花を咲かせている。

 一体、朝顔は何故朝に咲くのであろうか。と、前から疑問に思っていたのだが、朝顔はたまたま朝に咲くのであるということがわかった。朝顔の研究書によれば、前日につぼみとなってから数時間後に咲くのであって、それが朝になるだけのこと。

 実験してみよう。洗面器にたっぷり水を入れ、厚紙を丸く切って蓋をする。その紙に穴を数箇所あけ、そこに朝顔のつぼみをとって差し込む。そうすると翌朝には洗面器が朝顔で満開となる。

 朝顔を冬に咲かせたこともあった。朝顔は夏から秋口まで花を咲かせている。早咲きの花は種となって地面に落ち、気の早いのは芽を出してしまう。秋に芽を吹いた朝顔は花を咲かせることなく、木枯らしの吹く頃に枯れてしまう。これじゃあ哀れと、秋朝顔の芽を鉢に移し、室内で育ててみた。やがて雪がちらついてくる。夜は冷える。夕方、鉢ごとビニール袋で包んでしまい、翌朝にビニールを外して窓のそばに置く。これを繰り返し、年を越し、成人の日の頃に蕾がふくらみ、翌朝、ビニール袋を外すと、可憐なピンクの朝顔が雪景色の窓に映えて美しい。

 朝顔はやはり夏の花。「秋田県を面白くする会」の面々が十数年前から花ゲリラ作戦を挙行している。場所は秋田市の繁華街、川反の向かいの旧土手長町。旭川沿いの柳並木の根本に春先、こっそり花の種を播いたのが始まり。その花の種が朝顔であった。

 雑草に交じって花を咲かせた朝顔は、そこを通る人々との間に様々な情緒豊かな物語を作った。
以下、五十二年に毎日新聞秋田版の「朝のひとこと」欄に掲載した二話を紹介する。

 全日本大学空手道選手権で団体優勝の経歴を持つ当会の片野財務委員長、早朝練習の途中の旭川柳並木下で嬉しい発見をした。散歩途中のおばあさんが腰をかがめて柳の下をじいーっとみつめている。木にからみついた朝顔のつるを下がると、そこに小さなピンクの花があった。そばのフラワーボックスにはきれいな花が咲いているのに、おばあさんを立ち止まらせた小さな朝顔は一体何なのだろう。花植人の空手四段はともかく嬉しかった。汗の流しがいがあったという。

 良美さんはいいお嫁さんになれると思う。川反近い料亭のお嬢さん。ある朝、お父さんと川沿いを散歩していたら、誰が植えたのか柳並木の根本に、しおれた朝顔やコスモスをみつけた。「お父さん、かわいそうだから水をやりましょうよ」翌日からお父さん、左手に水の入ったバケツ、右手にはオモチャのじょうろを持たされ大変である。彼女の思いやりで朝顔達は生き、通りすがりの人々の心へ温かさを広げていた。ありがとう。今年も植えられているよ、良美ちゃん(四才)

(良美ちゃんは料亭あきたくらぶのお嬢さんである。まだお嫁にいくのは早いが、もう高校生)
 今年も植えましたよ、良美ちゃん、朝顔を。ところが、竿灯の前日、柳並木の横を通ったら、根元には何もない。緑がない。今夏から観光客用に那波家の欅がライトアップされる。しかし川向かいの柳並木の根本の朝顔は、雑草と一緒にむしり取られていました。
 また植えますよ、良美さん。


●第18号/平成2年9月15日

   月見草

 富士には月見草が似合うという。秋田富士の鳥海山には何の花が似合うのだろう。

 秋田市から日本海沿いの国道七号線を南に走る。本荘市に入ると鳥海山の威容が姿を現わす。
 昔、学生時代に上野から乗った夜行列車の二等車に、酒田出身の女子大生と席が向かいになり、鳥海山の話になった。
 彼女、鳥海は山形の山だという。いや秋田県のだと言い争いをしたことがあった。
 地図のうえでは、頂上は山形県側になる。前象潟町長土門三之丞氏から聞いた話。明治の頃、県境を決めるのに、山形の三島県令がステッキで鳥海山の頂上からこっちまで山形だと示し、それで決まってしまったのだという。その時の秋田県側の立会人は県の課長クラスで、三島県令の威圧に何もいえなかったらしい。
 頂上は山形県だとしても、庄内平野から見る鳥海山より、秋田県側から眺める鳥海のほうが一段と美しいの確かである。
 鳥海山の裾野に広がる、由利高原の沼に映える鳥海の姿はまさに秀麗無比。今年の夏、高原を訪ねたが、そこに月見草は見当らなかった。

 月見草は由利海岸に似合うのだろうか。だが、以前より道路沿いに月見草の花が少なくなったように思う。道路の斜面は自動草刈機が届く一bほどの高さに草が刈られ、そこにはほとんど月見草は見当らない。草刈機が届かない場所に月見草が生えている。草刈りおじさんに、月見草は刈らないで残しておいてといいたい。

 大館市にいた頃、月見草の種をとって、紙に包んで友人達へ郵送した。月見草を交通事故多発地点と考えられる右カーブの道端へ植えてもらうためである。黄色い花のガードレールを造ってもらい、交通戦争へのささやかな挑戦を試みたもの。月見草は海岸沿いにあるもんだとばかり思っていた。
 能代に出張した際、わざわざ海岸へ行き、花の終わった月見草を数本抜きとり家に持ち帰った。ベランダで乾かし、種をとった。チョコレート色の小さな粒々がでてきた。数日後、我家の裏の空地に月見草が沢山繁っているのを発見した。月見草が咲くのは海岸沿いだけではなかった。
 植物学上の月見草は、花が白く直径2〜4aで、夏に花が咲く。

 千葉県のある町では、本来の白花月見草を育てようとしている。秋田県西目町の町長・佐々木誠一郎さんは、黄花の月見草を町にいっぱい植えたいとおっしゃった。
 道端にみる黄色い花の月見草は大待宵草のことである。四弁の黄花は直径が七aほどある。区Gつに花が終わり、赤茶けた種を地面に飛ばし、春になって芽を出して、根出草は横に広がり青々として雪の下で冬を越す。翌年の春から茎を伸ばし、高さは約一、五bにもなり、花を咲かせ、種を残して枯れてゆく。二年草である。花は七aもあるというが、通勤途中の道端には、花弁が直径三aほどの大待宵草が繁っている。花びらが小さいから小待宵草だろうか。花は夕方に咲いて朝しぼむというが、曇の日は昼も咲いている。

 待てど暮らせど来ぬ人を
 宵待草のやるせなさ
 今宵も月が出るような

 この歌にでてくる宵待草はどんな花だろう。人を待つ心はやるせないが、宵待草は月の明かりによく映え、花言葉がものいわぬ恋。 さて、由利海岸に生い茂っている月見草の種をとって、交通事故減少を祈り、黄色い花のガードレール作りに再挑戦してみよう。

 月見草こと大待宵草の花言葉は、愛の祈り。


●第19号/平成2年10月15日

   人情産地・さが

 今夏、武雄市議会の、大坪勇郎議長が来秋された。川反で一献。その時、佐賀・武雄で拙書の出版記念会をとの話しを頂く。

 10月1日午前11時。佐賀駅に学友橋本文隆が迎えに来てくれた。九州の空にはまだ入道雲。さすが暑い。佐賀県庁の周りには楠木の巨樹が濃い緑を揺らしている。今春、秋田の佐賀藩士慰霊碑を詣でた県庁河川砂防課の大串美津子さんを訪ねると、副知事室へ案内された。井本勇氏。3年前、遺族の見つからなかった佐賀藩士兵蔵の遺品を受け取られた方であった。

 秋田と佐賀の関係は、TDKの創立者斎藤憲三の父・宇一郎翁が夫人の出身地佐賀から乾田馬耕という佐賀農法を取り入れ、今日の米作秋田を為している。近年、TDKが佐賀に進出する話があったが、隣の大分県の平松知事に持っていかれてしまったと聞く。
 サントリーの工場も熊本県の細川知事に持っていかれたが、おかげでその工場予定地から吉野が里遺跡が発掘され、連日多くの観光客で賑わっている。

 あきたこまちの話になり、佐賀でも米の新品種が開発されたがいいネーミングがなく、ピカイチと名付けられそうとのこと。どうも佐賀は二字の発音で冷たい感じがするといわれる。そいえば九州の他の県は皆四字の発音。語呂は冷たかろうが、佐賀の観光パンフレットには人情産地さがと必ず印刷されている。井本さんは拙書を読まれており、帰りぎわ本にサインをねだられてしまった。

 この日の夜、大串さんが若楠会館に地域づくりに活動されている県庁マンを集めて歓迎会を開いてくれた。 
副知事から佐賀の銘酒が届けられている。原田彰、大草安幸、福田輝凱他の諸兄。佐賀新聞社の吉富正憲記者も。貴重な人的財産を得た思いであった。

 翌2日の朝、目を覚ますと三根町の橋本の家だった。外にでると25年前の田園風景はなく、土色の道はすっかり舗装され、当時の面影は見い出せない。

 佐賀市の村山恵子さん宅に呼ばれた。村山さんは二ツ井町で戦死した村山又兵衛の子孫の方。2年前の佐賀藩士慰霊碑除幕式に佐賀のお酒を送られた。座敷に通され、見上げると「敬天愛人 南州書」との偏額が見えた。村山さんには豪華な酒器とひまわりの種を頂いてしまった。

 橋本の運転する白のクラウンが武雄市内に入った。武雄市文化会館が見えてきた。胸が高鳴ってくる。3年前の5月。秋田戊辰の役で戦没された佐賀兵士馬渡栄助のご遺骨を携え、秋田県慰霊団19人の事務局長として武雄を訪ねた。あの時の文化会館前には数百人の武雄市民が我々一行を迎えてくれていた。

 文化会館内にある武雄市教育委員会へ。竹内智學次長の案内で馬渡家のお墓に参拝。小高い山の中腹にあるそのお墓の側面には、「馬渡栄助、慶応四年羽州にて死」と刻まれていた。中に3年前にお届けしたご遺骨が眠っている。お墓の前には秋田のお墓と同じように秋桜の花がゆれていた。
 出版記念会場の武雄センチュリーホテルに着くと、玄関前に「佐々木三知夫先生出版記念祝賀会」との看板。橋本が冷やかす。「佐々木、お前いつから先生になったんだよ」
 この日の出版記念パーティのことを記すには筆力不足。ただただ照れと感激と二百人もの人情さがびとへの感謝であった。
 拙書「私の地域おこし日記」の副題は―戊辰まごころ・葉隠の役―

これからは「平成まごころ・人情の役」で人情産地さがとまごころ秋田の戦いを続けていく。


●第20号/平成2年11月15日

   李君からの手紙

 拝啓 秋冷爽快の候、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。留学中は大変お世話になり、暑くお礼申し上げます。秋田を離れる日はわざわざ駅まで見送り頂き有難うございました。
  ―中略―
 2年間の留学生生活も終わり、やっと家庭生活にもどったけれども、子どもさえ父の顔を忘れて、どこからか来た知らないおじさんかと思うほどです。いまから頑張って父親としての義務を果たさなければ、子どもにも認められないかも知れません。
 年末も近付き、研究所の仕事もだんだん忙しくなり始めました。中国では日本と違って、年末の前に一年の仕事を全部総結≠オなければなりません。そのため、ほとんど毎日報告書など書いているところです。日本では多分3月の末頃だと考えております。

 2年間の留学中は本当にお迷惑をかけました。佐々木さんと奥様の親しさを思いますと、頭が下がるほどです。いつか恩返しできる日を待っております。暇なときぜひ北京にいらっしゃって下さい。心よりお願っております。
 彌高神社の社長さんによろしくお伝え下さるようお願い申し上げます。
 今後ともよろしくお願い致します。          敬具

      李光範‘90・10・28

 李君は北京の電力科学研究院の技師で、秋田大学鉱山学部の吉村昇先生の研究室で電気化学を二年間学び、九月に帰国した。秋田地区日中友好協会で三年前から始めた「中国留学生・里親事業」で、私は彼の里親、というより里兄になった。
 特別なことをした訳ではない。年に2、3回我が家に呼び酒を飲み、いろんな所、特に飲み屋にはよく連れていっただけ。
 今年の2月、彼はNTT主催の外国人による日本語弁論大会で優勝。彼の原稿にちょっと筆を入れたこともあったが。
 日本語が達者で、付き合いがよい35歳でメガネの好青年。酒もけっこう強い。一年の留学予定がもう一年延長になったが、奨学金が支給されなくなり、日中友好協会の中国語会話教室の教師や、電気部品会社のアルバイトしながらよくがんばった。どうも、パチンコでだいぶ稼いでいたらしい。

 彼が帰国する前、川反・でんえんで最初の送別会を開いた。来るべき環日本海時代に備え、環日本海洋上セミナーの構想を彼に話したことがある。
「秋田港から船でナホトカ、ウラジオストックに寄り、ソ連と北朝鮮の国境沿いの中国にわたり、北朝鮮の興南から、韓国の釜山を廻って秋田に帰ってくる。李さんもその船に乗らんか」
「是非、乗せてください。ソ連と挑戦の国境沿いで私は生まれたんですよ。吉林省の延吉市です。実は、父が延吉市の副市長をやったんです」
「おお、それはいいや。事前調査に、国境沿いの図們江へ行きたいと思っている。そこに国際港ができると、日本海沿岸がおおいに開けてくる。中国の東北部との交易が大いに広がってくるぞ」
「佐々木さんが来られたら、そこに案内しますよ。ふるさとですから。是非、きてください」
 彼の手紙には、私に恩返しをしたいなどと、日本人がいうようなことを書いている。恩返しなどとは考えなくていい。

 環日本海洋上セミナーを3年後に実現させたい。一緒の船に乗って酒を酌み交わしたい。そして、お互いの国の発展のため、環日本海時代を引き寄せる作業を、李君としてみたいものである。


●第21号/平成2年12月15日

   タッチ

 親友のK氏はタッチの名人である。赤提灯の店だろうが、スナックであろうが女性とわかるとすんなりとさわりまくる。タッチされた女性達、少しもいやな顔をしないのはタッチ氏の人徳であろう、と言っておこう。

 学生時代。授業料値上げ紛争があって学園が荒れ、機動隊がキャンパスに突入し、二百名あまりの学生が逮捕されてしまった。本物の学生運動家は捕まらず、古美術研究会やらスペイン語研究会の友人が捕まった。私もデモにも出たが、うまく逃げた。彼らがブタ箱からでてきてから、「何でお前は捕まらなかったんだ」と責める。こっちはクラブの合宿を控えていて、捕まるわけにはいかなかった。
 思えば石田博英先生も学生時代に捕まっている。将来の大物になる男は一度臭い飯を食ったという体験をもっている。自分もブタ箱経験をすべきだったと悔やんだがもう遅い。大物にはなれない。

 学校が封鎖されている間、有楽町のそごうデパートのホールで学生大会が開かれた。弁士となって演壇で演説を始めたら、テレビライトで右顔を照らされた。その日の夜、下宿へ親父から電話があった。
「何やってんだ、テレビに出てたぞ」まさか、田舎にまで映るとは思わなかった。

 紛争が落ち着いた頃、マンモス大学にありがちな教師と学生との普段の交流不足を反省したのか、クラス担任の教授やゼミの先生が学生達に接近してきた。クラスコンパやら、ゼミの会合に教授が出席するようになった。
 大隈庭園内にある茶室。ゼミの学生達が担任教師を囲んで一杯やっている。先生が銀座のクラブの話をされた。貧乏学生にとって銀座のホステスのことなど、耳をひじくっても聞きたい話。よぼよぼの学生服を着た、もてそうもない男が聞いた。
「先生、銀座の女にもてるにはどうしたらいいんですか」
「よく聞け、絶対彼女達にさわっちゃあいかんぞ。最後に俺について来いといえばいいんだ」

 小生は敬愛する恩師の教えを忠実に守って、現在まで一度も飲み屋で、女性にタッチしたことはない、と思う。
 K氏があわりまくる傍らでもっぱらニヤニヤして杯を傾けている訳で、最後に「俺についてこい」などと、気の弱い自分がいえるわけがない。ホント。

 この12月9日に、秋田スカイドームでタッチラグビーのフェスティバルが開かれた。秋田県タッチ協会(会長下等重夫秋田テレビ社長)主催で、予想を上回る80チームが参加。老若男女、千人もの人が集まり大成功であった。役員の一人として、反省会では旨い酒を仲間と飲むことができた。

 タッチラグビーとは、オーストラリアで生まれた、タックルとスクラムをキックのないラグビーである。少人数で体育館でも試合ができる。

 昨夏、母校の西原春夫総長が来秋された。秋田市から金浦町へ向かう車中。スピード狂でもある総長運転の後部席で、タッチラグビーの普及を勧められた。どんなスポーツですかと聞くと、「鬼ごっこですよ」といわれる。

 スカイドームでの試合に「みっちゃんず」チームの一員として出場し、三戦三勝。まさに鬼ごっこで、実に楽しいスポーツである。
 ちなみに、K氏は秋田県タッチ協会の監事に就任した。これで彼は、しばらく夜のタッチをつつしまねばなるまい。当方は昼のタッチを楽しみ、普及に努める。


●第22号/平成3年1月15日

   やっぱり

 やっぱりなあ、と思った。昨年の暮れ、二十八億円もの脱税事件を起こした稲村代議士のことである。
 二十八億円。ピンときますか。2800円だったら、川反のオデン屋江戸中でビール2本飲んで、角こんにゃくのトリプルとガンモに豆腐を2皿も食える。これは余談。

「政治家が株をやっていたというより、株屋が代議士の肩書きを使って売買していた」と検察庁の幹部が語っていたとの事。さもありなん。
 二十数年前だった。参議院議員の秘書をしていた時のこと。国会議事堂裏の坂道を下りていく。突き当たりにTBRビルがある。そこの会議室で政治セミナーを受講。講師は後の環境庁長官の鯨岡兵輔氏の予定。ところが残念ながら欠席。代役として登場したのが、新人代議士の稲村利幸氏だった。

 33歳の稲村講師の話は『こうして政治家になった』。その日の日記を探してみたらこう書いている。
「聞いてあきれた。この人は選挙のプロから政治のプロとなって、一体日本の政治にどう対処していこうとするのか」
 稲村先生は、高校時代から政治家を目指し、親戚から金を集め、年賀状を何千枚も選挙区に書きまくった。
 最初の大学は看板として良くないので早稲田に学士入学をした。政治家へのコースとして、秘書の経験が必要と三木武先生の秘書にしてもらった。三木先生から政治家志望の理由を尋ねられたら、誰でも大学に入学出来るような社会にしたいとの答えを用意している。郷里の足利市から立候補し、二度の落選後、3度目の選挙ポスターには「今度こそ」と書いて当選をものにしたと。

 稲村代議士は今年の1月になって国会議員を辞任。潔いとも思わない。彼には、国会議員になることが手段ではなく、目的であったので、大願成就後はいつのまにか金儲けが次の目的となっていた。

 ただ、私の日記には、「二世議員と違い、彼の栄光を得るための血の出るような努力、根性には驚かされた」とも書いている。
 稲村元代議士のことをとやかくいうのがここの目的ではない。

 地域おこしの仕掛人などといわれている自分自身も、仲間のグループにも、手段と目的のはきちがえの恐れがあると自問自答している。
 地域おこしとは何のことはない。列島改造の失敗後、国からの金が期待できなくなったので、地方が生き残りを賭けて自主努力をせざるをえなくなった状況から生まれた。地域おこしと称しての様々なイベントも最初はマスコミ受けするが2度目、3度目になると取材にもこなくなる。それではつまらんと中止にしたという例がある。

 何のための地域おこしだったのだろうか。イベントはあくまでも地域を良くしようとする目的のための手段である。催しを成功させテレビに出るのが目的ではない。
 また、地域おこしにはこれしかない、こだわりが必要という。だが、ひとつの事にこだわっていたら、埋没して世の中が見えなくなる。
 目的達成のためにはあちこちに泉を掘り、いいと思ったことは何でも、すぐにやったほうがいい。所詮、実際に世の中を変えて、続けていくのは、無名の、無告の民なのだから。

 今年の年賀状に思うところがあり、目立たず、ちと大人しくしたいと書いたら、随分とお叱りの手紙を頂いた。自分はおっちょこちょいでも、何か動いているほうが柄にあっているんでしょうか。
 やっぱり。


●第23号/平成3年2月15日

   野水仙

 伊豆下田はすっかり春。

 2月1日。東京駅四時発、踊子23号に乗る。特急電車は熱海に着いて、伊豆半島を南下していく。

 学生時代。自転車でえんこらしょっと伊豆半島を南下したことがあった。
 東京を朝10時に出発。夕方には熱海に着く。もう尻がヒリヒリしていた。友人宅の旅館に泊まる。翌朝、サドルに座布団を当てて出発。熱海の坂を越え、伊豆半島に入って見えた最初の海が網代だった。春の海は朝日に映えてキラキラ。漁港の前を通り、伊豆下田へ向かって南へ走る。道は海岸沿いだけではない。舗装をされていない山道もある。砂利道だと溜息、途端にスピードが落ちる。

 目的地・下田に到着する前にひとつの目的があった。熱川の松村謙三先生の別荘を訪ねること。熱川温泉近くの店で松村先生の別荘のありかを聞いたら、山の上だという。曲がりくねった急坂を自転車を押して、やっとの思いで登りついた。その別荘は普通の民家風。感じのいい老夫婦が管理しておられ、温室に案内してくれた。そこには何種類もの東洋蘭があった。松村先生が、動乱の中国で絶滅しかかった蘭を、日本に持って帰ってきて育てておられたのである。

 熱川で多くの時間を食ってしまい、空がうす暗くなった。焦る。不安になってくる。何しろ自転車にはライトがついていない。途中で遅くなると電話をした。下田市須崎の森貴義さん宅へ。大先輩で下田市の助役。長男の竹治郎さんも中南米研究会の先輩という縁で森家で合宿をし、随分お世話になっている。暗闇の白浜海岸から下田の須崎入口にペダルをこいでいく。とライトをつけた自動車が止まった。竹治郎先輩が心配して迎えにきてくれた。車の後をついて、森家にたどり着いたのが夜中の九時。玄関先には家族総出で出迎えてくれた。あの時の感動、森一家のあの温かさは忘れられない思い出である。

 今回の下田行きは足がすっかり弱ってしまわれた森さんのお見舞いの為。それに竹治郎先輩の県議選3期目奪回の応援。
 七時前に下田駅に着いた。秋田に住んだこともある次男の正夫君が送ってくれた。森さんご一家の温かい歓迎を受け、お元気な姿を見て、その翌朝。須崎半島の突端にある恵比寿島へ歩いて渡る。一周百bほどの小さな島の高台に登ると神社の境内に野生の水仙が咲いていた。
 暖かい。恵比寿島の東側には爪木崎の灯台が見える。そこで水仙祭りをやっているとのこと。須崎の御用邸前の坂を下っていくと、波静かなエメラルドの海岸が目に入ってきた。懐かしい。爪木崎の海辺に降り、平たい小石を拾って土手から投げてみる。水面を二つ、三つと飛び跳ねていって沈んだ。
 昔クラブの3月合宿で、ここの海に飛び込んだ。頭を海水に沈めて泳ぐとさすがに冷たかった。泳ぎ帰った砂浜に、後輩達が焚火をして待っていてくれた。

 20数年後に訪ねた、その砂浜には白い野水仙が一面に咲いている。いい香りが漂ってきた。近づいてみると、花は小さな白い花弁に黄色い盃が突き出したような形をしている。爪木崎の高台から再び、野水仙の群落と青い海の広がりを眺めた。帰り際、目の奥に長方形の枠を作って、その美しい風景を焼き付けようと努めた。
 下田の須崎へは何時行っても、野水仙のような暖かさ人の温かさに包まれる。

 古里秋田はいまだ冬。繁華街川反某所に花ゲリラ作戦で植えられた水仙は今、白い雪の下で、じっと春が来るのを待ち続けている。


●第24号/平成3年3月15日

   日本雪上野球哀史

 南国、伊豆下田の爪木崎で野水仙の群落を見た翌日、2月3日。
 上野駅から夜行列車で北へ、羽後本荘駅に下車したのが朝の7時38分。一面の雪の別世界だった。ホームに降り立つと体がブルブル、皮膚がピリピリする。この日、鳥海山の麓、南由利原高原雪まつりの雪上野球大会に招かれている。本荘駅から工藤利典君の四駆で、会場まで送ってもらった。苦言のレストハウスから由利町の阿部久一君のスノーモービルに乗せてもらい、野球場へ。出場は地元から二チームだけだという。球場の積雪は約一b。試合が始まる頃になると、猛吹雪となった。目を開けていられない。試合前にルール説明をして退散。

 30分後、レストハウス「やまゆり」で熱いお茶をすすっていると、野球チームの面々が帰ってきた。どうだったと聞くと、
「すごい吹雪で、三回で辞めてきました」
「寒かったろう。これがほんとのコールドゲームだよ」

 第1回雪上野球もコールドゲームだった。時は昭和53年1月15日。前日まで、雪はほとんどなかった。学友・小田豊二が東京から取材に来ている。我家で酒を酌み交わしながら、明日も雪がなかったらどうすんだ、などと話をしていたら電話がかかってきた。
「みっちゃん外を見てみろ」
 職場の上司、渋谷達雄さんであった。カーテンを開けて窓の外を見ると、雪がチラチラと舞い落ちてきていた。友を祝杯をあげた。

 翌日、会場は秋田県立球場。積雪十a。この野球のいいだしっぺは何のことはない、小田だ。
彼が週刊誌に連載していた「発見の旅」のネタがなくなった。六本木で一緒に飯を食っている時、「冬の秋田で飲みたいなあ、そうだ、お前野球やってくれ、取材にいける」
 かくして日本で初めての雪上野球が開始された。昭和53年2月5日発売の週間明星。4ページに渡って載った、雪上野球生みの親の名文を要約して紹介しよう。

 栄光の雪上野球、最初の試合を行なうチームに選ばれたのは、「秋田をおもろうする会」と、「焼鳥ひょうちゃんず」
 1回裏、あっというまに、ひょうちゃんずが4点先取、しかし、おもろうする会には、「秋田野球の会の星」飯塚明選手がいる。彼の活躍で5回までに同点に追い付いた。しかし、規定では、あと2回の予定だが、吹雪があまりにもひどく、外野の選手は目も開けていられないほど。今回は5回で終了ということになった。
「本当のコールドゲームですね」
と焼鳥ひょうちゃんずの佐藤寛さんは大笑い。

 あのコールドゲームからもう14年たっている。ほぼ毎年やっているのは、マスコミの要請もあったが、やってみると意外と面白く、終わった後の選手同志の酒が旨かったからだろう。
 62年には10周年記念大会を開催。昨年からは雪の心配のない大森町のミニかまくら祭りを共催し、ゆくゆくは全国大会をと意気込んでいる。

 59年2月からは、日本雪上野球連盟として発足。初代会長は前田建設工業秋田出張所の堀越善幸氏だった。
 だったのだ。最初の雪上野球の前夜に電話をかけてくてた渋谷さんも、天国へ単身赴任したままもう帰ってこない。
 雪の上で、黄色いテニスボールを投げたり、打ったりしている我々を、愛すべき御両人は今、雲の上から眺めてきっとこういうに違いない。
「お前ら、いい歳してまだそんなアホなことやってんのか」


●第25号/平成3年4月15日

  謙虚さ

 「北秋田の人間は人の足を引っ張るが、鹿角の人間は人の手を引っ張る」
 鷹巣町の武道修練道場「北士館」館長、七尾専次郎師がこういわれた。確かに、鹿角は旧南部藩で佐竹の殿様の影響下にはない。そのお陰なのか、鹿角からは有為な人物を多く輩出している。南部藩から5人もの総理大臣がでたのも、その手を引っ張る南部の特性だろうか。
 旧南部の、いや鹿角の友人達へ「手を引っ張る鹿角の友よ」と話すと、「いやいや、鹿角だって人の足を引っ張りますよ」と謙遜。
 四国の山奥で生まれた村おこしグループ「過疎を逆手のとる会」の機関誌「カソサカ」。その中に足を引っ張る話が載っている。
 広島の人間でも足を引っ張るのが好きらしい。鹿角はそれが比較的少ないだけなのだろうか。いやいや、島国の日本人は足を引っ張ることが好きなのだろう。

 日本の政治は派閥次元の足の引っ張りあいの繰り返しで、国際政治に対応できる政治家が育たなかった。
 国際性の乏しい、小国の偏狭意識から抜け出せない日本の姿勢。湾岸戦争への対応がそれを露呈させたのである。
 話がちと飛躍してしまったが、地域づくりは人づくりというが、判で押したような言葉からもう先に進まないといけない。
 地域づくりはヤルキ人間、地域を愛する人間づくりである。地域を知って、憂えて、愛すれば、ヤルキから行動に移る。その際、地域づくりのリーダーは何か新しいことを始めるのに、何らかの嘲笑や、足の引っ張りを肥やしと考えたほうがいい。気も楽になる。
 そして、謙虚さを失わず、仲間と共に成長していく姿勢の、時には斜め後から友と押し出す人間。
 まほろばの里にはそうした人が多い。

 鹿角市まほろば塾機関誌の原稿依頼があり、前途のような拙文を書いた。題して「斜め後人間」ちょっと堅い文章になってしまったが、謙虚さがこれからのリーダーの条件だと考えていた。
 司馬遼太郎が謙虚について語っている。
「謙虚というのはいい。内に自己を知り、自己の中になにがしのよさに拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である」
 この謙虚さは江戸時代からふきつがれた武士の気分であったともいう。謙虚が影をひそめたのは日露戦争後で、強弱の条件がかわり、おびえが倨傲(きょごう)になってしまった。武士気分をもっていた人間が消え、試験で登ってきた人間に代わり、彼らの思慮のすべてが出世という軸になっていた。

 朝日新聞論説委員の松山幸雄氏によると、日本の指導層は、大学卒業時の就職試験、組織内での忠誠心、上役運の三点だけを軸にエスカレーターを大過なく昇ってきた人が多い、と。そして、まわりあわせでえらくなった役人や商社の偉い人の威張り方はこっけいを通り越して、義憤を感じさせることがよくあった、ともいう。

 住友銀行の元頭取、故堀田庄三氏が新入社員に訓示した言葉に「あおいくま」というのがある。

  あせるな
  おこるな
  いばるな
  くさるな
  まけるな

 いばりくさったえらい人に敗けてはいけない。斜め後にいて、謙虚さを忘れず、最後に勝たなくては面白くないのである。


●第26号/平成3年5月15日

   

 実家の庭の春。今年も枝垂れ桜が見事に花を咲かせて散った。植えられてから二十年以上になる。十年たっても咲かなかったので、家人が来年もっ咲かなかったら切ってしまおうかといった。その翌年から何とか咲き始めた。枝垂れ桜も切られたらたまらんと必死に花を咲かせたのだろう。

 我が家にはもう一本の桜木がある。十年ほど前、おふくろと家の山へ杉を見に行った際、山桜の小さな苗を取ってきて庭に移植したものである。幹もだいぶ太くなって四、五年前から白い花を咲かせている。
 私が好きなのは、山桜。山林にひときわ早く色づく山桜は、霞の中に白い春を浮かべる。

 ところで、ヤマザクラの葉や花房には解毒作用があるという。
 学校出て就職もせず、風来坊時代のある春。東京の武雄野界隈の高圧送電線の下を、半日がかりで、車で走って監視するアルバイトをしたことがあった。五日市街道を走っていくと小金井公園がある。近くに玉川上水が流れていて、土手には桜並木が続いていた。
 ここに、江戸から大正にかけて、有数のサクラの名所があった。当時の私はそんなことは知る由もない。その名所は「名勝小金井桜」といった。八大将軍徳川吉宗が作ったもので種類はヤマザクラ。玉川上水の堤に桜が植えられたいきさつは、根が深く堤を保護し、決壊防止となる。江戸市民へのレクレーションの場の提供。そして、桜の葉や花房が解毒剤となって、都に入る上水の消毒のためでもあった。

 今日、全国各地の河川が生活排水などの影響で汚れがひどい。吉宗将軍に学び、汚染解消のためにも全国各地の河岸にヤマザクラを植え、一石三鳥策を勧めたい。
 以前、北海道の松前町へ行ったことがあった。そこには全国のあらゆる種類の桜を集めた公園があり、五月いっぱい桜を楽しめる。 日本中の桜の品種は全部で150種類もあると聞いたが、熊本県球磨郡水上村でも、それを全部集めて日本一の桜の里づくりをめざしている。桜の木だけでなく、桜草や桜の名前のつく花を植える、桜シンポジウムを開催し、桜にひときわ愛着を持っている同姓作家の水上勉さんを呼んで講演をお願いした。また、桜の歌など、桜に関するあらゆる資料を集めた桜の図書館構想と、桜にこだわりつづけている。将来三万本に増やし、世界一の桜の里をめざし、ワシントンのポトマックの桜との交流も進めようとしている。

 水上村の人はご存知であろう。ポトマック河畔の桜が日本に里帰りしている。東京足立区江北の荒川筋。明治末期頃「荒川の五色桜」と呼ばれ、世界的に有名な桜の名所であった。ソメイヨシノ、ヤマザクラが混植されて、白、淡紅、濃紅などに彩られ、五色の雲がたなびいているように見えた。ワシントンのポトマック河畔の桜は、明治5年にこの江北の桜が贈られたもの。それが、江北の桜が戦争などですたれ、「五色桜」を復活させるため、ポトマック河畔から35種類三千本の桜の里帰りが実現している。

「日本人が桜を好きなのは散りぎわが潔いからである」といったのは数学者岡潔のお父さんであった。
 江戸期の武士は如何に美しく死ぬかということのために、文武の修練を積んだ。散りぎわの美しい桜は日本人の精神文化の象徴。「残りなく散るぞめでたきさくら花」(古今集)

それにしては、桜の名所の汚染。「夜桜や弱者どものゴミの跡」


●第27号/平成3年6月15日

  葬式まんじゅう

 客船ニューゆうとぴあ号。秋田から北へ一昼夜。船はナホトカ港へ。六月二十日、午前十一時。
 甲板に出て、私にとっては10年振りのナホトカを眺めていた。隣の菊地善三郎さん(七十三)にとっては実に42年振りのナホトカ。
菊地さんの旅の目的は唯一、ナホトカの日本人墓地に眠る戦友2人の墓参。
 秋田魁新報で先般発表されたソ連抑留死亡者名簿の中に、ナホトカの日本人墓地に眠る戦友二人の名前を発見したからである。
 私は、環日本海ソ連の旅の本部に、ナホトカの日本人墓地を訪れるよう頼む。下船する前に、船中レストランで食事中の菊地さんの姿を見つけていった。
「菊地さん、ナホトカの日本人墓地に行けそうですよ」
「ハラショー。良かったなあ」

 菊地喜三郎さんは、戦時中、中国・牡丹江の関東軍事司令部付電波研究所で、兵技中尉としてレーダーの研究をされていた。ソ連軍の進攻に立ち向かい、実際に戦闘となった。そのため、菊地さんの部隊はシベリアの北極に最も近い町、零下六十度にもなるヤクーツクに送られた。
「4年間抑留され、ナホトカから船が沖に出ると、甲板から陸に向かって『スターリンの馬鹿野郎』と4、5人で叫んだもんですよ」

 ナホトカに下船したのは、午後2時頃。税関の建物も、12年前とほとんど変わらない風景。
 我々を乗せた五十人乗りのソ連製バスは、真直ぐ日本人墓地に向かった。菊地さんも同じバスの中。
「戦友の一人は田中義孝といって、陸軍工科学校出身の軍曹でイズベストコーバヤで別れたんです。ぼたもちが食いたいといっていましたよ。もう一人は井原高之といって、士官学校出身の大尉でハバロフスフで病気になって入院していたんです。気性がはっきりしたいい男で九州男児じゃないかと思うんです。死ぬ前に葬式饅頭をたらふく食いたいといっていました。2人とも26才ぐらいだったのに」

 10分ほど走って、高台の傾斜地の日本人墓地に着く。ここには570人の日本人が眠る。中に16人の秋田県出身者。墓地の中程の道を入った奥手に日本式のお墓がある。
 西目町の近藤秀貞住職が墓前で読経され、秋田県出身者の名前を読まれた。菊地さんは戦友のお墓を見付けただろうか。
 と、すぐ近くに立っておられた。長方形で寝棺型のお墓の前。お線香を取り出している。駆け寄ると、菊地さんは涙声で、
「田中です。部下でした」
コンクリート枠の前部のプレートに、ロシア語と日本語で名前が彫られていた。確かに、田中義孝とあった。
「もう一人は井原さんでしたね」
「誰かー井原さんのお墓を探してくれ」と叫んだ。そうすると、1分もたたないうち、若い女性の声が届いた。
「ここにありまーす。井原孝之さんですか」
「そうだ、そうだ」と菊地さん。
 何とそこは田中中尉と同じ並びにあり、十bも離れていない。戦友井原が菊地さんを呼んだのに違いない。
 井原中尉のお墓の前で、菊地さんは線香と蝋燭をたて、手を合わせた。葬式まんじゅうを取出し、八個も墓の上に置いた。
 そして、大きな声で戦友に語りかけた。
「井原、お前が死ぬ前に食いたいといっていた、葬式饅頭を持ってきてやったぞ。ほら、たらふく食え。日本を目の前にして、ここまできて情けない奴だ・・・」
 私も菊地さんの横で合唱する。
 目をあけるが、涙がうるんで前がよく見えない。お墓に積まれた白い葬式まんじゅうが見えてきた。
 
 傍らに咲く白いマーガレットの花が一輪、風に揺れていた。


●第28号/平成3年7月15日

  ルスキー島

 ホテルでの歓迎パーティの最中に朗報が届いた。
ルスキー島への上陸許可がおり、船もチャーターできたと。明朝七時出発、十時にはホテルに戻らねばならない。
急ぎ、島への特攻隊員(渡部団長命令)を募った。ナホトカの日本人墓地で戦友と劇的な「出会い」をされた菊地喜三郎さん、同墓地で読経された西目町の近藤秀貞先生、大内町役場職員の菊地久昭君、東由利町のボランティアグループ代表の畠山栄雄君を誘った。それに秋田魁新報社の地主徹弥記者、通訳のアーラと旅行社社員の8名。ぬるいロシアビールも断然旨くなった。

 夜10時。ホテル玄関前に通訳のユーりが車で迎えに来てくれた。彼のアパートへ行く。彼はウラジオストック水産学校の英語教師。
 同じ学校の若い職員が車を運転。ユーリの部屋は四階にあった。玄関の戸口で奥さんが待っていて、応接間に通されウオッカで乾杯。つまみが柿のタネ。日本からのお土産を渡し、やがてユーリ夫人のお袋さんが来た。
 彼女は沿岸州ラジオ放送の記者。ルスキー島出身の本荘沖遭難漁民の遺族探しを聞いて、彼女にも協力してもらおうとユーリが呼んだのだ。ラジオに放送しようと、テープレコーダーを持ってきていた。私が日本語で、「明日ルスキー島へ行き、遺族を探しに行ってきます。もし、遺族か関係者がおわかりの方はお知らせください」と話し、ユーリがその後、ロシア語に訳して録音された。ホテルに戻ったのが12時。
 23日(土)早朝、5時30分に起きた。隣のベッドの憲ちゃんの寝屁の爆音が目覚し。一行はホテルを7時に出発。アーラが玄関で待っていた。バスに乗り、港までは5分足らず。船は観光船だった。乗り込むと中に座席が30人分もある。持参した朝食を食べようとすると、船長のクリモフサンに招かれ、船長室でお茶をご馳走になった。船長の父親は日本軍と戦い顔に傷があって、今でも日本の軍刀を持っているという。

 30分足らずで島に到着。潜水艦の電池工場があるといわれるルスキー島。周囲が4キロ、入江が16もある。
上陸した日本人の他には通訳のアーラと旅行会社社員、クリモフ船長、そして美少女が1人。海岸で小石を拾い、大きな石を探しに、樫の木林の坂道を登った。登りつめた所に、小さな畑があった。日本で見られる大根、ニンニクなどの野菜。そばにマーガレットの花が咲き、美少女がそれを摘んでいた。適当な石が見つからない。坂道を下っていくと、美少女が私に花束を渡して走り去った。
彼女は副船長の娘でズラータといった。(あと二十才若かったらなあ)
 時間が無くなってくる。旅行社の社員が茶色っぽい立派な大理石を持ち運んできた。決めた。船に積む。ツーリスト号はすぐ側の港に入った。下船したら、そこへ緑色の軍用トラックが到着。
 車から降りた軍人が我々を見て、何か言った。一瞬緊張。アーラがその軍人に一生懸命説明している。上陸目的が、昔、日本で遭難死した人の遺族を探すこと、慰霊碑に使う石を探しにきたのだと。兵隊さんは納得したのか、一緒に来たオバさんを紹介した。彼女は島の郵便局に務めるオルガさん。
 私は彼女に本荘沖で遭難死した、ニコライ少年が埋葬された場所から拾ってきた小石を預けた。生還した漁民の写真と名前を見せると、この島には2500人の年金生活者がおり、そのうち1人に同姓の人がいるという。もし、その人が生還者だったら、アーラに連絡してほしいと頼む。時間がない。乗船。船はルスキー島から離れた。
 オルガさんが手を振る。兵隊さん達も手を振る。スパシーバ(有難う)と私達も大きく手を振った。


●第29号/平成3年8月15日

   夾竹桃

 おふくろが夾竹桃の花を好きだというので、何年か前、実家の庭に植えたことがある。しかし、雪にやられて育たなかった。
 夏になって、夾竹桃の花を見るとヒロシマ・ナガサキを思う。
 原子爆弾の事を初めて意識したのは小学生の時。学校の教室で原爆映画を見せられた。その中で「パパ、ママ、ピカドンでハングリ、ハングリ」ということばが頭の片隅に強く残っている。
 日本人として広島・長崎へは是非一度は行かなければと思っていた。出かける前に、あの遠藤周作が絶賛する、原民喜の「夏の花」を読んだ。夾竹桃のことではない。「夏の花」の花は、原子爆弾に襲われる二日前、妻の墓に詣でるために買った花であった。

 昭和56年の8月6日の広島。市役所の前庭に大きな夾竹桃の木があった。市役所の友人と会い、平和記念資料館の高橋昭博館長は前の上司だったと知らされた。その原爆資料館を訪ねた。案内板にこう書かれていた。
「広島に原爆が投下されたのには二つの理由があった。アメリカは本土決戦でこれ以上の若者を死なせたくなかったこと。そして、外国ソ連に対し、終戦のイニシアティヴを取る必要があったこと」
 資料館の中の、焼けただれ、皮膚を垂れた人形を見て、身の毛がよだった。
 広島行きの目的の一つに、一人の被爆者が爆風でたたきつけられた場所、昭和町を訪ねる事があった。そこは、兵舎があった比治山に近い橋のたもとだった。京橋川の川べりは公園になっていて、夾竹桃の並木が赤い花をつけて続いていた。

 昭和20年8月6日午前8時15分17秒、中部太平洋テニアン基地から飛来したB29「エノラ・ゲイ」は、人類史上初めて人の住む町・広島に原子爆弾を投下した。43秒後、約30万人の人間たちの上空580bで爆弾は炸裂、瞬時にして町を廃墟とせしめ、数万の人命を奪った。

 3日後の9日、北九州の小倉を目標として飛来した爆弾搭載のB29「ボックスカー」は天候不良のため目標を変更。午前11時2分、長崎市浦上地区上空で二発目の原爆を投下し、再び多数の人命を奪い地上に地獄絵を現せしめた。

 推定死亡者数・広島約14万人、長崎約7万人。(アサヒグラフ・五十七年八月十号)

3日後の9日の午前11時2分。三角屋根の長崎駅。サイレンがなり、客待ちのタクシー運転手が車から降りて、黙とうしていた。
 浜町アーケード街にある好文堂書店に社長、中山清さんを訪ね、「夏の雪」な話を聞いた。
「原爆が落ちたとき、私は妹と家のなかにいたんです。突然、轟音が起こり爆風が吹いてきました。外を見ると、横なぐりに、真っ白な、光が飛んでいきました。雪かと思ったんです。
 いや、夏に雪が降るはずはない。外に出てみると道路一面にガラスの破片が飛び散っていたんです。それから私の家も焼けてしまい、一週間、お寺の境内にゴザを敷いて過ごしたんです。夜になると冷えるんですが、墓石の石が昼間の熱で温かくなっていて、ぬくくて助かりました」
 その後、近くを流れる浦上川の畔を歩いたら、大きな夾竹桃の花が目に痛いほど映えてきた。
 以来、夏、夾竹桃の花をみると胸がしめつけられてしまう。


●第30号/平成3年9月15日

   イワギキョウ

 ほほえみ花のくにみやざき。と印刷されている手紙を頂いた。宮崎県東京物産観光あっ旋所長の長沼武之氏からであった。
 長沼さんとは去年の六月、浦和の日本ふるさと塾でお会いした。塾長の萩原茂裕先生曰く、「宮崎県で長沼さんを知らない人はもぐりである」といわしめた方。手紙には八月の終りに鳥海登山の予定とある。

 8月28日、11時。鳥海山五合目の鉾立。空は雲ひとつないほどの快晴であった。宮崎県の長沼、林田両氏とこれから鳥海山の頂上を目指して登る。ご両人とも登山服姿で、使いこなした皮の登山靴を履いている。こっちは高校時代、富士登山の時に使って以来の布の登山靴。はるか遠くの頂上を眺めて、果たしてあそこまで行けんのかと心配になってくる。
 奈曽渓谷を左手にコンクリートの道を登る。私が先頭、こっちの遅いペースに合わせてもらおうと長沼、林田氏が後に続く。石段になってきた。急坂にもなった。暑い。タオルを首に巻きつけて汗を拭う。三十分足らずでもう苦しくなった。休憩させてもらう。長沼さんに自分の歩くペースは遅いですかと聞くと、「いや、速すぎますよ。それじゃ、もちませんよ」
 山男の長沼さんから先頭に立ってもらい、再び登りはじめる。下り坂になった。賽の河原の立札。ニッコウキスゲの花が見えた。又上り坂となって、神社がみえる。草原で休息し昼食。熱いお茶が胃に温かい。中学生の団体が「こんにちわー」といいながら坂を下っていく。
 登り始める。七合目にある御浜小屋で300円のポカリスエットを3本買う。スポーツドリンクを飲みながら眼下の鳥海湖を眺める。
神秘的な青い沼。右手には日本海の青海原。左を見上げれば、青空に山の緑がつづき、薄紫色の岩場に変わって頂上が見える。
 あそこまで、まだまだ先が遠い。
 下り坂となった御浜の道筋に、夏の終わりに咲く高山植物が咲いている。紫色のあざみ、蒼いリンドウの花。八丁坂を今度は登りつめると、登山道が二手に分かれていた。初心者向けの千蛇谷コースを行くことにした。途中、藪を通り抜け断崖を真下に見て横切る。「足を踏み外すとこりゃあ、おっこちて間違えなく死ぬなあ」といいながら岩場を廻ると、おう、雪。雪渓が見えてきた。
 雪の上でしばし遊ぶ。南国宮崎県のご両人と魔法瓶の蓋で固い雪をかいて、ビニール袋に詰める。
 さて、もうひと踏ん張りだ。最後の急斜面を登りつめると、山頂の神社につく。山頂小屋が目に見えてきた。ゆっくりゆっくりと小幅で登る。暑い。息が苦しい。膝が上がらなくなった。途中、三度ほど休む。又、登り始める。もうちょっとだ。ふー、ふーと山頂小屋にたどりつく。時計は午後4時前を差していた。振り返って眼科を眺める。雪渓が太陽の影になっている。2人と握手。彼らのお陰で何とか登りつめることが出来た。
 大物忌神社の山小屋には電話があった。遊佐局。そうか、ここは山形県であった。
 5時。山小屋の食堂で夕食。500円の缶ビールで乾杯、旨い。飯はパラパラ。
 外へ出て、日本海へ沈む夕陽を眺める。強く、寒い風が吹いてくる。セーターを持ってきて良かった。水平線に沈みはじめる寸前、楕円形に変わる夕陽を見届け、三人で酒を酌み交わす。
 寒いので山小屋に戻り、一升瓶が空になるまで話し、飲み、毛布を5枚も重ねて寝る。

 翌朝、4時半起き。外はまだ暗い。七高山に登ってご来光を拝もうと、外へ。長沼氏が頭につけたライトの明かりを頼りに岩場を登っていった。白い月が西の上空。這うようにして登りつめたら視界が大きく広がった。東の方向の下界は雲。なだらかな斜面を登っていくと七高山の頂上に着く。そこには小さな石碑が立っていた。東の雲を眺めながら頂上に座った。少しずつ明るくなった。
 誰かが「のぼるぞう」と叫んだ。
 見えた。はるか遠くの雲の水平線から小さく真っ赤なボールが覗き出てきた。ご来光だ。
「万歳」の声が聞こえた。後ろを振り返ると、岩石が積み重なってできた新山(2236b)が朝日に照らされている。
 ふと足元を見ると、岩場に緑がへばりついていた。青い小さな花があった。「おお」と声にだし、顔を近づけて見ると桔梗に似た小さな花弁が一輪、上を向いて咲いている。2230bの鳥海山の一方の頂上でこんな可憐な花を見られようとは。
 頂上の岩場に辛うじて残っている土の根付き、密着して咲いていたその小さな花の名前は後で知った。
 イワギキョウという花と知った。