ふるさと呑風便 巻頭言 NO1〜15 1989・4〜1990・6
 
 わたしではなく、あ・な・たへ  おっちょこちょい  美夏の秋田初拝見  南極・縁(えにし)・楠公 温かい風  同級生  秋桜  いちご  年賀状  一年の計  「私の地域おこし日記」派話 
自由と平等  風  凌香花(のうぜんかずら)  代り梅

●第1号 /平成元年四月十日

  わたしではなく、あ・な・たへ

 南極の越冬隊員をジーンとさせた電報の話を、扇谷正造さんから聞いたことがあった。
それは奥さんから越冬中の夫に送られてきたもので、たった三文字。万感、胸にこめた呼びかけで「あ・な・た」
 去年の九月、金浦町で開かれた「白瀬フェア」のシンポジュウムに初の女性南極観測隊員の森永由紀さんが来ていた。
 なかなか可愛い女性。懇談会の席で、彼女に「あなた」の電報の話を聞いた。そしたら、最近は「あなた」の電報がなくて、
「わ・た・し」とのこと。

「わたし」電報には、女性の観測隊員がいるので、隊員の奥さんが心配して、わたしを忘れないで、といった気持が含まれていようか。その電報をもらった隊員はどんな気分だったろう。

 地域づくり。昔からやってたことで地域をよくすることに他ならない。地域おこしブームといわれ、各地で地域特産物の開発や、さまざまなイベントの開催がある。が、特産物はせいぜい酒の肴が多く、イベントもテレビに取り上げられないからといってやめてしまった例があるという。何か大事なことを忘れ去っているのではないか。
 地域づくりの師匠と仰ぐ日本ふるさと塾主宰の萩原茂裕先生から頂いた今年の年賀状。

「私は種をまくだけなんです。
心の角度を変えて見る人をつくったまちはのびる。
他人のために汗を流させれる仕組みをつくったまちはのびる。
足元にある材料を今様に耕し直させるまちはのびる。
みんな、全国のすばらしいまち、すばらしい人たちからいただいた種です」

   先日萩原先生に電話をし、胆石の手術のことを伺ったら、石が四十七個でてきたとのこと。奇しくも全国都道府県の数と同じであ   る。 先生は四十七都道府県の多くの町や村に種を播いてこられた。あとはその町や村を愛する、心ある人々が苗床を作り、水をや  り、芽 を出させ、肥料をあたえて育てている。それはだれの為でもない。自分たちのまちの為、人のため。萩原先生は「ふるさとを   愛する人  づくり、仲間づくり」を手懸けてこられている。

   この二月二十四日に、秋田ふるさと塾世話人会議を秋田市川反の事務所で開いた。大葬の礼の日にもかかわらず、県内の地域 づくりの仕掛人たち二十八人が集ってくれ、秋田ふるさと塾が発足。四月二十八日からは、別記のとおり仲間の協力を得て、地域づ  くり実 践セミナーを始める。
 「ふるさと呑風便」は塾の機関誌。題字は萩原先生から書いて頂いた。愛情の感じられない「わたし」電報ではなく、「あなた」へ心をこ めて呑風便をお届けします。

  「いい汗、うま酒、よき仲間」を心して、共に汗を流し、酒に呑まれず、うま酒を酌み交したいものです。


 ●第2号/平成元年5月15日

  おっちょこちょい

 この呑風便を発行したおかげで素晴らしい出会いを得ることができました。南極の「あ・な・た」電報のことを書いた創刊号をある方に送った。秋田大学名誉教授の椎川誠先生に。四月中旬、中国の留学生二人と共に椎川家に招かれ、温かい歓迎を受けた。そのお礼もかねてこの呑風便を送った訳である。その後、椎川夫人から電話を頂いた。南極のあなた電報を面白く拝見、主人の学生時代からの友人でカナダに住んでる菊池徹さんが来られるという。「菊池徹さん?」菊池さんは第一次南極越冬隊員であの「タロウ、ジロウは生きていた」、映画「南極」の主人公で高倉健のモデルであった。

 「4月24日にうちへ来るので、南極のことでお話が合いそうだし、遊びにいらっしゃいませんか」といわれる。それは素晴らしい。ただ、自分一人ではもったいないので、「白瀬中尉をよみがえらせる会」の渡部部長を連れていってもいいでしょうかと聞くと、「どうぞ、どうぞ」。有難い。胸踊るの気分であった。
 秋田市内のホテルのロビイ。4月24日の午後二時。ホテルの駐車場が満車で、近くの駐車場をやっと探し、時間ギリギリに駆けつけた。ロビイへ。菊池徹氏が椎川先生のお嬢さんと一緒に待っておられた。高倉健というより、がっしりした植村直巳さんの感じ。六十歳をとうに過ぎているとは思われない。ジャンパー姿に皮のアタッシュケースを持ってこっちにこられた。若々しい。名刺の交換をする。菊池さんは「横文字の名刺で申し訳ありません」と深々と頭を下げられる。こっちは、たった一枚しか名刺が残ってなかった。それも女性の住所氏名が書かれているやつ。当方、「こんな名刺しか残ってなくてすみませんが」と恐縮して渡す。菊池さん、女性の名前を書いた名刺をもらったのは初めてと、大声で笑われる。感じの良い笑い声で小生のおっちょこちょいが救われた思いである。

 人間の行動のタイプには、物事を順序だてて、きちんとしてから実行に移すタイプと、まずは実行に移して、徐々に物事を作り上げていくタイプがあるようだ。危険にさらされる南極越冬隊員は前者にタイプで、後者はどちらかというとおっちょこちょいの型であろうか。

 菊池さんと車で金浦へ向かい、白瀬中尉の墓参りへ。白瀬中尉の院号は南極院、菊池さんはすでに院号を持っておられた。「極光(オーロラ)院」であった。菊池さんは「オーロラ会」の会長。秋田市に戻り、オーロラ会員の河口良明氏宅でいい時、いい酒、小生もオーロラ会員となって、いい仲間であった。そこで菊池会長から最近の著書「離脱の容認」を頂いた。その中に「おっちょこちょい」という項がある。菊池会長は母親から「お前はおっちょこちょいだから」とよくたしなめられた。さらに、第一次南極越冬隊員のほとんどが「おっちょこちょい」だったという。嬉しくなった。

 この日の夜は、椎川先生宅の予定だったが、残念ながら病気で入院されてしまわれた。素晴らしい出会いをつくってくださった先生のご回復を心からお祈りしたい。


●第3号/平成元年6月15日

  美夏の秋田初拝見     共同通信秋田支局 船越美夏

 列車をおりると、薄いブラウスをとおして空気が肌にしみた。春はまだ始まったばかりのようだった。初めての秋田である。そして社会人の第一歩を踏みだす町であった。

 「エスカレーターは自動です」。なんだか不思議な表示のついたエスカレーターを使って駅をでた。私は深呼吸をした。
やっとここまで来た。
 私は九州の福岡で生まれ育った。かつて炭坑町として繁栄した故郷は、今は重く灰色に沈んでいる。草の生えたボタ山は風景のひとつにとけ込み、人々は半ばあきらめの表情で毎日を過ごす。それでも子供達はしたたかにしぶとく生きる術を知っていた。
 私は故郷をふり払うようにして東京に出た。大学時代を過ごした東京では、たくさんの物と人にすれ違った。行きすぎるものに目を奪われるばかりで、東京に星空があるかどうかさえ知らない生活だった。だから、就職が決まり、赴任地の希望を聞かれた時、私は「北」と言った。私がわすれてならないものがそこにあるような気がしたからだ。希望は簡単に受け入れられ、私は秋田の配属になった。四月の半ばだった。
 川反の近くに居を落ちつけ、社会人一年生としての悪戦苦闘の日々が始まった。間もなく桜が満開になった。
秋田の春は静かだった。全ての生命が一度に動き始める九州の派手さはないが、毎日ひとつひとつ確実に変化していく楽しみがある。 角館の桜を見に行った時、ひなびた食堂の扉を開けると、文字通り透きとおるような肌と印象的な目の女の子が出てきた。エプロンをかけた彼女は、すみません、まだ準備中なんです、とちょこんと頭を下げた。その姿が、初めての秋田の春と共に忘れられない。
 私の新しい住み家から、川反のネオンとちょうちんの明かりが見える。がらんとした部屋でそれを眺めながら眠りに着く。
 明日という日が想像できないとは何と楽しいことだろうか。秋田での私の生活は始まったばかり。

 秋田に来たばってんの美夏ちゃん。4月のふるさと塾に出席してくれた。
 第一回ふるさと創り実践セミナーの講師「野呂金悦」さんは大学落研で活躍していた御仁。講演後の懇談会で彼と美夏さんとの落ち話がはずんでいる。秋田にこんな面白い人達がいるなんて、と感動?したらしい。 二次会まで来てもらった。そこで、落語の芸名は彼女、自分で考えてますという。手帳に書いた。「野留梅」。

 そうか、彼女は福岡県出身。大宰府天満宮の梅干しを食べて大きく育った。ばってんの国の炭坑町から東京に学び、そして北国へと望んだ秋田にやってきた。そこで、芸名を「ん打場っ亭野留梅」に。
 そしてこれから、呑風便に秋田の印象記を書いてくれるように頼んだ。しばらくしてナイーブで新鮮な秋田印象記が届いた。
 ところが字数が余り、やっとここまで書き届いた訳です。
 呑。


●第4号/平成元年7月15日

  南極・縁(えにし)・楠公

 南極と楠木正成公が縁(えにし)を結ぶことになりそう。

 金浦の「白瀬中尉をよみがえらせる会」の努力が実り、来春には「白瀬南極探検隊記念館」が金浦にオープンする。
 記念館建設委員会参与の国立極地研究所名誉教授の楠宏先生。南極観測越冬隊長も務められた先生は楠木正成公の子孫であられる。六月六日の建設委員会の会合に楠先生が東京から来られると、「よみがえらせる会」の渡部幸徳代表から聞いた。
 お昼前の飛行機で秋田に着かれる。それじゃあ是非にと、楠先生が我が郷里の大内町に寄ってもらうことを彼に頼んだ。大内町役場の裏手に楠木正成公四代目、正家公のお墓がある。楠先生が金浦での会合の前に大内町に寄って頂き、「御先祖」のお墓参りをと考えた訳である。

 不敬な話だが、生前の昭和天皇の御料を大内町に誘致する運動を起したことがあった。5年程前である。日本ふるさと塾主宰の萩原茂裕次先生を秋田から車で本荘まで案内していた。「大内という字は内裏、宮城、皇居の意味があるんですよ」と萩原先生に話した。「それはいい、だったら陛下の御陵を大内町に誘致したらいいんじゃないですか。宮内庁各地から内密に誘致の働きかけがあるようですよ。」
 びっくりして、恐れ入ったが、これは調査してみるのも面白かろうと「明日の大内を創る会」の面々に話をした。調べてみると、役場の裏に後醍醐天皇の忠臣楠木正成公四代目正家公のお墓がある。そして代内地区には聖徳太子の木像を祭った「太子堂」がある。大内町は名前だけではなく、歴史的にも天皇家と関わりがある旧跡を持っているのではないか。

 御陵の調査では明治天皇のは京都にあり、大正天皇の御陵は東京の多摩御陵にあった。
 天皇家の御陵を関東以北、一山百文の地に置くことは日本の均衡のとれた発展のために大きく貢献するだろうと。明日の大内を創る会として運動を興すことにした。

   「大内へ御陵を」
 ――太子様と楠公がお護します――と題して御陵誘致の趣意書をつくった。あちこちに配ってみた。

 友人の新聞記者からの調査ではすでに御陵の候補地は内定ずみとのこと。台地の広がる町、神奈川県愛甲郡愛川町だという。埼玉県行田市の教育長からは埼玉県の森林公園に決まっていると聞いた。

 結果はご承知のとおり。昭和天皇は東京・八王子の多摩御陵へ。平成の時代となった。

 6月6日。秋田空港に楠宏先生、村山雅美元南極越冬隊長、秋田魁新報社の渡部誠一郎氏を出迎え、大内町役場に案内する。楠公の御子孫は役場裏の小高い墓地に上った。御先祖の墓かどうか定かではないが、お参りされた楠先生から後日、「古いお墓がよく残っているものと感銘を深くしました」とお手紙を頂いた。南極の楠先生と大内町の楠木正家公からのロマン広げていきたい。

 今月のふるさと塾は、「南極・ロマン・金浦」と題して、渡部代表の話。そして、南極の氷で乾杯。ここで、大いにロマンを語り、人の縁(えにし)を広げてもらえたら、それで、良し。


●第5号/平成元年8月15日

   温かい風

 幼い頃、オーロラを見た。大内町の山の中。昭和26、7年頃だったろうか。夜中。大人達がオーロラだと言って走っていく。ついて行った。近くの丘に集まり、北の夜空を見上げた。確かに、うす赤い帯のようなものが流れていったは消えたのを覚えている。

 オーロラとは日本語で極光。極地の光が秋田まで下がってくるとは信じられないが、少年時代にみたあの光はオーロラに違いない。

 縁(えにし)とは面白い。その縁が広がり、様々に展開できるからなおさらである。「白瀬中尉をよみがえらせる会」の渡部幸徳代表と知り合って3年足らず、会に入会させてもらって2年。おかげでこの呑風便の巻頭言もほぼ毎回、南極にかかわる話である。

 この4月の末、戒名をすでに極光(オーロラ)院と決めている菊池徹氏を金浦に案内した。菊池さんは第一次南極越冬隊員で、あのタロウ、ジロウ物語の主人公であった。
 現在カナダに住まわれ、ロマンに溢れた実に温かい方である。来年4月の記念館の落成式にはカナダから出席されるであろう。

 白瀬中尉の南極探検後援会長が早稲田大学の創立者大隈重信公だったの縁として、この8月3日に早稲田大学総長の西原春夫先生を金浦に案内した。というより、私は助手席に乗り、総長自身が運転されて、金浦まで連れていってもらった。役場の人も運転席に総長が乗っていたので、驚いたことだろう。総長は記念館見学と白瀬中尉のお墓参りをされて帰られた。西原先生も気さくで温かい人。

 菊池徹氏に西原春夫先生、これからも金浦に温かい風を送ってくれるであろう。私どもはその風を受けとめ、温かくふくらました風を創って広げていけば良い。

 西原先生の著書「道しるべ」の中に「三匹目から蝶を採ってはいけない」という随想があった。先生が大学に残られるきっかけは、この三匹の蝶は採らずの心掛けによるものだった。
 西原総長が大学院生の頃、盆栽好きな恩師の後をついて、軽井沢の林に入っていった。恩師が盆栽用にと一本の落葉松を引き抜かれたが、捨てられてしまった。気になった西原青年は、恩師に覚えられぬように、素早く足で土を掘り、捨てられた松の若木の根を埋め、何喰わぬ顔をして恩師の後に従った。このことを気づいていた恩師斉藤金作先生は西原青年を学校に残す決心を固めたとある。その理由として、こう語られている。

「教育とは若者のかくれた能力を引き出し、その全人格を正正発展させる仕事です。正正発展の根源は生命なんです。人の生命、万物の生命を大事にできる人でなくては学生を愛することはできないし、教育などできるはずがない。西原はそれのできる男、それを彼のあの行動からはっきり感じとって、私は彼を学校に残す決心をしたのです」

 若木を埋めた行動が西原先生の人生を決定した。それは、先生が昆虫好きだった少年時代から、標本用に二匹をとり、三匹目の蝶は採っても離してやるという教えを守ってきた故であろう。

 西原先生が残された温かい風を皆さんにも広げたい。


●第六号/平成元年9月15日

   同級生

 毎年田舎で、お盆の14日、四時頃から中学の同級会をやっている。
 会場は同級生の美佐子がやってる高橋食堂。お盆で東京などから帰ってくる同級生等が集まって毎年やっていたが、連絡が面倒なので、毎年盆の十四日に美佐子のところでやることに決めた。
 もう10年ちかくなろうか。下級生達は同級会を本荘まで行って時間と金をかけてやってるようだが、ま、それはそれ。こっちは今年も八人ほど集まった。京都で床屋さんをしている京子。本荘でトラックの運転もしている輝子、東京で内装工事の社長してる信義、青梅市の何やってるか忘れたが、頑張ってる鉄治、秋田市に住む文部技官の正治、地元の幹事長で塗装工事業の正美。もう孫ができた美佐子やら。昭和20年4月から21年3月までに生まれた同級生。
 終戦後の歴史とともに生きてきた世代。今、戦後44年。ひもじさも体験して、私等もう44歳になり、なろうとしている。

 10年程前、毎日新聞秋田支局に三木賢治という元気のいい有能な記者がいた。学校の後輩でもあったし、意気に感じ、お互いの肩張ってよく飲んだ。彼、集団就職した中学生のその後を取材し、連載物を書きたいという。阿仁町から行った生徒を追っかけたというから、大内にしろよといった。「俺の同級生を取材したら、終戦っ子でもあるし、生きた戦後史になるぞ」
 かくして、52年11月から半年間にわたって、―山の中学から―「終戦っ子、八十七人の軌跡」として毎日新聞秋田版に連載された。初日の記事を見て、「なんだこりゃあ」と三木の自宅へ電話した。「何だこの暗い書出しは、頭の中に原稿を最初から書いていて、集団就職した生徒達を単に可哀想だという目でみてるんじゃないか。こんな書き方だと明日から毎日新聞をやめるぞ」

 三木記者は「わかりました。人物登場では暗いイメージの書き方はやめます」といってくれたが、この連載は後に、毎日新聞社から「都会に空はにごってた」とのタイトルで出版された。

 活字での人物描写ほど難しいものはない。自分の事を書かれた記事を見て、八割りが不満を洩らしているとの統計がある。「都会の空は・・・・」に登場した同級生も自分の記事をみて二割も満足したろうか。しかし、同世代の人間からあの本を読んで、涙が出てきた、共感を覚えると言う者が多かった。同時体験があり、同級生の強い生き方に心打たれたからでもあろう。

 私は日本の経済発展を成し、底辺で支えてきたのは、東北の二、三男坊と出稼ぎ農民、そして彼等に安らぎの場を与えた、飲み屋のねえさん達だと思っている。
 集団就職していった同級生のほとんどが、劣悪な労働条件の下、差別されてきた底辺労働者だったなどと同情はしないし、されたいとも思ってもいまい。同級会では名前は呼び捨てで、「おめも昔と全然変わらねなあ」で、毎年仲良き酒をやっている。同級会には繁栄のなかで失われそうになった何か大切なものが残っているのだ。

 美佐子の食堂で四、五時間飲んで、皆帰ろうと外へ出た。俺も帰ろうと歩き出したら、左足がコンクリート堰に突っ込んだ。体ごと中に倒れて左肘をしこたま打った。
 美佐子がびっくりして助け起してくれ、「大丈夫だか、みっちゃんももう年なんだから」何とかといわれたような気がする。
 そう、彼女も日本の経済成長を支えてきた一人であった。


●第7号/平成元年10月15日

   秋桜

♪薄紅の秋桜が秋の日の
 何気ない日溜まりに揺れている
 この頃涙もろくなった母が

 さだまさし作曲、山口百恵が歌う「秋桜」は結婚式でよく聞く。祝宴がクライマックスとなり、新郎新婦からお互いの両親への花束贈呈。この時のBGMが「秋桜」で、参会者の涙を誘う。

♪明日嫁ぐわたしに苦労はしても
 笑い話に時が変えるよ
 心配いらないと 笑った

 曲もさることながら、さだまさしの詩のうまさには感心させられる。彼の歌を聞くと、頭の中に絵が描かれる。その情景が思い浮かぶ。安保の時代の青春を思い浮かべて歌う「昔物語」の詩もいい。

♪あの頃みたいに三人で
 十年の時間を持ち寄って
 泣きながら歌えたらいいね
 思い出のあの歌を

 秋桜の話だった。

 自宅の前がコンクリートの広い駐車場になっていて、その前の道路端は今、コスモス畑になっている。
 紅、白、ピンク色のコスモスが配色よく並び、五〇メートル程続いている。黄色の花弁から広がった八枚の白い花びらの中に、薄紅色の絞りが入った秋桜もある。園芸店で求めたエリザベスという品種はまさに真紅の花。
 絞りの入ったコスモスは4年前の秋、福島駅前の花壇に咲いていたコスモスの種を失敬し、背広のポケットに忍ばせて持ってきて育てた。佐賀や熊本から送られてきた、九州育ちのコスモスも咲いている。

 満開の様々な秋桜達は今、道行く人々を心なごませて幸福そうに揺れている。孫の手を引くおじいちゃんが「きれいだねえ」と声をかけて通りすぎる。
 朝、散歩する人達の中にはカメラ持参の人がいる。ベランダから眺めていると、コスモスの枝を手にとって曲げている。ファインダーに写るコスモスが絵になるよう、花々をアレンジしているのだ。車椅子の人もやって来た。花はちょうどその人の目の高さにある。しばし、道端のコスモスに身を踊らせて眺め、ゆっくりと車椅子を押し、去っていかれた。

 毎年、秋桜の季節になると宮崎県の生駒高原のコスモス園がテレビに登場する。新婚さんが園の中を歩いていくのがまた絵になる。 福島県飯塚市を流れる遠賀川の中州にコスモス道がある。地元婦人会によって整備されてたもので、幅十米のコスモス群が二列に約一キロも続いて咲き競っている。そのコスモス道には家族づれがよく似合う。どちらも見事である。
 10月初めの休日。前日の雨もすっかり晴れて、青空が広がった。鳥海山の麓、由利原高原にできたコスモス園を見に車を飛ばす。高原の道路端はすすすきが生え、鳥海山の姿によく映える。高原村に着いたら、家族づれで賑やか。近くの道路脇のコスモス園をやっと見つけた。そこには誰もいなかった。女房がふと「うちのコスモスのほうがきれいよ」ともらした。
 うちの道路端のコスモスもそろそろ終わりに近づき、種を取っていると、向かいのお爺さんと犬をつれて歩くおじいさんもやってきた。
 いままで草むしりをしてくれたお二人へ、種を差し上げた。

カミさんのおふくろさんから去年送られてきたコスモスの種の袋に、こう書かれている。
「人間は裏切るけど、花は可愛がってやれば必ず答えてくれます」

 秋桜の花言葉は、まごころ。


●第8号/平成元年11月15日

   いちご

 いちご畑の葉っぱをかきわけて大きくて真っ赤ないちごを見つけた。妹とかあさんに食べさせようと、ガラス窓越しの、台所で働くおふくろに声をかけ、その大きないちごを手に掲げて見せた。小さい頃の事。

 大きくなって、中年も過ぎて、いちごのいい話を見つけた。
 この4月から始めた秋田ふるさと塾の地域づくり実践セミナーが9月で終わり、10月は「AI(エーワン)経営実践セミナー」を開いた。
AIとは秋田で一番になろうと結成された県内の若手経営者の研究会、「AIグループ」(益山武夫総裁)のことであり、キャバレーエーワン友の会とは違う。
 久しぶりに集まった「AIグループ」の面々。10月20日のセミナーの講師はメンバーで勘セラの高橋正社長と両羽自動車興業の佐藤幸雄氏。
 高橋正氏のテーマは「立ち向かいの我が経営学」彼は公害処理機などの開発もてがけ、油の含んだオイルサンドという土から、グラスノンという草の生えない土壌を開発したり、いちごの水耕栽培の制御装置を新たに開発し、いわゆる立ち向かいの経営学を実践している。
 佐藤幸雄氏からは「どっこい私の経営実践」というテーマで話して頂いた。彼は以前、手広く自動車整備工場や自動車板金塗装工場を経営していたが、倒産。しかしいままでもどっこい頑張って、最初に始めた工場で再び事業を再開できるようになった。

 佐藤さんは色々な悪条件が重なり、今まで経営していた新港自動車工業など三つの自動車整備工場を手放さなければならなくなった。手形のぱくり屋に引っ掛かり、莫大な借金を抱えてしまう。頭の中はからっぽになり何も考えられなくなった。別の世界に逃げようと、車で秋田港の外壁を走り、猛スピードで壁に向かっていった。頭の中が真っ白になった。だが、無意識にハンドルを左に切っていた。生きていた。
 彼は死にきれなかった自分を発見し、死んだ気になって頑張ろうとAIの仲間に電話したら、こんなことをいわれた。
「佐藤さん、朝のこない夜はないんだよ。今は真夜中だから、朝が来るのが、早く来るんです」

 それからしばらくして、AIグループ有志がある小料理屋に、佐藤さんを囲んで集まった。彼は仲間にいわれた。
「電話一本くれたら、あんなパクリ屋にひっかからずにすんだのに」
「俺だって、借金抱え税金も払えずに、家の天井裏に隠れたことがあったよ」
「佐藤さん、これから、信頼を取り戻すには休みをへったくれもないよ。死ぬ気になって働くしかないよ」
 その後しばらくして、彼は奥さんと二人で我が家を訪ねてきてくれた。何とか頑張っていけそうだと。その日のことはよく覚えている。
8年前の2月18日、私の誕生日の夜。佐藤夫妻が持ってきてくれたおみやげがパックに入った、いちごだった。

 今、佐藤さんの自動車整備工場の事務所に、扇谷正造さんから書いてもらった色紙が掲げられている。「君よ。朝の来ない夜はない」 彼にはまだ多くの借金が残っているが、朝の光が見え始めているという。勘セラの高橋正社長が始めるいちごの水耕栽培も秋田で成功するだろう。そしたら、そのいちごをおみやげに佐藤さん宅を訪ねて行きたいと思っている。


●第9号/平成元年12月15日

  年賀状

 師走。早いとこ年賀状を書かねばと、せわしい季節である。ーといった書き出しで四年前の12月。河北新報のあきた随想に「賀状は人なり」と題して書いたことがあった。頂いた年賀状が千枚を越えたので賀状の分析を試みたもの。

 年賀状のワーストスリーは
1、文面欄をつくって何も書かれず(バカにしなさんな)
2、会社の年賀状で間に合わせ(出せばいいってもんじゃない)
3、長ったらしい自己顕示(もうたくさん)

 それじゃあベストの年賀状はというと、相手への思いがこもった年賀状で、型でも、中身の良し悪しでもなく、相手への想いを遣る自分の言葉を書き添えた年賀状である。中村汀女さんは「年賀状は遠くはるかに呼びあうもの」とおっしゃる。自分の近況をちょっと書き、相手への思い遣やりのことばをかけた年賀状で、呼びあいたいものである。ともかく、この師走から来年にかけて、郵便局の方々、本当にご苦労様です。ーと結んだ。

 その翌年の年賀状。当時の河北新報社秋田総局長の石沢友隆さんのにこう添え書きされてあった。―今年の年賀状で佐々木さんへどう書こうかと一番悩みました―

 この賀状を頂き、偉そうな随想を書いてしまったと反省。ワースト年賀状を選ぶのはもうやめにした。「年賀状は遠くはるかに呼びあうもの」といわれた歌人の中村汀女さんの歌の中から、娘の名前をつけた。それを縁と思い、住所を調べて、年賀状を出してみた。だが呼びあうまでには至らず、汀女さんははるか遠くへ旅立たれた。

 池波正太郎の「男の作法」を呼んでいたら、年賀状の項があった。ー年賀状を出すなら出すで、やはり自分なりのものを考えにとねえ。会社で刷った年賀状のところにてめえの名前を書いて出すようなのは男じゃないんだよ。

 年賀状は全部手書きでなきゃいけないをいう人もいますよ。だけど、ぼくなんかの場合、千枚近くも出すわけですからねえ。それを全部何から何まで手書きというのは不可能です。だから、ぼくは、一生懸命この年賀状をつくりましたという誠意のしるしとして、自分で書いた絵を必ず入れるんです。印刷して年賀状をつくる以上は、それだけの誠意をこめてつくらなくてはいけないと思うから。

 11月初め、日経新聞の文化欄に「前略おもしろ賀状執筆中」と題し、中村実さん(はまぎん産業文化振興財団事務局長)が書いていた。なるほど面白い年賀状を作っておられた。干支にちなんだ、例えばイヌ年の年には全国の都道府県にイヌの頭数を載せたり、ネズミ年には各国のネズミの鳴き声を登場させている。年賀状づくりの構想はその年の三が日の間。そして一年間かけて賀状づくりをされる。いい事を知ったという役に立つ賀状だからこそ、服喪中の人も欲しがるのであろう。誠に恐れ入りました。

 さて、当方の年賀状だが、池波正太郎さんのように絵は書けないし、一年もかけて賀状づくりを考えてきた訳ではない。しばらく子供の写真入り賀状を続け、好評であったが、大きくなるにしたがって賀状用の写真を嫌がって写させなくなった。来年の年賀状はせめて全員に誠意のこもった添え書きを書こうと心している。

 師走。


●第10号/平成2年1月15日

  一年の計

 一年の計は元旦にありという。小生の場合どうも、元旦にその年の計画を立てる余裕がない。

 実家のほうでは元日より大晦日にご馳走が出る。神棚に拍手を打ち、ご先祖様に手を合わせ、お神酒を頂いてからご馳走に箸をつける。翌日元旦の朝は、福が滑りこんでくるようにと、門松にとろろをかける風習がある。朝食もとろろ飯である。前夜に飲んで食べて、胃がもたれているからとろろ飯は生活の知恵でもあろう。
 飯茶碗で三杯以上とろろご飯を食べないと、今年は健康に過ごせないといわれる。だから三杯食べる。
 11時からは公民館で恒例の新田部落一礼祭があり、六年ほど前から出席している。30人程集まり、故郷の方々と飲むのは実に楽しい。宴たけなわになってから、皆立ち上がって歌う。

 年の初めのためしとて
 終わりなき世のめでたさを
 松竹たてて門ごとに
 祝う今日こそ楽しけれ

 一礼祭で和やかに飲んだ後、「みっちゃん、うちさ来ねか」と先輩達から誘われ、ついつい二、三軒廻ってしまう。だが今年は違いました。一軒のみで家に帰ってきた。毎年、おふくろから説教くらうのが恐い訳ではなく、今年の計は少し健康のことを考えたいと思ったからである。

  十年前、ソ連のグルジア共和国の首都トビリシで、長寿博士の長寿六ヶ条を聞いたことがあった。
 1、タバコはすわない。
 2、強い酒は飲まない。(長寿者は自分で作ったブドウ酒を毎日少しづつ飲んでいる)
 3、決まった労働を続ける。
 4、精神を安定させる。(結婚による調和のとれた生活は長寿の秘訣)
 5、決まった時間に食事を取り食べすぎない。
 6、いい友達をもつこと。

この六ヶ条のなかで六番目だけは自信があるとはいってきた。だが最近廊下を歩いて、行き違う人の顔がよく見えなくなったと老化現象を感じ、カラオケの字幕がぼやけて見えなくなったとぼやくようになった。それから健康に注意するようになった。というより、健康法に関心をもつようになった。

  長生きの五ヶ条
 1、怒るな。
 2、愚痴をこぼすな。
 3、過去を顧みるな。
 4、望みを将来におけ。
 5、人のために善をなせ。

 これは大隈重信侯のいった言葉である。とてもこんな境地になれるはずがない。大隈さんは人の生きる目標は人間形成にあるといっている。この五ヶ条はその心構えと考えてもいいだろう。

 TDKの山崎貞一前会長は一年の計は前年の暮れに考えるものといわれているとのこと。なるほど元旦に考えるのでは遅い。いまだに計っていない自分は、とりあえず去年の目標を見てみた。
 1、秋田ふるさと塾の開設。
 2、地域づくり情報誌の発行。
 3、戊辰の本の発行。
 このなかで1と2は計画通り。3は「私の地域おこし日記」―戊辰まごころ・葉隠の役―として2月10日に無明舎から発売される。

 今年は健康に気をつけて、少しおとなしくといきたいもんですが。


●第11号/平成2年2月15日

  「私の地域おこし日記」派話

 戊辰まごころ・葉隠の役と副題がついたこの本の原稿は半年かけてワープロででかした。お陰で色々派生した出来事がある。
 まず、右目の視力が減退した。私は目がいいと自慢でもあった。視力は一,二、軽い遠視のメガネを持っている。まずはその眼鏡の話。

 東京・青山。山本権兵衛海軍大将の孫、山本満喜子さん宅に居候をしていた時の昔。夜更かしが続いたせいか、テレビの画面がチラチラし、眩しくて見ていられない。
 山本さんの命令で、六本木の西郷眼科に行った。西郷医師は隆盛さんの孫。満喜子さんとは同じ薩摩の血を引いてる訳で、二人は仲良しであった。彼女の紹介のためか治療が終っても他の患者さんを待たしては西郷どんの話をされる。西郷語録のなかで、君はこの言葉を覚えていたほうがいいと。「過ちを過ちと認めざればただちに一歩踏みだすべし」

 肝腎の目のほう。西郷先生曰く。「君はサイドブレーキをかけながら走っている車と同じで、遠視の眼鏡をかけないともっと悪くなるぞ」 かくして六本木のメガネ屋さんから黒ぶちメガネを買う羽目になった。貧乏青年時代、代金を払ったらその月の飯代が無くなった。

 自分は遠視だから、老眼になるのが早いと思っていたが、近視になたのだろうか。昨夏、戊辰まごころ・葉隠の役の殉難者であられた秋田ステージ常務の加藤恒雄氏の葬儀に参列した。後の方で祭壇の方を眺めていた。おかしい、花輪の字がよく見えない。涙のせいだろうか。右の目をつぶって左目でみるとなんとか字が見える。逆にして右目でみるとぼやけて見えないのだ。視力は〇,五に落ちていた。ワープロのせいだろうと思う。

 ハンデイタイプのワープロで原稿を打ち始めるのは夜の十一時頃から。気分転換にと机の上から台所のテーブルに移ったり、布団に入っては右横にスタンドを置いて打つ。これだ。右目が悪くなった原因は。右から光線を受けてワープロを打ちすぎたせいだろうか。右瞼を手で引っ張ってみても、もう視力は元には戻らない。

 本を出して、勿論、悪いことばかりではない。「私の地域おこし日記」と小生を肴に、出版記念会を開いてくれた。2月9日が秋田市、
10日は横手、14日は東京で。大友康二先生はじめ世話人の方々に随分お世話になってしまった。年賀状だけの付き合いだった方々にもお会いでき、実に充実した時を過ごせた。
 また多くの方々から、嬉しい励ましのお便りを頂いている。そのひとつ。毎日新聞社前橋支局長の里見和男先輩からのお手紙を紹介したい。自分もこのような温ったかい文章を書けるようになりたい、そんな人間にならねばとの思いと熱い感謝の心を込めて。

みっちゃん出版おめでとう。
生まれ育った地域や秋田、そして早稲田は三知夫を創ったが、いまみっちゃんは人を創り、地域を創っている。
「私の地域おこし日記」は直接、みっちゃんの声をきけない人のために書かれたメッセージだ。
情熱、正義、あふれる愛に充ちたあつい肉声、ひとつの宣言だ。
私も全身をもって受けとめ、みっちゃんの手をぎゅっと握りたいと思う。
きょう(9日)には間に合わないけれど、14日の会の足しにと気持ばかり同封します。
思いを込めて再び乾杯!


●第12号/平成2年3月15日

  自由と平等

 新生ソ連の行方がどうしても気になる。そして、アジアの社会主義国、中国。そして、カリブの赤い国、キューバはどうなるんだろう。これら三国に行ったことのある自分としては、ここで何か云っておく義務があると考える。
 それぞれの国で気になったことを思い出してみた。

 レニングラード。アパートの一階にある空手道場での事。少林寺拳法をやっている青年二人を連れていった。お互い形の交換をした後、道場の事務所でビールで乾杯をしていたことろへ、若い共産党幹部がやってきた。皆緊張した面持ち。彼があいさつして帰った後、ベトナム人から習ったという猫流空手道の師範代は口直しに飲みにいこうというレニングラードホテルのバーに案内して一緒に飲む。
 彼は周りをキョロキョロして、人の目を気にしながら飲んでいる。ロシアの空手人にとって、言いたいことも云えないまずい酒だったであろう。残念ながら、ソ連には管を巻いて飲めるような赤ちょうちんがない。

 中国・北京。ホテルの部屋に通訳兼ガイドの金さんに明日のスケジュールの打ち合わせに来てもらう。彼、ドアを少し開けたまま入ってきた。いいじゃないですかとドアを閉めると、真面目な顔をして「駄目です」と再びドアを開ける。国際旅行社の職員は外国人と二人っきりで交際することは禁じられているのだ。ホテルの廊下に話が聞こえるようにドアを開けっぱなしにする。これはソ連でも同じ事だった。

 キューバ。首都ハバナの街は美しかった。二十年前もの話。スペイン風の白亜の建物と近代的な建築物がうまく調和して、絵葉書から飛び出してきたような風景。労働者用の白いアパートの建築工事があちこちで進んでいる。革命で逃げていった大金持ちの邸宅が小学校の校舎になっていた。
 街路が綺麗なのは専門の道路掃除人がいて、午前中に街をすっかりきれいに掃き清めてしまうからである。彼等は掃除用の七つ道具を入れた小さな荷車を押して作業をしている。ある朝、彼等の後をつけていった。小さな公園の中に集まっていった。彼ら道路掃除人の点呼が始まった。20人もの年配者の中に20代の青年が一人交じっている。彼に話しかけ、仕事が終ったら、ホテルを訪ねてくれと頼んだ。
 夕方、ホテルにやってきた彼に聞いてみた。
「革命の建設のために、農村へ行って働かないのか」
「重労働だから嫌だよ。行かないとこんな仕事しかないんだ。それよりドルを持っていないか。ここはズボンも何も買えないし、メキシコへ逃げて行きたいんだ」
 それまで私はキューバの農村や工場で革命の建設に夢を託している多くの若者と会ってきた。頽廃的な彼と会って何だか悲しくなってしまった。しかし、その一方では、自由と平等を同様に押し進めていくのは至難であり、人間にとって、どっちかを選ぶとしたらやはり、自由だろうなあと感じていた。

 社会主義革命は人間としての、「個」を認めずに、自由を犠牲にして平等を推し進めてきた。結果は一部の特権階級のための平等であり、自由でしかなかった。
 最近の東側の出来事を見聞きするにつれ、20年前にキューバで感じた自由の尊さを思う。
「やっぱりなあ」と。
 中国もキューバもその例外ではありえないだろう。人間がしょうのない動物であるかぎり。


●第13号/平成2年4月15日

   

 あの良寛さんは子供たちが空に揚げる凧に「天上大風」と書いてやったと聞く。大風に乗って、天まで上がれとのことだろう。
 結婚式でのスピーチで、新郎が凧で、新婦がしっぽのたとえ話は有名。尻尾のついていない凧は大空に舞い上がれない。だから奥さんの協力が大事とのことだが、落ちがある。
「わたしは長年あなたのしっぽの役を果たしてきたのに、うちの凧はちっとも舞い上がらなかったじゃありませんか」
「そういったって、風が吹かなかったからだよ」

 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」は最初、「大風の歌」と題をつける予定だったという。
 我家の居間に「大風の歌」の書が掲げられている。尊敬する松村謙三先生から書いてもらったものである。
 大学四年の正月だった。東京・鷺宮の松村家応接間でのこと。私は大きな大学ノートの最初のページを開き、万年筆を用意していた。「先生、今年から日記を付けることにしましたので、僕を発奮させるようなことを書いてください」
「そうか、よし」
 松村先生は私の大学ノートを手にし、顔を上げられしばし眼をつむっておられた。そして、私の安物の万年筆で一気に大学ノートの見開きにこう書かれた。

 大風吹き起こって

      雲飛楊す

  佐々木君日記に記す

      同学 松村謙三

 書き終えられてから、この詩の説明をされた。
 漢の高祖が諸国を統一したあと詠んだ一節で、故郷に帰ったら、それまでたちこめていた暗雲を大風が吹き起こってきて、暗雲を蹴散らしてしまったといわれる。
「お前もそんな風にならないとだめだぞ」といわれてしまった。

 故郷に帰ってきて、二十年にならんとしている。大学ノートに書かれた松村先生の書をひきちぎって額上して掲げているが、金にまみれた世相に大風を吹き起す力はいまだ弱い。松村先生の志、「清潔な政治」の実現のためにお前は自力と勇気を貯えているのだろうかと、いつも自問自答である。

 さて、呑風。この呑風便の名前は小生の尺八の雅号からとった。大館市の藤盛健吉師匠から昭和四十六年から首振り三年の三年間、琴古流尺八の中傳まで習ったことがある。初傳まで行くと竹舟とか何とかの雅号が頂けるのだが、お金も結構かかるし、師匠も勧めなかった。だが、呑風の名は人様から付けて頂いたものである。

 秋田県を面白くする会で5年間「がんばる愛のコンサート」を催したことがあった。
 目の不自由な方々の民謡グループ「羽衣会」の発表会でもある。53年2月、秋田市の千秋会館の舞台の上で、目の不自由な方々が五体満足な聴衆の前で一生懸命に民謡を歌い上げる。私はそのコンサートでお恥ずかしくも、尺八を吹いた。「南部牛追い歌」の伴奏をした訳である。その後、羽衣会を主宰していた西岡正晃さんが私に尺八の雅号を考えてくれた。

「佐々木さんは酒もよく呑むし、人もよく呑んでいい風をおこすから、呑風だな」と。
 漢を統一した劉邦のように、故郷に大風をすぐには起せない。せめて、いい風を起してすこしつづ世の中のお役に立てればと思う。
 呑風便はやっと一歳になりました。これからです。


●第14号/平成2年5月15日

  凌香花(のうぜんかずら)

 黒松林が続く日本海沿いを秋田市から南に車を走らせている。4月25日、午前11時前。空は澄みわたっていた。しかし、私の心は曇り空。行き先は白瀬中尉の生家である金浦町・浄蓮寺。本荘市に入ると、麗峰鳥海山がくっきりと姿を現わした。白瀬京子さんが愛した出羽富士である。私はあなたの葬儀に向かっていました。

 十年前の冬でした。白瀬さんとお会いできたのは。青少年リーダー実践セミナーの講師にお迎えした時です。八郎潟ハイツの視聴覚室。ヨットで世界一周した体験から得たことをお話頂き、全県から集まった青少年達へ、大きな感動を与えてくださいました。それ以来、白瀬さんの、他人への温かい心くばりには心を打たれてきました。
 私への手紙の文面の最後にはいつも、奥様をお大切にとありましたね。余程、女房をほったらかしにしていると思われていたんでしょう。
 そうそう、4年前、貴方が「雪原をゆく」を書かれて来秋された時でした。今娘の会という今でも娘だという元気な保健婦さん3人組と一緒に飲んだことがありましたね。もっともお酒を召し上がらない白瀬さんを横目に、我々4人が飲んで騒いでいました。それを楽しそうに眺めておられました。その後会った時、一人の今娘が流産したことを聞いてたのか、その彼女のことをしきりに案じておられましたねえ。

 小生の「私の地域おこし日記」の出版記念会が先般の2月に、東京の大隈会館で開かれた時も出席して頂きました。ほんとに有難うございました。会場で、四月から「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長として帰られるとお聞きし、思わず手を打ったものでした。
 あの時すでに、病魔が貴方の体を蝕んでいたのでしょう。

 故郷に帰られた白瀬さんが本荘の病院に入院されていると聞き、4月の初め、お見舞いに駆け付けました。
 鶴舞公園の桜がもうほころびかけていました。病室に入って、「佐々木です」と呼び掛けると、「あ、ささきさん」と、ベッドに横たわりながら優しい笑顔で迎えてくれましたね。
 窓の外は子吉川が見えます。別れ際、「20日の記念館竣工式にまたお会いしましょう、がんばってください」というとこう答えられました。
「ささきさんもがんばっているから、わたしもがんばりますね」

 4月20日、待望の白瀬南極探検隊記念館竣工式の日。京子さん、あなたの姿は見当たりません。
 記念館の休憩コーナーで、秋田魁新報の渡部誠一郎さんと並んで椅子に座ってました。渡部氏は白瀬さんの不幸を、魁のコラムに「神は非情なり」と書かれています。私も同感です。渡辺さんにいいました。「今ごろ、京子さんはあの世で、『こんなに大事な時にいなくてほんとうに申し訳ありません』と詫びているのが目に浮かびますねえ」というと、渡部さんもうなづかれました。残念でたまりません。しかし、ほんとに残念だったのは、貴方ご自身なのでしょう。

 あなたの葬儀を終え、浄蓮寺の高台にある白瀬中尉のお墓に手を合わせ、鳥海山を眺めると、何だか怒っているように見えました。 「雪原へゆく」に書いておられましたね。浄蓮寺に今でも咲く夏の花「凌香花」を見ると、「南極のおじさん」の白瀬中尉を思い出すと。
 私もその花を見たことがあります。今度、のうぜんかずらの花をみたら、白瀬京子さん、貴方のことを思い出します。
 それではまた、さようなら。


●第15号/平成2年6月15日

   代り梅

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と開く。秋田市新屋日吉町の葉隠墓苑の中に二本の梅の木がある。
 昭和六十三年十月、戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑の除幕式が行なわれ、佐賀県武雄市の石井義彦市長と大坪勇郎議長が、記念植樹として武雄市の木「梅」を植えられたものである。
 3月、梅を切りに行ったら、残念ながら市長の木は枯れている。植え代えねばと考えていた。

 5月28日。佐賀県河川砂防課の大串美津子さんから手紙が届いていた。なんと、武雄市長が三十日に秋田市で開催される全国治水大会に出席されるという。
 大変だあ。市長は必ず葉隠墓苑に詣でられるだろう。ご自分が植えた梅の木を見たら‥‥‥。急いで葉隠墓苑の枯れた梅の木の代わりを植えてやらねばならない。
 その日の昼、秋田テレビの長門靖彦さんに相談。千秋公園で植木市をやっているので適当な梅木を届けてもらい、明日、秋田テレビの園芸専門家の角田さんから植えかえてもらうことにした。
 翌29日。秋田テレビに届いた梅の木は細い苗木で駄目。造園会社だったらあるだろうと、長門氏が「むつみ造園」に電話。
 あるという。助かった。
 私は、秋田テレビの角田さんの運転する軽トラックの助手席に乗った。荷台にスコップを積む。行先は秋田市の北、天王町。市街を抜け、海岸通りを走ると、はまなすの赤い花がまばゆい。三十分程たって、天王町にあるむつみ造園の本社に着いた。中の事務所に入るとお昼休みで社員はほとんどいない。社長室から誰か出てきた。ちょうど良かった。佐々木吉和社長だった。目が合った。
「おお、佐々木さん、どうした」
「話せば長いんで、ともかく梅の木のちょっと太いのが欲しいんですよ」
「あ、そう。私の車に乗ってください。植物園まで案内しますよ」
 角田さんには後からついてきてもらった。社長の車の中で顛末を話す。
 佐々木社長、大いに笑う。車で5分ほど走ったら、広い植物園に着く。梅の木の植えてある場所へ案内された。十本ほどある。
 小さな梅の実を何個か付けている社長推薦の木を、軽トラックに積んでもらった。自宅宛に請求書をというと、気やすくいわれる。
「そんなもんいりませんよ、佐々木さん。何千円もするもんじゃないから」
 ほんと、佐々木さんと名のつく人は皆いい人です。感謝感激。
 葉隠墓苑へ真っすぐ走り、佐々木社長提供の梅の木を角田さんを手伝い、無事植えかえた。

 翌30日の早朝、秋田県を面白くする会の木村裕、松木仁の両君と3人で墓苑の草むしりをし、何とか体栽を整えた。議長お手植の梅と比べたら、幹がちょっと細目なのが気になるが…。

 秋田駅に着かれた石井市長をお迎えし、葉隠墓苑へ案内。午後3時頃。
 車の中で、「会計監査の前にあわてて書類を整えるみたいなもんでして」と、今朝、草むしりをしたことは白状する。

 「いやいや、私ども佐賀もんが、草むしり隊を派遣せんばいかんのですよ」と石井市長。
 2年振りに葉隠墓苑に立たれた市長は、感概深い面持ちで慰霊碑に手を合わされた。そして、御自分の梅の木≠見ていわれる。

 「どうも、北のほうは成育が遅いんですねえ。議長のほうがふとかなあ。もっとふとか木ば持ってこさすっと良かったばい」
 「はあ、‥‥‥‥‥」

 佐賀の方々へ。どうかこのあわて芝居のことを、うめうめ(ゆめゆめ)石井市長さんにもらさんようお願いしますばい。