ふるさと呑風便  第69号〜80号(平成7年1月〜12月)

  夢  神 戸  秋田民謡  オーバーホール  息子へ  へばなんとす  国の鎮め  
  神戸再び  戦後五十年を超えて  平和への道  レンゲ  「平和への道」麺道中

    ふるさと呑風便  第69号   平成7年1月
  夢

 初夢は見ないでしまった。秋田市下新城の蛭子(えびす)神社の初詣の案内をもらい、大晦日の零時に前に出かけてみる。

 今年は暮れに色々あって時間がとれず、年賀状の添え書きを大晦日に書いていた。二千五百枚。なかなか減らない。ため息がでる。
 年賀状には新たな「秋田夢おこし」に立ち向かう所存と書いた。新たな夢おこしとはどんなんか、はっきりさせないといけない。

 秋田県の地図を開いて、道路と鉄道を残して白地図にする。
 まず花を描こう。由利海岸の七号線沿いには六月から十月にかけて月見草が咲く。道路端美観条例を制定して秋田県の国道沿いに月見草やコスモス、マリーゴールドなど様々な花を植える。鳥海山にはブナ林が生い茂っている。
 民謡日本一を多く出した大内町には日本民謡資料館がある。
 秋田市南部の百三段海岸に来るとハナナスを植えられ、皇太子妃殿下雅子さんをお呼びし、御用邸が誘致されよう。
 秋田には先人を顕彰するために国学者の平田篤胤記念館、国民的歌手の東海林太郎熱唱館がある。秋田駅前にはTDKの創設者斉藤憲三と親友だった東海林太郎の銅像が、並んで握手している友情の碑が建てられている。
 ラグビー王国秋田にはワールドカップの試合ができる専用のラグビー場が造られよう。
 男鹿市は沿岸州に最も近い。
 ウラジオストックの水産高校との教師交換などを行ない、対岸の国々と日本海を「いけす」ととらえて、日本海海洋漁業センターを作る。
 七号線を北上して能代市へ向かう。青森県境には世界遺産の白神山地。この近くに国際観光大学を作って、世界の若者を呼ぶ。環境を大事にする観光資源開発を学ぶ。白神も十和田も青森、八幡平は岩手、鳥海山は山形だと嘆かず、四方に観光資源があるとの優位性で考えることだ。
 国連の明石康さんの故郷、北秋田地区にはPKOの訓練基地もいいが、国際飢餓解放軍の訓練所も作りたい。単なる食料支援だけでなく、現地の自力更生を促す総合的な開発援助を学ばせ、世界の飢えに苦しむ現地に派遣したい。
 十和田湖、田沢湖、八郎湖は竜子伝説で結ばれている。三つの湖の透明度を蘇らせ、水質保全のための世界湖沼文化会議が開催されよう。
 蛭子神社に参拝し、零時から神殿で初詣の神事に参加。中川重春宮司から玉串奉天をさせられる。(ふるさと秋田夢おこし)と合掌。

 秋田県南、小野小町の里には世界美人研究資料館がある。
 中国人医師を招聘し、東洋医学専門大学を作り、鍼灸、漢方薬など東洋医学の専門家を育てて、世界に送りたい。
 空いている小学校の教室や幼稚園を利用し、子供たちと交わるお年寄りの施設慶寿園を作って、子供の思いやりを心を育み、お年寄りの生き甲斐の手助けをする。

 夢を海の向こうに向ける。秋田港が母港の南極観測船だったしらせ≠ェ沿海州に向けて出発しようとしている。乗り込んでいる青年男女百人。彼らの先祖がシベリアで抑留死し、その慰霊碑を建立しようと鳥海石を積んでいる。名づけて「シベリア千秋の塔」
 対岸のウラジオストックには「あきたユーラシアセンター」があって、秋田米のおにぎりが食べられる。秋の田の国の米作技術指導で、おいしい秋田米が生産されている。
 ロシアと朝鮮の国境を流れる図們江には、秋田県観光貿易事務所が置かれ、貿易観光立県あきたの先陣役を果たしている。そう、元気で温かく夢ある秋田なんです。
●第七十号/平成七年二月二十日

    神 戸

 テレビ画面に火の海。一月十七日夜。神戸市長田区が炎上し、噴煙が立ち昇っている。これはひどい。真っ赤な海の中に、小生の秘書役をしてくれた、畠山裕子さんの祖父母がおられたと後で知った。

 神戸市の東、須磨区に高倉山という標高百七十bの山があった。この花岡岩で出来た山から削り取った岩石を神戸沖に運べ、人工島を造ろうという計画があった。その島がポートアイランドである。
 昭和四十三年の初夏、私は高倉山の麓の工事現場の飯場にいた。
 大阪・枚方にある小松製作所の講習所で前田組の久保田洋介君と知り合った。ブルドーザーの運転免許を取ったので、彼の会社の飯場で働くことになったのである。
 初めての神戸はまばゆいハイカラな都市だった。三宮の繁華街、洋館が並ぶ住宅地、夜景の美しい神戸港。気候も温暖で、地震などもない住みたくなる町だった。
 高倉山の現場はまるでアフリカなどで見られる露天掘りのよう。高倉山は固い岩盤で出来ている。ブルドーザーの尻に付いている大きな爪でガリガリと山を削る。削り取った岩石をバケットですくい、巨大なダンプカーに積み、ダンプは現場の入り口にあるベルトコンベアーに運び、瀬戸内海まで延びたベルトの下に土搬船が待つ。高倉山から削られた岩石は船でポートアイランドに運ばれる。
 仕事は風が吹くと休みだった。強風が吹くと海が荒れ、土搬船が欠航になる。ベルトコンベアーが動かせない、よって高倉山のブルも動けない。風が強くて休みの日は、神戸の町をよく歩いた。瀟洒な家並みが続く中に渋い造りの本屋があり覗いてみた。中には中国語の書籍コーナーもある。主人は中国人であった。神戸の話を聞いた。
 神戸の中心地三宮の歓楽街にKGクラブというスナックがあった。外人客も多い。そこのマスターに聞いた。「神戸では『おおきに』とはいわないの」
「そんなんは大阪の言葉や」
 神戸の前田組には二ヶ月近くお世話になった。東京に帰る前、福原という所にある料理屋で、若僧のために送別会まで開いてくれた。

 明るく誇り高い国際都市神戸は居間、未曾有の困難に陥っている。前田組は岩盤の前田との評判で成長したと聞いた。社長や久保田君、ブルの運転仲間の北さん、南さんの名前は死亡者名簿にはなかった。「わいは地球の彫刻師や」といった彼らも五十歳はとうに過ぎている。怪我はしなかったろうか。前田組に電話したが違う会社だった。

 昔、私の削ったほんの少しの高倉山の岩石は、ポートアイランドの地下。それは流砂現象にあって動いただろうか。
 十年程前。その人工島でポートピアが開催され、そこへ案内してくれたのが大部邦夫氏。兵庫県庁の青年課にいて、東京での研修で仲良くなった。愛称大ちゃん。ポートアイランドへ行く前に、須磨区の高倉山跡へ案内してもらった。百七十bあった山が百四十b削られ、飯場があった場所には県立子供病院が建ち、当時の露天掘りのような現場は団地に変わっていて、高倉山は見る影もなかった。
 神戸の町は帯状になっていて、六甲の山並みの緑は残したが、裏の山を削って海を埋立、六甲アイランドまで造った。六甲という緑の屏風の陰は土色の肌とのこと。

 神戸大震災への自分がした事は新宿の飲み屋でのカンパ、職場と東京六大学秋田野球連盟でのカンパ。神戸の友人、明石の病院にいた大ちゃんへ電話した程度。
 今は、思い出深い神戸の復興を祈り、祖父母を地震で失った、ハタピーこと畠山裕子さんのいる東成瀬村へ慰問に行こうかと思う。
●第七十一号/平成七年三月二十日

  秋田民謡

 一般の風俗―秋田市に於いては奥羽都会中に於いて服装最も華美なりとの評あり、勤勉の美風に乏しく生活不規則にして時間を厳守せず、行動不敏活にして懶惰(らんだ・なまけおこたる)の悪習尚蝉脱せざるは実に本県の特色。
 飲酒癖―人民は慨して飲酒癖あり、その量も頗る多し、濁酒の密造は全国第一なり。
 進取力―青年のみならず一般に進取力に乏しき感あり、是れ従来余り生存競争激しからず、従って生活難を訴えざるに基因するあらざるなきか。
 これは「大正二年十二月調・各連隊区管内民情風俗思想界の現状」といって、秋田連隊が明治末期に全国で展開された「地方改良運動」の成果の元師副官宛に送った報告書の一節である。
 これを読んで、何だ昔も今もあんまり変わってねえなあと噴き出してしまった。笑ってはいけない。

 秋田民謡全国大会サミットに呼ばれた。秋田市大町の第一会館。二月二十七日。県内九つの民謡全国大会の主催市町村の実行委員会の方々と秋田県民謡協会の役員方、マスコミ関係者四十人が集まる。小生は全く無関係者、でもない。
 第一回の民謡サミットは六年前秋田ふるさと塾で開かれた。何故ふるさと塾でかというと、民謡協会ではなく呼び掛け人は中立で地域おこしの仕掛人がよろしいからということであった。県内で初めて全国大会を始めた本荘追分実行委員長で敬愛する加賀亮三先輩から民謡サミットを開催したいとの相談を受けたからである。
 民謡大会は地域おこしにもなると快諾し、当時県内で全国大会を開催していた市町村の関係者に連絡し、川反三丁目の当塾に集まって頂いた。当時は五ヶ所で全国大会が行なわれており、本荘追分の本荘市、船方節の男鹿市、秋田追分の五城目町、秋田おばこの大曲市、生保内節の田沢湖町であった。
 会議ではお互いの情報交換、連絡調整をして協力し合おうという主旨で集まって頂いた。全国大会開催の目的は各大会とも郷土の民謡を伝承と継承、そして地域振興のためである。
 その後、千畑町の「長者の山」、秋田市土崎の「秋田港の唄」、鹿角市の「鹿角つなより唄、おこさ節、鹿角甚句」、雄和町の「秋田長持唄」が加わって九ヶ所となった。全国大会ばやりである。郷土の民謡を誇りをもって歌いあげ、地域おこしになるのは大いに結構。
 全国大会となった秋田民謡はほとんど、明るいメロディで陽気な歌ばかりである。
 先の秋田の民謡報告では山形県民の一般風俗とは雲泥の差とあった。その山形の代表的民謡は「最上川舟唄」、岩手は「南部牛追唄」、青森は「津軽じょんがら節」であろう。これらの民謡はいわば、ブルースでありバラード、歌謡曲でいえば演歌だ。秋田民謡には明るく陽気な唄がほとんである。
 どうもその陽気な秋田民謡が生まれ要因は先述の秋田の民情風俗にあるのではないかと思ってしまう。派手好き、酒のみで怠け者の秋田県民だからこそ、全国に誇れる秋田民謡を生みだしたのだといっても過言ではあるまい。これが秋田の個性なのである。

 学生時代、宴席で秋田県出身といって歌った。あきたけんみんかーっと大声でいって、♪ドンドンパンパンドンパンパーと、どんぱん節をやっていた。当時は本当の素晴らしい詞、曲の「秋田県民歌」を知らなかったのである。
 地域おこしは歴史に学び、いい個性を発見して伸ばし、悪い所を直していけばいい。他県と比べて比較的食えた秋田県の風土から生まれた秋田民謡を大事にし、進取の精神を大いに発揮して、秋田の個性が表されている。「秋田県民歌」も歌っていきたい。春が来る。
●第七十二号/平成七年四月二十日

   オーバーホール

 トランペットが錆びついていた。もう何年も吹いていない。人に貸したら保管場所が悪かったのか、ケースを開けると、愛器には黒っぽいぶつぶつがついていた。
 友人のトランペッターで楽器商の金輝雄さんに、オーバーホールしたいと相談したら、
「オーバーホールするとなったら六万円ほどかかりますよ。油をさして、これで十分吹けますよ」
 六万円だったら、高校時代に買った値段の十倍だ。

 我が青春の楽器を大学時代にオーバーホールしたことがある。
 武蔵大学デキシーランドジャズクラブで一年間ほど吹いていた。東海大学の文化祭に呼ばれ、屋外ステージでソロを吹いていたら紙テープが飛んでくる。調子に乗って演奏してたら、白く丸い紙の塊も転がってきた。トイレットペーパーだった。
 愛器はマウスピースが抜けなくなったり、痛んできたので楽器屋に頼んでオーバーホールしてもらった。新品同様になってきた。おかげで質屋に三千円で入った。

 秋田に帰ってきて三年後、四十九年五月二十日付けの秋田魁新報紙の若者特集欄に「オーバーホールの時代」との題で掲載された。
―「現代の日本は追加の時代だという。つまり、現在の若者は遅れてきた青年であって、既存の出来上がりにせいぜいつぎたししたり、つぎはぎ程度しかできない、追加するのが関の山というわけであろうが、私はそんなに悲観したもんじゃないと考える。確かに科学にしろ、思想にしろ、多くの分野に新しい創造の余地が奪われてしまっているのは、青年にとって不幸なことである、面白くないことである。だが、世の中が高度に、多極多様化してくると、つぎたし、つぎはぎの歴史、その課程を経てきて、つい足もとや土台が腐ってガタがきているのを気が付かずにいることがある。土台がダメになっておるんでは、追加しても仕方がないんで、オーバーホールしなければならない。それもつぎたしの歴史を積み重ねるのではなく、心のアンテナの向きをかえてみたら、新たな創造の空間をみつけることができよう。この余波ささいな事の寄せ集めというし、だれもがわかっていても、やらぬささいなことが多くある」―後略。
 二十年前、二十八歳のときの、いやはや稚拙で読みにくい文章である。
 創造の余地が少なくなって、現在の青年は遅れてきた世代。だが足もとを見つめていけば新たな創造の余地が広がっている。足もとの腐った土台からオーバーホールしなければいけないといっている。

 二十年たってオーバーホールをと考えるに、土台が腐ってきたのではなく、元々軟弱な土台の上に体裁もいい物を作ってきたのではないだろうか。これでは地震が起きると液化現象で流されてしまう。
 秋田県は豊かな米、木材、鉱物資源に安住してきた。何とか食ってこれた。みんな米以外はダメになったのに豊かな気分は昔のまんま。長いものに巻かれる。事なかれ主義が蔓延している。強い精神の土台ができていないのだ。
 十年程前に仲間と中小企業問題研究所を作り「土俵際の秋田県商工業」というレポートをまとめた。このままでは秋田県の商工業は他県からの進入企業に押され、日本海で溺れ死にするほかない。立ち向かえと警鐘を鳴らしたつもりだが、その姿勢は見えてこない。
 これでは液化現象が起こって土台がぐらつき、秋田県は日本海に流されて溺れ死にするのか。

 トランペットのオーバーホールは止めた。せめて、心のオーバーホールをしたい。美しいものに感動し、残すべき、創るべきものを追っかけてみたい。
●第七十三号/平成七年五月二十日

  息子へ

 押入の奥からこんなものがでてきたと女房が持ってきて見せた。
 母校の座布団帽だった。これは息子が生まれてすぐ、大学側の帽子屋から買った。息子が母校に入ってくれたらとの願いであった。
 カミサンにいった。
「孫は入るかもしれないからそれまでとっとけ」

 息子は人並に浪人して、予備校に入って、夏頃からは予備校に行ったふりして図書館。涼しくなってからは家にこもって受験勉強一筋だった。それで本人の志望する農学部に入れたんだからよし。やればできるんだとの自信を得た事だろう。東京六大学の一つに入学したんだから親としては嬉しい。

 四月二十九日、母校の大隈会館で開かれた清水望先生謝恩会に出席した。中南米研究会の会長であられた清水先生の退任慰労会である。クラブのOB、北は秋田、南は熊本から六十人が集まった。
 前会長が退任された際、後任に推薦された清水先生に幹事長として挨拶にいったことがあった。
 現役学生も出席している。自分の息子の世代である。今の幹事長が三十五代目という。自分が五代目だったからあれから三十年もたった訳だ。二代目会長だった故牧野力先生の奥様も出席されていた。
 牧野夫人は左腕を見せて私に語ってくれた。「主人はどんなにかこの会に来たかったと思います。それで今日は主人の時計をはめて連れてきたんですよ」

 牧野先生は政経学部教授として、日本における英国の哲学者バートランド・ラッセル研究の第一人者であられた。先生からはラッセルの本を何冊か頂いた。「外国の学者の論文をいくつかまとめて自分の意見のようにいうのが多いのは嘆かわしい。心のアンテナの向きを変えて、独自の意見を持たねばいけない」と何度も聞かされた。

 私は後輩達に先輩面してよくいった。「学生時代を如何に有意義に過ごしたかは、お前呼ばわりできる友人、一升瓶下げて自宅を訪ねられる恩師、そして馴染みの飲み屋をつくったかで決まる」
 牧野先生はまさに酒瓶を持って訪ねていける恩師だった。先生が何時もおっしゃっていたことは自立ということだったろう。

 息子は大学合格した後、司馬遼太郎の「龍馬がいく」と「坂の上の雲」を呼んだ。その司馬遼太郎が産経新聞五月四日付けの「風塵抄」に自立のことを書いていた。
 「ヒトも、太古は自立が早かったろう。が、社会が進むにつれ、自立は微妙に遅れる。遅れてもいいが、しぞこねた場合、たとえばなまなましい宗教に自分自身をゆだねてしまう」
 「オトナになる―自立する―ことの厄介さは、自我の確立がともなわなければならないということである。自我とは自分自身の中心的な装置のことである」
 「知的受容の多忙さにかまけて、うかつにも自我の確立が遅れる場合がある。―中略―そういう自我の空白に、ときに自我に代わるものとして、なまなましい宗教が入ってくる場合がる。―後略。

 女房は心配して新宿だけには行かないでといったが、今度の上京では息子と新宿駅東口の紀之国屋書店で落ち合って、末広亭近くで熊本ラーメンを食った。新宿地下鉄のトイレ前の一緒に通ったが毒ガスに遭遇することはなかった。
 息子はなまなましい宗教に吸い込まれることはないだろう。親に似ればそれほど知的受容に多忙をかまけるはずはないから。
 ま、学生時代にはいい友、そしていい噺で自我を探ればいい。上京したら又寄席に連れていってやろう。
●第七十四号/平成七年六月二十日

   へばなんとす

 「ヘバナントス」。スペイン語ではない。ヘバは、秋田県内では、しぇば、せばともいう。そうすれば、という意味。ナントスは何とするという意味で、そうすれば何とするか、ということである。

 「へばなんとす」ようこそ秋田読本、という本が近く出版される。
 秋田県生活センターの「暮らしの井戸端ゼミナール」に集まった県外出身主婦達の力作である。彼女達が、秋田に嫁いで、夫の転勤で秋田に住んで、慣れない習慣や言葉に戸惑いながら、へばなんとすと考えて作った本である。

 昭和四十六年の冬、秋田県北部の農村で、育児ノイローゼになった九州出身の主婦が川に入水自殺を図った。夫は出稼ぎ中。雪の中に閉ざされ、姑の話す言葉もわからない、とうとうノイローゼになって赤ん坊と一緒に川に飛び込んだ。
 地元新聞に載ったこの記事が脳裏に焼き付いていた。何とかならなかっただろうか。九州から嫁さんを迎えたばかりの自分にとっては他人事ではなかった。

 カミサンを県外から迎えた友人が多くいる。幸い、逃げられたという報告はまだ聞いていない。
 県外から嫁さんを貰って、逃げられそうになって、それじゃあと一緒に東京へ戻った夫婦を二組知っている。東京で知り合って、東京で住んだ。長男なので、秋田に帰ってくることになる。春、いい季節。秋頃になると亭主は毎晩、飲んで遅い。最初は東京弁でいたが秋田弁を使うようになって、何だか他人みたい。冬、雪になった。最初は綺麗に感じたが、空は一日中鉛色で、東京の青い冬の空が恋しくなる。我慢できなくて、「私、東京へ帰ります」。困った亭主、「へば俺も一緒にいく」
 この話も他人事でなかった。何とかならないかと考えていた。

 平成元年に母子保健の仕事をすることになる。いい機会だと、各県別県外出身の定住母子状況調査を行った。ねらいは、「ようこそ秋田読本」を作るためである。
 対象は今後子供を産める可能性の高い四十歳未満の主婦。秋田市以外の六十八市町村から報告があった。県内に定住する三十代までの県外出身主婦の出身県別で一番多かったのは東京都、それから青森県、岩手県と続く。以外に多かったのが九州。関西、四国出身よりも断然多かった。この表を基に、せっかく秋田に来てくれた彼女達に何とか秋田の良さを理解してもらいたいと考えた。これから秋田に来る人達の為にも「ようこそ秋田読本」なる本を作って県外出身者へ配布し、入水自殺や県外の実家へ戻るのを防げたらとの思いであった。
 三百万円の予算を計上し、上司の理解は得た。課長の段階で「えべしゃ」。新しい事はしないという。保身の為だ。私は秋田県の人口減対策になると訴えたがダメ。
 昔、公私混同がひどく、権力をカサにきる上司と喧嘩して相手の机を蹴飛ばしたことがあった。そしたら、「お前は明日から県庁に来るな」という「俺はお前に使われているんじゃない、県民に使われているんだ」と答えたことがあった。それから十年程たっていた自分は、課長の机を蹴飛ばすまではいかなかったが、おかげでその後、随分とわりを食った。
 それが結果として良かったことになる。生活センターで出会った県外出身者の主婦達が、一役人が考えた「ようこそ秋田読本」よりも数段、役に立つ本を編集された。

 平成七年七月七日、十七時五十七分から、会費七千円。県外出身及び県外出身の妻を持つ発起人十七人による出版記念会が、秋田市の彌高会館で開かれる。
 へばなんとす、皆読んでけれ。
●第七十五号/平成七年七月二十日
 
   国の鎮め

 オーロラ会の中田州豪大人から職場に電話があった。この六月末。
 中田さん曰く、戦後五十年だし、佐々木さんはまだ満四十九歳だけれども、会報には何か書いてくださいといわれる。
 呑風便の読者である神戸の中田さんから、文章に格調がでてきたなどとおだてられるとどうにも断れない。せっぱつまって「国の鎮め」という原稿を書いて送った。(原稿依頼はおだてることです)

 平成四年四月二十九日。秋田市にある総社神社境内。秋田県出身の特攻隊の慰霊碑が建立され、その除幕式に参列した。北国秋田の春はまだ肌寒い。
 この慰霊碑は秋田市内の会社社長が私財二千万円を投じて建立されたものであった。
 ある女性記者に取材された。
「どうして今ごろ、特攻隊なんですか」
 戦争を全く知らない世代からの質問にあきれて、社長はいった。
「なに、金がやっと貯まったからですよ」
 慰霊祭には鹿児島の知覧平和特攻記念会館の前館長も出席されていた。神事が終わり、慰霊碑を被っていた白布が下ろされた後、トランペットを持った二人が慰霊碑の前で鎮魂の曲を吹いた。厳かな旋律だった。「国の鎮め」という曲だった。トランペットではなく、本当の軍隊ラッパだったら良かったのにと聞いていた。

 平成五年の夏。仕事場に愛知県の方から電話があった。
 ロスアンジェルスでスーパーをやっている娘夫婦から、店に訪ねて来たアメリカ人から買ったラッパと日章旗を預かってきた。日章旗には寄せ書きがあって、秋田市とも書かれている。関係者がいたら探して欲しいとのこと。
 その日章旗とラッパが送られていた。ラッパはアサガオの部分が少しつぶれていた。日章旗にはずらりと寄せ書きがあった。武運長久と大きく書かれた本人はサイパン島で戦死されていたことが判った。ロスで日本人に日章旗を売ったアメリカ人がサイパンでその日章旗を発見したのだろうか。
 私は遺族を探しだし、その日章旗が渡された。遺族は従姉妹にあたる方であった。日章旗は額にして祭壇に飾りたいと涙ながらに話された。持ち主の判らないラッパは、愛知県の方にお返ししようと連絡したが、秋田県に進呈したいという。私は遺族会館に預かってもらうことにし、遺族会館の祭壇の前に置かれたラッパを手にして、「国の鎮め」を吹いてみた。

 戦後五十年。司馬遼太郎の「国盗り物語」信長偏では、信長満四十八歳、本能寺で「是非に及ばず」といって、あの「下天の夢」を舞って灰になった。
 満四十九歳の自分にとって、戦争体験はない。戦後のひもじい体験だけは持っているだけに過ぎない。戦争は二度と起こしてはいけないなどと戦争体験者の前ではいえない。
 だが、「是非に及ばず」とはいわず、悲惨な戦争体験を聞いて受け継ぎ、戦争は絶対に招いてはいけないという信念を強くする努力は怠ってはいけないと思う。
 何時か、戦没者追悼式で県民を代表して弔辞を読み、「国の鎮め」を吹いてみたいと思っている。
(とても格調高い文章じゃない)

 秋田県出身の殉難特攻隊員は陸海軍合わせて五十五人。慰霊碑を建立されたツバサ広業の桝谷健夫社長は五十年前、長崎県大村湾の川棚基地の震洋隊で、ベニヤ製の人間魚雷の製造にあたられていた。
 桝谷さんは戦後五十年後の八月十五日、護国神社の境内に秋田戊辰の役以降の戦没者を祭る「殉国秋田県人の碑」を建立される。
 「国の鎮め」のラッパの音が又、英霊の前で響きわたる。
●第七十六号/平成七年八月二十日

   神戸再び

 今年の夏は野球をやって、観て顔が真っ黒になった。
 五百歳野球に出れるようになって、大内町OBチームに出場。
 八橋球場で金足(かなあし)農業高校と経済法科大学附属高校の準決勝を観た。七月二十一日。金足農校は秋田県大会で優勝し、十一年ぶりの甲子園。郷里大内町の友人佐々木正人氏の息子、将君が二番ライトで活躍したので、これはとてつもなく嬉しい。
 十一年前の甲子園は、栃木県の自治医大にいた義弟の家でテレビ観戦していた。義弟達は金足農業を、きんそくのうぎょう、などといっている。それが何と準決勝まで進出。対PL学園では七回までリードしたが、桑田にホームランを打たれて逆転されてしまった。
 桑田を好きになれないのはだからではない。プロには絶対行かない、早稲田で投げるといっていたのに、巨人と示し合わせて嘘をついて入団。長嶋や落合は好きだったが、巨人というプロ野球団の老舗が、金と人気を傘にした権力的なやり方をされた事が気に食わない。

 最近の高校野球を何試合か見てダイビングキャッチが多くなったのが気になる。何でもかんでも飛び込んで捕球すればいいってもんじゃない。ヘッドスライディングにしても、走り抜けたほうがセーフになる確立が高いのである。
 その点、少年野球の方が見ていると、自分の中学時代を思い浮かべながら観戦できるので楽しい。
 七月二十九日。県立球場で三試合を続けて見た。ひたむきさが違うのである。大森中学校対仁賀保中学校。山の中学対海の中学である。山の中学の大森九番、左バッターボックスに入った小さな選手、遠藤健太郎君が、レフト前に流して貴重な一点を入れた。仁賀保中学校側のスタンドにいたのだが、思わず手を打った。

 野球の話しをすると止まらない。神戸の話を書くつもりであった。
 昔、神戸に住んでいた頃、秋田市立高校が甲子園に出場したので、応援に行った。内野席に入ろうとしたら満員。入り口のおっちゃんがいう。「外野がただやから、外野へいけや」
 阪神大震災から半年が過ぎた。今時の若い者がといわれなくなったボランティア達の献身的な活動に、今も賞賛が与えられている。
 そのボランティア達へボランティアをした秋田の仲間がいる。
 今年の二月。秋田市のある飲み屋で、秋田ボランティア活動センターの菅原雄一郎氏と大潟村の相馬喜久男さんが飲んでいた。
 阪神大震災の話になって、菅原さんが二度目の神戸行きにあたって、ボランティアの若い連中が難儀している話をすると、相馬氏がいった。「俺の米をやるからボランティアの連中に秋田の米を食わしてやってくれや」
 二月二十二日。菅原さんは相馬さんから無償で提供された「秋田こまち」二百`を車に積んで、神戸へ出発した。
 神戸に着いた秋田米は、大阪ボランティア協会と奈良県のたんぽぽの家を通じて、神戸の各地区の介護ステーションで活躍するボランティアに配られた。彼らは食事も寝床も自前であった。
 幕の内弁当などに飽き飽きしていた若者達は、初めて秋田米を炊いて食べた。驚いた。「ご飯てこんなん美味しかったんや!」
 中には、おかずなしで、ごはんだけを口にほうりこんで、うまい、おいしいと食べている若者もいたという。無償の行為をひたむきに行う神戸のボランティアの彼らに、秋田米は感動を与えた。

 神戸の友人大部(だいぶ)邦夫氏は大の落合ファン、震災後に電話したら、明石の病院にいて無事だった。先日、電話したら、自宅にいてだいぶ良くなったという。
●第七十七号/平成七年九月二十日

  戦後五十年を超えて

 戦後五十年の夏が終わった。

 秋田市高清水の高台にある護国神社。その境内に「殉国秋田県人の碑」が建立された。八月十五日。私はその除幕式に参列できた。
 台座の上に立つ二bほどの御影石の殉国碑に、明治天皇と昭和天皇御製の歌が刻まれている。

かぎりなき世にこさむと国の為
 たふれし人の名をぞとどむる
          (明治天皇)
国のためいのちささげしひとびとのことをおもへばむねせまりくる
          (昭和天皇)

 碑の裏面には秋田県戦没者の数が記録されている。
 戊辰の役四百二十五人から、西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、そして満州事変、大東亜戦争の戦没者の数、ソ連抑留死亡者千二百八十一人を合わせて、三万七千七百五十二柱。
 この殉国碑を建立されたのはツバサ広業(株)社長の桝谷健夫氏。除幕式の挨拶で桝谷社長は語る。
「岩国の特攻基地から、戦後五十年を生きてのびてきたしるしを表すことが出来ました」
 一昨年、五十六年ぶりに中国から郷里の増田町に帰国した元兵士。戦後、中国で行方不明になり昭和二十八年に国から戦死の死亡宣告をされた。それが戦友の努力で発見され新聞に載った。しかしその元兵士は戦友と会っても一言も発しなかった。兄かも知れないと秋田市に住む石田小十郎さんは秋田県に相談した。厚生省はほとんど動いてくれないという。戦友が持ち帰った髪の毛と爪、血液検査の依頼をされた厚生省は放置。
 こちらでやりましょうと、その髪の毛と爪を秋田県に送ってもらった。そして秋田大学の法医学教室で検査してもらったら、O型で石田さんと兄弟の可能性がでた。中国から送られた血液で、DANA鑑定され兄弟であることが判明。そして、小十郎さんが中国に渡って兄と一緒に帰国された。平成五年六月十一日。
 国は、後から帰国旅費とわずかな自立支度金を支給しただけ。県もすばやく、帰国できるシステムを作るべきであった。
 石田東四郎(八十三歳)さんのこと。
 終戦直前、石田さんは八路軍に捕虜になったことは確認されている。厚生省には石田さんが昨年申請された、戦傷傷害年金の交付請求をこの六月に却下した。
 その理由は両方の耳が良く聞こえない現在の傷害は法律が規定する公務によるものとは認められない、との事。
 この報に接した戦友だった姫路の薮下薫さんが、石田さんを温かく精力的に取材した、秋田テレビの大友記者に手紙をよこされた。「私達が果たせなかった責任を戦争を知らない若い人々が果たして下さる空しさを感じます」と。
―日露戦争の勝利から節度をなくし、大日本主義の道をひた走り、満州事変、日中戦争は侵略以外の何物でもなかった。
―戦争の想い出は悲惨で、残酷そのものであった。偶然にも私は生き残った。死者との距離は数センチの差に過ぎない。死者の遺念は何か。戦死した戦友の遺念を掘り起こし、その魂の指す志を私達は伝えなければならない。
 私たちの苦労を知って欲しいとか、また過ぎ去った若い日の回想に更ける為でもない。現在の若い人と比較して私達の生き方を誇示したり、暗い日々を生きた我が身を愛着するためのものでもない。
 戦争の恐ろしさと、生命の尊厳を教えて置くべきだろう。それが生き残ったきた我々の使命であり、死んでいった戦友や遺族への義務である。

 戦後五十年を超えて、戦争体験者の肉声を肝に命じたい。
●第七十八号/平成七年十月二十日

   平和への道

 雨の靖国神社へ。皇居前、半蔵門・東条会館での甥の結婚式が終わり、傘を差して歩いた。十月八日。

 靖国神社。もう三十年も前だ。レスリング部の練習で、靖国神社まで走るぞということになった。
 部員一同約二十名が道場のあった早稲田の記念会堂前から出発した。三十分ほど走って到着。境内で体操して帰ってきた。それだけ。

 靖國への想いが強くなって、三十年ぶりに訪ねた靖國神社は大きくて広かった。大鳥居をくぐると大村益次郎の銅像がある。拝殿に参拝後、引き入れられるように遊就館に入った。二階では学徒出陣遺品展が開かれていた。
 慶応大学 塚本太郎命 二十一歳。
 彼は人間魚雷となってフィリピン沖で戦死。茨城の遺族は戦後、風呂屋を開業し、「太郎湯」と名付けた。入口には次のような額が掲げられていた。戦死した太郎の好きな言葉を書いている。
「自分のためには汗を流し、人のためには涙を流し、皆さんの汗は太郎湯で流す」
 靖國の遺品展を見ていた親子づれがいた。父親が小学生ぐらいの娘に語っている。
「戦争で、こんなに若い人達がなくなったんだよ。戦争は絶対いえけないんだよ」子供達へ戦争を語り教えることとが「平和への道」につながっていくのだろう。

「平和への道」コンサートを十一月下旬に秋田県内各地で開催する。
 ケーシー・ランキン。彼はロックバンド元将軍のメンバー。今年三月、毎日新聞地方部・三木賢治副部長と私の仕事場に、ギターケースを抱きかかえてやってきた。
 三木記者がいうのは、彼には東京の自由が丘に日本人の奥さんがいて、恐妻家だという。
 それは丁度いい。「日本恐妻連盟というのがあって、会員が二人だけですが、最近その一人が自動的に脱会しまして、ランキンさん入会しませんか」と訊ねた。
「それは面白い、いいですよ」と気安くいってくれる。
 彼はベトナム戦争に従軍し、ヘリコプターに乗っている時、機関銃でバラバラッと撃たれ、殺られそうになった経験があるという。
 彼にお願いした。十一月末に秋田ふるさと塾人間道場をやるので、そこで戦争体験談をいれたコンサートをやってくれませんかと。
「喜んで」と快諾してくれた。

 ケーシ・ランキンは一九四六年、ワイアットアープで有名なカンサス州ウィチターで生まれた。十七歳で海兵隊に入隊。六十五年夏には、ベトナムに派遣され一年余りの間、ヘリコプター乗務員として何度も死線をかいくぐた後、除隊となり帰国。
 一九七一年に来日。商事会社勤務を経て音楽活動を再開し、七十九年には芳野藤丸らとロックバンド「SHOGUN」を結成し、デビュー曲「男達のメロディー」は大ヒットし、五十万枚を超える。
 昨年アメリカで発売されたCD「ザ リアリティ オブ ドリーム」の中の「ハズ エヴリワン ゴーン ブラインド」は国連の国際紛争平和財団の九十五年度テーマ曲に選ばれている。

 十一月二十四日。大館市の名刹「一心院」を皮切りに、彼の「平和への道」コンサートを始めます。
 ランキン氏はコンサートに先立ちメッセージを寄せている。
「あの怖かった体験を思い起すたびに、二度と戦争は繰り返してはならない、と思います。僕はベトナムでは加害者の立場にいたわけですが、今、すべてをさらけ出して、平和の大切さはもちろん、何が正義で、何が不正義であるのかを考えるきっかけを皆さんにプレゼントすることができたら嬉しいと思います」
●第七十九号/平成七年十一月二十日

  レンゲ

 レンゲの芽が出た。小さな双葉の間から、もう本芽もでている。
 自宅ベランダの下の空地に蒔いた。来春、近所の子供達へのささやかな贈り物になるだろう。

 昭和四十五年の春。東京にはまだレンゲ畑があった。
 当時、東京電力のアルバイトをしていた。国会議員の秘書を辞め、牛乳配達をしながら、公務員試験の受験勉強をしていた頃。
 休日は後輩の運転する車に乗り、東京の多摩地区を一日かけて走る。高圧線の下で凧上げなどをしていないか監視する仕事だった。
 春先の田圃には赤桃色のレンゲの花が咲き広がっている。昼には車を止めてレンゲ畑に寝っころがった。いい匂いが漂ってくる。
 その頃、運輸大臣になった荒船清十郎が選挙区内の熊谷駅に急行をとめることにして問題になった。「一つくらいいいだろうよ」と失言し、大臣を追われた。親分の川島正次郎がそれを称していった。
「やはり野におけレンゲ草」

 最近、大がかりにレンゲ草の種を蒔いた人がいる。八郎潟干拓によってうまれた大潟村の矢久保英吾さんである。
 十和田湖、八郎潟、田沢湖の伝説「三湖物語」によると、十和田湖を南祖坊に追われ、男鹿半島に八郎潟をつくり主となった八郎太郎は、毎年秋の彼岸ごろ田沢湖の恋人辰子を訪ね、冬を過ごす。故に主のいない八郎潟は凍り、二人の龍神が住む田沢湖は冬の間でも凍らない湖として知られている。
 八郎太郎の八郎潟は干拓され、湖底が大潟村として誕生し、三十年がたつ。今、残存湖として残った八郎潟は汚れ、とても八郎太郎が住める湖ではなく、田沢湖の辰子のところにいいずくめだろう。
 美しい八郎湖を次代に残す会の矢久保英吾さんは、八郎太郎を田沢湖から呼び戻そうと考えた訳ではないだろうが、環境で最も大切な水の環境教育を進め、大潟村から環境宣言をしようとされている。
 その矢久保さんがこの九月中旬、自分の田圃約二fにレンゲの種二十`を蒔いた。

 秋田に帰って野ではなく、官の身になった訳だが、東京の野にあったレンゲ畑が忘れられなかった。
 天理市の大和農園というところへレンゲの種を注文し、自宅近くの空き地に蒔いたが育たない。
 去年の秋、大潟村の矢久保宅を訪ね、レンゲ草の話をした。
「大潟村にレンゲを植えて、寒風山から見たレンゲ畑に花文字を書いて、子供達を招待して思いっきり遊ばせたいもんです」
「それはいいですねえ。でも私の田圃は北にあって、寒風山から眺めても一畳ぐらいしか見えません」
 矢久保さんの田圃は十五f。田圃を回るだけで、山手線を一周するだけの時間がかかる。

 九月十五日。雄物川町から手に入れたレンゲの種六`を持って、大潟村の矢久保宅を訪ねた。田圃までは三十分もかかる。蒔くつもりで、馬力のあるレスリング部の後輩を同行させたのだが、機械でまくという。やはり、寒風山は遥か遠くに見える。レンゲ草が咲いた後、田植えだと遅くなってしまえんじゃないですかと尋ねた。
「その後に、大豆を植えるんです。その大豆で日本一美味しい豆腐を造りたいんですよ」

 矢久保さんとレンゲの会をつくる事にした。春にレンゲの咲く頃幼稚園児を招待し、種を会員達で採り、その後に大豆を蒔いて、秋に収穫。その大豆で造った豆腐で寒くなったころ湯豆腐にして杯を傾ける。会員には保育所の保母さんもいて、日本一の豆腐が食べられるといったら、友人達は皆入る入るという。トウフーだから会費一〇二円にするか。
●第八十号/平成七年十二月二十日

  「平和への道」麺道中

 日本恐妻連盟自由ヶ丘支部長ケーシー・ランキン氏。音楽家の彼を十日間、県内を案内。蕎麦好きのケーシーと麺道中でもあった。
 「平和への道」コンサートとして県内十二ヶ所で行われた。ベトナム戦争の従軍体験を持つケーシーのいう「道」とは、平和への「自分」という意味でもあった。

 十一月二十四日(金)秋田空港。十一時三十分。秋田市山王の「大江戸」へ向かう。車中で彼曰く。
「羽田に女房が送ってくれて、別れるときに車の窓を開けていうんだ。『ケーシー、太って帰って来るんじゃないよ』って」
「でもヒロコのいうことを聞いていれば恐くないんですよ」
 前日、秋田工程表をFAXで送った。奥さんの宏子さんがそれを見ている。ラーメン屋の予定がライブの会場より早く決まっていた。
 「大江戸」は醤油味で独特のカラミで有名。私は特大を二つ注文。当方が食べ終えた時、ケーシーのはまだ半分残っている。最後は義理食いだったとケーシー。
 大館市・一心院で最初のライブ。宮原文也住職のはからいで大きな蝋燭をバックに演奏は感動的。高校生を見てケーシー、「君を同じ年に僕はベトナムにいたんだ、そこで十歳も年とってしまった」
 二十五日(土)能代市。中田満さんが能代駅前の「じゃん軒」に案内してくれた。ラーメン餃子。「サテンドーハ」にてライブ。
 「チャップマン」の広瀬幸一氏の友人とギター合奏で盛り上がる。
 二十六日(日)能代から真っ直ぐ秋田市泉の「小江戸」に向かう。ケーシーは大江戸で懲りたのか、大にしてくれと。夜、駅前銀座ライオンの壁にケーシーサイン。
 二十七日(月)三浦義明さんと秋田市八橋の「ふる川」へ。ケーシー、午後から聖霊短大の音楽教室で特別講座。手拍子の仕方を教授。
 ミネソタ州立大秋田校でコンサート。慣れない外人の前で演奏会。
 二十八日(火)、再び「小江戸」へ。前回写真を撮るのを忘れていたから。彌高会館、秋田ふるさと塾人間道場でのライブ、小生、彼のピアノでデキシーの名曲「セントジェームス病院」をトランペットで合奏。もうやらない。
 二十九日(水)三浦義明さんから本荘経由で横手へ案内してもらう。
 本荘の「清吉そば」を食べてもらうため。彼、清吉そばが一番だという。私も同感。横手市専光寺にて萱森真雄住職の尺八と合奏。
 三十日(木)老人ホーム「映月荘」にてライブ。お年寄り達の目輝く。
 湯沢市の喫茶店「プラム」にてライブ。郵便局員とセッション。湯沢雄勝夢おこし会の阿部和夫、阿部剛君達と竹園へ。餃子が旨い。
 一日(金)湯沢市「大元」へ。ケーシー曰く。大元ラーメンが最高だと。横手市の栄小学校(戦後最大の木造校舎)を見学。校長先生の粋な計らいで、木の香りがいっぱいの体育館で特別ライブ。生徒達がケーシーと一緒に歌っている光景には、何故か涙が浮ぶ。
 雄勝町商工会館にてライブ。リバーサイドにてスタッフ達と飲む。
 二日(土)雄勝町院内小学校のもちつき大会へ。生徒達の前で特別ライブ。羽後町「松谷」で蕎麦。小町の国佐藤芳嗣首相の案内。
 おはよう納豆の工場に寄り、山田幸男専務から来年五月四日にここでやってくれと頼まれる。
 中仙町の「森の館」でライブ。中学二年の田中祐毅君のギターと合奏。主催者の高橋貞子さんが挨拶で交通事故にあった祐毅君のお母さんのことを話してしまう。
 角館町・雲巌寺にて最後の他献。
 三日(日)田沢湖町田中昭一宅。車椅子の奥さんの前で、息子の祐毅君と合奏。「アイビリーブ・ユー」

 十二時十分。秋田空港。ケーシー・ランキン体重を四`増やし平和への仲間も増やして帰った。