ふるさと呑風便  第57号〜68号 平成6年1月〜12月

    青春回帰  人づくり  東京  あと一歩の物語  たんぽぽ  先駆者  七月四日  
    そして歌*球少年  正露丸   ブナと少年  目  

●第五十七号/平成六年一月二十日

  青春回帰

 神宮球場のマウンドは綺麗で柔らかくて、やさしかった。

 東京六大学OB野球の大分選抜チームと念願の神宮球場での試合。
 十二月四日、神宮の冬の曇空をからすが三羽、四羽と飛んでいく。
 憧れの懐かしい球場は美しかった。人工芝をスパイクでゆっくり踏みしめる。外野を走りながら、一塁側スタンドを見上げた。三十年前、あそこに青春があった。
 試合は明大で実際に現役で活躍した選手三人を要する大分チームに打たれ守られ、八回裏まで十二点の大差をつけられていた。
 三塁側のブルペンで投球練習。急にいわれたので、投球はほんの五、六球だった。この回も我がチーム三者凡退。私は人工芝をゆっくりとマウンドへ歩く。電光掲示板が九番投手佐々木と変わった。

 昭和三十九年春。神宮球場一塁側スタンド。早慶戦である。早稲田は慶応に勝てば六シーズンぶりの優勝が決まる。早稲田に憧れたのは早慶戦故だった。入学したての私は、世界の三大スポーツ、野球の早慶戦の興奮の中にいた。超満員の中で、応援合戦がすごい。グラウンドに新任の石井藤吉郎監督が大きな体を猫背ぎみに歩いて来る。大きな拍手が沸き上がる。
 まさに青春の入口にいた。
 母校が優勝して、一塁側スタンドの歓喜の中で「ふるさと」を泣きながら歌った。
 「青春回帰、親睦交流、体力維持」が東京六大学秋田野球連盟の主旨である。結成されたのが七年前。きっかけは早立戦のナイター試合。試合後の懇親会で、六大学をやろうとの声があがった。問題は東大チームができるかどうかだろうと、その場で秋田魁新報記者の東大出身の田口清洋君に来て貰った。
 翌年の春、佐々木満先生を会長に東京六大学秋田野球連盟が発足。中央スポーツ紙にも華々しく報道され、日本で初めての東京六大学OBによるリーグ戦が開幕したのであった。各校のキャプテン、マネージャーを理事とする理事会を結成し、私が理事長に就任。大げさである。この連盟の目的は、共に青春を謳歌した遥か遠き神宮に想いを寄せ、親睦交流を図ることである。六大学出身の多くの転勤族が加入し、秋田を愛する人間づくりに寄与した。これはいささかでも、秋田の活性化につながったと評価されている。毎年五月から九月までのリーグ戦を重ねるうちに、仲間うちから何時かは、神宮のグラウンドに立とうとの夢を抱くようになっていた。昨日の夢は今日は現実となる。

 昭和天皇の大嘗祭へ、東方の秋田が悠紀田、西の大分に主基田と決定。大分県が秋田以外に東京六大学野球をやっていると知った。トーナメントだが、十年も続けているとのこと。この縁を生かそうとした。その年は残念ながら、神宮球場が借りることができず。
 だが、何時かは絶対にやるとの執念を燃やし続けたが、立教大学の三浦義明事務局長であった。

 九回、最終回の表。マウンドに立っていた。足元は意外と柔らかい、ホームベースも近くみえる。だが、緊張したのか、練習投球ではストライクが一球も入らない。
 第一打者にはアンダースローで、ゆっくり投げた。カーブのつもり。審判の手が上がった。入った。ストライクだ。二球目、自分では精いっぱいのスピードで投げたら、バッターの後ろへ。自覚した。緩い球でいくしかない。第一打者がサードゴロ。次がライトフライ、難しい当たりをよく取ってくれた。最後のバッターがレフトフライ。何と三者凡退である。ベンチにゆっくりと引きあげると皆が、仲間が拍手で迎えてくれた。
 まさに青春回帰、であった。

●第五十八号/平成六年二月二十日

  人づくり

 エアフランスの機内には飛行地点を示すテレビがある。地図が写って飛行機が傍線で、シベリア北部上空を飛んでいると解る。昨年十月末。パリまで十二時間は長い。本を二冊持ってきた。岩波新書の「ヨーロッパの心」(犬養道子著)と中公新書「世界の歴史」―ギリシャとローマ。外が暗くなり、古代ギリシャの項を読みはじめた。
 古代民主政治の章に、アテネ・アクロポリスの項目がある。
「高さ百五十b、素晴らしい眺望をもつこの岩山の公共建築は、ペリクレス時代のアテネを偲ぶこのうえないよすがであり、パルテノンはまさに古典期のギリシャ精神の集中的表現である」
 今回の私の旅の大きな目的はアクロポリスへ登ることであった。

 十月二十五日、澄み切ったアテネの空。アクロポリスの神殿入り口に立った時、中公新書で読んだことなどすっかり忘れていた。ただ、この神殿を造ったのが大政治家ペリクレスだということは覚えていた。乾いた岩山だがオリーブ林と松の木立の間を百bほど登りつめると、右崖下に露天の劇場が見える。ディオニソス劇場である。ここで二千四百年前に様々な劇が上演され、著名な人物が揶揄嘲笑され、ペリクレスですらそれを免れなかったとある。
 さらに登りつめ、石の階段を上がると、パンティノンの白亜の神殿がまさに目の前。正面のドーリア式大理石柱は八柱ある。柱と柱の間隔はすべて均衡ではないが、見る者の錯覚を計算にいれて均衡、調和の美である。石柱の上の壁は風化が進んで今にも崩れ落ちてきそう。ふと、下を見ると石畳の間に小さな黄色い花が咲いている。
 たんぽぽだった。

 先日、東北開発研究センター発行の機関誌「東北開発研究」新春号を読んでいたら、東北開発セミナーの講演要旨が載っていた。
 そのなかに「街づくり・人づくり」と題して、東北芸術工科大学の久保正彰学長の講演があった。
「今日、ギリシャの都アテネがなお古典的なイメージを失っていないのは、実はペリクレスという大政治家の負うことが大なのです。華麗な神殿、劇場などの構造物を残しております。これに対して、ペリクレスに反対する一派の政治家は、もっと生活を実質的に豊かにしたり、軍備のために税金を使うべきではないかと批判を寄せたようです。これに対し、ペリクレスは、我々の都アテナイはギリシャ人の人づくりの場所である。人づくりこそ街づくりの理想であり、政治家の役割は人づくり以外何もない。そう答えていたと歴史家は伝えています」
 ギリシャ人が考えていた人づくりの「人」とは、どんな人間にということだとうか。それは、日本風にいえば、「文武両道においてすぐれたる者、それが立派な人間である」と久保学長はいっておられる。

 地域づくりは人づくりと、お題目のようにいわれてきた。
 それではどんな人間なのか。地域を愛するやるき人間、思いやりの深い人間、言行一致の人間などだろうか。
 大隈重信侯は、人生の目標は人間形成にあるといっている。
人間が成長すれば、地域も成長する。だから、地域づくりは人づくりだという所以であろう。

 未だ、まだまだの私を人間形成のためとギリシャまで導いてくれた、思いやり深い香曽我部宏先生に感謝している。
 パンティノンの神殿前に生きていた、たんぽぽの花と種は私の手帳の中にいる。雪が消えたら、ギリシャの種を日本に蒔いてやろう。

  花づくりも人づくり。

●第五十九号/平成六年三月二十日

   東京

 ♪ とうきょうへはもう何度もいきましたね〜

 秋田市山王の居酒屋「二歩」のカウンターにて、この歌を聞く。昔のフォークグループ「マイペース」の歌。歌うは何時も、毎日新聞の渡部慶一記者。甲子園でタクトを振ったブラバン出身の彼は歌もうまい。♪とうきょうへ、の最後は「美し都」で終わるのは聞いてて、そうかいなと思う。

 その美し都?に七年住んだ。大田区の洗足池、池袋、東伏見、新宿区戸塚諏訪町、神宮球場側の霞岳町、杉並区下井草、渋谷区神宮前、最後に又、下井草の八ヶ所。
 学校出てから、風来坊をやってて、大阪・神戸に二ヵ月間、ブルドーザーの運ちゃんの真似ごとをした。
 四国の松山にも一ヶ月いて、ミカン摘みのアルバイトをしていた。ミカンを食べ過ぎたのか盲腸炎になってしまい、松山の病院で手術。入院中は暇を持て余してイタズラばっかりしていた。検温では体温計を毛布で擦って四十度くらいにして、看護婦さんから大きな注射器を打たれそうになったり、車椅子で廊下を走り回ったりで、病院では有名になったらしい。
 ある日病室に、入院中の女子高生が訪ねてきた。一体何だろうと聞くと、東京の方だそうですが、名前と東京の住まいを教えてくれとのことだった。東京と聞いただけで憧れを抱くのだろうか。
 おかしくなったが、渋谷区神宮前の住所を教えてやった。
 入院中は早く東京に戻りたかった。退院の翌日に東京へ向かい、宇高連絡船の中でお茶を飲んで、むせてクシャミがでて、傷口に響いて、飛び上らんほどに痛かった。

 思わぬ入院で、東南アジアへの農業開発の目標を失い、国会議事堂裏の議員会館に秘書として、一年ちょっといた。
 政界の悪臭に染まらないうちにと辞め、五ヵ月間、牛乳配達をしながら公務員の試験勉強をしていた。
 最後の住まいは杉並区上井草の下宿屋の三畳間。窓の下は畑であった。
 牛乳配達の後は後輩が見つけてくれたアルバイトが多摩地区の高圧線の下の見回り。
 車で立川や八王子方面を半日走る。春先、多摩地方の田んぼはレンゲ草でいっぱいだった。
 車を止めて甘い香りが漂うレンゲ畑に寝っころがって昼寝。そんな東京もあった。もうないだろう。

 東京へ行ったのがちょうど三十年前の今頃。十八才だった。高校でてから三十年である。
 二月末、三十の歳に生まれた十八才の息子を受験で東京へ連れていった。
 昔、後輩達に良くいっていた事。いかに有意義な学生時代を送ったかは、卒業後に酒を持って自宅に行ける恩師、お前呼ばわりできる友人多数、行きつけの飲み屋を作ったかで決まる。
 息子の受験中の間、恩師の先生を訪ねて、すっかりご馳走になり、激励して頂いた。
 試験の終わった後、息子を連れて泉岳寺・史料館のおばさんにおみやげを置き、近くの政党本部にいる先輩に「とんぶり」を渡し、新宿・末広亭で落語を聞き、学生時代からの行きつけの焼き鳥屋で、同学の先輩と一杯やる。そして、息子と上野駅から寝台車で帰ってきた。

 学生時代、東京育ちの友人は大事なものはすべて東京にあると信じて疑わなかった。
 刺激的な歓楽街の雑踏等、ピンからキリまで何でもある。新宿の寄席も確かに東京にしかない。
 これが地方との文化面の格差なのだろう。経済格差より文化格差だ。
 だが、こっちには美しい海、山、清い流れの自然がまだ残っている。歴史と自然を生かした新たな文化を創出し、誇り得る郷土を創ること。そう、東京へは何度も行かなくてもよい。

●第六十号/平成六年四月二十日

   あと一歩の物語

 男鹿市文化会館。三月五日午後二時。館内は超満員であった。NHKのど自慢の予選が始まっている。
 ひとみさんは、観覧席の右横で出番を待っていた。彼女の番号は二百十一番。予選出場者は二百二十人で、その中から翌日の本番には二十人しか選ばれない。舞台の上では出場者が二十人づつ呼ばれ、椅子に座って待っている。一人平均、四十秒から五十秒が持ち時間。素人歌手達が歌っているとピーッとブザーが鳴って、次の番。「アリガトウゴザイマス」と録音された女性の声。客席にはそれぞれ応援団が陣取り、拍手と声援があがる。
 ひとみさんの番までは二時間以上もあった。

 大館市駅前の市営アパート一階の飲食街。いい店があると、先輩が連れていってくれたのが二年前の春。「ひとみ」というスナックのドアを開けると若いママが、広いカウンターの中で車椅子に乗ってキビキビと動いていた。
 カウンターには十人ほどが座れる。ママの瞳も綺麗で、名前が田村ひとみといった。「どうしたの」と気軽に聞けるほど、彼女は元気で明るい。車椅子になったのは五年前、スキーの怪我がもとで、不自由になったらしい。ひとみさんは、元バスガイドで歌もうまい。
 そうだ、歌に挑戦だ。NHKのど自慢に出場してもらおうと考えた。
 この話を「白瀬中尉をよみがえらせる会」の渡部幸徳会長に話した。感動体験を共有してきた彼もすぐに乗り、「ひとみ」へ何度も足を運ぶ。そして、白瀬京子さんという女性で初めて、ヨットで世界一周を果たした白瀬南極探検記念館の初代館長を偲ぶ歌「夢のアドレス」を歌ってもらうことになった。

 男鹿市文化会館には金浦町の「白瀬中尉をよみがえらせる会」の面々も駆けつけてきた。
 そして、彼女の番号が呼ばれた。渡部会長が車椅子を押して、舞台の袖に案内。他の出場者は舞台の右側に座っている。ディレクターから呼ばれた。渡部会長が舞台へ車椅子を押してくいく。振り向いた彼女の緊張した笑顔は、救いを求めているようだった。客席に走って戻り、一番前の席からカメラを構えた

 あなたのヨットは 今も帆に太陽の切手貼り 果てしない航海続けて 便りの始まりはいつもディアマイフレンズ アドレスは光の平(たいら)海原にて 白い波涛よ あなたが賭けた遥かな夢を僕に届けて

 うまい。カメラのファインダーを覗いているうちに、マイクを持つ彼女の姿が、曇って見えなくなった。
 なぜか目に涙がにじんでいる。彼女はうまくまとめて歌った。予選通過は間違いないと思った。
 しかし、無情。
 二十人の本番出場者に、あと一歩だったと聞いた。

 それから数日後。秋田市山王の「二歩」という居酒屋で、歌謡教室を開いている石野ひさしさんと会った。彼、意気に感じて、ひとみさんのレッスンを引き受けたいといってくれた。すぐに大館の「ひとみ」に電話。彼女、この前は期待に答えられなくてごめんなさいという、謝るのはこっちの方。車椅子の彼女にのど自慢の結果が、あと一歩だったなどとはいえない。

「好きな演歌を歌って、いつか老人ホームを慰問するのが夢なんです」と彼女はいう。
 そう、夢の中で一歩二歩と歩いていって欲しい。
 昨日の夢は、今日の努力で、明日にはほんとになるだろう。

●第六十一号/平成六年五月二十日

    たんぽぽ

 タンポポ。外来語ではなく、蒲公英と書く。
 えぞたんぽぽ。キク科の植物で日当たりのよい畑や土手などに生息する。草丈は約二十a。花の色は黄色。中部地方から北に分布。花の時期は三月から六月。
 花言葉は「神からのお告げ」

 日本には他に二十種類もあるらしい。カントウタンポポ、カンサイタンポポ、シロバナランポポ、セイヨウタンポポなど。多年草で葉は根性し、羽状に切れ込む。
 春になると黄色い三aほどの頭花を約十aの花茎につける。果実は白い冠毛をもち、風で散らばる。と、ここまでは花の辞書などからの引用。

 小さい頃、田舎で綿帽子のたんぽぽの種を吹きつけて風に飛ばした経験は誰でも持っていると思う。そのたんぽぽはニホンタンポポに違いない。今、道路脇に咲いているのはほとんどがセイヨウタンポポである。ニホンタンポポは自然の残る農村の山地にしか残っていないらしい。
 この五月連休の七日。ニホンを捜しに秋田市郊外の沢地に入ってみた。田圃の畦道に咲くたんぽぽは皆セイヨウだった。ニホンとセイヨウの区別は簡単。セイヨウタンポポは花のがくにあたる緑色の丸い部分から小さな葉のように別れ、下にむくれて垂れている。山地に入ってたんぽぽを探したがこの日はニホンを発見できなかった。
 ヨーロッパ原産のセイヨウタンポポは繁殖力が旺盛。それは道路端に秋でも咲いているように、多花受粉しないで発芽能力のある種ができることが一番の原因らしい。ニホンタンポポだと複数の株がないと発芽可能な種はできない。

 十数年前の春先、弘前市の林檎畑の中を車で走ったことがある。林檎の木の下は一面、たんぽぽの花でいっぱい。黄色い花の絨毯の暖かさで胸の奥まで広がってくる。
 その頃、大館市のシンボル、鳳凰山に刻まれている大の字の横に点を付けて、犬文字にしてやろうと考えた。犬の点の部分を掘って、そこに水仙の球根を植え、黄色の点を作ろうとした訳である。球根は金が不足で十球ほどしか買えない。スコップを担いで出かけようとした朝、空き地にタンポポがいっぱい咲いているのを見つけた。これだったらタダだと引き抜こうとしたが簡単に抜けない。スコップで掘ってみるとごぼう根で深い。それでも何とか十株ほどのタンポポの根を掘り出して山頂に登りついた。ところが、大を犬にする点の部分は薮でとても水仙を植えられる状態ではない。それではと、大の字の一番てっぺんの部分、幅が二bほどの土の中に水仙とタンポポを植えてきた。
 その後、大館市民が大文字のてっぺんが黄色く見えて不思議がったという話は、聞いた事はない。

 去年の十月末。ギリシャ・アテネのアクロポリスの丘に登った。パルテノン神殿の前を歩いていると、石畳の割れ目から小さな黄色の花を見つけた。タンポポだった。綿帽子もある。二千五百年前の古代からの花を手帳に押し花にして、綿帽子はポケットに忍ばせて日本に持ち帰った。我が家のベランダにある鉢にギリシャのタンポポの種をほんの一つか二つ差し込んだ。まだ発芽していない。芽がでて冬を越して花が咲くのは二年後だという。そしたら神社に咲くニホンタンポポと女神アテネのタンポポを交配させて新種を作りたい。そして、アキナタンポポとでも命名しよう。
 日本海沿の道路端にアキナたんぽぽ街道を造り、夏は月見草を咲かせ、優しく美しく黄色い花のガードレールとしたい。
 その「神からのお告げ」は、来年の春ということになる。

●第六十二号/平成六年六月二十日

   先駆者

 先駆者。人にさきがけて物事をなす人(広辞苑)
 ええーっと声をあげてしまった。五月二十四日の秋田魁新報のコラム「懸け橋の人」に藤間丈夫さんが、さる十六日に死去とあった。

 三月初め、勤め先に電話がかかってきた。「今、東京の病院からなんですよ。右足切断しちゃってねえ。車椅子なんですよ。今度の新潟で日本海沿岸の民間団体が集まって、図們江会議をやるから来てもらいたいんです」
「何とかして行けるようにします」
と答えたが、結局行けなかった。
 行くべきだった。
 三月末にまた電話があった。
「秋田からは一人だけ来てくれたんですが、佐々木さんの紹介だといって、東京の出版社の方が二人来てくれましてねえ。熱心な方で感心しましたよ。今度は酒田でやりますから、その時は来てくださいよ」
「今度は必ず行きますから、藤間さん、お身体をどうか大切になさってください」

 共同通信新潟支局の橋田欣典記者から藤間さんの記事を送ってもらった。五月十七日付け新潟日報のコラムを紹介したい。
「後半生を環日本海交流の実現、活発化にささげた藤間丈夫さんが十六日、亡くなった。昨年十月、欠陥肉腫による右足切断という大手術を受け、再び交流の前線に戻ろうとリハビリに執念を燃やしたが力尽きてしまった。
 冷戦構造が不動のものだった昭和四十年代にいち早く日本海運動を提唱し、長らく「風変わりな人」といわれた。しかし、昭和六十年に旧ソ連にゴルバチョフ書記長が登場し、日本海に緊張緩和の風が吹き始めてからは藤間さんへの評価が変わった。
 環日本海のためなら何でもいとわない激しい情熱を持ち、果敢に行動した。長年培った人脈は対岸諸国まで及んだ。
 この人脈は例えば、今年二月に開かれた環日本海ステージの準備段階でも生かされ、核査察問題で揺れる朝鮮民主主義人民共和国から藤間さんに出席の打診がきたほどの強い信頼感を得ていた。
 『環日本海交流発展こそが長年、裏日本といわれてきた新潟、日本海沿岸が生き残る道』。
 これが情熱を支えた思想だった。このため対岸との交流をめぐり先陣争いが起きている現状を憂い、退院直後の三月に日本海沿岸の民間団体を集めて連合体をつくった。『競争的共存こそこれからの交流のあり方』と参加者に強く呼びかけたのを思い出す。―」

 平成四年三月。秋田ふるさと塾に講師として藤間さんに来て頂いた。
 日本海圏経済研究会を発足させ、「日海研フォーラム」を開催されている藤間さんの著書を読んで是非、ふるさと塾の講師にと電話でお願いし、快諾を得た。ふるさと塾では「環日本海の連帯と結集をめざして」と題し、図們江の開発を熱っぽく語られた。日本海沿岸県の連帯を強調され、我々は大きな感銘を受けた。

 東京の病院から秋田に電話してくるほど、本当に熱心な人だった。行動力で培った藤間氏の人脈を生かす機会が、これからという時だった。さぞ無念だったであろう。
 四月初め、藤間さんの講演内容の載った「ふるさと秋田夢おこし」の本を新潟に送った。病院の中で読んで頂いただろうか。

 新潟日報には、環日本海運動の先駆け藤間氏死去、と大きな見出しで報道されている。
 日本海の雲の上で、環日本海の行方を見守っている先駆者・藤間丈夫さんへ、「秋田で果敢にやりますよ」と声を上げたい。(合掌)

●第六十三号/平成六年七月二十日

  七月四日

 秋田市川反の五丁目橋。そのたもとに「でんえん」という小料理店がある。のれんをくぐると、右側が小上がりになっていて、窓を開けるといい風が入ってくる。窓の下は、鯉が泳ぐ旭川。

 五月二十七日。秋田ふるさと塾地域づくりセミナーと人間道場が終わって、講師達との二次会が「でんえん」。いつもながら冷や奴が旨い。彼らと杯を傾けていると、主人夫婦がやってきて「困ったことになったんです」とおっしゃる。
 六月二十八日の夜。でんえんのご主人、市川史郎さんから家に電話。
「近く、店がなくなってしまうんですよ。そうなったら、仙台藩士に線香をあげられなくなるし、跡に鎮魂の碑でも建ててやりたいんです。何とかお願いします」
 市川さんの困ったことというのは、川反五丁目橋の拡張計画に伴い、店が取り壊されることになり、行く場所がなくなったこと。しかし、自分のことより仙台藩士の供養のことを心配される市川さんのまごころが嬉しかった。

 昭和六十三年の秋。私は秋田戊辰の役百二十年記念事業を計画し、事務局長として、合同慰霊祭や記念講演を開催した。秋田藩が奥羽越列藩同盟を離脱し、明治新政府側につくきっかけとなったのが、砲術所の若い藩士による仙台藩通使し暗殺だったと知る。
 慶応四年七月四日の夜。列藩同盟から秋田藩の離反を阻止すべく派遣された十二人の仙台藩士は、当時の大町三丁目の幸野屋旅館と仙北屋旅館に泊まっていた。そこへ夜襲をかけた秋田藩士によって志茂又左衛門ら六人が惨殺された。他の六人も捕らえられ、同月十六日に斬首された。暗殺された六人の首は、五丁目橋のたもとのさらされたとある。
 秋田の近代史の中で、この仙台藩通使の暗殺事件は、義に反する最大の汚点であった。

 秋田戊辰の役記念事業が一段落した頃、私はその暗殺場所を探し歩いてみた。当時の旅館はホテルになっている。さらし首になった五丁目橋のたもとには、小料理店があった。引き込まれるように入っていった。カウンターで飲んでいるうちに、マスターに知ったかぶりしてつい言ってしまった。
「昔、ここの橋のたもとにさらし首が・・・」
「知っていますよ。川反に三十五年いますから、毎日、線香をあげさせてもらってます」
 調理場を覗くと、冷蔵庫の上に香炉があった。確かに線香の匂いがする。思わず手を合わせた。知ったかぶりをして恥をかいてしまったが、嬉しくなって酒のピッチがあがった。友を呼んで飲んだ。

 秋田市寺内の西来院で催される七月四日の慰霊祭には、仙台藩志会会長で、伊達政宗侯の四男の子孫、伊達篤郎会長一行が毎年参列される。迎える秋田県宮城県人会の木内昭会長は、さらし首になった仙台通使の一人、高橋市平の子孫である。「仇討ちに秋田にやってきたが、秋田美人と一緒になってしまい、返り討ちになってしまった」と笑われる。

 六月二十八日に市川さんから電話があってすぐ、木内会長に電話した。慰霊祭の前日、七月三日の夕方、仙台藩志会の一行が秋田に到着されると聞いた。
 当日、日曜日だが、市川夫婦に店を開けてもらって、仙台藩志会一行を「でんえん」で待った。
 やがて、カウンター内の市川夫婦と伊達会長との感動的な対面があった。「長い間、仙台藩士を供養なすって頂いて有り難うございました」と仙台の殿様に感謝された市川さん。
「いえいえ、」と照れ笑いで言葉がつづかなかった。

●第六十四号/平成六年八月二十日

 そして歌

 佐賀県土木部の原田彰さんから酒脱な報告書が送られてきた。
「唱歌♪春の小川♪のルーツを訪ねて」と題して、唐津土木事務所が作成したものである。
 所長の多自然型川造(芸名?)さんが、唱歌「春の小川」の歌碑が東京渋谷の代々木公園西側にあることを知り、東京出張の部下に調査を命じて、復命させたもの。部下たちも、ハタ迷惑ではなく喜んで、独自の調査取材をしていて、なかなか読ませる。
 ♪
 春の小川は さらさら行くよ
 岸のすみれや れんげの花に
 すがたやさしく 色うつくしく
 咲いているねと ささやきながら

 その歌碑のある場所は、小田急線代々木八幡駅より新宿側へ線路沿いを歩いて十五分程のところ。
 歌碑を建立されたのは、戦後に福島から代々木に移り住んだ根本組社長の伊井勝美さん。昭和五十三年に、心の支えでもあった歌が作られた所に自分が住んでいることを幸せと思い、碑の建立を思い立ったという。今でも管理されており、歌碑付近に水が流れるようにして、水車を置くのが夢という。

 「春の小川」は、東京のド真中、原宿から代々木公園、さらに渋谷へと流れる宇田川の支流、河骨川(こうぼねがわ)といわれる。
 近くの湧水地に咲いていた、スイレン科の多年草水草で黄色い花をさかせる「こうほね」から取った川の名前。今は、暗渠化されて見る影はない。
 歌詞からして、長野県か東北の田園風景の中の小さな川を思い起すが、NHKの近くにあった。
 作詞者の高野達辰之は明治九年、長野県生まれの国文学者。大正時代の当時、幼い娘さんを連れて、河骨川を散策して作ったらしい。

 昨年十二月、戊辰の役百二十五周年記念事業として佐賀県武雄市と佐賀市で、秋田竿燈を披露した。歓迎会の席上、大友康二団長の指揮で、佐賀県のテーマソングを歌い、参会者一同で「故郷」を歌い、そして、「秋田県民歌」を歌った。会場は感動で満ち溢れたのであった。「故郷」の作詞者が高野辰之。秋田県民かは作曲が成田為三、作詞が倉田政嗣、しゅうせいがなんと高野辰之となっている。

 矢島町の佐藤健一郎氏が「秋田県民歌」を色々な会合で歌わせるように提唱し、県議会でも提案している。詞と曲は確かに素晴らしい。多少、詞が古くなったとしても、故郷「あきた」を歌い上げるにふさわしい歌である。

 「ふるさと秋田夢おこし」の出版記念会を東京と県内九ヶ所で開いていただいた。
 佐藤健一郎氏に賛同して、出版会の出席者名簿に「故郷」と「秋田県民歌」の歌詞を掲載する。残念ながら、歌詞は紙幅の都合で三番までしか載せられなかった。
 七月十四日県内最後、湯沢市での出版記念会で、「秋田県民歌」を合唱する。しかしどうも、若い世代が多いせいか知っている人が少ない。無理もない。自分自身、秋田県民歌の良さは、本荘市・由利タイヤ社長の加賀亮三氏から教わった。十年程前のことで、交響曲「大いなる秋田」からだった。
 湯沢市の出版記念会場では、マイクを持って、出席者をリードする形で三番まで大声で歌った。
 歌えなかった四番の歌詞がまたいい。県民を奮い立たせてくれるような詩である。これからも大いに歌っていきたいものである。
 ♪
 民族優れて 質実剛毅
 正義と自治との さとしを体し
 人材偏く 育みなして
 燦たる理想に 燃え起つ我等
 至純の郷土と 拓かん秋田

●第六十五号/平成六年九月二十日

  野球少年

 炎天下の秋田市営八橋球場。三塁側スタンドに近いネット裏で少年野球全県大会の決勝を観戦していた。
 三塁側は由利中学校、一塁側が比内中学校。どっちも田舎の学校なのがいい。猛暑の中〇対〇が続く。バッターボックスに立つ小さな選手、バットを短く持って打つ。ピッチャーゴロでも懸命に一塁へ走る。野球少年だった自分の上川大内中学校時代を思い出して、涙がでてくる。

 昭和三十五年夏。本荘公園内にある鶴舞球場。郡大会予選。相手は同じ村の下川大内中学校。
 私はサードで一番だった。一回に何とか塁に出て、我がチームは二点をとった。
 ピッチャーは二年生エースの佐々木勇君。当時から度胸満点の選手だった。
 最終回七回裏にレフトオーバーの三塁打を打たれて、一点とられてしまった。そして二死満塁、打者はトゥースリートなった。心臓は破裂しそう。勇投手が投げた。三塁ランナーは走る。ボールは高めにいった。
 わっダメだ。だがバッターは振った。空振り三振。
 一回戦は何とか勝つが、二回戦は本荘北中学校と当たる。北中の一塁スタンドにはブラスバンドが陣取って応援。我が方には太鼓が一つ。そしてコールド負け。
 山の中学にとって全県大会の八橋球場は遥か夢であった。

 この夏、本荘市の中学校を破って、全県大会に出場した由利中学校は、全県制覇まで果たした。まさに快挙であった。
 高校野球の観戦も八橋球場へ行った。母校本荘高校は、強豪金足農業高校と当たって、よく打ったが全くよく打たれてコールド負けになってしまった。
 甲子園出場の秋田高校はくじ運が悪く残念だったが、佐賀商業が躍進。決勝戦前夜、佐賀市の盟友原田彰さんへ電話したら、彼の母校であった。
 明日は優勝ですよといったらほんとにそうなった。逆転本塁打を打った西原主将の笑顔が素晴らしかった。
 佐賀県民は決勝まで進んだだけでも満足していたようだが、真紅の大優勝旗が初めて佐賀路に入った。野球好きだった地下の大隈さんも喜んでいることだろう。佐賀への思い入れの強い小生にとっても、嬉しいこの夏だった。

 少年野球と高校野球を観戦した以上、老人、いや五百五十歳野球の応援にも駆けつけなくてはいけない。毎年、南外村で行なわれるこの大会には、郷里大内チームの元野球少年達が出場する。中学時代の監督だった佐々木秀三先生も現役でキャプテンを務める。
 対戦チームは大曲市のチームだった。前半リードを許していたが、逆転大差で勝利。なかなかどうして、好試合だった。自分も来年は四百五十歳急に出場できる。

 ほんとに秋田県民は野球が好きなんだなあと、歴代の毎日新聞秋田支局長がいっている。都市対抗野球は宮城県や岩手県では球場はガラガラだが、秋田の球場は何時を観客が多いと。
 誰が始めたのか知らないが、秋田県には日本雪上野球連盟まであって、雪の上での野球大会を十五年もやっている。東京六大学秋田野球連盟まであるようで、結成七年目の昨年十二月に、神宮球場で大分県の東京六大学野球の選抜チームと試合をしてきたという。

 これだけ野球好きの秋田県だったら、何とかプロ野球球団を結成できないもんだろうか。山田久志監督、落合博満打撃コーチで秋田県と縁があったスタルヒン投手のような沿海州からも選手を集めて、球団名を親潮ユーラシアンズ。
 野球少年時代、全県大会は夢に見ることもなかったが、プロ球団作りの夢は見ることができる。

●第六十六号/平成六年十月二十日

    正露丸

 メキシコシティのウルグアイ通り。ホテルモンテカロルの部屋のベッドでぐったりしていた。トイレへ何度も行ったり来たり。昨日から下痢が止まらない。生水は飲んでいない。原因は、ホセの家でご馳走になった生魚に違いない。

 昭和四十二年夏。ホセとはロスからバスに乗ってメキシコシティまで三日半の旅の途中で知りあった。
 十九才の陽気なスペイン系白人で、家に遊びに来いというから行ってみてびっくり。白亜の豪邸に、ホセを頭に八人の子供が迎えてくれた。一人一人名前を聞くが覚えきれない。赤ん坊を抱く美人のお母さんが親切にも、日本人だからと、魚料理をご馳走してくれた。
 ホセのママは帰りに車を運転してホテルまで送ってくれた。同乗したホセが私に英語で話しかけると、ママ曰く「彼はスペイン語の勉強に来ているんだから格好つけないで、自分の国の言葉で話しなさい」とぴしゃり。
 その日の夜から腹を下して、トイレを何度も往復。持って行った正露丸を飲んだが全然きかない。
 翌日もその翌日も止まらず、飯は食べれない。三日間、ホテル前の果物屋からバナナやマンゴー、ザクロの実などを買って食べていた。

 メキシコではなくて、ここ秋田でも腹を悪くして正露丸が効かなかった話。
 秋田九州人会の碩隆雄会長がこの会を作ったのは正露丸の話を聞いたからである。
 九州・熊本から秋田の嫁いできたばかりの女性。北国秋田の言葉がわからない。夫が会社へ出かけると、姑と二人っきりになる。折り合いが良くないのが普通。ある日、その姑が言う。「ああ、腹悪い、腹悪い」それを聞いた熊本出身の彼女は薬箱から「正露丸」を取り出して、おばあさんにどうぞと渡した。
 「馬鹿ケッ」と姑にいわれた。
 九州では単にバカはそんなに悪い意味ではない。バカの後にケッといわれた彼女は人の好意を無にする、大きな侮辱を感じた。
 後でわかったことだが、「腹悪い」という言葉は秋田弁で「面白くない、腹が立つ」という意味だった。
 とうとう秋田弁ノイローゼになってしまった彼女は警察の困り事相談に行った。
 警察では、そういう問題は秋田魁新報社にいってみたらといわれた。新聞で今、県外出身の秋田人国記をやっており、熊本出身の人も載っているという。
 熊本出身の主婦は、秋田魁新報社から、同県出身の東京ボイラー社長の碩隆雄さんの連絡先を教えてもらった。五年前のこと。
 その彼女から事情を知った碩さんは、人事ではない、九州弁を思い切って使える場を作らねばと考えた。最初、熊本人会をと思ったが、取引先の九州出身者からの提案もあり、九州まるごと一緒の九州人会として発足させた。新聞に案内を出したところ、五十人もの九州人が集まったという。
 おかげでノイローゼになった同郷の彼女も治った。
 九州人会は今では、閉鎖的にならないよう、九州へ旅行に行ったことのある人も参加資格があることにした。

 暮らしの井戸端ゼミナールに集まった県外出身の主婦達が今、秋田で感じたこと、戸惑ったことなどの体験談を主体にした本を出そうとしている。秋田に住んでいる県外人が自分達と同じ様な失敗や戸惑いをなくしてもらい、秋田の良さを知ってもらおうと考えたものである。
 色々な失敗を繰り返しながら、じゃあどうしたらいいのかといった内容になる。秋田弁のコーナーには「腹悪い」もいれてもらおう。副題は―県外出身主婦の秋田大好きゼミナール―
 タイトルは「へばなんとす」 「じゃあどうする」の意味である。

●第六十七号/平成六年十一月二十日

  ブナと少年

 鳥海山の三合目、霊峰に向かう。奈曽の白滝入り口駐車場を出発する時は雨だった。同乗の土井夫妻には言葉もない。鳥海ブルーラインを登りつめ、ブナを植える場所に着いたら空が明るくなってきた。鳥海山にブナを植える会の一行二十人。電柱を切り抜き「土井雄君追悼記念植樹」と書かれている。ブナを植樹した後、私は標柱を埋める作業を手伝った。鳥海山の頂上に向けて立てられた標柱の下に、土井雄君の写真が置かれた。
 平成六年十一月三日、文化の日。

 毎日新聞地方部の三木賢治次長から電話で、地域おこしを家族ぐるみでやっているのがあったら紹介してほしいといってきた。
 秋田に来たいんだろうと、それじゃあとすぐ思いついたのが「鳥海山にブナを植える会」のこと。
 九月十日に秋田空港に三木記者を出迎え、まっすぐ象潟町に向かった。会の事務局長、土井勝行さんの事務所で皆さんが待っていてくれた。一人息子で中学一年生の雄(たけし)君も一緒である。
 鳥海山の三合目、霊峰の町有地で三十aほどのブナの苗木を植え、頂上を背に会のメンバーの記念写真が撮られた。皆いい笑顔だった。後日、この写真が毎日新聞の全国版に大きく載った。雄君は、ブナを植えるのは「自然が好きだから」と答えている。
 十月十日。「鳥海山にブナを植える会」のブナ観察会に参加。鳥海山矢島口から登り、わずかに現存しているブナの森と植栽して十年ほどのブナを見る。ブナとは木に無と書く。このいわれは、無用な木だからというのと、倒れると腐るのが早く、すぐに無くなってしまうからだという。
 自然界でこれほど有用な樹木はない。ブナの落ち葉は自然のダムを造る。観察会が終わってから、由利原高原でなべっこ。広いシートに座り、土井夫妻から漬物、雄君から缶ビールを二本もらった。

 十月十六日夜。金浦町で犬ぞりを作っている浜田政光さんから電話があった。あの雄君が夕方、上浜駅の前で車にひかれて亡くなってしまったという。
 嗚呼、何ということだ。一人息子を失ったご両親のことを思い浮かべて、胸が締め付けられた。
 自分には電報をうつ事くらいしかできない。雄君が愛した鳥海山にブナを植えつづけようと送った。

 土井雄君追悼記念植樹が終わり、雄君への追悼歌が披露され、鳥海山に歌声が響いた。

 森は友達(雄君追悼歌)
    竹内久一作詞・作曲

 森は時をつむぎ 時が森を育む
 ゆるやかに水は 森を離れ
 木々の願いをあつめ
 ひとすじの川となる
 あなたの願いは私の願い
 森は友達 森は友達

 川は川と出会い 森と野をつなぐ
 流れるもの水は かたちを変えて
 岸辺のまちと分かれ
 よろこびの海に入る
 あなたの詩は私のよろこび
 森は友達 森は友達

 十一月六日。「馬場目川上流にブナを植える会」へ。五城目町役場前で会の事務局長・高坂先生が受付をしていた。マイクロバスで約三十分。去年と同じ会場。横断幕の森の字は木が四つある。
 今年は簡易トイレが用意され、女子トイレ用の穴掘りは言いつけられなかった。
 五城目営林署の全面的な支援体制が組まれていて、一fの山の斜面に約一千本のブナが植えられた。 終わってから、余ったブナの苗木を一本もらう。
 参加していた「鳥海山にブナを植える会」の須田和夫会長に渡した。これは鳥海山の土井雄君記念植樹のそばに植えられよう。

●第六十八号/平成六年十二月二十日
   
   目

 目は口ほどにものをいう。
 孟子の人物鑑定の教えに第一に瞳が人物の善悪を表すとある。
 話を聞いて、瞳を見きわめればわかる。瞳が澄んで明るければ正しい人だと。赤子の瞳を見ればわかるともいわれる。
 しかしながら、人物鑑定もそのとおりにはいかないのが世の常。
 この話を聞いた後、懇親会で講師の先生と話す機会があり、名刺を渡すと「君は総会屋かね」といわれてがっくりきた。
 会魔と他弥されるほどの小生の名刺には何々会の名前が数多く書かれていたからであろうか。

 東京・渋谷。風来坊時代、国会議員の秘書をやっていた頃、居候していた家の主人から「みっちゃんの最近の目は濁っている」といわれた。がっかりした。
 その方から勧められたある新興宗教への入信を断ったせいか、この先どうしようかと将来に迷い、生活が荒れていたからであろうか。

 この秋、子犬が死んだ。目の青いハスキー犬だった。娘が衝動的にペットショップから買ってきて、ムックと名付けられ、しばらく家の中で飼っていた。風呂にいれたせいだろうか、一週間くらいしたら食欲がなく、吐くようになった。何度か動物病院に連れていったが、大丈夫ですよという。
 九月十七日、女房と東京から帰ったらもう死んでいた。その日の朝、東京から電話したのに、犬は大丈夫だという。子供達は親に心配かけまいとして嘘をつけるようになった。
 子犬が飼われる前から、迷い猫が住み着いている。
 白猫で、何と目の色が片方づつ違う。右が金色、左が青色である。

 同じような猫の話は十二月八日付の魁新報に金銀の目を持つ白猫と記事になっていた。
 秋田市の県動物管理センターに保護されている猫だが、長崎兵毅次長の珍しい猫だとの談話が載っている。

 長崎さんは忘れもしない、我が野球人生で初めて三振を食らった投手であった。
 今から二十年前、職場対抗試合。大館保健所チームの投手が最終回、我が北秋田財務事務所チームに打ち込まれ、長崎投手がリリーフに登場。満塁で一打逆転という時、小生がバッターボックスに立つ。左翼線に痛烈なライナーを打つが惜しくもファール。
 こちらは打気満々。ツーワン。投げた、振った。空振。カーブにタイミングを外されてしまった。
 初めての三振だった。アーッという見方ベンチのため息が今でも耳に残っている。

 私がそれまで三振を食らったことがないのは、目が良かったからだと思っている。
 つい七年前までは、視力は右が一、三、左が一、五、であった。そのまま老眼にならずに、近視になってしまったのである。今は右が〇、三、左が〇、五、である。原因はワープロに違いない。
 四年前に出した本「私の地域おこし日記」の原稿を、半年かけて夜中にワープロを打った。台所や居間、最後は布団の中でワープロを打つ。画面が目に反射して眩しい。目が悪くなった原因はこれだ。
 県庁の廊下で、こちらに向かって歩く人が「いやあっ」といって声を掛けてやってくるが、すぐに答えられず、近くに来て「あ、どうも」といっては誰だと判定できる。これがほんとの老化現象だ、ではしゃれにもならない。

 金と青の目を持つ白猫は福をもたらし、金持ちになるとある。我が家のその猫の名前が「ミーチャン」。
 自分が呼ばれているようでこそばゆい。ミーチャンは金持ちにはしてくれないだろうが、目いっぱい頑張って、来春には何か一つ福をもたらしてくれるだろうか。