ふるさと呑風便 44号〜56号 平成4年11月〜平成5年12月
 
   血縁  贈物  酉あえず   日向の国  おふくろ  レンガ  思いやり  情緒
   望郷  感動  妻、母そしてシベリア  背もたれ  山本満喜子さん  ローマの急日

●第四十四号/平成四年十一月二十日

  血縁

 晩秋。秋田市八橋にある全良寺の官修墓地。その一画に、宮崎県佐土原藩士のお墓五基が並ぶ。秋田戊辰の駅の際、協和町境の戦闘で犠牲となった兵士の墓である。

 百二十四年後の十月二十八日。佐土原町長他一行二十七人の墓参団が、全良寺・官修墓地の佐土原藩士の墓前に整列している。住職の読経の中、お墓には赤く染まった桜の枯葉がひらひらと舞い落ちてくる。遺族の一人、成合千恵子さんは、先祖のお墓に近づき、故郷に帰す土を涙ながらに採っていた。

 それは去年夏の鳥海登山から始まる。浦和市にある日本ふるさと塾で出会った御仁から手紙が届いた。全国の富士登山を決行中で、秋田富士の鳥海山に登る計画を立てた。お会いしたい。酒田に泊まり、鳥海登山をして新潟に引き返すとある。それはいけない。秋田県側に入ってもらい、象潟のホテルを予約して、自分も一緒に登りたいと返事に書いた。
   柳生家の家訓
小才は縁に出会って縁に気づかず
中才は縁に出会って縁を生かせず
大才は袖すりあう縁をも生かす

 彼、宮崎県東京物産観光あっ旋所長の長沼武之氏は大才だ。たった一度の出会いから、二人は鳥海山頂上小屋の裸電球の下にいる。
 秋田の銘酒を酌み交わしながら、宮崎県の佐土原藩士八人が、秋田戊辰戦争の際、協和町というところで戦死していると話した。
「三年前、秋田戊辰の役百二十周年記念の合同慰霊祭を取り行ない、関係市町長に遺族探しの依頼と案内状を出したんですが、残念ながら宮崎の佐土原町からは何の連絡もなかったんですよ。歴史の縁で、協和町と佐土原町との交流を進めたら面白いと思いませんか」
 長沼さんは私に約束した。何とか佐土原藩士の遺族を探しましょうと。その年の暮れ、彼は宮崎日々新聞の記者と一緒に、秋田にやってきて、全良寺と協和町の戦場跡を訪ねた。協和町の茂木義次郎さんからお世話頂き、このことが翌年三月、「秋田に散った佐土原藩士」と、新聞に大きく報道されて、佐土原町は大騒ぎとなった。
 さっそく一人の遺族が協和町の茂木さん宛に電話で名乗りでた。五番銃隊隊士・成合岩右衛門の子孫、成合千恵子(六十二)さんである。

 全良寺で焼香が終わった後、宮崎県観光振興課長となって再び秋田を訪れた長沼さんと無言の握手。
 その後、後藤典夫佐土原町長が境内の落葉を踏みしめながら、私に語ってくれた。
「こんなに手厚く葬って頂いて感激しています。秋田に来る前に福島の白河でも佐土原藩士の墓参をしてきたんですが、秋田とはおお違いでした。お寺の住職さんからは、私の代までは見ますがその後は知りませんといわれました。そうなったら、お墓を町の共同墓地に引き取らんばいかんかいなと思うとります。温かい秋田の皆さんには、お礼とお詫びを兼ねての墓参でした。これでようやく心が晴れました。ほんとうに有難うございました」
 協和町・万松寺での慰霊祭後、唐松温泉で両町の交流会が開かれている。佐々木清一協和町長が歓迎あいさつのなかで、「百二十四年前我が町で、八人もの佐土原藩士の尊い血が流されたのです。これほど深い縁はありません」といわれた。そう、東北の協和町と九州の佐土原町は血縁町になる。
 来年は戊辰の役百二十五周年。
 さて、今度はどことどこに血縁関係を結ばせようか。(合掌)

●第四十五号/平成四年十二月二十日

   贈物

 昭和七年十二月一日。秋田県本荘市深沢海岸。この日、雪はなかったが大陸から冷たい風が吹きすさみ、白波が激しく海岸に打ち寄せていた。沖にはマットの折れた漁船が波間に見え隠れし、三人の漁民が助けを求めていた。浜に集まった深沢部落の人たちは、その遭難船に乗っているのがロシア人であることに驚いた。救助の船が出され、遭難船に乗り移ると、すでに一人の少年が死んでいた。五十代の船長に、他二人は二十歳前後の若者であった。彼らの衣服にはしらみがいっぱいたかっていた。

 六十年後の十二月一日。深沢海岸の共同墓地に手厚く葬られた、ロシア・ウラジオストック、ルスキー島出身の漁民ニコライ少年の慰霊碑が同じ場所に建立された。
 除幕式を迎えたこの日は、冬とは思われない晴天に恵まれた。
 慰霊碑のある高台は、「夕陽が見える日露友好公園」として整備されている。公園の周りには白黒の天幕が張られ、テントの中には駐日ロシア大使館参事官と三人のウラジオストック市友好代表団が座っている。午後二時。慰霊碑をおおっていた白布が柳田弘本荘市長他によってスルスルと引き落とされた。高さ三bの白みかげ石のたくましい石碑が現われた。露国遭難漁民慰霊碑との碑文は露国遭難漁民慰霊秋田委員会会長の佐藤憲一先生の書。故郷を愛する若者達の熱意にほだされたと、会長就任を快諾された佐藤先生の存在が成功への第一歩であった。そして、若者達が燃えた。地域の方々の力が結集されたからである。台座にはめこまれた縦五十a横一bの黒みかげ石に、日本語とロシア語で建立に至った趣旨が書かれ、その下に大友康二先生、菅原良吉先生による作詞作曲「空ひとつ 海ひとつ」の詩が彫られている。フォークグループ「フォーグレイス」により、「空ひとつ 海ひとつ」の歌が披露された。歌いあげるは三浦幸子先生。八十年前に先生の母上が、土崎港でロシア船の歓迎会で歌ったと聞いた。ここにも良縁があった。除幕式には深沢地区の子供達が見物していた。式が終わってから、ロシア人と子供達との微笑ましい交流が行なわれた。バッチをもらった子供が歓声をあげている。新山小学校の担任教師が、記念すべき日だからと、早退を勧めてくれ
た。時間の贈物をしてくれた教師の思い遣りが嬉しい。
 十二月二日。本荘市長主催のウラジオストック訪問団の歓迎パーティがあった。その席でルスキー島を管轄する人民代議員会のガイキン議長に提案した。本荘市深沢部落の子供達を、ニコライ少年の故郷ルスキー島でキャンプさせて欲しいと。ガイキンはハラショー大変結構、ピオネールキャンプをウラジオストックの子供達と一緒にしたらともいう。私は続けて、去年ルスキー島に渡ったら、使われていない赤レンガの建物があったが、それを修理させて使わせてもらえるかと聞いた。それもOK。島の土地を売ってもいいとまでいう。ホンマかいなと思うが、本荘市の子供達へ対岸の島でキャンプの贈物は夢ではない。
 十二月五日。深沢公民館での慰労会に招かれた。奥さん達からいい話を聞いた。慰霊碑建立に三百十七万円も集まったのは、亭主にハッパをかけた彼女達のパワーにあるようだ。小川隆一町内会長夫人は最初、寄付が集まらなかった時思い悩む亭主にいった。
「お父さん、寄付金が集まらなかったら田んぼを売ろうか」

 ふるさとは子供や孫への贈物
        (萩原茂裕)

●第46号 平成5年1月20日

  酉あえず  

 今年の正月は、初めて秋田市の自宅で迎えた。年賀状をみて、温かい添え書きに勇気づけられた。当方は年末に急な事情があって、二千人全員へは年賀状に添え書きが書けなかった。申し訳なく思う。
 作家の池波正太郎さんのように、夏頃から年賀状を書き始めるといいだろうが、去年は喪中の葉書が76枚もきた。夏から書き始めたら喪中挨拶分が無駄になってしまう。池波先生はどうされているのだろうか。
 去年の呑風便1月号の巻頭言を読んでみたら、「腱鞘猿」などとへたなタイトルで、「なぜ」を大事にして、その究明に努力してみようなどと、下手な文章で書いている。
 その年頭所感などすっかり忘れていた。去年一年間を振り返っても、「なぜ」という探求心をどれだけ心がけたであろうか。
 なぜ一体、「なぜ」を考えなかったのか、ヘタな駄洒落でごまかすようなことを今年からしてはいけないのである。健忘症も甚だしい。
 
 農聖石川理紀之助を再度、読み始めた。石川翁は昔、なぜが宮崎で農村指導をされているからである。
 去年から、宮崎県との縁があって、この1月末に宮崎県佐土原町に呼ばれて行ってこなければならない。125年前の秋田戊辰の役に、新政府軍の援軍として 佐土原藩が来秋し、8人の兵士が秋田県協和町で戦死した。それが縁で、昨年、宮崎県佐土原町と秋田県協和町との歴史的縁が復活した。その縁結びをした一人として、佐土原町の地域づくり会議に呼ばれたわけです。

 明治35年、農聖・石川理紀之助翁が同志7人とともに、宮崎県北諸郡山田村で約六ヶ月の間、農村指導をされた。
 なぜ、石川翁が宮崎に行かれたのか。そして、どんな農村指導をされたのか。その説明をする余裕はないが、半年後、いよいよ山田村とお別れの時、地元の大勢の大人、子供がオイオイ泣きながらついてくる。振り向けば止まる。帰れといっても帰らない。大群衆が涙をポロポロ流しながら、いつまでも石川翁の一行を追い慕って来る。

 川上富三先生の石川翁の著書を読み返し、昭和町の石川理紀之助記念館へいって、川上先生の「日向の国の六ヶ月」という本を求めた。館長さんから、「石川理紀之助翁の遺産」という、秋田魁新報論説委員長、藤川浄之氏の講演録を頂いた。
 この書の中に、郷里山田村の村づくり活動の報告書「山田村経済成績」のことがあった。その序文に、「法は必ずその人にある。他に求める事なかれ」という言葉を紹介していた。
 要するに、地域づくりというものは、「そこに住む人間がきちんと自分たちの状況を考えてのぞまなければ、村づくりなど成功するものではない。あくまでも地域のもの、地域に住む人のものである。この原則を離れてはいけない」という石川翁の言葉を紹介しています。

 地域づくりは、その地域の特性を生かし、そこに住む人々が力を合わせて、一生懸命になってやらなければうまくいかないのだ。この言葉を、石川翁から、川上先生から教わりました。
 秋田の石川翁の一行と宮崎県日向の国の人々との感動的な交流がなぜ、生まれたのか。酉あえず考えて、宮崎へ行ってみたい。又、洒落落ちしてしまった。

●第四十六号/平成五年二月二十日

   日向の国

 雪の秋田空港。鉛色の空を大阪へ飛び立つ。午後一時四十五分。半時して雲を抜けるとまぶしい。大阪空港から乗り換え、宮崎には一時間ちょっと。温かくまだ明るい。空港を出た所に、ビーケンビリアの花が地べたに植わさっている。二月二十一日、午後四時四十五分。
 九十年前、秋田の農聖石川理紀之助翁が同志七人と、日向の国・宮崎に二十日間もかけてやってきた。今は飛行機でわずか三時間。

 日本一の観光課長といわれる宮崎県観光振興課長の長沼武之さんが出迎えてくれた。空港から宮崎市内へは車で二十分足らず。長沼さんは、昨日東京からのお客さんと二時まで飲んだ。今日は一時までにしましょうといわれる。じゃあ明日の佐土原では十二時までだと。
 市内観光は宮崎市内を一望できる平和公園へ案内された。八紘一宇と書かれた荘厳ない市の塔に驚かされる。やがて、太陽が東の高千穂連峰に沈む。長沼さんの高級マンションに荷物を置き、夜の繁華街へ歩く。途中、県庁前に楠木の並木がある。この巨樹達を守るため、地下に二本のパイプを通し、酸素と水を供給しているという。林野庁長官をされた宮崎県知事。樹木に対する思い入れが優しい。
 長沼さんが案内してくれた店は「杉の子」という大きな料理屋。玄関には何と、秋田県大館市で作られている「お杉ぼっち」の大きな人形が二体置かれていた。大衆コーナーの「宮崎の間」には、佐土原人形が飾られている。秋田の八橋人形もあった。四人掛けのテーブルに座り、運ばれてきたお通し「からすみあえ生椎茸」は逸品であった。そしてめったにお目にかかれない「猪鍋」。御主人が森松平さん。調理服姿で現われた大学先輩は、宮崎の食文化の向上に貢献されておられる。秋田に共通の友人がいて、意気投合し、「宮崎はうまい」という著書まで頂いてしまう。宮崎の夜をあと三件ほど回り寝たのが約束通り一時。
 翌二十二日は宮崎市北側の佐土原町へ。日向灘に面するまさに風光明媚な町。佐土原藩の居城のあった歴史の町でもある。町内を案内された。沖縄の沖永良部島から戦後疎開してきた住民が百合の栽培をしており、年間二億円の収益をあげていると聞く。その球根と花を送ってもらい、秋田の由利町に届けることにする。夕方、宿舎で佐土原町町役場幹部、七人の講師陣と懇親会後、長沼氏と役場の若い職員達と町内の小料理屋で二次会。長沼さんと宿舎に帰って寝たのが予定通り十二時だった。
 翌二十三日、「ワンダフル佐土原創出会議」に出席後、「男はつらいよ」の寅さん映画にも出演した長沼課長と汽車に乗る。弥次喜多道中ならぬ、延岡から高千穂へ向かう。車中、昨日は十二時だったし、今日寝るのは十一時だな、と話す。二十五年前の参議院議員秘書同志からの友人で、悪臭放つ政界から清浄の世界に転身した高千穂神社宮司の後藤俊彦氏が待つ。彼は三度も秋田にきてくれたが、こっちが高千穂を訪ねるのは初めて。高千穂鉄道は渓谷を縫うようにして走る。やがて、トンネルに入ると、ゆったりと刈干切歌が流れてきた。日が差す。そして神話の里の山々が開けてきた。日本のふるさとといわれるにふさわしい風景。終点の高千穂駅。着物姿の後藤宮司が改札口を出た所で手を振っていた。

 厳粛な高千穂神社の境内に新楽保存館がある。天の岩戸開きを主題にした夜新楽を観た後、後藤宮司家でのこの日。日向の国の古き良き友、新しき友と飲み語らい、十一時はもうとっくに過ぎていた。

●第四十七号/平成五年三月二十日

  おふくろ

 親父が逝ってから十年たつ。
 親父が四十を過ぎて生まれた私は、その年になった自分を振り返ってみると、「随分と親父に逆らってきたなあ」と思う。
 小学校時代、野球をやっているとそんなもんと親父。おふくろは物のない頃、試合までにユニフォームを作ってくれた。中学時代も野球。親父は試合に一度も見に来てくれるわけではない。高校に入ったら親父は弁論部に入れという。そんなもんとブラスバンド部に入った。大学も官立でなければダメだというのを振り切って東京の私学に進んだ。一応喜んでくれて今度も雄弁部に入れという。そんなもんとレスリング部に入部。試合で腰を痛めてからは、中南米研究会に入った。キューバに関心を持って、日本キューバ友好視察団を組織し、キューバへ行くと電話すると、親父は猛反対。そんな赤の国へ行くなぞ絶対許さないという。しかし、こっちは責任者で人も集めた手前、止める訳にはいかない。
 そんな反対されているなかで下宿に親父から手紙が届いた。
「知り合いの代議士に手紙を出しておいた。貨物船で行けるように頼んでおいたから訪ねて行け」
 キューバへ行く前、帰省して家を出るとき、おふくろの心配そうな笑顔、玄関先に親父が盃を二個持ってきた。水盃だと言って、オチョコを手渡す。こっちは笑いながら、心配ないよといって受け取り、盃を口に傾けながら見上げた親父の顔。今だに忘れられない。
 大学を出てから、親父はもう何々をやれとはいわなくなった。あきらめたんだろう。
 就職もせず、神戸や四国で風来坊をやった後、国会議員秘書をやるといったら親父は喜んでくれた。秘書も辞めて秋田に帰り、親父が内心望んでいただろう、役人になってしまった。
 おふくろは親父に逆らってきたそんな息子を心配しながらも、笑顔で包んできてくれた。
 時々家に電話して、ゲートはどうだと聞くと、ゲートボールの話に夢中で止まらない。

 これは七年前、四十歳を過ぎた際、「おふくろ」を題して役所の庁内誌に書いたものです。
 この冬におふくろを亡くしたから、多くの方々から、励ましやご厚情を頂いてしまった。
 身内の事で恐縮ですが、感謝の気持ちを込め、母への想いを綴ってみました。ご容赦を。

海辺の村から 山奥の村に嫁いできた母
私の母は花が好きだった
多くの子どもを育て上げ
ゲートボールに夢中になった頃の夏 夾竹桃が好きだといった
海辺の村に咲いていたという
私は夾竹桃の苗木を買ってきて家の庭に植えた
だがその冬 雪にやられて
春には枯れてしまっていた
ここでは無理だ 家の中で育てたほうがいいと 今度は鉢植えの夾竹桃を買って家に置いた

この冬 母は死んだ
葬式も一段落して
玄関の花輪も片づけたら
鉢植えの夾竹桃があった
花を咲かせられなかった夾竹桃を見て 母は海辺の村に帰りたかったのではないか
そう 思った
春になったら 鉢植えの夾竹桃を母のふるさとへ植えかえてやろう そう 思って

●第四十八号/平成五年四月二十日

  レンガ

 一千万円の札束。とても想像できないが、一万円札は解る。一万円札を重ねて十a。重さ一`が一千万円だそうだ。これを政界ではレンガと呼ぶらしい。小生も昔、国会議員の秘書をしていたことがあるが、その当時と今では貨幣価値がちがっていたから、レンガという隠語は聞いた事がない。議員会館の七階に事務所があり、窓から自民党本部が見える。そこを写真に撮ってアルバムに張った。「汚権者の巣」と説明書きをしている。昭和四十五年に郷里に帰ってきて、新聞社の取材を受けた、政界は常識のとおらない特殊社会だと答えていた。
 それから二十五年もたっているが、当時と政界汚染は変わっていないようだ。いや、もっとひどくなった。マックスウエーバー著「職業としての政治」の中に、政治家としての資質条件に情熱、責任感、先見性とある。
 政治家を職業だと思っておられなかった方がいた。松村謙三先生である。子供に親の職業を代議士だとも書かせなかった。
 金丸さんが塀の中で、湯たんぽで暖をとっては、「悪い事はするもんじゃありませんな」と呟いたとテレビにでていた。そして、テレビ画面に五千万円の割引債が映った。金丸さんが買ったレンガ五個分である。
 レンガ四個分のあればバングラデシュに孤児院ができる。
 十二年前、ユニセフ青年の翼でバングラデシュを訪ねたことがある。首都ダッカの郊外へ出ると、沿道の脇で赤茶けた泥をこねて、レンガを造っている人々がいた。もろいレンガを積み重ねて造った家は、毎年襲ってくる大洪水で洗われてしまう。家畜も家も人も呑み込まれ、そして多くの孤児が生まれる。
 バングラデシュへ行く前に、中川恵資さんと会った。中川さんは早稲だの元空手部主将。世界武者修行の資金稼ぎにと漁船員になって、北方方面に出漁しているうちに、武道家的価値観が変わった。武道で人を救う事はできない、飢えにあえぐ人々の為に一生を捧げようと決心。
 昭和四十七年、世界最貧国のバングラデシュに単身飛び込んだ彼は、漁労技術の指導を通じて知り合った女性、イウリさんと結婚された。日本に帰って、東京・人形町の家業、日本茶店を継ぎ、ベンガル料理店二軒を経営し、三年前には夫婦共通の夢である孤児院の建設予定地をダッカ郊外に求めた。
 そして建設資金、約三千七百万円を集めるため「日本・バングラデシュ協力基金」を設立。
 以前、秋田市の飲み屋から中川さんへ電話した。奥さんのシウリさんが出られて、日本に来て何年もたっていないのに、東京の下田弁に驚かされた。シウリさんは今、日本に来て十六年。子供三人の母親。旦那よりも人形町という町に馴染み、一年足らずに近所のおかみさん達との会話で日本語をマスターしてしまった。好奇心が旺盛で、社交的で、日本にやってくるバングラデシュ人のお世話もどんどんやっている。仕事でも家庭でも夫の良きパートナーである。
 中川夫妻の共通の夢である念願の孤児院設立の実現は近い。
 レンガ四個分で建設資金がまかなえるのだが、うさん臭い金はお断りだろう。私も貧者の一灯を送らせてもらったが、「日本・バングラデシュ協力基金」の連絡先は次のとおり。
 東京都中央区日本橋人形町二ー四ー九

●第四十九号/平成五年五月二十日

  思いやり

 「男らしさとは思いやりと筋肉である」といったのは三島由紀夫であった。
 文化座秋田友の会の荒谷紀子さんは、女らしさの五箇条を次のようにいわれる。
 一 やさしさ
 二 思いやり
 三 清潔さ
 四 笑顔
 五 言葉使い

 常に人を思いやり、やさしさの溢れていた白瀬京子さん。女性で初めてヨットで世界一周された。あの白瀬中尉の弟の孫にあたられる。三年前の四月に金浦町にオープンした白瀬南極探検記念館の初代館長だった。
 彼女を偲ぶ会が開かれた。五月八日午後三時。記念館前、南極広場の高台にある東屋。八重桜が雪をかぶった鳥海山に映える。グリーンコデネーターの小野田セツ子さんが、京子さんの愛したのうぜんかずらに似せ、赤と黄色のガーベラの花で遺影を飾っていた。主催した「白瀬中尉をよみがえらせる会」の渡部幸徳会長が挨拶。京子さんに教えられたという「念ずれば花開く」という言葉をしめし、京子さんの好きだった凌霄花(のうぜんかずら)からとって凌霄忌とし、あのやさしく思いやりのある京子さんの意思を引き継いでいきたいと決意を述べた。
 続いて佐藤正之町長。館長にはこの人しかいないと、京子さんの命があと僅かしかないことを知りながら、初代館長に発令された町長。思いやり深い見事な英断だった。しかし、白瀬南極探検記念館開館の四月二十日まで、神様は京子さんの命を延ばしてはくれなかったのである。
 京子さんの偲んで作られた「夢のアドレス」という曲が流れてきた。作曲した同じ由利郡出身の津雲優が歌う。

♪ あなたのヨットは
  今も帆に太陽の切手貼り
  果てしない航海続けて
  便りの始まり
  いつもディアマイフレンド
  アドレスは「光の平(たいら)」
  海原にて
  白い波涛よ あなたが賭けた
  遥かな夢を僕に届けて

 三年前の三月の末。本荘市の病院に入院されていた京子さんを見舞った。「元気な佐々木さんを見て、白瀬記念館のオープンの日まで私も頑張りますね」そういってくれたのに。
 何度も京子さんから手紙をもらった。文面の最後には、私の子供の名前を書いては元気でと、そして必ず、飲み過ぎないようにと、いつも酒呑みの後輩の健康を案じていてくれていた。

 三年前の秋。佐賀市にある大隈重信記念館を訪ねたことがある。館内に白瀬京子著「雪原にいく」が飾られているのを見つけて、嬉しくなった。

 今度の京子さんの凌霄忌に大隈記念館の坂田勇館長からメッセージが届いている。
 「佐賀の大隈記念館でも、白瀬中尉の功績(白瀬京子さん著「雪原をゆく」をはじめ、南極探検記、南極の地図大隈湾、侯と白瀬中尉との手紙等)を展示し、中尉の偉業をたたえています。」

 大隈さんは筋肉はないが、思いやりのある大物だった。
 白瀬中尉が南極に出発する前、後援会長の大隈侯へ挨拶にいった。
「閣下、有り難うございました。いよいよ念願の南極に向かって出発致します」
「おお、それは良かった。南極は暑いから体に気をつけて行けよ」
「はあっ?」

●第五十号/平成五年六月二十日

  情緒

 東京高輪・泉岳寺。赤穂浪士の墓所がある。近くで用事をすませて、ちょっと寄ってみた。四月二十八日昼。暑い。地下鉄を何回か乗り換え、階段を登り下りするから、汗だく。こんなんを、毎日続ける東京の勤め人は疲れるだろうな。
 泉岳寺の境内には赤穂浪士の遺物館がある。入場券売場にお金を渡すと、中からどちらから?との声。
「秋田です」
「そう、いい所ねえ。そうそう、秋田の方に新しくできた芸術大学がある?去年、ここに絵を描きに来た女の子が今年、そこに入ってね。手紙をくれたの。見る?とっても純情な子でね。私、嬉しくなって、時々、絵の具代を送っているの・・・・」
 話が止まらないのである。宮岡道子さんといって、山口県出身の方であった。今年できた芸術大学というのは、山形にある東北芸術工科大学のことだった。去年の夏、泉岳寺を描きにきた美少女に麦わら帽子を貸してやったら、宮岡さんに彼女から礼状が届いた。山形の大学に合格後も、飯田恭子さんという今時珍しい純情可憐な娘は、さくらんぼの絵を描いた葉書をよこしてきた。
 宮岡さんの写真を二枚撮って、秋田に帰ってから一枚は泉岳寺の彼女に、もう一枚は東北芸術工科大学の幸村真佐男教授に送った。幸村とは昔、コンピューターテクニックグループの仲間で、彼は日本で初めてコンピューターアートや映画も作った男。
 彼に宮岡道子さんの写真を入れ、飯田恭子さんに渡してくれと手紙を書いて出した。
 その後幸村から電話があった。
「おおい、今、ここに飯田恭子さんがいるぞ。代わるよ」

 泉岳寺で情緒豊になってから、葛飾区柴又の帝釈天へ。題経寺境内にある、尾崎士郎の「人生劇場青春立志の碑」を見たかった。
 それは、境内に入ってすぐ右にあった。台座を含んで、縦横二b、白御影石に刻まれていた。
  遺すことば
 死正、命ありだ。くよくよすることは一つもない。お前も父の血をうけついでいるのだから、心は弱く、涙もろいかもしれれぬが、人生に対する抵抗力だけは持っているだろう。あとは千変万化だ。運命の神様は、ときどき妙ないたずらをする。しかし、そこでくじけるな。くじけたら最後だ。堂々といけ、よしんば、中道にして倒れたところで、いいではないか。見ろよ、高い山から谷底みれば瓜やなすびの花ざかりだ。父は爛々たる眼を輝かして、大地の底からお前の前途を見まもっていてやるぞ。

 帝釈天の境内にあるおみやげ売場で、おみくじを引いた。今年一月、宮崎の高千穂神社では大吉であった。寅さんの菩提寺ではどれどれ、第十五番だ。何々、願望 叶いがたし 病人 長びく なんだこりゃあ。何と「凶」であった。そばで見ていた、笠智衆が鳥打ち帽子をかぶったような御方。
「何、逆も真なり、だよ」
「秋田ですか、同じ会社に飽きたの八森出身のいい男がいてなあ。昔、遊びにいったよ。ハタハタを磯から網を投げて取ったもんだ。能代にいい女がいてなあ」
 その方、茨城県出身の太田隆三さんという。
 太田さんに寅さんの実家「とらや」に案内を頼んだ。映画で見るのと、帝釈天の商店街の道は意外と狭い。歩道は白いコンクリート。「とらや」に入る。食券は自動販売機にお金を入れて、チャリーン。
 太田さんと、生ビールのジョッキを傾けながら話を伺った。
「昔はここも情緒があったよなあ。ここの道路だって、御影石の石畳だったんだよ・・。そう、俺の家はここから十五分ぐらいだから、泊まっていってくれよ、ほんと」

●第五十一号/平成五年七月二十日

  望郷

 石田東四郎さん。八十二歳。中国河南省から五十年振りに故郷、秋田に帰国された。六月十二日午前十時。快晴。秋田空港にはマスコミ各社の記者でごったがえしている。空港待合室に作られた特別記者会見室。そこに背中の丸くなった白いワイシャツ姿の石田東四郎さんと、迫害を受けながらも石田さんを護り通した孫保傑氏が現れた。テレビライトに照らされる。石田さんに笑顔はない。増田町から出迎えた妹さん家族と感激的な対面、とはいかなかった。五十年振りの再会に、石田さんは戸惑った様子もなく無表情であった。中国での過酷な体験が、ふるさとの記憶を消し去ってしまったのであろうか。
 二週間後、二十六日。石田さんの故郷益田町で開かれた「孫保傑氏に感謝し、石田東四郎帰国実現報恩会」に招かれた。石田家の主催である。当主の石田廣太郎氏は石田東四郎氏の身元が判明する前、たとえ親族でなくとも、中国で苦労した方を日本に身寄りがなくとも、自分の家で引き取ってもいいともいっておられてきた。
 真人温泉の会場には、関西や東京から戦友の方々も出席されている。戦友の一人は石田さんが、中国の八路軍に捕まって、厳しい拷問を受けただろうが、何故、南陽市の付近で物乞いをしていたのか謎であるとおっしゃる。石田さんの首には弾丸が貫通したような跡があるのが、地獄を体験された石田東四郎氏は何も語ろうとしない。だが、故郷に帰った石田さんは望郷の念を果たしたのか、報恩会の会場では笑顔を見せていた。

 佐藤孝之助さん。六十四歳。戦前に父母を頼って中国東北部に渡った。しかし、戦後の動乱の中で両親を昔の奉天(現、瀋陽市)近くで亡くしている。死亡場所の記憶は定かではない。着のみ着のままで帰国した佐藤さんは、故郷の出戸浜で塩田を作ったりした後、ガソリンスタンドを経営する。かたわら、秋田湾岸にドライブインを建て、遥か彼方の大陸に臨んできた。
 佐藤さんは中国留学生の「お父さん」で有名。五年前、秋田地区日中友好協会で始めた中国留学生里親事業で、日本の、秋田のお父さんとして、留学生達をマイクロバスを運転されて、何回も男鹿や十和田湖に乗せて案内。自分の経営するドライブインでも度々ご馳走されている。面倒をみた里子としては現在で二人目。昨年夏、両親が亡くなられた瀋陽を訪ね、最初の里子だった王君と涙の再会を果たした。酒を飲まない佐藤さんはカラオケの名人。息子≠フ王君とは瀋陽でカラオケ道場を作る約束をしている。
 二人目の里子はやはり瀋陽出身で女子留学生趙一紅さん。彼女は秋田大学鉱山学部の大学院を経て、今は東大大学院博士コースで勉学を続けている。
 秋田のお父さん≠ェ、この春、屋根から降りる時、梯子に足を引っかけて足首をズタズタに骨折する大怪我をされてしまった。
 それを聞きつけた中国留学生達はすぐ病院に見舞った。娘∵竄ウんも知った。東京から急いで病院に駆けつけた。病室に入って、佐藤さんの痛ましい姿を見た彼女。「お父さん」といったきり、声にならずオイオイ泣いてしまった。

 佐藤さんは人手不足のため、ドライブインを閉めようかと思っていたが、中国留学生の為にも続けるつもり。怪我が治ったら又、日本海の夕陽を眺め、両親は亡くしたが子供£Bのいる大陸に想いをhせよう。
 五十年も大陸で過ごした石田さん。家族のいる中国への思いを今、かみしめているのではなかろうか。
 ふるさとをなつかしみ、思いをはせること―望郷。

●第五十二号/平成五年八月二十日

  感動

 秋田市向浜の県立球場。その手前の橋の下を秋田運河が流れる。

 もう三十二年もの前だ。河岸をトランペットを抱いて走ったことがあった。

 昭和三十六年の夏。秋田国体のボート会場が秋田運河だった。本荘高校一年の時。中学時代は野球部だったが高校では選手にはなれないだろうと、ブラスバンド部に入部。トランペットを預けられて、何とか少しは様になった頃、秋田国体が始まった。伝統ある本荘高校ボート部が国体出場し、我々ブラスバンド部は応援部と一緒に秋田運河に集まる。整列したボート部員の前で応援歌を演奏した。
 本荘高校ボート部は一回戦を突破したが、二回戦で負けてしまった。だが、敗者復活戦で背上がって決勝進出を果した。ボート競技の距離は千b。私はスタートから五百b程手前で待っていた。決勝は四クルー。スタート。本荘高校ボート部は、何と、外側をトップで進んできた。川を滑るボートを横目に、トランペットを左腕に抱えて一緒に走った。途中で抜かれた。本荘チームは隣のボートと接触しそうになって、スピードが落ちた。トップから脱落。こっちは心臓が破れそう。もう走れない。歩きだした。ゴールに向かっていった四クルーははるか向こう。トップはどこのチームかはわからない。だが、ゴール付近からワッーという歓声が聞こえた。優勝したんだ。私は息を切らしながら、又、ゴールに向かって走った。

 高校入学の年。ボート部の全国優勝を目の前のすることができた。この大きな感動を味わうことができたのは幸せだった。
 ブラスボンド部にいたおかげで卒業式での校長先生の送辞を聞くことができる。一年の時の校長が関谷嘉門先生。関谷先生の挨拶はいつも短くて簡潔。運動会の始めの挨拶は「怪我をしないように」。終わりの挨拶もたった一言。
「ご苦労さん」
 卒業式の時の挨拶はさすがに一言ではなかった。
「夢をもって、いや目的をもって生きていってほしい」
二言三言の感動的な言葉だった。

 動物と人間の違いは、感動できるかどうかにある。日本海に沈む夕陽に感動し、人の情けに感動し、自然と人間の営みに感動する。感動の創造が芸術作品となろう。
 地域づくりにも感動があり、それが新たな夢や目標へと展開されていく。
 感動は夢、目的へのクッションでもある。
 私はこれまで、仲間と共に様々な地域づくりの作業に汗してきた。そこには常に感動が生まれた。
 今、感動深いふるさとの、新たな夢づくりに挑戦したいと心に秘めている。

 多感な高校時代に得た感動体験は貴重だった。それを育んでくれた、恩師の先生、友や、母校へ、心から有難うといいたい。

 と、本荘高校同窓会の機関誌に書いてしまったんですが、気が入りすぎた文章になってしまいました。
 人の心を動かすには、やはり、言葉や書くことよりは実践にある。
 この十二月に佐賀県で秋田の竿燈を披露する計画を進めている。戊辰戦争百二十五周年記念として、佐賀の方々と感動を共にしたいと思っている訳なんです。

 それにしても、世界マラソンで優勝した浅利純子さんと三位の安部友恵さん。二人が、ゴール後に倒れた松野明美選手を抱きかかえる姿には感動しました。

●第五十三号/平成五年九月二十日

  妻、母そしてシベリア

 秋田市山王・トーカンビル地下に焼鳥ひょうちゃんちう店があった。カウンターで飲んでると、あるお客がやってきた。マスターの寛さんは飛んで行く。「おかげさまで親父の命が救われました、一生ここはタダですから」といって、お酒を注ぐ。その方は、苦笑いしながら杯を傾ける。坂本哲也氏。秋田大学医学部脳神経外科の助教授。寛さんの父親が脳腫瘍になり、その手術の執刀医だった。
 坂本助教授とは後に電車の中で一緒になり、あの時の手術は難しかったが、我ながらうまくできたと語ってくれた。
 それから十年はたったろうか。焼鳥ひょうちゃんは残念ながら店を閉め、名医、坂本助教授は秋田組合総合病院に移られていた。

 昨年夏、仕事場に横手の坂本きねさんとい女性から電話がかかってきた。シベリアで抑留死した亡夫の死亡場所についての問い合わせである。
 六月にシベリアへ墓参に行った。戦友の方が描いたスケッチを手がかりに主人の死亡場所を訪ねたが、県庁に記録されている場所と違うので調べてほしいとのことだった。
 私は坂本さんのご主人良太郎氏が亡くなったとされるウラジオストックの北方、ウオロシロフ地区マンゾフカに近い収容所前部の地図を見て探した。そこには湖に近い収容所はあったが、新聞に載っていた戦友のスケッチに描かれていた川に近い収容所は見あたらない。

 秋田県の旧ソ連邦抑留死亡者は千二百八十二人。パソコンに半年かかって入力したが、死亡者のダブリや死亡場所の間違いが随分あった。
 私は横手の坂本さんに連絡した。死亡場所がマンゾフカだとは断言できないし、そこにあった全部の収容所の地図を見ると、スケッチにある橋がかかっていると考えられる場所はなかったと。
 坂本さんから電話がすぐにかかってきた。長野の戦友の池田さんが書き残したノボリニスクの小さな橋の見えるスケッチと同じ場所を偶然に発見し、日本人が埋葬されたという草原に自然と足が向かい、歩いて行ったという。
「その時、体中が熱くなって、もかもかして、心臓がドキドキしてきたんです。私はきっとここに主人がいるんだと思ったんです」
 偶然でも自然にでもない、亡き夫が四十五年ぶりに訪ねた妻を呼び寄せたのであろう。
 同行した息子さんはその時の様子を手記に残している。
「母がここで亡くなったのだといってきかないので、その場所で読経を始めると「ワーンワーン」という音が聞こえてきた。最初耳なりだと思ったがそうではなく、俺を連れて行ってくれと、地下に埋葬されている男達が激しく泣いている声だと感じた瞬間、体が硬直した」
 坂本良太郎氏は出征前、東北大学の中国哲学の助教授。竹内義雄教授の門下で、竹内先生は亡くなるまで坂本助教授の死を悔やんでおられたという。
 昨年、坂本さんは夫の菩提寺である能代市の西福寺に墓標を建てた。それには、孔子像が彫られ、学弟であった東北大学名誉教授の金谷治先生が、最終講義で残されたという言葉が揮毫されている。
 死して亡びざる者 寿ながし
             老子
   尚わくは享けよ

 焼鳥ひょうちゃんで会った坂本助教授はきねさんの息子さん。
 九月十六日。名医の母は鎮魂と彫られた銅版を抱えて、再びシベリアへ向かわれた。夫の眠る地に鎮魂の碑を建てるために。

 シベリアの大地には今も、六万人の同胞の英霊がさまよっている。

●第五十四号/平成五年九月二十日

  背もたれ

 秋田駅前。総合生活文化会館というよりアトリオンと呼ばれるビルがある。九月末。そこで若い友人と待ち合わせ。時間があったので、一階の千秋美術館を覗いてみる。どこから入ったらいいのか、戸惑う。中にロビーの奥の方にビデオコーナーがある。誰もいない。長椅子が二つある。よっこいしょと座る。立ち上がってビデオをつけてみたら、近代絵画の歴史で遠近法の発生などが写る。背もたれがないので疲れてくる。横になって見た。四、五分ほどビデオをみていたろうか。入場券売場の中にいた女性がやってきた。いわれた。
「ここは寝るところじゃありませんから、よそいってください」

 敬愛する大先輩からこの話を聞いて思い浮かぶ。県職員となって大館市の北秋田財務事務所に初出勤したのが、昭和四十六年一月六日。事務所に引っ越し荷物が届いていて、といっても布団袋だけ。タクシーを呼んで下宿に布団袋を乗せていこうとしたら、牛乳瓶の底のような黒メガネの庁職員の方が、下宿はすぐそこだからと、布団袋を軽々と担いで前を歩かれた。
 その人、要さんこと、田中要蔵さんとは気が合って、よく一緒に大館のホルモン道場で飲んだ。
 四月になった。仕事場の机の椅子が変わった。平社員にも肘掛け椅子がきた。ところが要さんやおばさんの本川セツさんの椅子は肘掛のない椅子のまま。冗談じゃないと、私は肘掛け椅子を総務係に返した。「何でだ・・」と聞いたら「何で・・いいじゃないか。後でくるから・・」という。「じゃあ、要さん達にも肘掛け椅子がくるまで、俺は今までの椅子に座ってるよ」
 定年退職する要さんに、大館焼きのお銚子セットを贈った。要さんはそのお猪口で晩酌やって、小生を思い出していると聞いた。職員にも、お客さんにも優しかった要さんは、もうこの世にいない。

 八月のふるさと塾で講演をして頂いた稲川町の藤原信好さんがいわれている。
「施設は簡単に造るが、それをどう運営していくかという、ソフトの面が秋田県は足りない。稲川町にも立派な施設がありますが、どうやったら使う人が使いやすいかという視点が全くない。どうしたら管理できるかということを一生懸命やっている。当然、管理されるお客は嫌がります」
 前途の大先輩の話を聞いて私は、翌日の昼休み、千秋美術館のロビーの長椅子に座ってビデオを見てみた。確かにこれじゃあ見せてやるの管理的発想である。背もたれのない椅子では、ゆっくり見れない、リラックスできない、誰もいなければ横になりたい。
 ビデオは見るものではない、観るもの、だから長居をしないで早く帰れという訳か。
 千秋美術館の受付の女性が、背もたれのない長椅子に横になっていたお客にいえなかったろうか。優しかったおじさん、要さんだったらまずこういうだろう。
「お客さん、どこか具合がわるいのですか」

 人間の尊厳を傷つけたその受付の女性を責めることはたやすい。
 藤原氏のいうように、使う人の立場になって考えていない我県の施設。美術館だけを責められない。
 こうしよう。何、背もたれ長椅子を買いたいが予算がない。それじゃあ、善急(善は急げ)行政予備費からだして、すぐに対応しろ。

 毎日新聞秋田支局の神田順二支局長から聞いた。北九州市役所のロビーは夏涼しく冬暖かい。お年寄りが気軽に訪ねて団らんし、子供が走り回る。追い出すような意地悪な職員はいない。そこには、背もたれのない長椅子などはない。

●第五十五号/平成五年十一月二十日

  山本満喜子さん

 「デヴィ夫人とパーティで会ったらこんなのくれたよ。いらないからあなたにあげる」
 それは写真(裸のではない)だった。軍服姿のスカルノ・インドネシア大統領と一緒に写った更紗を纏った若いデヴィ夫人の姿があった。サインまでしてある。断わる理由がなかったので、その写真を受け取った。これが山本満喜子さんとの最初の出来事だった。
 大学二年の秋。もう二十八年前になる。中南米研究会の幹事長になって、先輩の増島貢さんがキューバを研究するんだったら満喜子さんにあったほうがいいといって連れて行ってくれた。恵比寿にあった満喜子さんのアパート。丁度、引っ越しの準備であった。
 彼女は小柄で色が黒く、眼が大きくて、いかにもエネルギッシュな美人だった。日本海軍の育ての親、海軍大将で総理大臣も務めた山本権兵衛の孫娘。自分には薩摩の血が流れていると何時も語っていたし、桜島を愛し、幕末の好きな志士は平野国臣だといっていた。
 私は中南米研究会の幹事長となった三年の早稲田祭で、我研究会は「キューバ革命とラテンアメリカ」と題して展示発表をした。その際にも、青山の大きな洋館に引っ越していた山本満喜子さんを何度か訪ね、いろいろ指導して頂いた。
 文化祭が終わって、青山の満喜子さん宅を訪ねて言った。
「キューバに行きたくなったんです」
「あっ、そう。行ってきなさいよ。官房長官のセリア・サンチェスに電話しといてあげるよ」
 ほんとに電話してくれてた。
「来年の夏に日本から学生を六人まで招待するというから、あなた、集めて行って来なさいよ」
 四十二年の夏。キューバのスカトロ首相とゲリラ的作戦で会えた時に山本満喜子さんの話をしたら、まだ黒かったアゴヒゲを広げて、「オー、マキータ」と笑った。

 私は風来坊で、四国の松山で盲腸炎の手術後、東京に戻ってから、青山の山本宅でしばらく居候させてもらった。その間に、多くのことを学び、様々な人間を紹介してもらった。左から右、皇族の島津貴子さんまで。当時の彼女はキューバのウナギの養殖をさせようと熱心だった。日本キューバ友好協会を作ったが、共産党に乗っ取られたと、キューバ文化交流研究所を作り、事務局長役が藤本敏夫。それで加藤登紀子がよく来ていた。
 山本さんは、熱心な創価学会の信者だが、日本にも近く革命が起きると広言してはばからなかった。
 満喜子さんは紫が好きだった。学習院女子部時代、皇后様を平身低頭して迎えなければならない。見てはいけないのを頭を上げて見てしまった。その時、着ていた洋服が紫。おかげで停学処分にされる。
 学習院の不良少女はそのまま大きくなって、離婚後、アルゼンチンへ渡り、ペロン大統領の革命に共鳴したが、挫折。カストロのキューバ革命が起こるとキューバへ飛んだ。ハバナの海岸で、カストロと会った時に流れていた歌が、「太陽が燃える時」だった。情熱的なこの歌は何度も聞かされた。

 作家の村松友視が山本満喜子さんのことを「バラのつぼみ」という題で本にした。アカプルコの山本さんに読んだよと手紙をだすと、めったに書かない人が返事をくれた。「あの本は私をちょっと取材しただけで、本当のことを書いてないよ。あなたの方が良くわかっているのよね。今、池波正太郎を読んでるの。ここに落ちつくから一度、遊びにいらっしゃい」
 同封された波乱万丈の彼女の写真は随分痩せていた。三年前。

 山本満喜子さん。この七月にアカプルコで死亡。九月になって新聞に載った。八十歳を越えていた。外国のお袋に寂しい死に方をさせてしまった気分なんです。(合掌)

●第五十六号/平成五年十二月二十日

  ローマの急日

 ローマからナポリへは高速道路で約四時間。世界初の高速道の沿道には広告の看板、余計な交通標識はほとんどない。この高速道路に乗った田中角栄氏は思った。日本にもこんな道路をいっぱい造ろう。角さんは日本国中に高速道路を造ったが、脳梗塞になってしまって、もう高速道路には乗れない。「ノー高速」。雪国と太平洋側との格差を性急に解消しようとした。共感を覚えていた。(合掌)

 十月二十五日午後。快晴。ナポリの景色はベスビオ火山に白亜の建物と青い海、絵葉書から抜け出したように美しい。「ナポリと見てから死ね」というがまだ死ねない。帰りの高速道路を走るバスの中で、日本人バスガイドに聞いた。沿道に広告が無いのは何か規制しているのだろうか。ローマ在住二十年のその彼女はこう答えた。「さあ、古代からこうなっているんじゃないでしょうか」
 観光バスがローマ市内に入ってくるとさすがに広告看板が見える。
 夕方六時頃に、映画「終着駅」で有名な駅に近いホテルマッシモに到着する。ヨーロッパスタイルのホテル。古き西洋のホテルの良さを持っているといっていい。
 機能優先のアメリカ的ホテルと違って、鍵がカードなんかではない。キーホルダーを大きくしたようでずしりと重たい。エレベーターも狭くていかにも釣り上げられるよう。部屋に入ると天井が高いのが気に入った。バスルームも広い。夕食はカンツオーネを聞かせるレストランだそうだが、ロビー集合が七時半。一時間近く間がある。急に思い立った。ロビーに降りていって、フロントで聞いた。
「近くに床屋さんははないですか」

 学生時代の昔、キューバの床屋へ行って、短くしてくれといったら、電気バリカンでガガーッとやられ坊主にされたことがあった。
 レニングラードでは美人の床屋さんにカットしてもらう。モスクワよりレニングラードがいいんだといったようなことを話していた。
 上海の「人民理髪店」では白衣に十八番と刺繍されている陳有良さんにカットしてもらった。髭をそるのにタオルで蒸らすが、石鹸を使わないで剃るのには驚いた。

 ローマの床屋さんは、ホテルのフロントのおっちゃんが教えてくれたとおりの場所にあった。石造の建物の一角。中に入る。銀髪の理髪師が二つある椅子の一つに座っていた。入ってきた私を見て、急いで立ち上がった。目があった。私はニヤリとした。笑顔が返った。これでいい。
 だが、こちらの心臓英語はからきし通じない。あとは手真似。人差し指と中指でハサミの格好をして、切ってくれとやった。短いという意味のコルトといったら「オウ、コルト、何とかかんとか」スペイン語とイタリア語は親戚みたいなもので、スペイン語でやったら何とか通じたらしい。
 時計がないので、時計を示し、七時まで急いでやってくれといったら、大丈夫とのそぶり。ローマの急日である。色気は全くなし。
 椅子に座らされ、白布をかけられた。水で髪を濡らしカミソリで、まだそれなりに残っている髪の毛をジョリジョリとやる。うまいもんです。ハサミはほとんど使わない。うなじの部分の毛は、石鹸を使わないで剃る。別に痛くはない。時間が無くてシャンプーは省略してもらった。全体的に短くしてもらった訳だが、鏡を見て、まあまあ。ローマカットの出来上がりである。料金は聞いても幾らかわからない。ズボンのポケットからリラ紙幣といっぱい出して、その中からつかみ取ってもらう。その床屋さんから名刺を貰った。名前はマリオと読めた。彼と握手して別れる。外にでると頬に風が、心地よく当たった。