呑風便巻頭言 NO31〜NO43 1991.10〜1992.10
 
  彼岸花 山・森・田 望年 腱鞘猿 白衣 雪割草 春蘭 扇谷さん、有難う 臍 地球はまるい    灯ろう ノーサイド  花と緑と長嶋監督   

●第31号/平成3年10月

  彼岸花

 熊本市川尻町。初春。女房の実家の裏手に小さな神社がある。天神様だ。その境内の角にチューリップ大の球根が浮き出ていた。
五個ほど失敬して、北の国に持ち帰り、雪が消えてから自宅の軒先に植えてみた。やがて、細長い肉太の葉が数枚出て夏に枯れた。秋になって白い茎が伸びてきた。発芽がでてひらいた。彼岸花だった。

 九月十七日の午後。仕事場に電話があった。学校のクラブの先輩、静岡県議の森竹次郎さんである。
「駄目だったよ。今日の12時過ぎだった。佐々木君から鳥海山のお守りをもらったんだけれどなあ。18日がお通夜で、19日が葬式。忙しいだろうから電報でも打ってくれたらいいよ」下田の大先輩、森貴義さんの訃報だった。

 20日の午後4時。東京駅のホーム。伊豆急下田行きの踊子号は伊豆高原止まり。集中豪雨でその先が不通。バスが代行運転する。熱海を越え、伊豆急鉄道に入ると車窓から真っ赤な彼岸花が通り過ぎる。秋、関東から太平洋側の南に自生する、彼岸花の赤い色が続く景色は、北国にはない。

 彼岸花の咲く頃だったろうか。学生時代に、伊豆下田を自転車で下田の森さん宅を目指して走ったことがあった。夜中に森家の玄関に辿り着き、一家総出の笑顔で迎えてくれた。
 初めて下田を訪ねたのは、春。中南米研究会というクラブの幹事長になって初めての合宿だった。先輩の森竹冶郎さん宅が民宿をやっておられた。父上の貴義さんは当時、下田町の助役をされ、やはり大学の先輩。森家での合宿で、やさしいお母さんや家族のお陰で、温かい思い出ができた。

 以来、出張で東京にこられた森大先輩から呼ばれ、有楽町の交通会館回転レストランでご馳走になったり、すっかりお世話になる。遠慮なく甘え、海を見たくなると、片道の汽車賃しかなくても、踊子号に乗って、下田へ向かった。

 この日の下田行きは悲しい。森家には夜の九時過ぎに着いた。玄関にお母さんが笑顔で迎えてくれた。
「遅くなりました。お葬式に間に合わないですみませんでした」
「いいんですよ、忙しいのによく来てくれました」
 竹冶郎先輩に奥さん、長女の福江さん、次男の正夫君の顔も見える。まるで二十五年前に自転車でたどり着いた時のよう。
 いや、あの時とは違う。すぐに二階の祭壇に向かう。森さんの写真をしばし眺めた。(遅くなって申し訳ありません。ほんとにお世話になりました、有難うございました)手を合わせ、涙をこらえた。
 ご飯がまだでしょうといわれ、居間で遅い夕食を頂いた。森兄弟とビールを飲みながら親爺さんの思い出話をしていたら、お母さんが来ていわれた。
「そうそう、この間、佐々木さんから送ってもらった鳥海山の絵馬ね、おじいさん、とってもよろこんでいましたよ。お棺の中に一緒に入れてあげましたよ」
 それを聞いた途端、目頭が熱くなった。目に涙がいっぱい浮かんできてしまった。ハンカチで拭いても涙が止めどなく出てきて、仕方がなかった。

 下田を去る前。次女の竹代さんからお墓へ案内してもらう。そこは港を見下ろせる高台にあった。
 慈勝院貴翁白石居士。森貴義氏は早稲田と囲碁を愛し、ふるさと下田をこよなく愛された。
 お墓の角には、枯れそうになった彼岸花が一輪、寂しく咲いていた。(合掌)


●第22号/平成3年11月20日

   山・森・田

 山形・上ノ山温泉のホテルから電話。十月十七日の夜。
「明日、おられますか」
「いるいる、泊まっていけや」
と山形・金山町長の岸宏一さん。

 翌日、午前11時。新庄駅前からバスで13号線を北上し、金山町へ向かう。このバスには20数年前にも乗ったことがあった。
 学生時代、クラブの先輩から、山形に帰って頑張っている岸という同級生がいるから是非会ってこいと。その岸先輩は当時26歳で町会議員をされていた。5歳上の先輩は当時から実に太っ腹で、頼もしい。30歳で町長になられた後も何回か訪ねてはお世話になった。57年3月、地方自治体で初めて「情報公開」を採用し、全国に金山町の名が知れわたった。朝日新聞のトップに岸先輩の写真入りの記事が登場。後日、その話を聞くと「なあに、学生時代の同期で朝日新聞に入った田岡にいわれてやったんだよ。ま、利用者は少ないが、おかげで胸を張って金山出身だといえると喜ばれたよ」とあっさりとしたもの。

 町長室。「おお、おーよく来てくれた。なに、泊まれない。残念だな、一杯やろうと思っていたのに、ところで飯くったか」
役場の隣にある岸家で昼飯を頂きながら、地域づくりの哲学と将来のビジョンを伺った。
「佐々木君、これからの村づくりは美しい村づくりだぞ。それで人も集まる。それには水が大事だ」
 町の中心部を流れる用水路はコンクリート三面張りではなく、石割りで趣があり、200匹の錦鯉が泳いでいた。金山杉をふんだんに使った石壁の木造家屋の町並みは落ち着きがあって美しい。
 町長室に一枚の色紙があった。

「水清き杉のあるさと
  金山に 君がいのち果てむか
         北游山人 」

「来週、青森でこの町の顧問の東京女子大学の伊藤善市先生と会ってきますよ」
「そうか、地域開発研究の第一人者で素晴らしい先生だから、よろしくいってくれ」

 11月23日、青森市で開かれた地域産業おこしフェアの交流会が港を見下ろすアスパム(青森観光物産館)で開かれている。
会場で伊藤善市教授にあいさつ。
「ああ、会魔の佐々木さん」この日のシンポジウム「これからの人づくり、その戦略」で、私が会をいっぱい作った話を聞いておられたらしい。
「岸さん、そう素晴らしい町長だよ。あなたも頑張ってください」と激励されてしまった。

 交流会が終わって、夜10時。元朝日新聞秋田支局長で東日オフセット工場長の敬愛する里見和男先輩。
 案内してくれたのが「万燈」という小奇麗な小料理屋。カウンター奥に着物姿の品のいいお婆ちゃん。万燈の意味を聞いたら、
「まんどろ、の意味です」
「?」 
 ここからきたんですと津軽弁の詩を詠んでくれた。

 冬の月    高木恭造

 嬶ごと殴いで戸外サ出ハれば
 まんどろだお月様だ
 吹雪イだ後の吹溜こいで
 何処サ行ぐどもなぐ俺ア出ハて来たンだ
 ドしたてあたら憎ぐなるのだべナ
 憎がるのア愛がるより本気ネなるもンだネ
 そしたら今まだ愛いど思ふのア ドしたごどだバ
 ああ 吹雪と同しせエ 過ぎでしまわれば
 まんどろだお月様だネ   
               (方言詩集 まるめろ)

 山形は山、青森も森から脱却している様子。秋田は依然として田んぼからの発想が続いている。
 あきたこまちで頑張ればええでろが。


●第33号/平成3年12月20日

  望年

 今年も目立たぬよう、おとなしく生きていきます。と書いた写真入りの年賀状をもらった。
 学友で作家の小田豊二から。写真は中東のどっかの砂漠で写した、アラビア人の格好をした小田だった。

 今年も小生の年賀状も、彼の言葉をユーモアなしで真似た。雪上野球のメンバーと一緒の写真に、目立たぬようおとなしくしたいと書いた賀状を、1564枚だした。去年の2月に「私の地域おこし日記」という本を出し、秋田で4ヵ所、東京と佐賀で出版記念会を開いてもらった。多くの友人の色々迷惑をかけたし、今年は目立たぬよう、おとなしくしたいと考えた訳である。
 その後、小生の年賀状を見た友人諸兄から手紙を頂いた。
「目立たぬよう、おとなしくとは佐々木さんらしくない、大いに目立って活躍してください」とかえって激励を受けてしまった。

 学生時代の恩師からいわれたことがある。「自分の個性に忠実に生きろ。佐々木は佐々木らしく」いい言葉だと実感を覚えた。
 そうはいわれても、自分の個性がこうで、それを十分に発揮でき、簡単に受け入れられる社会ではないことは皆わかっている。
 それぞれの人間の個性をお互いに殺しあって,なりわたっている社会ともいえる。

 近年、人間や社会も地域も、個性豊な成長をしてゆかねばといわれてきた。地域に関しては、小生が以前からいってきたことでもある。都市化即東京化ではない。個性豊な地域づくりを目指そうと昭和50年、毎日新聞の郷土提言に書いた。

 この世の中には、より豊な物的生活と、より豊な精神生活(こころ)を追い求めて人間も社会も動いている。物的欲求や便利文明が優先され、こころの充足が後回しにされていた。
 戦後の経済復興を底辺で支え、高度成長を作り出してきたのは、都会へ出た農家の次三男坊達だと思っている。彼らは帰る家がないから、がむしゃらに働き、結婚して家を建てる。上司の悪口を飲み屋の姉さんに聞いてもらい、カミさんの小言に耐えて、子供を成長させた。そして定年。気が付いたら趣味も何んにも持てなかった。物の充足を優先させてきて、いまさら、こころの充足感を求めようとしても何をいたらいいのかわからない。余暇を本暇にできない。今まで自分の個性を殺して、組織社会の中で生きてきたのだ。自分の個性を最大限に発揮できたら、はみだされてしまっただろう。

 自分は個性豊な人生を送りたいと思っている。「あなたらしくない」と好意的な手紙を頂いた。その好意に甘んじ、今年も、おとなしくしていられなかったようだ。
 6月に、ナホトカとウラジオストックへの洋上セミナーに参加。これは、近い将来、環日本海洋上セミナーを提案している自分としては、行ってみる必要を感じたから。本荘沖で遭難死したウラジオストックの漁民ニコライ少年の遺族を探し、露国遭難漁民慰霊秋田委員会を創ろうと考えたからでもあった。
 今年は、講演やシンポジウムのパネラーが、県外を含めて10回ほどあった。地域づくり、人づくりに関する話が多かったが、ことばで歴史は創れない。来年も多くの仲間と、ホットして、ハットしてヒットする地域づくりに汗を流したい。

 今年も又、嬉しいこと、悲しかったこと、屈辱を呑んだこと、色々あった。忘れずに来年への望みをしたい。望年会はあと3回。
 肝臓あたりをさすっています。


●第三十四号/平成四年一月二十日

  腱鞘猿

 秋田市山王大通の交差点。暮れも押し迫って、休日の昼でも車が渋滞している。赤信号の間、助手席に置いていた年賀状を取出し、ハンドルの上で印刷された賀状の隙間に、添え書きをチョコチョコと書き出す。一、二枚書いたら、後からププーとクラクションを鳴らされ、急いで車を発進させる。こんなことをやってて心のこもった添え書きを書ける訳がない。この反省は毎年のこと。

 年賀状が千枚を超えるようになって、五年前から宛名はワープロの助けを借りた。その分、じっくりと相手への呼びかけの添え書きが出来ると思ったが、毎年、大晦日の前日まで、年賀状をしこしこ書いている有様である。 
 今年の元旦。暗いうちに実家の近くの神社へ初詣に行った。二礼し拍手を二回打った。なぜ二拍なのだろかと思った。なぜ、年末まで年賀状の添え書きに苦労するのだろうか。今年は「なぜ」を大事にし、面倒がらずにその究明に努力してみよと思った。
 参拝し終わって、二時頃寝て、八時に起きて朝食。とろろ飯を三杯以上食べるのがしきたりである。三杯食べた。これで今年は健康に過ごせる。九時頃、電話が鳴った。作治さんからだとおふくろ。しまった、尺八を持ってこなかった。毎年、正月元旦は部落公民館で行なわれる一礼祭に参加し、数年前から、来年は佐々木作治君の三味線と小生の尺八で合奏しようと約束していた。
 電話にでて、「悪いな、今年も尺八忘れてきたよ」というが、尺八を持っているという。彼は大内町出身で三味線の佐々木実先生が主宰する睦実会で頑張っている中学校の後輩。家の倉庫の二階が稽古場になっているから稽古に来てくれという。公約は守らねばならない。
 彼の稽古場に行くと、民謡用の尺八が何本もある。五寸の竹が合う。何とか音が出た。彼の三味線で年始めの歌を合奏するがどうも半音が多すぎて合わない。一礼祭は十一時から始まる。時間がない。じゃあ何か民謡にしようと。自分が伴奏できる民謡は「南部牛追い歌」しかない。彼は歌もうまく、何とかいけそう。
 一礼祭は毎年の楽しみ。郷里の方々と飲むのは実に楽しい。宴会たけなわとなった頃、作治君と「南部牛追い歌」をやった。拍手喝采であった。
 二日に秋田市に戻ってきた。年賀状をみて、自分よりも多忙な方々から、心のこもった添え書きを発見し、嬉しく感じ、来年の年賀状の添え書きは車の中で書くようなバカはすまいと決心。
 年賀状に交じって、文房具メーカーからのダイレクトメールがあった。その中に「柏手」のことが載っていた。柏手は神様を招き寄せるための響きだとある。太鼓や笛と同じで、空気の振動によって行なわれる「霊振り」の儀式。だから別に二回と決まったわけではないが、あまりパンパンやられたら神様も騒々しくてたまらない。それで明治以降、二回にしようとなった。出雲大社では柏手を四つ打つことになっているとの事。出雲の神様は耳が遠いのであろうか。

  これで初詣の時の「なぜ」はわかった。毎年の年賀状の遅れの原因は最初から解っている。準備不足。それを補うために、人間と猿の違いである、道具を多いに活用したい。今年はサル年。パソコンのハードディスクを買った。多くの人間データを打ち込むつもり。その前に、去年から痛めている左手の腱鞘猿を治さねばなりません。

 苦しいオチですいません。


●第35号/平成4年2月20日

  白衣

 四十六年、人間やってきて入院したのは一回。二十二歳の風来坊時代。四国の松山。瀬戸内海の温かい微風が吹く町だった。
 秋。蜜柑山は濃い緑にオレンジ色が映えてくる。蜜柑農家に泊込み、みかん摘みをしていた。蜜柑を食いすぎたわけではないが、急性盲腸炎になってしまった。急ぎ松山市内の病院に入院となって手術。その頃から酒飲みだったので、麻酔が効かなくて、手術では唸った。
 入院中は暇をもてあまして、考えるのはイタズラ。検温にきた研修中の看護婦さんをびっくりさせようと、体温計を毛布でこすり、四十一度にして、何気なく渡す。その愛媛美人の看護婦さん、血相を変えて走り去っていった。そして、太った婦長さんを連れてきた。彼女は太ーい注射器をふりかざしていた。あのこわそうな婦長さんの白衣姿は忘れられない。

 最近の恐い白衣姿の医者の話。秋田市内のある病院の耳鼻科の先生。患者に対して口を開かず、指を右、左に指示して顔を動かさせる。あっちむいて、ほいをやってた訳。患者が「風邪だと思いますが」といったら、「病気は医者の俺が決める」と怒鳴った。彼奴は医者じゃなくて威℃メだと考えて、診察を受けずに外へ出た。
 医者はどうして威張りたがるのであろうか。司馬遼太郎の「風塵抄」を読んでいたら思い当たった。
 威張りの根っこは江戸時代の御典医≠ニ百姓≠フ関係にあるという。診察になると、士分である医師は、患者との身分がひらきすぎだ。患者は士分の医師に卑屈にならざるをえなかった。
 医者の白衣にしても、患者の病菌から防ぐために、純白の外衣をつけて用心する。患者のための白衣では決してない。
 宮内庁の侍医は、天皇陛下を診察される時は決して白衣はつけない。白衣は患者さんの病気から医師を守るという意味があり、白衣を着て陛下の前にでることは、大変な失礼にあたるからである。

 昨年12月、タッチラグビーの大会会場で敬愛する瀬下和夫氏が熱っぽく語ってくれた。
「この秋にアメリカ・ミネソタのロチェスター市の病院を見学してきたんですが、感心しました。病院の設備も素晴らしいが、医者が白衣を着ていないんですよ。患者の立場にたって親身になってやっているんです」

 日本にだって白衣は着ていても“威”者ではない素晴らしい医師がおられる。秋田文化座友の会の荒谷紀子さんは、市立秋田総合病院で大手術を受け、先月無事に退院された。現代医学のお陰だとの手紙を頂く。それに主治医の添野先生の励ましがあったからだと。彼女が退院の時、「荒谷さんは顔で笑って、心で泣いていましたね」と添野先生からいわれた。彼女は答えた。「泣いたのは嬉し泣きでしたよ」「そうかなぁ」
 添野先生は無口で一見、おっかなそうだが、朝、患者さんに「おはよう」と挨拶する笑顔がとても素敵だ。それに温かいユーモアの持ち主。患者さんのベッドの横のスチームに腰掛けては、病状を詳しく説明してくれる。手術前の不安な気持ちを慰め、励ましてくれる。「何時か、あんなこともあったかと夢のようになりますよ」
 手術後も「一週間、あっという間だったでしょう」と。
 励ますだけでなく、患者をいつも笑わせるように心がけている。真のユーモアとは、心の優しさ、人への思いやりから生まれるものなのであろう。

 大切なのは白衣の内にある心。


●第36号/平成4年3月20日

   雪割草

 東京駅八重洲口。国際観光会館の三階にある宮崎県観光あっ旋所を訪ねた。三月四日雨の午後、所長の長沼武之氏が不在だったので、名刺に明日又寄ると書いて女子職員に渡す。
 夕方、東京駅発六時の総武線の成田エクスプレスに乗り、成田空港へ。ノンストップで成田空港駅には五十五分で着いた。改札口では荷物の検査が行なわれている。
 北ウイングの出口に小さい車が止まっていた。乗り込む。運転者とがっちり握手。
「おお、何時から車を運転するようになったんだ。土井さんが車とはなあ」
「俺が運転するのは似合わないといいたいんだろう」
 土井脩司氏、心の盟友。二十年前に成田空港側の芝山町で、花と平和のシンポジウムであるフラワーレボリューションを提唱し、はなの企画社を設立した。空港横に二fの花の農場を建設し、七十二年には花と緑の農芸財団を設立し、長嶋茂雄氏としてフラワーヴィリッジ構想、花の輪運動を展開している。
 空港から柴山町山中の彼の家までは、車で二十分。家の中には桜草の鉢がいたる所に置かれている。
 もう一人の大事な友人、槌屋治紀氏が来てくれた。昔、CTJ(コンピューターテクニックグループ)を作り、日本で初めてのコンピューターアートや映画を造った仲間のリーダーだった。彼は今、システム技術研究所を設立し、コンピューターとエネルギーの専門家として活躍している。
 今日は私のこれからの話で集まってくれたのだが、それよりも久しぶりの彼ら話を聞いたほうが役に立つ。酒を酌み交わしながら三人で昔話になった。
 土井氏が、まだ花の企画社を始める前の二十数年前だった。ベトナム孤児救済運動を行なった彼を訪ねて、ベトナムからビザなしで日本にやってきた青年がいた。土井と一緒に羽田空港の入国管理事務所へと行き彼を貰い受け、空港前のホテルへ案内。外出禁止を言い渡されたその青年、フャンコク・バオを変装させ、ホテルから脱出して、当時新宿区方南町にあった彼のアパートで歓迎会を開いた。終わってからバオと一枚の布団にもぐりこんで電灯を消したら、「ホワット シャル アイ ドゥー イン フューチャー?」とつぶやく。彼は帰国したら千条へと行かなければならない。だから、死ぬ前に日本の親友土井に会いに日本にやってきたのだ。
 山中の家の五日朝。昨夜は小生の「ホワットシャルアイドゥーインフューチャー?」の相談にゆっくり入れなかった。掘り炬燵に入って庭に咲く三色すみれを眺めていた。土井が突然いった。
「そうだ、秋田を返せとやればいい、お前は雪割草になるんだ」
 その日の午後。東京駅八重洲の宮崎県観光物産あっ旋所へ。長沼所長がにこやかに迎えてくれた。
「丁度よかったですよ。佐々木さんが来てくれた昨日の宮崎日々新聞に載りましたよ」
 それは、四日付けの宮崎日々新聞社溝口記者の記事だった。去年の十二月、秋田の協和町へ長沼さんと溝口記者を案内した時のこと。秋田戊辰戦争で戦死した宮崎・佐土原藩士の足跡を書いた記事で、戦場跡や佐土原藩士のお墓の写真が大きく載っていた。長沼さんがいう。「佐々木さんが丁度きてくれた日に新聞に載るとは偶然ですねえ。これから宮崎に帰って、遺族探しに頑張りますよ」
 翌朝六日秋田。仕事場に出勤すると机の上に、黒い小さなビニール鉢に白とピンクの雪割草が置かれていた。これも偶然か。


 ●第三十七号/平成四年四月二十日

   春蘭

 公舎の玄関脇の紫陽花。その根元に植えている春蘭の蕾がふくらんできた。三月中旬。春蘭の根は白く太く、横に張っているため、簡単に引き抜ける。二鉢に植えかえて玄関に置き、もうひとつは居間の窓際に吊した。一週間ほどして窓際の蘭の蕾が開いた。花は陽に当たる方向に向いていて、清楚で美しい。日の当らない玄関の春蘭は、窓際の花から一週間遅れて咲いた。こっちの花は茎が短く、野性の春蘭と同様。

 野山に咲く春蘭は、どちらかというと北向きの半日陰の傾斜地に育ち、日の当たる場所を好まない。

 松村謙三先生が蘭の愛好家で、戦後絶滅しかけた支那蘭を中国から引き取って育ててこられたことはあまり知られていない。数年前の三月、東京・鷺の宮の松村先生のご自宅を訪ね、松村先生の仏壇に焼香をあげたら、先生の次女の小堀治子さんから、父が育ててきた蘭を持っていきませんかといわれた。温室に案内され、咲きかけている支那蘭を一鉢頂いた。春蘭の一種で、名札には「玉梅素」とある大事に持ち帰って家の居間においたら、すぐに花を開いてくれた。日本の春蘭よりは少しこぶりで、葉も細く、格調高い趣。

 大事な松村先生の命を引き継いでいる「玉梅素」を枯らしては大変と、今は象潟町の園芸に詳しい義兄に育ててもらっている。

 以前、秋田県の労働部長をされた富山出身の森松孝作さんという方がおられた。豪放磊落なお役人だったようで、芝蘭という随想集を出された。それを父親の本棚で見たことがあった。「芝蘭」には、郷土富山の大先輩、松村謙三先生からたしなめられたことが書いてあった。出張先から、松村先生へ手紙を出し、その後、先生とお会いした時に、何かご教示をと伺ったら、「君からこの間もらった手紙、役所の罫線を使っているがあれはよくないよ」といわれ、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしかったとあった。

 森松さんは労働省退官後、郷里富山・福野の町長をされていた。
 松村謙三記念館が富山・福光町にある。参議院議員の秘書をやってた頃、その記念館を訪ねたら中に、松村先生に関する新聞のスクラップが展示されており、提供者が森松孝作氏とあった。

 四十六年から役所務めをして以来、その森松さんが受けた松村先生の戒めを心している。最初の勤め先には公衆電話がなく、役所の机の上に私用電話の料金箱が置いてあった。私用の電話を使って料金箱に入れるのは自分だけ。ある時、係長から呼ばれ、机の後のほうで低い声でいわれた。「私用の電話を使っても料金は払わないでいいよ。役得だと思って」

「いえいえ、他の人が払わなくてもどういうことはないんです。これは自分の信念ですから」といってとりあわなかった。

 それからしばらくして、役所の玄関横に赤電話が付き、まわりを気にしないで電話を私用できた。自分の信念だなどといってしまったが、当たり前のことである。私の時間を地域づくりに過ごし、自腹を切ってパソコンなどを買って公務に使っているから、逆の意味で公私混同ですねといわれても、どういうことでもない。
 我家の窓際に咲いた春蘭は、咲いたと思ったら、二、三日して枯れてしまった。日当たりが良すぎて、温かすぎたのだろう。花の茎が伸び切って、赤茶色にしなびてみっともない。一方の玄関に置いた春蘭は力強く咲いている。三月の末。醜く枯れる前に、この春蘭をふるさとの土に戻してやった。


 ●第三十八号/平成四年五月二十日

   扇谷さん、有難う

 四月十二日の新聞記事。
「週間朝日」名編集長、扇谷正造氏、四月十日、心筋こうそくのため府中市内の病院で死去。七十九歳。

  「現代文の書き方」扇谷正造著(講談社)を読んでいて解った。
 いい文章は短文で書くこと。
 その本を読んでの出張の帰り。秋田市のあるホテルの前を通ると講演会の立看板を見つけた。
「桃太郎の教訓」講師扇谷正造先生とある。会場を覗いたら知り合いがいて、一番前の席に座らせてもらった。やがて扇谷講師は淡いサングラスをかけて登場された。
 話し方がまるで、「現代文の書き方」のとおりで短文口調。笑わせる。頷かせる。「桃太郎の教訓」とは、桃太郎を会社の社長だとすると犬は営業課長、猿は企画課長に当たろう、さて雉は何か。
 桃太郎は鬼ケ島へ渡って鬼どもを退治できたのは、雉が島へ飛んで行って鬼達が酔い潰れていたという情報を得たからであった。敵が正気であったらとてもかなわなかっただろう。日本の経営者は雉という情報の役割を大事にしない。中小企業の社長は自ら雉の役割を果たすべきである。そのためには、月に一遍、次の条件を満たす人をブレーンにして飯を食いなさいといわれた。

 一、他業種
 二、自分の意見をもっている
 三、顔が広い
 四、できれば主婦

  秋田保健所に転勤になって一人喜んでくれたのが彌高会館の北嶋社長だった。彼に桃太郎の教訓の話をして、お互い知らない人物を三人ずつ誘って昼食会を開こうとなった。昭和五十五年の春。集まったのが他業種で、顔が広く、自分の意見の持ち主、主婦ではないが女性を合わせて十人。主旨を説明して毎月一回集まることになった。最後に会の名前がなかなか決まらない。唯一の女性、大内マドンナがいった。この集まりの主旨である桃太郎の教訓からとって桃太郎の会はどうかしら。他の男性は皆それはちょっとまずいと反対。秋田市某所に同名のソープランドがある。しかし、他にいい名前がでてこない。では余計な誤解をうけないようにと、漢字の桃をひらがなにして「もも太郎の会」とした。
  その後再び、秋田銀行主催の扇谷正造講演会を聞く機会に恵まれた。扇谷講師の歓迎会にも特別に出席させて頂いた。昭和六十三年春。会場は秋田市横町の料理屋。私は扇谷さんの斜め向かいに座らされた。「桃太郎の教訓」を生かして「もも太郎の会」をつくり、会のメンバーが中心になって秋田戊辰の役戦没の佐賀藩士の慰霊を行なっていると話すと、扇谷さんは喜んで、激励もしてくださった。
 ママのもてなしもよかった。扇谷さん、ぽんぽんと面白い話をされた。私はテーブルの下に手帳をおいてメモしまくった。次の話。

 山陰のある温泉地。目の不自由なあんまさん。週刊誌や雑誌の表紙を手でさわって、これは週刊朝日とか当てるのが彼女の特技。お客さんがいろんな週刊誌をやってもみんな当ててしまう。酔客が、そのあんまさんの手を取って彼女の微妙な部分にあてがった「じゃあ、これは?」「これは、週刊女性自身」。こんどは、自分の大事な所に彼女の手をあてがって「それじゃ、これは何だ」「んんー、これは、月刊主婦の友です」
  その後、扇谷正造さんから著書が送られてきた。その本の見開きにこう書かれていた。

  情けは人の下にある。
         一休禅師
「君よ朝のこない夜はない」この言葉も頂きました。多謝。合掌。


●第三十九号/平成四年六月二十日

   

 河辺町岨谷峡。水清き峡谷が秋田県の中心地点。秋田県の臍である。ここで毎年、辺岨(へそ)まつりが開かれる。一年の真ん中は六月十五日。新緑が爽やかな年のへそに近い日曜日に「臍祭」が開催されている。
 六月七日(日)午前十時。中国・天津市の靖医師と秋田県の中心点に向かう。車中、中国で臍の緒を祀る神社なんてのがあるかと聞いたが、愚問であった。
「これから行くところにある、ヘソ神社に娘と息子の臍の緒を奉納しているんだ。それも最初に預かった第一号と第二号だよ」
 靖さん、よく分かったかどうか、
「それは面白いですねえ」
  それは面白かった。臍祭は今年で七回目。だから、八年前の五月の事である。当時、河辺町の町会議員で木村スタンドの木村友勝社長、彌高神社の北嶋昭宮司、高橋勘左衛門石材工業の高橋正社長、河辺町企画開発課長の安田広さんと私の五人は北海道へ飛んだ。秋田県の中心点が河辺町だということがわかり、岨谷峡にへそ神社を造ろうと、北海道のへそ・富良野市へ先進地視察という訳だ。では何を見てきたか。気心が知れた仲間は、旅の途中、昼から酒ばっかし飲んでほとんど何も見てこなかった、訳でもない。帰りの飛行機の中、罐ビールを片手に旅の見聞を話しあった。

「富良野のへそ神社の狛犬は後向きになってたなあ」
「臍の緒を奉納している母子堂はだいぶ痛んでいたぞ。地元の人の臍の緒が少ないし、それにへそ神社から遠いのもおかしい」
「母子堂というのも片手落ちだ。親父はどうなるんだ」
といった具合で、翌年の春、秋田県のへそ神社は地元河辺町の方々が力をおわせて造られた。昔からあった由緒ある岩見神社の横に立派な神社が建てられ、川辺町の辺と岨谷峡の岨をとって、辺岨神社とし、臍の緒を納める御堂として絆堂と命名された。臍の緒は親子のきずなだからだである。

 河辺町の木村氏達は、建設基金を集めようと秋田市の繁華街を廻って、一晩六万円もあつめたという。もっとも後日、集めた倍近い額の請求書が飲屋からきたらしいが。
 富良野の「北海へそ祭り」は毎年七月二十八日に開かれる。これを発案したのは、富良野市民憲章を作られた繰上秀峰氏で、地元の若者達が盛り上げた。例のお腹の臍の周りに顔を描いて踊り歩く祭り。

 河辺町のへそ祭りもこれに習って、今年で七回目である。始める前にこの祭りの創設者である繰上秀峰さんに手紙をだして了解を得、好意的な手紙を頂いている。創設者には敬意と礼儀を尽さなければいけない。

 秋田県のへそ神社のいいだしっぺとして、子供の臍の緒を絆堂に一番目にいれてもらった。それぞれ子供が二十歳になったら、お陰様で元気に育ちましたと子供を連れてお参りしようと考えた。

  今年の辺岨祭りも好天で盛況。秋田県の中心点付近はへそ公園となり大勢の人々が集まっていた。岩見神社にある絆堂には三組の臍の緒の奉納者が集まり、こども神輿も参加していた。二年前だったか、七十代のご夫婦が、五十歳の息子の臍の緒を奉納していた。子供は何時なっても子供には違いない。

  家族の中心、へそは父親!?そういえば、六月二十一日は父の日。家族のへそとして、子供が二十歳になったら、お陰様でと絆堂へ連れていく自信があるか、んーむ。


●第四十号/平成四年七月二十日

   地球はまるい

 地球は実は丸くない。赤道面が少しふくらんでいて卵型に近い。最も高い山が海抜八`、水深は十`の海溝があってデコボコな球形になっている。

 このことはま、どうでもよい。風来坊時代、神戸の須磨でブルドーザー運転手の助手をしていた。昭和四十三年の秋。大阪・枚方の小松製作所の教習所で、大型特殊自動車の免許を二週間ほど教習を受けてとった。東京までの帰りの汽車賃は京都の斉藤哲雄と飲んでスッカラカンになった。どうしようかと思案してたら、教習所仲間がうちに来ないかと。彼の会社は神戸の前田組。岩盤の前田と言われている土建屋さんだった。飯場は須磨にあった。そこに一ヶ月いた。神戸の六甲山の地層は花岡岩でできている。海抜百七十bの高倉山を百四十b削りとった跡を団地造成し、削りとった岩は船で運んで神戸沖に一つの島を造ろうとの工事計画だった。その現場は巨大な露天堀のようだった。

 花岡岩の岩盤は非常に固い。ブルドーザーのバケットでは歯が立たないので、交尾部に付けた大きな爪でガリガリ削り、それを手前のバケットですくって、大型ダンプカーに積む。そしてベルトコンベアに落とし、瀬戸内の海に運ばれて、土搬船が人口の島へ運ぶ。
  前田組には、九州出身のブルの運転手が二人いて、北さん、南さんといった。彼らは、見習いの新米を神戸の福原や、三宮の飲み屋によく連れていってくれた。彼らは自分のことを誇り高くいった。

「わしは、地球の彫刻師や」
 地球の彫刻師達は、一時、二時まで飲んでいても、朝五時にはちゃんと起きて仕事をしていた。偉いなあと感心させられた。

  大館市役所の斜め向かいに酒桝という飲み屋がある。二十年来の馴染みの店。茄子クジラが旨い。
 先日、七月十日。久しぶりにそこを訪ねた。入口に一b四方の立て看板が置かれている。こう書かれている。地球はまるい 酒桝
 十年以上も前だったか、いつもの酒桝のカウンターで飲んでいたら、そこの娘さん。店の玄関に置く看板に何かタイトルを考えてくれという。「例えば、安くておいしいとか」
「そんなのはつまらんなあ。地球はまるいはどう。人生色々で、死にたいと思って断崖絶壁に立っても、宇宙的に考えて、地球は丸いんだなと思い直して、死ぬのを止めて、酒飲んで人生丸くしよう」

 そんなのは、おかしいよといわれたが、一週間後。酒桝に寄ると娘さん、看板みたかと聞く。玄関先に置かれた真新しい看板を見ると確かに「地球はまるい 酒桝」と書かれていた。

 茄子クジラのベーコンがいつもより多めに入っていた。
  この度の大館でも、田中印刷所のトシオちゃんが駆け参じてくれた。鷹巣保健所の福原さんがいい店があると案内してくれた。もう三次会。駅前の飲食街にある。「ひとみ」という和風スナック。つい最近開店したばかりだという。広いカウンターの中の若いママさんは、車椅子だった。彼女は車椅子でキビキビと笑顔で動き回る。

 義侠心溢れる大館タクシーのナベさんが、カクテルをつくってやろうといい、瞳の美しい若いママに作り方の手ほどきをした。出来上がったカクテルに命名された。「ひとみぼれ」
 まるい地球には、一回こっきりの人生を、明るく頑張っている偉いひとがいっぱいいるんですねえ。


●第四十一号/平成四年八月二十日

   灯ろう

 一つのマッチ箱を今でも大切に持っている。広島の滝川にある「木瓜」という店のマッチである。
 毎年八月になると、どうしても原爆・広島に思いを寄せざるを得ない。
 八十一年、広島の夏。八月六日。
 絵葉書にある原爆投下後の原爆ドームの全体写真は、広島商工会議所の屋上から撮ったもの。ドームの右下を流れる川は元安川。

 商工会議所へ行って、写真を撮りたいので屋上に行かせてほしいと頼んだら、若い職員から断わられた。麦ワラ帽子にポロシャツ姿の風体が怪しかったのだろう。
 被爆記念式典に出席した後、日商岩井広島支店勤務の先輩、曽我敏武さんを訪ねた。

 ようよう、よく来たなあと仕事がひける前から、飲みに行こうと広島一番の繁華街、流川に案内された。ビルの二階にある小料理屋「木瓜」という店だった。博多出身のきっぷのいい女将さんがまて貝に似たあげまきという貝を食べさせてくれた。旨い。お酒を運んできた仲居さん、夏なのに腕に包帯をしている。

 女将さんにそっと聞いた。
「もしかして、あの方の腕」
「そうよ、げ・ん・ば・く」
「話しを聞いていいかなあ」
「構わないでしょう」
 その、仲居さんは、重森君子さんといって、気品あるあばさんだった。

「女学校時代でしたね。学徒動員で、広島文理大学に行っていて、構内の倉庫の前で被爆しました。その時、セーラー服にモンペをはいていて、倉庫の入り口の戸の前に立っていたんですが、爆風で体ごと、戸と一緒に倉庫の中に吹き飛ばされたんです。この腕のケロイドは、その時のです。私の家は広島の中心街にあったんですが、ぺちゃんこになった倉庫の中で気が付いて、家の方に向かったら、もう、真っ赤に燃えた炎が一面に広がっていて、恐いというより、何か一瞬、綺麗だなあと思ったくらいです。それ以来、両親とも、兄達も皆んな、行方不明なんです」

「今、私、短歌をやっているんですよ。三滝寺といって、広島の西の方角にあるんですが、そこの参道に、原爆の詩や、短歌の碑を集めたお寺がありますよ。私も時々そのお寺へお参りにいっているんです。是非今度、そこへ行ってみてください」

 そのうち、お客が混んできて、重松さんからの話はもう聞けずじまいだった。曽我先輩は、九時過ぎに、元安川で、灯籠流しがって綺麗だから行ってみようというので、木瓜を出た。
 原爆ドームの横で、広島市役所職員が組み立て式の灯籠を売っていた。緑色の灯籠を買った。売場台の横に筆と墨汁が置かれている。市役所の職員に何をするのかと聞いた。

「灯籠に、原爆で亡くなった人の名前を書いて流すんです」
 さて、肉親で原爆で死んだ人はいない。考えた。(そうだ)
 灯籠を組みたて、緑色の片面に書いた。「重松君子、父母」灯籠を持って、すぐ下の川に降りていったが、待てよ、と灯籠売場に戻った。原爆で死んだ訳じゃあないがと、死んだ親父の名前をもう一つの片面に書き込み、中にある蝋燭に火を付けて、元安川にそっと流した。

 英霊を乗せた灯籠はやがて、五百もの灯籠に合流し、下流の瀬戸内海にではなく、上流に向かって流れていく。満潮時だからだ。川一杯に浮かんだ、赤、白、緑、紫色の色とりどりの灯籠が、ゆっくりゆっくりと昇っていった。


●第四十二号/平成四年九月二十日

   ノーサイド

 神宮の秩父宮ラグビー場へよく行った。ラグビーは今ほど人気はなかったが、卒業して社会人になったら、レスリングのタックルを生かしてラグビーをやろうと考えていた。ラガーメンはトライをしても、淡々として守備にもどる。その姿を好ましく思っていた。

 今や、甲子園で高校生が二塁打を打っても、ベース上で細い腕を挙げてガッツポーズ。バレーでも一回一回「夏も近づく八十八夜」みたいなことをやって手を打ち合う。サッカーはゴールを決めると観客に投げキスなぞをして、グラウンド中を走り回る。
 学生時代、体育局教授でラグビー部監督の大西鉄之教授から現代スポーツ学の授業を受けた。

 ノーサイドをいう言葉を初めて大西先生から教わった気がする。
 この夏、大西先生の弟子ともいえる元全日本ラグビーチーム監督の日比野弘教授の講演を聞けた。

「ノーサイドは我が人生の誇り」
 日比野先生がラグビーが好きなのは「ノーサイド」の精神だからといわれる。
 ラグビーでは試合の終了をノーサイドといいます。ゲームセットやタイムアップとはいわない。試合が終わった瞬間、敵味方なく、勝っておごらす、負けて悪びれずお互いの健闘を讃えあう、これがノーサイドの精神です。

 ラグビーがオリンピックに出ないのは、友達をつくるために戦うというラグビーの基本的精神にそぐわないからでしょう。主義、主張の違う国と一堂に会して、憎しみを感じるような戦いをして右と左に別れるような試合は、ラグビーはしない。

 皆さんも自分の周りにいるラグビーをやったことのあるやつに一度聞いてみてください。ラグビーやって何が良かったかといわれると『すばらしい友達がたくさんできた』と必ず答えると思います。これは私たちにとって何ごとにも代えられないノーサイドの大きな収穫、財産ではないかと思います。

 悲しいノーサイドの思い出もあります。カナダにビルという男がいました。私も非常に親しくつきあった人で、その彼が奥さんを連れて来日しました。さっそく仲間うち連絡しあってノーサイドのパーティをやりました。別れ際、これから関西、九州を回ってノーサイドの友人へ会いに行くといってました。素晴らしい熟年旅行だなといって別れたんですが、彼がカナダに帰ってから、私は彼がガンに冒されていたことを知りました。彼はガンであることを告げられ、どんなにショックだったことか、これは第三者からは想像もできないこと。しかし、彼の達した結論は、元気なうちに、もう一度ノーサイドの友人と会って別れを告げたいということだったそうです。どんなにつらい旅行だったか、奥さんの心中はいかばかりだったか。それを思ったとき、ビルはほんとうにすごいやつだなあと感慨を深くしました。
 我々には全然その素振りも見せずに、実に楽しげに振る舞いながら、心の底で我々に別れを告げていったビルという男の生きざまにほんとうの感動を受けました。

 全身もつきぬけるような感動を覚え、ノーサイドのラグビー人生から人間の生き方を学びました。
 日比野教授は外国旅行にネクタイを多数持っていかれる。ノーサイドの友人と交換するためです。

 酒場で酔ってネクタイ交換して、カミサンの顰蹙をかう誰かとは違う。日比野先生の座右の銘は
「努力は運を支配する」


●第四十三号/平成四年十月二十日

   花と緑と長嶋監督

 千葉県芝山町山中。成田空港に隣接する町に、学生時代からの心友土井脩司の家がある。九月二十六日の夕。成田空港から車で二十分で山中の家に着いた。

 二十八年前、彼は学生時代にベトナム孤児救済運動をリードし、その後、心の革命を花に託し、花の企画社を設立した。七年前からは「花と緑の農芸ざいだん」を興した。彼の理解者である元伊藤忠商事会長・瀬島龍三氏の推薦で、巨人軍元監督、長嶋茂雄氏が理事長。土井脩司氏は常務理事となって財団の活動を推進してきた。

 彼の家は裏が竹林、周りは花でいっぱい。やがて群馬県倉淵村から近藤龍良さんがドイツ娘三人を連れてやってきた。そのうちの一人はスージーといって、何と二b近い。向かいあったら、目の前の高さに彼女の肺が二つ在った。

 近藤さんは、ドイツで盛んな市民農園(クラインガルデン)を財団の指導で取り入れ、フラワービレッジを定着させつつある。ドイツ娘達は倉淵村の近藤さんの農場に研修にきており、翌日に開催される財団の「花と緑のフォーラム」に参加する。

 翌朝、爽やかな青空。土井常務の運転で成田空港側の農場へ。農場横の広場を会場に財団主宰の第七回「花とみどりとのフォーラム」が開催された。演壇に長嶋理事長が座った。司会がニッポン放送の深沢弘アナウンサー。長嶋さんの花好きの例を紹介する。球場の監督室に花がなければ機嫌がわるかった話。コバルトブルーのブレザーを着た長嶋氏が挨拶に立った。独特の甲高い声。挨拶もうまい。上空を、四、五分おきに飛行機が飛びたって行く。代議士の挨拶が終わって、土井常務の財団報告があった。セレモニーの終わり頃、長嶋理事長が、やおらマイクを司会者から奪っていった。「土井さんには、まだ言い足らないことがあると思うんです。私の敬愛する、私どもの教組でもある土井さん、もう一度ここで話して頂けませんか。皆さん、どうでしょう」大きな拍手。土井常務は再び演壇の中央に引かれ、長嶋理事長と並んで、照れくさそうな困った表情でいった。「二十年前、死の商人の対決しようと、花の企画社を作り、そして七年前から花の心の運動を広げようと、長嶋理事長を中心にやってこれましたが、私はただここ成田を花で埋め、いい生活のできる、いい日本を、美しい日本を創っていきたいと考えているだけです」

 フォーラムが終わった二時頃、長嶋理事長を紹介された。帰られる理事長の車の後には、最初に、長嶋巨人軍監督決定へと記事にした、日刊スポーツの記者が乗って後をついて行った。見送った後、土井にいった。「長島さんが監督になったらどうするんだ」「それで困っているんだ。理事長は自分からやるとはいわない人だからなあ」
  「困ってしまった結果になってしまったなあ」十月十八日に再び、芝山町山中の家を訪ねる機会があって土井に言った。
「うん、長嶋さんから電話があってね、理事長を辞めさせてもらうのはほんとに申し訳ない、三年か五年したら必ず戻ってきますからといわれたよ。名誉理事長になってもらって、旅立ちされたと、考えて、温かく送りたいと思ってる」

 困ったのは、長嶋監督が敬愛している土井脩司氏だけではなかろう。私を含めて全国のアンチ巨人ファンであろう。巨人は嫌いでも、長嶋監督を嫌いな人はいないだろうから。ともかく、地と地の人を大切にと教えてくれた、巨人軍ではなく長嶋監督の健闘を祈りたい。