WHAT SHALL I DO IN FUTURE?

 「ファン・コク・バオは今、アメリカのニュージャージーにいるよ。ボートピープルになってアメリカにたどりついたらしいな。いつか国際電話があってね、よく聞きとれなかったけど元気ではいるらしいよ」
 親友土井脩司からの電話だった。彼は今、成田空港に隣接する花の農場を経営し、フラワーレボリューションを目指す花の企画社の代表である。国際青年年の今年、世界各国の青年からの一ドル基金を元に平和の鐘を成田に建立する運動を展開している。彼は早大時代、ベトナム孤児救済運動を起し、ベトナムの孤児たちへミルク缶を送り続けた。日本の学生達が貨物船に大量のミルク缶を積んでベトナムへ渡り、ベトナムの学生達と協同して孤児院へ届けた。ファン・コク・バオとはその時の学生で、受け入れ側であるサイゴン大学孤児救済実行委員長のことである。

 バオと会ったのはまだベトナムの戦火が激しかった頃、突然日本にやってきた時だった。私は国会議員の秘書をしていて、議員会館の事務所にいた。昭和44年12月初め。土井脩司から電話があった。寒い日の午後のこと。
 「ファン・コク・バオが今羽田にいるんだ。韓国での会議に出席してきたんだが、日本のビザを取っていないのに来てしまった。入国管理事務所から俺に連絡があってね、お前も羽田まで一緒に行ってくれんか」
 羽田空港に向かい土井と落ち合い、空港ビル内の入国管理事務所に入った。何とか二、三日でも入国を許可してもらおうと話し合った。バオの姿は見えない。一時間近くねばったが、結局24時間以内に出国しなければならない。
 管理事務所の奥の部屋から彼が出てきた。疲れきった表情、小柄な背広姿、色浅黒いが目がきれいな26、7才の青年だった。
 土井を見つけると笑顔となり、明るい顔となって私とも握手。力強い握り方だった。入国管理事務所からは、今晩一晩は空港向かいにある羽田東急ホテルに泊まり、不法入国者だから一歩も外に出てはならないといわれている。
 ホテルまで3人で歩いていった。外はもう暗い。ホテルに着いて、フロントから鍵をもらって彼の部屋に入った。ロビーに降りて色々と彼から話を聞いた。
 韓国のソウルで「アジア反共青年会議」があり、終わってからどうしても土井さん達に会いたくなった。だからビザがなくとも来てしまったとの事であった。今、サイゴン大学で哲学の講師をしているという。ふと、ある事を思いついて土井に話しかけた。
 「おい、これからお前のアパートへバオさんを連れていって、歓迎会をやってやろうじゃないか。せっかくお前の顔をみに日本に来てくれたんだし、ベトナム孤児救済運動やった仲間を集めて」
 「大丈夫かあ、お前、外出禁止だぞ」
 「いや、大丈夫。バオさんを変装させて連れていって、明日の朝早く帰ってきたらいいよ」
 「よしっ」と土井は電話ボックスの方へ走った。そして、バオさんの部屋に戻り、変装の工夫を考えた。つけひげの小道具があるわけでなし、墨もない。土井のメガネをかけてもらったが、これでは土井の方も歩けなくなる。結局、俺のレインコートを着せて、日本のスポーツ新聞を買って持たせた。これでいこうと。
 バオさんを真ん中にして三人は部屋を出て、エレベーターで一階に降りた。果たしてうまく行くだろうか。見つかるかも知れない。ロビーを横切り、部屋のキーはポケットに入れたまま、わざとゆっくりした足取りで進む。玄関に近づいた。外へ出た。何も起こらなかった。後を振り向いたが誰もいない。「それっ!」3人は暗い道路を走った。
 中野の堀ノ内にあるアパートに着いた時は9時を過ぎていた。
 部屋の戸を開けると、中から歓声と拍手が聞こえた。ユーアーウェルカム何んとか、パオもなつかしそうな顔、ホッとした表情で答える。迎えてくれていたのは昔、ベトナム孤児救済運動の仲間の青年達だった。長野出身の細田光一、学生で岩手生まれの白石源次郎、それに土井の恋人の晴美ちゃんの3人。テーブルの上には晴美ちゃんの手料理にビールとお酒。壁には白石が書いたんだろう「歓迎ファンコクバオさん」と横断幕が貼られていた。テーブルを囲んですわり、土井が歓迎のあいさつ、続いてバオ氏がお礼のあいさつをし、最後に日本語で、ありがとう。
 彼の目には光るものがあった。歓迎会は愉快に、なごやかに深夜まで続いた。12時はとっくに過ぎ、晴美ちゃんや細田、白石は帰っていった。土井はベットにつぶれてしまった。
 一枚しかない布団にバオとともにもぐりこんだ。明朝、戻らなければならない。目覚時計を6時に合わせる。羽田のホテルには8時に戻らなければならない。電気を消した。
 真っ暗な部屋の中でバオは哲学の話をしだした。こっちは哲学など全くわからない。
 知ってる名前をあげると、「ああ、ショウペンハウエルは女嫌いで・・・」その後に続く話は全く理解ができない。そう、彼は大学で哲学の先生である。話が終わってしばらく沈黙が続いた。もう眠ったのだろうか。いや、ふと彼はこうつぶやいた。
 「WHAT SHALL I DO IN FUTURE?」
 一週間後、彼は兵営に入らなければならないと語った。そして、私は共産主義には反対だ。しかし、アメリカにも反対だ。イデオロギーに左右されない民主主義による自由な国創りをしなければならないのだと。
 バオはこの平和な国から戦火の激しい祖国へ帰り、一週間後は兵隊にとられる。そうか、彼は死を覚悟しているのだ。だからこそ、無理を承知で日本へやってきたのだ。青年時代の良き思い出をわかちあった日本の友人に会うために。
 ホワット・シャル・アイ・ドゥー・イン・フューチャーか、私は彼の問いに何んにも答えられなかった。

 けたたましい目覚時計の音に驚かされた。6時だ。バオと一緒に布団からはね起きる。急いで着がえて、ベドに寝ている土井へお先にといい、バオと私はアパートを抜け出した。外気は冷たい。バオに私のコートを着せ地下鉄の駅へ急いだ。新宿まで出て、山手線に乗り換えた。まだラッシュアワーになっておらず、2人ともゆっくり座っていけた。
 浜松町で降り、モノレールの乗り換える頃、ラッシュになってきた。モノレールの座席に2人は座れず、つり皮につかまった。通勤客がどんどん入ってくる。足の踏み場もないくらいだ。 出発。モノレールが動く。箱にぎゅうぎゅう詰めされた人間どもが揺れる。非人間的な集団はそれでもジット押し黙っている。乗客に押され、苦しくなったバオは、私を見ながらとうとう悲鳴をあげた。どうしようもない。首をよじって彼にこう答えた。
「THIS IS TOKYO JAPAN」
 空港前のホテルに着いたのが8時半前だった。ロビーに人もおらず、フロントを横目にエレベーターに乗り、どうやら彼の部屋にたどり着いた。ベッドに腰掛けて、安堵の握手。
 目を合わせて苦笑いであった。かくして、日越共演ホテル脱出劇は終わった。

 羽田空港入獄管理事務所前の廊下に長椅子がある。そこにバオと腰掛けていると、土井と晴美ちゃんがやってきた。彼女は花束を手に持っている。
 飛行機は4時に発つ。香港経由のキャセイ航空である。バオは不法入国者だから、国際線ロビーから見送りを受けて出札口を出るわけにはいかない。入管事務所の職員から呼ばれた。時間である。バオと握手しながら再び会おうと言葉を交わした。
 彼は事務所の中へ消えていった。
 私は飛行機に乗り込むバオの姿を追おうと国際線ロビーへまわり、送迎デッキに出た。
 キャセイ航空の出発ゲートはずうっと端のほうだった。急ぎ足で向かう。飛行機があった。 歩いて乗り込む乗客の中にバオの姿を見つけることはできなかった。不法入国者は一番先に乗せられたのだろう。私は冷気にさらされながらバオの乗った飛行機をしばらく眺めていた。再び生きて日本を訪ねてこれるだろうか。
 ホワット・シャル・アイ・ドゥーか。私はみえないバオに呼びかけた。自分も今悩んでいるよ、国会議事堂の裏側にいて、常識の通らない特殊社会に住んでいては増々悪臭に染まってしまう。このままでは自分がだめになるよ。辞めて郷里に帰るつもりだ。帰って何をするあてもなし。この先どうしたらいいかわからん。状況は大分違うが、バオさん、この言葉は俺にもいえるかなあ。私はバオの乗った飛行機にむかって再度、つぶやいた。
 「ホワット・シャル・アイ・ドゥー・イン・フューチャー?」

                                    佐々木 三知夫  
                              (本荘高校同窓会誌 白玲龍 1960)