ヴェトナムから花の運動まで
                  高橋 寿夫・日本空港ビルディング株式会社社長  

 彼らの農場は、成田空港の東側、天神峰というところにある。約五千坪の土地は、殆んど温室や簡易フレーム施設でおおわれ、その中には色とりどりの草花が静かに出番を待っている。「花の企画社農場」と看板にある。
 朝は5時から若い人たちの潅水作業が始まる。真っ黒に日焼けした顔には、若者らしいたくましい笑顔の絶えることがない。
 彼らはお役目で仕事をしているのではない。さりとてボランティアというわけでもない。みんなこの農場での作業によって生計を立てている連中である。勿論夫婦ものもいる。夫婦で住み込んで働いているものもいる。
 彼らにとって、この農場で花の栽培をすることは、生き甲斐そのものであり、生活のすべてである。農作業は生活の手段でなく、生活そのものである。
 十分に生育して美しく開いた草花は、企画のきまったケースに移植され、専用のトラックで出荷される。東京や千葉県各地の銀行や会社のオフィス、スーパー、病院などを美しく飾り、そこをとおる人たちの目をたのしませる。
 人々は、花を見て、花の美しさをとおして自然と交流し、草花の生まれて来た大地の恵みを思い、人間がいま失いつつある大事なものに気がつく。それによって、この狂気に満ちた人間社会が、わずかずつでもまともになって行ってほしい。そんな願いをこめて彼らは土と闘い、酷寒や猛暑と闘っている。
 普通の商業的農場とちがうところは、このような彼らの活動目的にある。だから彼らの供給する草花の代金は著しく安い。彼らの得る月給の著しい低さがそれを可能にする。それでも彼らは微塵も不足顔をしない。
 時には何年も無料で花を供給する。東京の千代田区の小学校へ十年間もそれを続けた。何の反対給付も彼らは期待していない。
 また、いま東京駅丸の内口のドーム下の広場や、八重洲口への地下通路に沢山の花を展示しているが、これも同じような動機からである。赤字国鉄には金がないので、いま国鉄内部の有志たちでこれを支える会が出来ようとしている。
 彼らのうちの兄貴株になる人たちは40代のなかばである。大学生時代にヴェトナム戦争があり、この矛盾に満ちた国際戦争の悲惨を、彼らなりに食いとめようとして、戦争による難民救済の仕事をやりに、彼らはヴェトナムへ渡った。ボランティアであった。
 休戦によってこの仕事が一段落し、日本に帰って来た彼らが、ふつうの大学生のように背広姿のサラリーマン生活に入るには、彼らの身をもって体験して来たヴェトナムでの現実はあまりにも厳しすぎた。
 いわば若くして人間社会の深淵をかいま見てしまった彼らであった。どうして平凡なサラリーマンになり切れよう。そういう彼らの選んだ道が、大地に草花の種をまき、それを育てることを通じて、人間社会に大きな警鐘を鳴らそうという仕事であった。
 彼らの意図に共鳴した千葉県当局が、成田にそのための用地の世話をした。いろいろの立場の人たちが、いろいろの形での支援をした。故人となった三菱の田実渉さんもその一人であった。
 9月なかばの暑い日に、農場での感謝祭に招かれた田実さんは、木陰から若者たちの動きをじっと見ておられた。なくなられる前の年であったように思う。
 私がこの集団の存在を知ったのは、運輸省の航空局長として成田開港の仕事をしている時であった。私自身も、あの緑濃き北総台地に、国家的必要とは言え、巨大な空港を建設するということの問題性をかなり鋭く認識していた。一本調子の進軍ラッパでない、何か私なりに納得の出来る進め方を探っている最中であった。
 そうした中で53年3月の管制塔襲撃事件が起き、空港の開港は大幅に延期せざるを得なくなった。どうしたらいいのかという問題について、或る新聞社の主催する座談会が開かれ、そこに出席した彼らの代表土井脩司君とはじめて出会ったのであった。
 土井君の考えていたこと、話したことは、私にとって大変示唆に富むものであった。政府部門にもその方向を指示する勢力が出来つつあった。成田の農民人のたちとの対話を基本に据えて開港の仕事を進めるという、政府の対応方針がまとまったのはその後まもなくであった。
 いま土井君たちは、成田空港南側の芝山町で、農業文化博覧会を開こうという大事業に取り組んでいる。広い階層から世話人が出て準備を進めている。世話人の代表は瀬島龍三さんである。私がお願いに行ったとき、瀬島さんは、田実さんが病床で花の企画社をたのむと言われたので、とおっしゃった。
 博覧会は、農すなわち「太陽と土と水と空気を相手にする人間のいとなみ」を通じて、からからに乾いてしまった現代文明に血を通わせ、人間回復を図ろうとする大運動である。食事の前に必ず敬虔な合掌を欠かさない仏教徒である土井脩司君が、この運動に賭ける意気込みは殆んど「狂」というに近いものがある。
 この拙い文章をお読み頂いた方々の絶大な御声援を頂きたいと思う。

               昭和59年10月 社団法人日本工業倶楽部・会報