読売新聞 追悼抄
花と緑の農芸財団理事長 土井脩司さん(5月6日、胃がんで死去、60歳)
1966年、サイゴン(現ホーチミン)の大通り。正月の休戦で特設の花市場が開かれ、赤や黄の花々の周囲では、銃を置いた兵士たちがたばこをくゆらし、つかの間の休息を楽しんでいた。
早稲田大学在学中に訪問した戦時下のベトナムで、こんな光景に出くわし、思わず叫んでいた。
「銃も戦車もミサイル砲も、みんな花で覆い尽くしてしまえ!」
叫びは「花を慈しむ心こそ平和をもたらす」との確信に変わり、花を通じて平和の尊さを訴え続けた。
73年、空港反対闘争まっただ中の成田空港隣接地に農場を開き、花の栽培を始めた。「反対派と警察の武力衝突を花の力で食い止めたい」との思いからだった。全国の小学校に鉢植えを無料で贈る「花の輪運動」も展開した。
元空港反対同盟事務局次長の島寛征さん(61)は、「『成田を第二のベトナムにしてはいけない』と諭された」と明かし、「多くの死者をベトナムで見てきた男の言葉には説得力があった」と述懐する。そして、反対派は九〇年代、国との話し合いへと大きくかじを切る。
86年、千葉県芝山町に「花と緑の農芸財団」を設立。初代理事長に同県出身の長嶋茂雄さん(67)を迎え、当時、伊藤忠商事相談役だった瀬島龍三さん(91)や扇屋ジャスコ会長だった安田啓一さん(72)らが役員に名を連ねた。瀬島さんは「純情一路。平和な社会を実現するために、花一筋の人生を全うした」とたたえ、安田さんは「泥まみれになって花を育てる純真さが魅力だった」とその人柄をしのぶ。
2001年、財団理事長に就任。鉢植えを贈った小学校は3,235校に達し、花の栽培に携わる研修生として国内外から約百人の若者も受け入れた。財団事務局長の船津裕隆さん(52)は「『花から学べ』が口癖でした」と懐かしむ。原野に咲く花のように、他と争わず、しかし、個性的に生きる大切さを説いた言葉だった。
生活を共にしながら生産に取り組む「花と緑と農芸の里」の整備を夢みた。昨秋、財団の情報発信拠点となる交流施設「い」を完成させたのが、最後の仕事となった。
病床にあった3月、自宅のベッドでイラク戦争の戦況を伝えるラジオに「ひどい」と声をあげた。争いをひたすら嫌悪し、平和を願ってやまない姿勢は、最後まで変わらなかった。
前田泰広
平成15年7月20日 読売新聞夕刊