惜別  成田闘争和解を陰で支えた土井脩司さん

 「鉄砲の前に花を突きつけろ。そして優しく花を手渡そう」
 早稲田大学の学生だった66年、ベトナム戦争の孤児救済運動を始めた時の言葉だ。ベトナムで迎えた旧正月の1月、つかの間の休戦で、争っていた兵士同士が公園で休息していた。花が咲くなか女の子が踊る姿に、土井さんは思った。「花は平和の象徴じゃないか」。これがその後の原点となった。
 70年代から学校に花を贈る運動を始めた。当時は珍しかった花のプランターのリースを仕事にした。実践の場として、対立の場へも積極的に首を突っ込んだ。
 成田空港反対闘争が激しい73年、千葉県成田市東峰に花の農場をつくった。「対立より花」の思想を訴え、花作りの傍ら対話を呼びかけた。「敵か味方かの世界で、どちらでもない不思議な存在だった。空港と地域の両方がよくなることを願う先駆者だったのか」と元空港反対派メンバーは言う。
 その時に培った信頼をもとに、91年の成田空港問題シンポジウムで国が謝罪した後は、自宅に賛成、反対双方の地元関係者を招き、陰で間を取り持った。
 86年、「花と緑の農芸財団」を設立。千葉出身で活動に理解を示した長嶋茂雄氏を理事長に迎えた。今春までに70人の研修生を育て、理念を広めた。
 自宅では社会問題や事業のことしか話さなかった。長男の久太郎さん(31)は「父は他人の何倍も生きたと思う。学生運動のまま亡くなったのかな」と話す。
 成田空港の近くに建設予定の財団の拠点「花と緑の農芸の里」は、不景気もあって予定通りに工事が進んでいない。イラク戦争のニュースに「まだまだやることは残っている」と生前、話した。
 30年近く行動を共にした財団常務理事の船津裕隆さん(52)は言う。「いつも自分に言い聞かせるように言っていたのを思い出す。『人間は絶望しないことが大事なんだ』と」

                                           岩崎 賢一

                            平成十五年七月二八日 朝日新聞 夕刊