平成15年7月1日 故土井脩司告別式 財団合同葬
開式の前に生前の土井脩司氏ビデオ(平成3年花と緑のフォーラム)より
土井脩司
こんにちは、今日は最後にみんなで「花の町」を歌いたいと思います
七色の谷を越えて流れて行く風のリボン
流れて輪になって輪になって、駆けて行ったよ
私達はただ花を植えたい、そこから入りました。芝山・山中の人達の応援をスタートにし、ここ成田の人達の協力を得て少〜しずつですけれどここまできました。そして七年前に財団が設立され、沢山の人達のいろいろな応援を受け、花の輪ができて今日まできました。
でも長嶋理事長が言われるように、まだまだ小さい。しかし、いよいよこれからは外に出ようじゃないか、もっと前に出ようと、そういう話になりまして私達は昨年から準備してきました。
花の輪運動、もっともっと小学校に花を送りたい。研修、もっともっと沢山の研修生を入れたい、その活動を広げていくにはどうしても三つのことが必要なんです。
バラの風韻の中に祈りを込めてということで書いておいたんですが、我々を知らない、何も知らない、長嶋理事長がこれだけ一生懸命やってくれていることを知らない。そういうことから始まって企業や民間の人々が一生懸命やってくれていることもほとんど知らない、だからみんなに参加してもらいたい。誰がじゃなくて、全員でやりたい。少なくともそういう気持ちでいる時に、まずみんなにこういうことをやっているんだということを、どんどんメッセージできないかということが、第一点。
それから、それを一緒に汗や知恵やいろんなものを含んで一緒にやってくれるそういう会員を広げていきたい。それが二番目です。
そして三番目、活動をするには資金がいります。その活動資金を小さくてもいい、少しずつ広げていきたい。
今、ミサイルとか爆撃機とか何億何十億するああいうものを簡単に捨てているけれど、あれをすべて花に変えたらすごくいい国ができるといつも思っています。そういった意味で私達これからいよいよ花のカードを作り、そして前に進んで行きます。みなさんもぜひ参加して頂きたい。一緒に考えていきたい、そう思っています。
成田にはいろいろ問題がありました。けれど、過去はもういい。
過去は大事だけれど、もちろん反省は大事だけれど、政治家は政治家としてきちんと反省してもらいたい。農業の問題としては新しい農業を考えなきゃいけないとか、いっぱいあるんですけれど、また、マスコミの人達はきちんと責任もって書いてもらいたい。そういった中でこれから新しい道に向かって、ここから、千葉から世界へと広めていきたいとそういう新しい気持ちで、再出発したいと思います。皆さんの力によって支えられているのです。みんなの気持ちは何かというと、とにかくいい社会でありたい、いい生活したい、こんなバカな政治バカな社会でなく、もっといい社会これだけが願いなんです。
もう本心は大事な人生一回しかないんだから、いい人生を送りたいと。
今は教育の問題やら受験地獄だとかいろいろあります。
ぼくたちも成田闘争があったころ丁度そのころベトナムに行っていました。あの戦争の中で死の商人というのにすごい腹がたった。戦争をすることによって儲けている、こういう人間は絶対おかしい。生命を大事にしない思想はうそだ、資本主義も共産主義もみんなどこかおかしい、そんなことを思ったりしていた時に花に出会いました。その花と出会い我々仲間と一緒に花を初めて作りはじめて益々花を理解しました。
そして、この成田で、闘争の中でこの花を作って、先程の「花の町」じゃないけれど、そういう歌を歌えるところまできた。
これから未来に向かって、ここの場所が何か変わるということは、日本が変わるんじゃないかと、極端にいうとそう思っています。
まず、ここから花を広げて、そして世界に向かって少しでも日本が平和で美しい国だということを、また美しい国を願っているということを世界に伝えられたらいい、とそう思っています。
長嶋茂雄理事長(当時)
この土井常務理事が、二十数年前からこの花に対する想い、願いをこめて、しかもこの成田という、このいろんなトラブルの中できちっと自分のスタンスを不変にして今日まできたわけですから、この土井さんの信念たるものは大変なものであります。
その土井さんがこれからの新たな展開として、いろんな制約や問題があるっていうお話がありましたけれど、それはどの世の中でも制約や問題は当然であります。世の中でありますから。ただ言えることは、人間、社会の中で一人では生きられない。どなたかのお力を戴きながら、そしてまたそれを還元する。いわば共存の輪の中で、私どもは花を通じて平和を求めております。
司会・深沢 弘氏
土井脩司さんは1942年、昭和17年9月27日新潟県に生まれました。土井さんは多感な少年時代を過ごした後、早稲田大学に入学。在学中の1966年、昭和41年には東南アジア学生親交会を結成、当時戦禍の激しかったベトナムやカンボジジア、東南アジア諸国を度々訪問しました。そしてその度に戦争の悲惨さ大国のエゴイズムにどうしようもないやりきれなさを抱き平和の尊さを訴えつづけてまいりました。
悲惨な戦場で可憐な野の花にであった土井さんは「鉄砲の前に花をつきつけろ、そしてやさしく花を手渡そう」と、多くの人々に呼びかけました。ベトナム戦争難民孤児救済などの平和を求めた活動にも多くの仲間たちが集まりました。
その後1971年、昭和46年29歳の時です、港区赤坂に株式会社花の企画社を設立、翌年には農事組合法人花の生産舎組合を作りと同じに三里塚闘争で燃える成田に農場を建設し、生産から供給までのシステムを完成させました。
その後、花は愛と生命と平和のシンボルと訴え、花の輪運動、フラワービレッジ、研修事業などを全国に提唱しつづけ、一九八六年昭和61年財団法人花と緑の農芸財団が千葉県より認可されました。土井さんは「フラワーインマインド、心に花を」と叫びながら花の心を育て、それによって世界の平和を願いつづけてまいりました。
花に学び、花から学んだすべてをこの社会に投げ出して生きてきました。財団設立から16年、去年花と緑の農芸の里に『和い処』が完成しました。
フラワーリレーションを掲げ、フラワービレッジは始まったばかりでした。なのに、2003年5月6日、土井脩司さんは60歳という若さで花になってしまったのです。
歎徳文
潜かにおもんみれば、河川滔々たれども時々刻々の流水総て同じからず
その行方を尋ぬれども既に大海に流れ至りし流水、誰かその所在を知らん。
而して、河川泰然自若にして悠々たり。
爰に 新円寂 華厳院浄里脩成清居士 俗名土井脩司
昨年秋より体調不調に陥り休養に努むべきところなれども、時、あたかも氏、多年の宿願たりし花の里の第一着手たる『和い処』建設の真っ最中なれば、療養の暇あらず、周囲の心配をよそに病身に鞭打って、これが完成を目指す。その志や壮にして勇、誠に捨身の浄業と言うべきなり。さればと、その志に感じて馳せ参ずる者引きも切らず、遂に完成を見る。
さる4月12日、そが落慶の祝賀を催すこととなりぬるに、当日の天気予報は悉く雨やまずと報ずれば、関係者一同の心痛一方ならず。然るに不思議なるか、当日は予報を覆して晴天となり、集いし者どもを驚かす。
土井氏病床にあれども意気極めて盛んにして曰く、この地、熊野神社の隣接の浄地にして平成の世界平和の営みここより始まる。仏天の加護あらざるべからずと、聴く者その信念の固く深きを歎じ、省みて自らの不明を恥ず。
更に、氏に随身する人達の語るところによれば、病状又安定し、一時期主治医を驚かすほどなりと聞きしかば、関係者一同奇瑞正に起るやと愁眉を開かんとする矢先に氏の訃報に接す。花と緑の農芸財団の理念に基づく浄業、いよいよその緒につかんとするこの刻に、早くもその中心人物たる氏を失おうとは関係者等しく茫然自失、為すところを知らず。
天を仰いで嘆息するのみ。小職、涙を拭い想いを新たにして氏の一生を省みるに、氏の生涯はまさに大聖釈尊の教戒に応じて、上は菩提を求め、下は衆生を化す大菩薩の雄姿にほかならずと言うべし。つらつら思んみるに、農芸の里の浄業はよく一人のなしうるところにあらず、されば清居士、『和い処』の完成を機に、意を決して正に捨身の大業を実践し、諸賢を驚愕し、自覚を促さんとするにあらんか。仏天またここに想いを留め、敢えて清居士の定命を伸ばしたまわざりしかと。
思念止まず。宗祖伝教大師の御遺誡にのたまわく、吾が滅後において仏を作ることなかれ、経を写すことなかれ、ただただ吾が志を述べよと。また曰く、吾れ鄭重にこの間に託生して一乗を習学し、一乗を弘通せん。若し心を同じうせん者は、道を守り、道を修し、相想い、相待てと。願わくば清居士もまたこの菩薩の請願にならい、我々を天界より導き諭し、花の里の実践と活動に誤りなからしめ給わんことを祈念やまず。
三宝悉知、諸天洞観し給え。
三部伝燈大阿闍梨 芝山観音教寺五十七世現住大僧正コ永敬白
濱名徳永様 ご解説
歎徳文の文章の内、仏教の教理を述べた処は、一般の人には理解し難いところもあるかと思うので、老婆心までに少々解説を付しておきましたので、御笑読賜れば幸いです。
先ず出だしの処ですが、何をさして河川と言うのかと言えば、水の流れを河川と呼んでいる訳ですけれども、その流れている水は時々刻々変わっている訳ですから、河川なる概念はあてても、その実体は固体としては捉える事が出来ない訳です。では、存在しないのかと言えば、河川は泰然自若として存在している。つまりものの有り様を仏教では、こう捉えているのだと言う事を示したものです。それを仏教用語では 色即是空、空即是色と言います。
菩薩について
観世音大菩薩と呼ばれる時の菩薩の言葉の意味ですが、古来より、上は菩薩を求め、下は衆生を化す人を菩薩と称すと言います。仏様になる事を念願し、総ての人々を救済するために努力を重ねる人の事です。その努力は今世ではなく目的を達するまで、何回も何回もこの世に生まれ変って一途に精進努力する訳です。
私達僧侶は仏弟子にさせて戴く儀式の時、この事を仏様やお師匠さんの前で誓います。これを誓願といいます。
ちなみに戒名の下につく居士とは、在家の菩薩の称号です。
伝教大師の御遺誡に就いて
御遺誡とは、入滅に当って弟子達に示される最後の教戒です。お釈迦様が入滅される時も、弟子達に向かって私が死んでも葬儀などの俗事にたずさわるな。それ等の事は俗人にまかせておきなさい。あなた達は私の教えを広める事に専念しなさいと、教えられたと言われています。
宗祖の言う一乗とは一つの乗り物。即ち総ての人が必ず仏になれるという教えです。私は又必ずこの世に生き返ってきてこの教えを広める。だから、私が死んでも私の為に仏像を作ったりお経を写したりする必要はない。私に賛同してくれる人は、どうか私と同じように何回でも生まれ変わってきて、一緒にこの菩薩の大道を歩んで欲しい。これが唯一の私の願いである、と言われた訳です。
弔辞 花と緑の農芸財団会長 瀬島龍三氏
土井君、さる4月12日芝山の桜が散り初めたころ、君がかねがね一度来てくれとしつこくせがんでいた芝山の『和い処』へ行った。君は容態が思わしからず、僕と会うために夜を徹して銚子から芝山まできてくれた。そして『和い処』の奥の一室で君と会った。その時君は布団に横たわりながら、目にうっすらと涙を溜めて僕に手を差し伸べ「いろいろお世話になりました。後をよろしくお願いします」と細々とした声で言った。
僕は「何を言っているんだ、君は僕よりも三十歳も若いんだ、元気を出して病気に打ち勝つんだ」と、力を込めて言った。これが今生における君との最後であった。
東京への帰り道僕は車中で襟を正して何回か君の回復を神に祈った。だが、君は残念ながら5月6日戻らぬ人となってしまった。本当に哀しいことであり、残念なことである。言うべき言葉もない。
思い起こせば君と初めて会ったのは、三十数年前であった。僕の敬愛していた三菱銀行の頭取の田実渉さんが逝去される数日前、聖路加病院にお見舞いに行ったとき田実さんは花の企画社の君達のことを話され、この若者たちをみてやってほしいと申された。その数週間後成田空港近くの君達の入植地を訪ね君達と初めて会った。僕と君との交流はこれから始まった。
思えばいろいろのことがあった。嬉しいこと、悲しいこと、喜んだり、悩んだりしたこと、さまざまであった。僕は君を始めその同僚達の純情一路、花一筋の情熱に曳かされて今日まで親交をむすんできた。土井君、きみは心美しい、心やさしい人であった。今日は君を慕い君を敬愛するこのように大勢の方々のご参列を得て、君との最後のお別れを惜しんでいるのだ。純情一路花一筋の人生を全うしたきみ、もって瞑すべし。土井君、花の命は短いが花の心は永遠に我々のこころに生き続けるであろう。
安らかに安らかに眠ってください。
弔辞 友人代表 花と緑の農芸財団副会長 安田敬一氏
新緑の美しいあの芝山の空に、忽然とこの世を去ってしまわれた土井脩司さん、あまりにも突然のことで、すでに二ヶ月近くたった今でもまだ呆然としております。
振り返りますと君との出会いは昭和48年当時の友納千葉県知事のご紹介でありました。成田芝山の地で花のこころを元に花の輪で日本を良くしようと、土井脩司さんを中心に若人が相揃って花の企画社を創りがんばっている、という知事の言葉に深い感動を覚えたのでありました。
そして、昭和61年尊敬する瀬島龍三先生のご紹介で長嶋茂雄巨人軍監督を理事長にお迎えし、財団法人花と緑の農芸財団が発足しました。それから17年「21世紀はこころの時代」の願いの元、前田福三郎氏を第二代理事長に引き継がれ、さらに平成13年三代目理事長として、花の理想を土井脩司さんが継承されたのでした。
土井さんが「花のこころ」に書かれた一節に、埴輪で代表される日本の古代と国際空港の近代性を持ち合わせた芝山を、ご協力くださる方々のお力をお借りして、平和で美しい日本のモデルとするために共に力を合わせてがんばろうという言葉がありました。
大変印象的で私の心に深く刻み込まれております。土井さんの理想としていた、花と緑の農芸の里『和い処』が立派に昨年完成され、今年4月12日に「桜花の宴」として盛大にご披露されたばかりでした。
土井さんの教化で美しい花の精神がいっぱいにあふれておりました。その『和い処』で土井脩司さんの密葬が5月8日にしめやかに行われ本日この青山斎場で財団の告別式として、このように大勢の方々に見守られてのお別れをするとは誰もが想像しなかったことと思います。
本当に残念です。しかし、ご遺族始め土井さんの暖かいおこころを慕う同士、朋友のみなさま方により、きっと天の庇護の元、すばらしい花の里づくりは実現することでしょう。
土井脩司さん、どうぞ天国でやすらかにお眠りください。
こころからご冥福をお祈り申し上げます。 合掌
葬儀委員長 瀬島龍三会長
財団ならびに遺族を代表して一言お礼のご挨拶を申し上げます。
本日は土井脩司の財団葬を行いましたところ、ご多忙の中を、また天候の悪い中をこのように大勢のみなさまにご参列を戴きまして本当にありがとうございました。本人も極楽浄土で満面笑みをたたえて御礼を申し上げておることと思います。彼はご承知の通り天衣無縫、純情一筋の人でありました。そして、日本のため、千葉県のため、成田のためと信じて花一筋に一生涯を賭けて本当に努力をしてまいりました。この花のこころは皆さま方と共に永遠に私どものこころの中に残っていくだろうと思います。
尚、この機会に恐縮でございますが、私の右におりますのは財団の理事長をしてもらいます安田さんでございます。財団全体の運営を取り仕切っていく中心です。
左におりますのは土井君の長男の久太郎でございます。父の位牌を抱いてお母さんを助けて立派にこれからの人生を進んでいこうとしております。一言ご挨拶をさせて頂きます。
喪主 土井久太郎氏
本日は父脩司のためにこのような告別式を行って頂き誠にありがとうございました。またお忙しいところ父のためにお時間をさいて頂きお参り下さいましたことを深く感謝申し上げます。父脩司が亡くなって二ヶ月あまりが立とうとしておりますが、改めて父が沢山の方々に愛されおこころを掛けて頂いてきたことを痛感しております。
父は本日今ここに皆さまと集い一つ一つの思い出をかみ締めながらお一人お一人の手をとりありがとうありがとうと、感謝を申し上げているはずです。父が息を引き取ったときに、私が「おとうさん」と声を掛けると父は一滴の涙を流しました。この涙がなんだったのかと、今静かに考えております。
父の人生は常に社会のことを考え、ときに強引なまでに一つの道を貫き通してまいりました。それはときに皆さまにご迷惑をお掛けしたものだったと思います。そのような父が昨年、家族のために何かしようと思い、古いアルバムから私たちの写真を額に入れ自分の部屋に飾っておりました。そのような父親の姿を私は初めて見ました。でもそれは同時に神様が父のこの世での役割に終わりの時がきたことを示したものだったと思っております。そんな社会のために生きた父の人生を私は息子として誇りに思います。
本日は私が代表して参っておりますが、父には三人の息子がおります。今後とも亡き父同様ご交誼を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。本日は誠にありがとうございました。
葬儀委員長 瀬島龍三会長
重ねて、ご参列いただき心から御礼を申し上げます。
また、財団の今後につきまして、さらに遺族につきまして、おこころに留めておいて頂きできる限りのご支援をお願い申し上げまして、私の御礼の言葉といたします。
本日はどうも大変ありがとうございました。
閉会