「今なぜ花か」
                                      花と緑の農芸財団 理事長 土井脩司
   表題について

 これは、勿論、学問とか専門とかいう大それた書では全くありません。「なぜ」という疑問からのアプローチ以外は全く試みていません。
 「木を見て森を見ず」という諺がありますが、木や、まして枝といった細部には全くという位無頓着です。忘れているものを、あたりまえに見つけ出し、感動し、想い入れした本です。
 花は、園芸の対象であるばかりか、詩人の心であったり、時には商売の種にもなります。
 この本は、花を見つめた概論です。美しい日本の花の文化を求めたものです。
 日本の精神に大きな影響を与えた花。生か死かとまでいわれる地球に多大な影響力を与えうるだろう日本に再び花を、という願いが込められています。
 そして私は、「今なぜ花か」の言葉にすべてを託しました。

  目次

第一章 花とともに(もしくは、花がそこに)

☆ 一言だけ
☆ 花と華
☆ 万葉の花
☆ 花――悲しみと喜びの中で
☆ 花――活力や霊力として
☆ 花――あらゆる文化の中に
☆ 花――カルタ一つとっても
☆ 花――すもう甚句から
☆ トランプ――物と人
☆ 聖書
☆ 仏典
☆ 花――仏のこころ
☆ 花――神秘なるもの
☆ 花の心と生の讃歌
☆ いつしか哀しみをともなって
☆ そんな時代の中でも
☆ 花をたずさえ戦場へ
☆ 花による革命
☆ 地球の色は青かった
☆ 独断と偏見
☆ 死と悪の影
☆ 何が人間を支える真実であるか
☆ 花は無敵
☆ フラワーサロン

第二章 花とは

☆ もしこの世に花がなかったら
☆ 地球の破壊が進行している中で
☆ 美しき日本
☆ 花の種子が各地に
☆ なぜ花は平常心でいられるか
☆ 愛の分裂と偽りのへ我が横行する
☆ 愛と平和の根源
☆ まず教育に花の心を
☆ 美しい学校、美しい心
☆ なぜ花は強いのでしょうか
☆ 身障者が大手をふって
☆ 新しい生命の芽が春の準備を
☆ 花をムシャムシャ食べた
☆ 活力ある生命の再生・花
☆ 花には驚かされることが沢山
☆ 深海魚のような人たち
☆ 野の花を拝む
☆ 花の種子をあらゆる風に乗せて
☆ なぜ花を
☆ 花の企画社という種子
☆ まがいものが出尽くした今こそ
☆ 終わりに


第一章 花とともに(もしくは、花がそこに)

☆ 一言だけ

 混雑した、せわしない世の中です。
 どうして今このような本を出したいと思ったかと申しますと、それは、すぐ眼の前に花
があっても、すぐ足元に花があっても、見過ごしたり踏みつけてしまっているからです。
「花がそこに」と叫ぶしかないのです。

 路上に咲く一輪の花から学んできたことを聞いていただきたいのです。一緒に考える中で、花からの救いを探し出したいのです。
 花への思い込みが強い本ですが、眼と心の健康な人なら聞いてくださるという確信を持っています。
 今一度、土づくりから再出発し、花を見る眼と心を養い、よき姿、形になって、世に顔を出したいと念じています。

☆ 花と華

 奈良朝以前には、パナと発音していたそうです。その後ファナとなり、ハナとなったのは、江戸時代少し前からのようです。今でも沖縄県では、パナとかファナと呼ぶ人が居るとのことです。
 華という字は、樹木の花をかたどったものです。華道、豪華、華美、中華という言葉があります。
 花は、華よりも後から出来た文字です。「化」とは変化を意味します。常に動き変化している新鮮な感じがして、とてもよい字だと思います。
 花が花なら、私たちも常にみずみずしい気持ちで眺めなくてはなりません。つぼみが花開く時など、生きているよろこびが込み上げてきます。
 花嫁、花婿、花形、花盛り、花道、花吹雪、花便り、花文字。心地よいものばかりです。
明るい光をともしてくれます。
 さて、その花を昔の人はどう見ていたのでしょうか。




☆ 万葉の花

 万葉は誇り高い世界です。万葉の花は、私たちの心の空白をみずみずしく潤してくれます。
 四五〇〇首の三分の一は、植物にかかわりがあり、花とともにあった万葉人の生活がしのばれます。

 春の野に すみれ摘みにと来しわれを
  野をなつかしみ 一夜寝にける      (巻8 1424)山部赤人

 山吹の 咲きたる野辺のつぼすみれ
  この春の雨に 盛りなりけり       (巻8 1444)高田女王

 秋の野に 咲きたる花を指折かき数ふれば七種の花
  萩の花・尾花・葛花・撫子の花 女郎花また藤袴・朝顔の花(巻8 1538)山上憶良

 萩の花は、万葉集の中、最も多く詠われています。草冠に秋とあるように、秋の草の代
表花です。萩の花見もありました。簪や花摺りなどにも詠われています。
 この萩の実を粉にして、飯や粥に混ぜ、葉や花は食用や家畜の飼料にし、尾花(ススキ)
は屋根葺きに使ったとのことです。
 撫子やおみなえし、あさがお(桔梗)も、その種子や根は、薬に、葉は食用に使ったと
のことです。
 太陽、月、鳥、花は、昔も今も同じです。自然の摂理と創造主の愛と力を、心底から感じます。

 時々の 花は咲けども何すれぞ
  母とふ花の咲き出来ずけむ    (巻20 4323)防人の歌

☆ 花――悲しみと喜びの中で

 別れの中で一番つらいのが死です。しかし、このやりきれぬ苦しみを和らげてくれるものが死者へ手向ける花です。戦場や交通事故の犠牲となったいまわしい現場には、かならず花が添えられ遺族の心を慰めてくれます。
 日本の戦国時代、戦いに明け暮れている地方武士の間で、流行していた花こそ、お稽古ごとやデコレーションの花より、ずっと心に近い花です。
 一方、うれしい祝いごととしても花の役割は重要です。母の日にはカーネーション、父の日にはバラ、感謝の心を花に託します。花嫁、花婿には勿論、花、花、花。お祝いの精一杯の心と、今後の幸福を願って花を飾り、花を贈ります。古来から祝いごととしての花は、なくてはならぬものでした。

 女の子には桃の節句。桃の花を飾ります。魔除けの霊力があるからです。
 男の子には端午の節句。菖蒲の花を飾ります。病や災厄を祓うからとされています。

☆ 花――活力や霊力として

 生命をささえ、健康を与えてくれるものとしても、花は重要でした。
 千二百年前、すでに文武天皇が薬園を起こしています。
 江戸時代にも麻布御薬園と大塚御薬園が造られています。
 簪に花を挿したのは、花の生命や霊力をもらうことでもあったようです。
 不老長寿の薬といわれる蜂蜜も花の蜜でつくられます。又、お酒は百薬の長とも言われますが、花を酒にして飲みます。キク酒、キンモクセイの花酒、コブシの花酒、クチナシの花酒、その他、タンポポ、フジ、スミレなどの花酒も有名です。
 私たちは、花のうるおいを心に映し、花の活力や霊力をもらい受けてきました。

☆ 花――あらゆる文化の中に

 花の文化は多方面に咲き乱れます。「花を着たい、身につけたい」という願いは、美しい友禅染め、草花染めなどとなって叶えられました。
 小紋の花は、武士の裃の柄です。松葉小紋は将軍家の留め柄。松葉菱は町人の粋な柄。
 和の国の装いである「和服」姿がめっきり減ってきているのは、さびしいことですが、今なお地方では、花の文化を引き継いでくれています。
 山形県米沢の紅花染め。岩手県盛岡市の柴根染め。宮城県栗駒町の藍染。伊豆諸島の黄八丈などがあります。
 紋章とは家や組織を表す大切なものですが、桜、菊、桐、葵、桔梗、松竹梅、水仙、茗荷などを模っています。
 花は、あらゆる風に乗り、着る、飲む、食べることは勿論、詠い、描き、映画化し、調度品となり、遊びの世界にと咲き誇りました。
                            (次の作品は日本美術宝物辞典より掲載)
色鍋島松竹梅文瓶子 梅に遊禽図 松に草花図  花樹孔雀文刺繍
茶地鹿花卉文夾纈羅 漆胡瓶
仏涅槃図 玄奘三蔵絵
寝覚物語絵巻 秋野鹿蒔絵手箱 紺糸威鎧 赤糸威鎧
花鳥図琴棋書画図 花下美人図 桃鳩図 観楓図
色絵花鳥文大深鉢 鶉桜菊文辻ヶ花染小袖 八橋蒔絵螺細硯箱 秋草文壺
弱法師図 古九谷色絵亀甲牡丹蝶文大皿 雪松図 梅蒔絵手箱
紅白梅図 小桜革威鎧 燕子花図 色絵藤花文茶壷
宋白地黒掻落牡丹文瓶 古九谷色絵牡丹獅子文銚子 北野天神縁起 智積院障壁画
蒔絵調度類






☆ 花――花かるた一つとっても

 遊びの中にも、花は美しく咲いています。
 花札は、元は花かるたと呼ばれ、12ヶ月に構成されたその絵柄から、日本民族の心と農耕文化を表し、選者は江戸時代の庶民だそうです。古い日本の生活習慣や信仰を垣間見ることができます。
 手元の花札をひろげ、そのデザインの美しさとともに、選者の気持ちを思い起こしながら花かるたをしたいものです。
 
 <一月――太陽、松、鶴>
 日本は農耕民族であり太陽民族です。そんなわけで、太陽が日本の国旗になっています。
太陽系の第三惑星である地球に住む地球人としても、太陽は父であり神であり、神聖な祈りの対象です。
 松は、神の天降りを待つ木で、正月の門松と日の丸はなくてはならぬものです。万葉集の中で常磐木として登場するのは松です。移ろわぬ永遠、絶対の表徴として神霊の依り代とされ、善光寺では毎月一日に仏前に松を立て、「御花松」と呼んでいるそうです。
 松の花は四月ごろ、新芽のてっぺんに二・三個の紫色の雌花をつくり、雄花は新芽の下の方に薄茶色をして固まっています。雌花はのちに松かさとなり、雄花の花粉は風に飛び散ります。
 メデタイといえば「高砂」の松がありますが、亀とともに鶴もメデタイ長寿の鳥です。
この正月を飾る松と鶴、とりわけ松の全滅へのきざしは、もっともっと深刻に受け止めなくてはなりません。

 <二月――梅、うぐいす>
 梅とうぐいすは、春を最初に告げてくれる花であり、鳥です。日本人は、季節を花や鳥をもって感じとっていたのでしょう。梅とうぐいすは、日本の歌や絵の題材としてあまりにも多くとりあげられています。
 万葉集に於いては、梅の歌は百二十首に及んでいます。

 春の野に 鳴くやうぐいすなづけむと
  我家の園に梅が花咲く     (巻5 838)

 中国から渡来した梅は、めずらしかったと同時に、日本人好みのする花だったのでしょう。中国では、文の道を好む花だったと言うことで好文木とも呼ばれます。

 春風吹かば にほひおこせよ梅の花
  あるじなしとて 春な忘れそ

 熱烈な梅好きの菅原道真が詠んだ有名な歌です。芭蕉にも有名な句があります。

 梅が香に のっと日の出る 山路哉

 体の調子のよいことを「塩梅がよい」といいますが、梅干、梅酒、梅酢など、梅は日本人の健康な体をささえてきてくれました。

 松や竹と組み合わせ「松竹梅」は正月用のめでたいものです。

 梅の名所は、水戸の偕楽園や熱海の梅園など沢山ありますが、梅を県花にしているのは和歌山県と福岡県です、また茨城県は県木としています。

 <三月――桜に天幕>
 さくら、さくら 弥生の空は みわたすかぎり
 かすみか雲か 匂いぞいずる いざや、いざや 見に行かん

 農耕民族にとって、さくらが咲き始めたら、種子モミや苗作りにとりかかることとされていました。
 鎮花祭(はなしずめまつり)をご存知ですか。さくらの花が散るのを鎮める意味です。
さくらの花には稲穂の神が宿るとされ、稲の花の象徴とし、やたらに咲き散られると実りの秋がなくなります。それを鎮める祈願のための祭りであり、「花よ!やすらってください」
と念じた心が今でも伝わってきます。
 万葉集では梅でしたが、古今集では、断然さくらです。

 久方の ひかりのどけき春の日に
  しづ心なく 花の散るらむ        紀友則

 桜花 咲きけらしな足引きの
  山のかひよりみゆる白雲         紀貫之

 敷島の大和心を人とはば
  朝日に匂ふ 山桜花           本居宣長

 県花としては、東京のそめいよしの、京都のしだれ桜、奈良の八重桜があります。

 <四月――藤、ほととぎす>
 四月八日は、灌仏会といってお釈迦さまの誕生日です。この農耕生活の中から生まれた農業祭的花祭りは、神を迎え、神を慰めるための祭りです。この四月八日に藤やつつじの
花を高い竿の先に結んで立てる風習が近畿以西の各地で行われています。
 藤は「天道花」「高花」「八日花」ともいわれ、神の宿す花とされます。
 ほととぎすは、二月のうぐいすとともに、季節の変わり目を教えてくれる鳥です。
 その美しい鳴き声は万葉時代から愛され親しまれています。

 藤浪の咲き行くみれば ほととぎす
  鳴くべき時に 近づきにけり    (巻20 4042)

 藤は日本古来の植物です。古くは源氏物語の「藤壺」、歌舞伎の「藤娘」などにも用いられ、利休は、茶花としても重視しました。藤の名所としては、埼玉県春日部の牛島藤花園や小田原城址公園などがあります。
 
 <五月――池に菖蒲または、カキツバタ>
 五月五日は端午の節句です。菖蒲の花を飾るのですが、これも病や災厄を祓うものです。
五月人形とともに武を尊んで欲しいという「尚武」への願いもあるのでしょうか、その根を煎じて飲用したり、葉を入れて入浴します。
 江戸の旗本松平左金吾は、菖翁と号し菖蒲の改良に努めたといいます。堀切の菖蒲園が、
花のお江戸の名所だった頃が偲ばれます。また、この花が咲く頃が田植えの時期です。

 「いずれがあやめかカキツバタ」という言葉がありますが、あやめは陸生で、カキツバ
タや菖蒲は水生です。カキツバタは万葉集にも七首詠われています。

 住吉の浅沢小野のかきつばた
  衣にすりつけ着む日知らずも    (巻7 126)

 この花は、衣に擦り付けたので「カキツケバナ」と呼ばれ、その花の美しさから美人の
代名詞にも使われました。

 <六月――牡丹に蝶>
 この豪華な大輪の花を六月にすえた江戸時代の人たち。牡丹に舞う二羽の蝶が、さわや
かで美しい。
 牡丹が日本に登場するのは、安土桃山時代以降のことです。根の皮は薬用に使われます。
 牡丹の名所は奈良の古寺に多い。とりわけ大和の長谷寺は牡丹寺と言われるだけあって、咲きほこる頃は、まさに浄土世界そのものとなります。
 江戸時代には関東でも、深川八幡、上北沢村、亀戸社内、西ヶ原や上野寛永寺本坊など牡丹の名所がたくさんありました。
 牡丹は中国では百花の王、百花の神と呼ばれていました。中国の詩人、白楽天は「牡丹の芳」の一節に、戯蝶雙び舞いて看る人久し、と詠っています。
 蕪村は牡丹を大いに好み「牡丹散って うち重なりぬ二、三片」の句を残しています。
 牡丹は島根県花です。
 
 <七月――萩と猪>
 萩は、秋の七草の筆頭にあげられています。万葉集では百三十七首も詠まれています。
 
 吾が待ちし 秋はきたりぬ 然れども
  萩が花ぞも未だ咲かずける      (巻10 2123)
 
 秋風は涼しくなりぬ馬並めて
  いざ野に行かな萩が花見に      (巻  2103)
 
 萩は家畜の飼料にもなりますが、ここに猪が登場します。猪は山しらみと言われ、農民に被害を与えていたようですが、きってもきれない仲だったようです。
 萩は宮城県花です。
 
 <八月――月、すすきの山、雁>
 この三つが揃えば日本の秋です。仲秋の名月にすすきを飾り、農作物とダンゴをお供えします。農耕民族の豊作の祈りです。
 西洋人にとって、星の神話や伝説、星占いなど、星はかかせぬものです。星を国旗に使用している国も、アメリカ、イギリス、ソ連、イスラエルなど沢山あります。他の銀河系に憧れがあるのでしょうか。それに比べ地球が属する太陽系の月を愛し慈しんでいる国々が太平洋諸島に集まっています。
 古代から月は日本人の心の映し絵であり、竹取物語のかぐや姫は、私たちの憧れでした。
 
 うさぎ、うさぎ、なにみてはねる
  十五夜お月さま みてはねる
 
 <九月――紅葉と鹿>
 すぐ口に出てくる歌があります。
 
 奥山に紅葉ふみ分け鳴く鹿の
  声きくときぞ 秋はかなしき
 
 古今集に出てくる定家の歌です。
 もみじは紅絹から起こった名で、カエデの紅葉が一番美しいので、いつからかカエデが紅葉の名を専有することになったとのことです。現在では、カエデと紅葉は全く同じです。
 カエデの名は、蛙手に由来します。葉が峰状に裂けているからです。唱歌「もみじ」は日本人の秋の心です。
 
 秋の夕日に照る山もみじ 
 濃いも薄いも数ある中で  
 秋を彩るかえでや蔦も 
 山の麓のすそ模様
 
 もみじは広島県花です。
 
 <十月――菊と杯>
 桜と菊は、人気を二分する花です。桜が国花なら菊は皇室の花です。競馬のクラシック・レースには桜花賞や菊花賞があります。
 万葉時代には菊は登場しません。しかし古今集や源氏物語には菊が出てきます。桓武天皇は、晩秋のしぐれの雨によって菊の香りが失せることを案じて詠っています。
 
 菊の花 ちりぞしぬべき あたらその香を
 
 菊は中国から薬用植物として、不老長寿にききめのある花として渡来しました。
 浅草寺の菊供養は十月十八日です。病気や災難除けです。菊をたずさえての観音様参りです。重陽の節句(九月九日)には菊酒を飲みます。
 菊見坂、菊人形など、多様な菊の文化は江戸時代に栄え、「お菊さん」は一般的な女性の名でした。上田秋成の「菊花の契り」は、日本人の契りを菊の咲く秋月に映し出しています。
 
 <十一月――枝垂れ柳、きじ、かえる、小野道風、雨>
 十一月のかるたは絵がとてもにぎやかです。
 昔恋しい銀座の柳、と歌われた柳や、かるたの柳は枝垂れ柳です。
 柳の下にはオバケが出るといわれますが、川端や池畔にあるから水を求める霊が集まるのでしょうか。柳の枝に何度もとびつく蛙の努力に関心して書道に励んだという小野道風の故事からきています。田植えと共にかえるは登場し、十一月頃には山に帰ります。
 
 <十二月――桐と鳳凰>
 ピンが松なら、キリは桐でしょうか。桐の紋は、菊と同様皇室の紋章でもあります。枕草子や源氏物語にも登場します。源氏物語の最初が「桐壺」で、光源氏の母親です。
 木目が通り、軽く、湿気を通さず、燃えにくく、桐箪笥や桐下駄などは高級品です。桐の名産地である地方では、女の子が生まれると桐を植え、嫁入りが決まるとその木を切って箪笥を作り、嫁入り道具として持たせるそうです。
 桐の花は、五月ごろ紫色の大きな花が、斜め下を向いて開き、桐の実は三センチから五センチ位の卵の形をしています。鳳凰はこの桐に住むそうで、中国では王者を祝福するものとされています。

☆ 花――すもう甚句から
 
 ここにすもう甚句の歌詞をつけ加えます。
 
 正月、ことぶく福寿草
 二月に咲くのが梅の花
 三月桜や
 四月ふじ
 五月あやめにかきつばた
 六月牡丹に舞う蝶の
 七月野山に咲く萩か
 八月お盆で蓮の花
 ききょう、かるかや、おみなえし
 冬は水仙、玉椿、あまた名花のある中で・・・と、あります。

☆ トランプ――物と人

 一方西洋のトランプは、約六百年前にフランスでできたといわれています。
 まずハートですが、教会で儀式に使うブドウ酒の盃の形からでお坊さんを表しています。
 次にダイヤです。これはお金の形かたで、商人を表しています。
 スペードは、剣の形を模ったもので貴族を表しています。
 最後はクラブですが、この形は以前は棒に二つの葉のついたマークでした。それゆえ棒を使っていた農民を表していたとのことです。
 つまり、花かるたのように自然や四季と言ったもの、動植物に関心を寄せた日本人とは趣を異にしています。登場するのは、お坊さんであり、商人であり、貴族や農民であり、その象徴が、盃であり、お金であり、剣であり、棒です。

☆ 聖書

 西洋人の原点でもある聖書を調べてみますと、たくさんの花や植物が語られています。
とりわけ有名なのは、イチジク、ユリ、ブドウ、オリーブ、ザクロ、イバラなどです。

 <創世記より>
 ノアの箱舟から放たれた鳩が、オリーブの若葉をくわえて帰ってきた。その時、神の怒りがおさまり、洪水が止み、地上に平和が甦ってきました。オリーブは、古代ヘブライ人にとって、貴重な樹の一つであったようです。現在も、オリーブと鳩は、平和の象徴とされ、国連のシンボルマークもオリーブで飾られています。

 <山上の垂訓・マタイ伝第六章より>
 ガリラヤ湖畔の丘の上で、イエスは足元に咲く花を指して、よくご覧なさいと群集に話しかけました。「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。
 キリスト教国では白百合を宗教儀式に使うそうです。純潔の処女のシンボルとして花嫁の手にもたせるとのことです。
 ドイツでは、花嫁が銀梅花の花輪を身に付けます。銀梅花を、神の寛大な心のしるしとし、幸運をもたらす花と考えているからとのことです。
 ブドウはユダヤの象徴として、またキリスト教会の紋章として使われています。
 イスラム教においては、バラが大事な花になっています。

☆ 仏典

 イエスの山上の垂訓は、短い話の中で、花のすべてを語ってくれています。では釈迦はどのように説法してくれているでしょうか。
 釈迦の残された仏典に「括花微笑」という言葉があります。

 釈尊(お釈迦様)が花を拈じて、大衆に示された時、なんのことか分からず皆黙っていたそうです。唯一人摩訶迦葉という弟子がニッコリと頷きました。釈尊は、私の悟り得た法の真髄である「解脱の心」すなわち、総てのものの実の姿はあまりに不可思議であり、文字や言葉では十分に言い表すことができぬが、この摩訶迦葉にこの無上の正法を伝え得たと喜んだ、とのことです。
 「華開蓮現」という言葉がありますが、これは「華果同時」という意味であり、蓮華は華の開いた時に蓮実も同時に現れるということです。また、妙法蓮華経という経題は、妙法を蓮華にたとえたとのことです。
 不動明王は、天を駆け回るのに蓮華のサンダルをはいたとのことですが、インド、スリランカ、エジプトの国花になっています。

 「はちす葉の濁りにしまぬ心もて
   何かは露を玉とあざむく」    僧正遍昭

 濁りに染まらぬ美しい清い心が詠われています。

☆ 花――仏の心

 仏教では、華に十義ありとして、御仏の姿になぞらえて、その徳を讃えています。

一、 微妙 形をこえた細かいところまで、行き届いたこの世とも思われぬ美しい花。仏の行徳も同じです。
二、 開敷(かいふ) 花が開くことは、花の木に宿されている美しい力が具現することであり、仏の修行を終えて仏性が現れることと同じです。
三、 端正(たんじょう) 花が咲いたその美しさは実に整っています。御仏の姿に自然と頭を下げたくなるようなものです。
四、 芬馥(ふんいく) 花が、その香りをあまねく万物に与えるように、仏の徳もえりごのみなくすべてに与えるものです。
五、 適(てき)悦(えつ) 花は日々成長し創造し、生命の賛歌をします。見る者を悦ばせます。仏の道を進むことも同じです。
六、 巧(こう)成(せい) 花には全く無駄がありません。仏の心も同じです。
七、 光(こう)浄(じょ) 清浄で見るものを清めてくれる花は、業障を取り去った仏自身の姿でもあります。
八、 荘厳(しょうごん) 花は荘厳です。仏も花の荘厳さが自然と漂うものです。
九、 引果(いんか) 花の種子は小さいが、その中に生命を宿しています。仏になることも同じです。
十、 不染(ふせん) どんな土や環境にも染まらず花を咲かせるがごとく、この世の何物にも影響されることなく仏性を開花させることが大切です。

☆ 花――神秘なるもの

 釈迦は、菩提樹の下で悟りを啓かれました。私たちが、花の生産を始めた時の、戸惑いと驚きと感動は言い尽くせません。
 「土をつくる時」は、種子をまくことの喜びを想い、「種子をまいた時」は、双葉が出る期待と不安に胸をときめかせ、「双葉が出た時」は、そのぐんぐん伸びる茎と枝の成長を楽しみにし、「蕾をもった時」は、開花近しと心がはずみ、喜びが体をおおいます。「開花した時」は、大袈裟な言い方のようですが、その姿、色、香りもろもろが、神仏にふれたような感謝の心をもたらします。「枯れゆく花」に種子の不思議を考え「沢山つけた種子」に、驚きをもって来る年の花の園を想いうかべます。

 ここに大自然のもつ、総合性や連続性、開放的で有機的な永遠性、真なる生命と愛のすごさを実感するのです。特殊性や、分断、閉鎖、無機性が進む現代の社会に生きているから、一層、眼や心にその生命と愛のみずみずしさが沁みるのでしょうか。
 時代を追って花をみつめてみましょう。

☆ 花の心と生の讃歌

 青丹によし 奈良の都は咲く花の にほふが如く 今盛りなり

 隋唐文化の流入と仏教文化の興隆、そして文字、芸術、宗教、風俗などに美しい花が咲いたという万葉の時代は、日本人の心の原点です。素朴を愛し、自然に畏敬の念をもち、花や草木を愛でるばかりか、心を花によせ、花に心を移しとっています。

 春の苑 紅にほふ桃の花 下照る路に 出て立つ少女     (4139)

 夏の野の 繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものぞ (1500)

 この花とともにあった素朴な心や花の讃歌が少しずつですが、時代とともに繊細になってきているようです。

 久かたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ  (紀友則)

 花の色はうつりにけりな徒に わが身世にふる ながめせしまに (小野小町)

☆ いつしか哀しみをともなって

 世の中にたえて桜のなかりせば 春のこころは のどけからまし  (藤原業平)

 ここに武士が、日本の社会に登場してきます。

 吹く風を なこその関と思へども 道もせにちる山桜かな  (千載和歌集 源義家)

 この義家は、数多くの戦いを勝ち抜いた武勇の人として有名です。常に死がつきまとう戦場へと向かう武人の心が、思わず花に感動したのです。

 西行は、哀しい心を花にうつします。

 ながむとて 花にもいたくなれぬれば、散る別れこそかなしかりけれ

 願はくは 花のもとにて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ

 仏には 桜の花をたてまつれ、わが後の世を人とぶらはば 

 平家物語は語り始めます。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす・・・
 続いて世阿弥が「西行桜」という夢幻能を書いていますが、心がいたくなります。暗く、愁いをいっぱい集めた花びらが、悲しみややりきれない死の影さえ宿して散るようです。

 散ればこそ いとど桜はめでたけれ 浮世になにか久しかるべき

 桜は利休のわびの精神と一致したのでしょうか。切腹もまた、桜の花と二重写しになります。花は桜木、人は武士という言葉のひびきが、いつしか「死に場を見つける」とか「死に花を咲かす」という危険な花へと流れて行きます。

☆ そんな時代の中でも

 そんな時代の中でも花の文化は、あらゆる分野の芸術家たちにより継がれていきました。
花を描き、花を染め、花を祝い、花を着、飲んだりしていました。

 ひさかたの のどけき空に酔い伏せば 夢も妙なり花の木下

 かたみとて何か残さむ春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉

 何ごとも移りのみゆく世の中に 花は昔の春にかはらず

 かの西行を崇拝していたという良寛が、のどかで明るい歌をのこしてくれています。
また、どうしても忘れてならないものとして池ノ坊とともに世阿弥がいます。能役者にとって「華は命」であり、生涯にわたって「華の一枝」を持っていなくてはいけないと言っています。華の失せた能役者は、もはや能役者ではないと断言し、初心を忘れることなく一にも二にも稽古が大切であるとも言っています。

☆ 花をたずさえ戦場へ

 生と死を宿すものが命です。「華は命」という世阿弥は、生涯にわたって華の一枝を持ち続けろと教えてくれています。「生」のために「死」があるのであって、死のために生があるのではありません。花は実のためにあるのであって、実は花のためにあるのではないと、ラスキンも述べています。
 しかし、帝国陸軍軍人の歌は激しいです。

 花は芳野に嵐吹き 日本男児と生まれなば 散兵線の花と散れ

 そして馴染みの同期の桜はつづきます。

 咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散ります国のため

 ペリーの侵入とともに士道に火が付いた尊皇攘夷思想。列強に狙われている日本が、富国強兵策に進みます。この戦雲、風雲たちこめる中で、花は美しく映ったと思います。死を美意識の中に溶け込ませた花はドラマです。
 しかし、現代におけるコンクリート部屋での切腹や、コンクリートジャングルでの軍服行進は全く絵になりません。まさに桜散る中の切腹が日本人の心象でした。
 花は日本人の精神の中で、あらゆる形で生き続けてきました。

 敷島の大和心を人とはば 朝日に匂ふ山桜花

 花は桜木、人は武士。
 武士道とは死ぬことと見つけたり

 この大和魂、武士道、桜、が軍国主義に結合されました。
 「死」を美意識の中にとけこませ、死への衝動をかりたてた花こそ、もっとも近い日本の花でした。大戦で戦死された人は二百万人を超えます。千鳥が淵の戦没者墓苑は、春になると桜に包まれます。
 終戦を宣言し、文化国家として平和を宣言した日本は、今一度日本人の原点にたちもどり「生」を美の中で讃歌し、平和へ歩む花として再構築しなければなりません、それが私たちの使命とさえ思うのです。

☆ 花による革命

 今、待望される真の花は何なのでしょうか。私は、地球で最も汚いといわれたベトナム戦争の戦災下で花をいだきました。死を目の当たりにし、花をいだきました。
 「沈黙の日本美」という本の中で、吉村貞司教授が、私たちを通し花について語って下さっています。

 花による革命(フラワーレボリューション)                吉村 貞司      

 ベトナム戦線で、鉄砲の前に花をつきつけろと叫んでいる若者のグループがあると聞いたとき、私はなまなましい感動をおぼえた。その感動は、三島由紀夫がベトナムの戦場でたてるお茶こそ真のお茶だと言った言葉に接したときに似ていて、さらに鮮烈であった。
 私には理解できるのであった。荒涼たる戦場に危険をも忘れて茶をたて、茶をのむという行為のおごそかさを、狂気じみた轟音の中にお茶をたてるならば、そこだけには静かな沈黙が立ちこめよう。その沈黙がなんと気品があり、なごやかで、人間であることだろう。
 お茶は戦国時代という惨虐な悲劇の中で、精神的ないとなみとなり、今日に伝わるほどゆたかな価値をもったものに成長した。
 花もまた乱世の中で成立した。茶と同様に、花は男性のためのものであって、女性のものではなかった。そして将軍や宮廷のために花を生けていた流派がすべて没落していったとき、池坊だけが戦いに明け暮れている地方武士のあいだにひろがり、庶民にむかえられて生き残り、今日のいけ花の出発点になった。けれど茶とちがって、花には茶のために死んだ千利休のような人がなかった。世阿弥のように流刑に処された人もなかった。戦国という試練の中で成立した事実は動かせないにしても、成立のための苦難の物語はまったく伝わっていない。
 それならば、戦乱の中で花がどうして必要欠くことのできないものであったのか。私は私なりに理解したいと願った。
 
 羽田の海に全日空機が落ちた。搭乗者のすべてが犠牲となったとき、私は恩人をうしなっている。彼は無名であった私の原稿をとりあげて出版することを決定してくれた。私は彼の無事を祈った。テレビの前から離れることができなかった。そして数十の柩が並んだ上にかならず花がおいてあるのを見た。航空事故の屍体の見るにしのびない無残さがことさらに報道されていた時だけに、花は死者の苦しみをなぐさめるようであったし、遺族の悲しみを悲しんでいるようにも見え、私は涙ぐんでいた。そして死に面したとき、花はも
はや装飾などでなく、心にとっての必需品であることを教えられていた。
 家の近くの踏切は犠牲者が多いとかで、石の地蔵が立てられていて、前を通ると、いつでも花がそなえられていた。私はその花に遺族の消えることのない悲しみと、鎮魂の願いをこめた祈りを感じていた。羽田の柩の上の花束に教えられたとき、思い浮かんだのは、台風のときも、積雪の中にも欠かしたことのない地蔵の前の供花だった。
 
 その後、私は大量の犠牲者を出した遭難事件に、花が重要な役割をつとめているのを見て来た。あさま山荘事件の後に、リンチ屍体を発掘した穴に、花束が投げこまれるのを見た。私は息をのみ、花の美しさが鬼気せまる現場をどんなにやわらげているかに目をこらした。やがてごく近親の者が死んで、柩が重々しい扉の彼方に消え、やがて猛火の轟音が起こったとき、その前に立てられた花瓶の菊の純白が、いかに死の猛威にうちひしがれ勝ちな私たちの心を支えてくれているかを知った。
 
 こんなことを考えるようになった。私にとって花の意味がしだいに変わって来ていた。
花の原点とは、死と直面して、しかも死の猛威に対抗できないようなときに、支えてくれ、なごやかにしてくれ、なぐさめてくれる力をもっているのが花だった。荒涼とあれすさんだ心の飢餓に、あたえられる魂の糧というべきでもあった。だからこそ、殺人に明け暮れ、みずからもいつ死ぬか分からない運命の中で生き抜いている戦国武人たちのあいだに求められた。池坊はそうした要求にかなった花をいけ、いけ花を成立させた。
 そうした花をこそ、花の真実と考えていた私に、ベトナムの花の若者たちのことは、心からうれしかった。花が女性のおけいこ事になり、あるいは西洋風のただ美しく豪華にと目ざすばかりのデコレーションになってしまった感のある今日に、花の真実の意味を生かしきったグループがあることは、よろこびよりも、むしろ驚きであった。
 
 このグループは花の企画社という会社に育っていた。三年前に五人で出発したフラワーショップが、今では農場をもって自ら花を作り、花の生産、流通にわたる逞しい活動をする二十二名のガッチリと腕を組んだ組織に成長していた。

 私はまず事務所で石川総務部長の話を聞き、次の週に土井脩司社長と新宿で昼食の時間をともにして語り合った。これは若者が脱サラリーマン的な行動によって、経済的に成功したというだけではない。日本東南アジア学生親交会の一員として幾度もベトナムを訪れ、難民孤児救済につとめた。しかし、こうした運動には限界があり、行き詰まりがあった。
 東京でいかに声をからして戦争終結を叫んでも、それが現実を動かす力とはなり得ない。
その行き詰まりを打開するのにどうしたらいいかと苦慮しているとき、戦場で見た南方の強烈な色彩の花の印象が土井脩司の心によみがえった。
 私はその印象を聞きたかった。ところが土井脩司は語りたがらなかった。それは一人称、単数、現在のできごとで、説明できない事だと彼は言った。言葉で説明できない美しさというものがある。美しさとはもともとそうしたものかもしてない。死と破壊とが君臨している戦場に燃えるような真紅の花が咲いている。彼の言葉を借りるなら、「美しいが故に悲しい」し「はらわたにしみる」美しさであり、悲しさであった。
 土井社長がベトナムの花を多く語らなかったのは、もう過去になってしまって、それよりも今日のはげしさ、きびしさに対応して、事業としての花の企画社を発展させねばならない責任でいっぱいなためであるかもしてなかった。それは二十二名の生活がかかっている事業であることにおいて、他の事業とことなるものではない。
 けれども死の凶器である鉄砲の前に、花をさし出そうとする精神が、ますます現実にとって必要であることを彼らは自覚している。事業はフラワー・レボリューション(花による革命)であり、彼らの一人一人はフラワー・メッセンジャー(花のめぐみをとどける人)である。彼らのシンボル・マークは花とも飛んでいる鳥とも見える。〈花や緑はおろか、大地さえコンクリートにむりつぶされ蒸発した地上を必死で飛ぶ鳥〉は涙をこぼしている。
 大地は窒息した。その大地からさえも人間は隔離され、言わば引き抜かれて根なし草になってしまった。鳥が流した涙は〈あれはてた人間社会の悲哀と尊き生命への哀愁〉を泣いたものだ。その涙は〈大自然のもつ愛のシンボルであり、いのちの言葉である花に変化〉する。若者たちは人間の悲しみを泣く涙であり、生命をよみがえらせる愛の花を贈りとどけるメッセンジャーになろうと決意しているのだ。
 彼らは花の企画社をつくり、希望なきまでに荒廃したエコノミック・アニマルの社会にむかって、愛と生命の復権を託した花を与えはじめた。フラワー・ショップからやがて農場による花の生産、そして生産と供給の直結による流通機構改革と発展する。事業が発展するにつれ、矛盾とぶつかり、改革の必要を痛感する。それがまた新しい企画となる。鋭角的な発展、しかし、私は共鳴するところが多いにもかかわらず、その発展や、野心的な新企画などとその理念について、具体的に紹介するスペースの余裕がないのを心から残念に思う。
 
 末期という言葉がある。死んでいくものにとって、この世はこの上もなく美しい。戦国武士が花を愛し、庭いっぱいに花を咲かせたと当時の記録は教えてくれる。武士道とは死ぬことと見つけたり。朝に死ぬかくごをし、夕に死ぬかくごをした。彼らは末期の目で現実を見ていたから、彼らほどこの世の美しさを知っていたものも、愛していたものもなかった。彼らは花を愛し、花を咲かせ、あるいは、そして花の生命とふれ合った。
 人の生命はもろく、朝の露のようにはかないとむかしの人は考えていた。ところが今日ではできるだけ死を考えないで暮らそうとしている。死を遠ざけておけば、死なないですむとでも言いたげな態度である。死に無関係であるのは、人が生命であることを忘れ、生命の根源である自然のめぐみから切り離されることだ。かくて二十世紀の文明は、人類を絶滅にむかわせ、地球を破壊的荒廃へと猛スピードで突進させるのみになった。
 砲火の下のベトナムに花が切実な美しさをあらわしたように、今日の東京砂漠では花は今までになく美しいはずだ。ところがほとんどの人は美しさを見失っている。花による革命を目ざし、明日の生命のルネッサンスを目標に、土を耕し、花を栽培し、花を人々のもとにとどける土井脩司をリーダーとするグループは、ドル防衛で世界経済を必死でかきみだしているニクソンの政策とくらべものにならないほど尊いと私は考える。
 
  昭和55年3月25日 泰流社刊「沈黙の日本美」 吉村貞司著作集 弐

☆ 地球の色は青かった

 軍事最優先をとる米ソなどの為政者は地球号のハイジャックだ、と言うと反発を買うでしょうが、彼等の言う「自由」だ「平等」だというのは、本物の思想ではないと思います。
 唯物史観に立つ経済システムは、個的利益や利害に則って、戦争だけでなく、破壊や飢餓や公害をもたらしています。機能優先が、機械化、合理化、都市化、巨大化、工業化だけでなく、分業化、無機化を生じさせています。
 具体的なことでは、低開発国(へんな言葉ですが)の五十〜六十%の人が栄養不良です。
機械化や化学肥料や農薬の多投は、大事な母胎としての地球大地の地力低下を起こさせています。
 森林も毎年二千万ヘクタール近くが消滅され、二十一世紀には熱帯雨林が四十%失われ、水源も枯れてゆくそうです。
 化学物質が大気中に放出される量は多く、放射能や有害物質を生み出し、農産物のみならず人間にも害を及ぼし、小動物も二十%の種が滅亡されるとのことです。恐ろしいことが進行しています。
 米ソの軍拡競争はひどいものです。その殺人、破壊力の研究はどんどん進み、資源や労力の浪費は大変なものです。世界の現在核兵器は、四〜五万個以上と言われ、二十万人を火の海につきおとした広島型原爆の百万個分とのことです。ワルトハイム国連事務総長の言葉を借りると「世界中の老人から赤ん坊まで、その頭上に三万トンの火薬を吊るしている」という恐ろしく馬鹿げたことが進行しています。
 当然、人間性の喪失は進む一方で、麻薬、殺人、親殺し、子殺し、ストレス、生活習慣病や奇形児の増加は止められません。
 地球生命体を道連れにした人類の滅亡への道を、ひたすら走っているようでなりません。まるで坂道をころげて行くようです。

 宇宙空間に飛びだしたボイジャーやスペースシャトルが、地球の美しさを実感し、「地球の色は青かった」と全世界の人々にメッセージをしてくれました。もはや個別利益や国益なぞといっている時ではありません。武力や資金力が正義だと考える古い思想の呪縛から解放され、名実ともに地球、宇宙時代の幕開きにしなくてはならないと思います。   
  
☆ 独断と偏見

 事実、人類は勿論生きとし生けるすべてを宿す地球は、猛スピードで破壊と荒廃へ向かって突進しています。人類が地球上に生存して以来、百万年を過ぎているとしても、地球の少なくも五十億年を経た年代にあっては、全く生まれたばかりの赤子なのでしょう。
 それなのに早くも人類の絶滅が真剣に語られるということは、とんでもない出来事です。
 「むずかしいことは分からない」「そんなこと考える暇ない」などとは言えません。共犯者です。この共犯者という認識に立って精一杯思い悩み考えたいと思います。
 自分たちのもてるものを通し、真剣に考え、信念に立って行動したいと思います。たとえ、独断と偏見と言われ、いかように批判を浴びても、投げやることなく追求していく姿勢は貫いてゆきたいと思います。
 地球を考える時、私たちは次のような認識に立って考えます。十九世紀が、スペイン、ポルトガル、英国、ロシア、仏蘭西などの列強による植民地時代だとするなら、二十世紀は植民地解放の時代でなくてはなりません。しかし悪い形で進むと核戦争の引き金となり、人類滅亡につながります。今なお、米ソ超大国の世界分割といったヤルタ体制という悪の種子が潜在しているからです。
 二十世紀の植民地解放から、二十一世紀の人類解放の時代への提言者の一人として、日本はよい立場、よい位置にある気がしてならないのです。沢山の英霊の犠牲のもと、植民地解放のきっかけをつくり、世界に先駆けて終戦(敗戦でない廃戦)を宣言し、原爆のおそろしさと戦争の無意味さと平和の尊さを知っています。
 文化国家として平和宣言した日本が、世界に役立つことこそ、アジア、とりわけ中国や韓国の人たちへの反省を込めた義務であり、使命だと思うのです。豊かな四季に恵まれ、自然を愛し尊さをよく知る、太陽民族であり、農耕民族たる私たちにして初めて成し得ることでもあると考えるのです。

☆ 死と悪の影

 太陽民族であり、農耕民族である日本も、戦後「高度成長」という経済繁栄のもと、交通地獄、受験地獄、通勤地獄というおそろしい言葉が日常的に使われる社会になりました。
 「工」や「商」の論理は時として地獄の論理を生み出します。それが生命に直接関係する「農」にさえ、悪い面での工や商の論理と技法が導入されてきています。「生」の論理である農にも死の影が忍び寄ってきています。生命の背骨であり腰でもある食べ物さえ、犯され始めていることは恐ろしいことです。
 養豚や養鶏場でひどいのが沢山あります。狭い空間にギシギシ詰め込まれ、ただ定められた時間に配られる水と混合エサ。「産め産め卵」「太れ太れ豚」です。ひどい養豚場は、スペースをとらないため鼻にくさりをつなぎます。不健全でストレスがたまった卵と肉は正常なものではありません。
 満員電車、通勤地獄、3LDK、狭い校庭、塾々々の受験戦争、金金金の会社、力力力の政治、性性性の娯楽、いやだいやだいやだの新聞、そして空気や食物他の複合汚染と肥満の人々、まさに呪縛にかかった因果な社会へと進んでいます。
 木が切られ、土もコンクリートに塗り潰され、川も汚され、もはや赤トンボやツバメが住めぬ、ゴキブリやサソリの天下になったかのように権力や金を握った奴が大手を振って横行しています。
 右にならうように、力が正義であり、地獄のさたも金しだいであり、生きるために手段を選ばずを信条にする人も増えてきています。政治、経済は勿論、宗教、医療、農業、教育にまでその影がしのびよっています。
 「毒をもるやつ」「おてんとさまに顔向けできぬ人」「恥を知らぬ人」が平気な顔して「金と権力を讃歌しています。
 心を亡ぼすことを「忘れる」と書きますが、忙しいことも悪の道づれになる原因でしょうか、現代社会は忙しすぎます。そして「物」が「心」をたべてしまうようです。
 美しいものを美しいと感じる心と、善きことを善きことと思う心が大事です。
 友をもつことはよいが、「悪」まで影響をうけたことは、ここでしっかり反省し、本来の日本の精神である「真」「善」「美」の柱にもどり、よき友、よき国となって二十一世紀への提言者になることだと考えます。
 この二十一世紀には二つの道が用意されています。一つは人類滅亡への道(死への道)、一つは人類再生への道(平和への道)。これほどはっきり選択できる命題は、歴史上なかったと考えます。

☆ 何が人間を支える真実であるか

 グローバリズムをいち早く世界に発表された仲小路彰先生は、未来学原論でこのように語られています。

 この悲劇的な世紀に生きる人間にとって、何を真実として依存すべきか。
 常にうたかたのように流転し生滅する現実としてあるもの、それは限りなき生命の源泉をたたえる大地であり、そこに芽生え、花を咲かせ、実を結ぶ不断の創造として、より豊に発展せしめるところの生命の愛。それは惓むことなくこの地上を装い整え、命あるもの、命なきものを問わず、すべてを調和し相互扶助に導き、存在の多様な豊穣をもたらすあらゆる現象の涅奥にひそむこの実在は、存在の最も純粋な結晶でありエネルギーであり、超越的なものであり、神である。それは人間を支えているそのものである。そこにある物質と精神とは分かちがたく渾然と一体化しており、神の国、あるいは自主の王国の平和を創造する母胎として、美しい輪舞をなしつつ無限に展開してゆく。
 あらゆるものは地球の秩序の中に一つでありその規範を超えるものではない。
 その真実は、人間存在を決定的にする良心の規範によって映されるものであり、生命、国土、海洋他の一切のものに通う。
 良心は大地であり、生命そのものであり、はるかに宇宙的な存在秩序の波動に照応するものである。
 
 私たちは、最後の一行に入れたいのです。花はその象徴である――と。仲小路先生は、それを認めて下さいました。そして「今こそ花です」と言われました。

☆ 花は無敵

 花は地球上でもっとも美しく、平和で愛に満ちています。花は天下無敵の世界の共通語です。
 花は、多様な日本の文化を生み、大きな影響を与えてきました。花は「生」の象徴でもありましたが「死」の象徴にもなりました。
「生そのものの花」
「生の中に死をやどす花」
「死の中に見た生の花」
「死の花」。花は時代時代の時と人の心を写し出してきました。世は花とともに、花は世とともにありました。
 日本の歴史上、存亡をかけた大戦には、「散華」を巧みに利用し、人の心を一つにして死の戦場にと向かわせました。
「戦争は、人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければなりません」。右の言葉はとりわけ、大国といわれる国は軍備増強をはかっています。戦争を放棄し、平和なる文化国家を全世界に宣言した日本には、花とその文化があります。
 天下無敵であり、世界の共通語といわれるこの花とその思想を今一度、再構築して、地球平和の道標の一つにする意気込みこそ、私たちの本懐とするところです。
 路上に咲く一輪の花は世界の征服者なり、と言われるように、母胎である大地と、父なる太陽。花は咲き、実や種子をもち、芳香をたちこませます。悉皆国土皆成仏という言葉の通り、蝶や蜂、鳥や昆虫や、生きとし生けるすべてのものの間に、平和で愛の充満する交流があります。
 忙しさから心をとり戻し、花に水をかけながら、ゆっくり花の香りをかいで下さい。とりわけ、この無味乾燥した都会にある人にとって、水をかけることは、心に水をかけることです。
 花の香りは、疲れた頭と心を清めてくれます。

☆ フラワーサロン

<花とは何か、今なぜ花なのか>

 私たちは、私学会館の一室を花で飾り、花の理念と行動を討議してきました。フラワーサロンと呼ばれるこの会合には、座長の阿部賢一先生をはじめ、野田卯一先生、滝口宏先生など、世の大事な方々が集い、心と頭を貸してくださいます。「花とはなにか」から始まったサロンも、「今なぜ花か」という討論へと進んでいます。
 天から与えられた花のもつ意義と人間とのかかわりあいをたずね、花を愛し、花をすべての人のものとし、花の持つ力を活かし、世界の平和と人類の幸福を実現するために、花の憲章にとりかかっています。
一、 花のうるおいは
自然との共生、共感であり、地球と人間の交流のみならず、生きるすべての宇宙の存在である。
――自然との共生、共感から疎外した、無機的都会の環境に花のうるおいをもって、人間と文化の復興を願いたい。
一、花の心は
自然の教義そのものであり、永遠なる愛と平和の心である。
――自然の摂理、教義から離反した対立と競争の教育に、花の心をもって、愛と平和と生命の尊さを学び考えたい。
一、花の活力は
自然の摂理にそった平和の力であり、生命の讃歌である。
――機械的機能優先社会における人間性の閉鎖的分離策に、花の愛と活力をもって、生命の讃歌を共有したい。
一、花のすべては
真、善、美を備えた神であり宇宙である。
――花のもつ機能性、有機性、総合性、開放性、永遠性などをもった神秘的な宇宙の生命体から理念と行動を学びたい。

これが私たちの花への思い込みであり、今なぜ花かの概論です。では第二章では、この四つの項目を追っていきたいと思います。
第二章 花とは

花のうるおいは
 自然との共生、共感であり、地球と人間の交流のみならず 生きるすべての宇宙の存在である
☆ もしこの世に花がなかったら

一、 花は樹々と和し、鳥と交わり、自然をより美しくしてくれます。
一、 花は春夏秋冬、自然を美しくし、人を喜ばせ、うるおいを与えてくれます。
一、 花は色の世界をつくりなし、その香りは生けるものの魂を恍惚の世界に誘ってくれます。
一、 花は月を結び、雲を結び、その美しさをいやしてくれます。
一、 花園は、地上最高のやすらぎと喜びと美の場であり、花がない世界は、味のないこと砂漠のようです。

 もしこの世の中に花がなかったなら、どんなにさびしいことでしょうか。野や街に、家庭や社会にとって、花のうるおいは必要不可欠なものです。

地球

地球は とても美しい。
神が美しくつくられた。
高い木々や
野の草花
青い空や
深い海。
そう
地球は美しい。
けれど
わたしたちが
愛し合えば
一瞬のうちに
地球は
もっと美しくなるだろう。
  マリーストット 14才 ジャマイカ 絵と文は偕成社「世界のみなさんへ」より

☆ 地球の破壊が進行している中で

 昔の人は、人間は勿論他の生物や自然も、すべて創造主である神や仏が宿っているものと信じていました。しかし、ダーウィンの進化論により、猿は下等な動物から進化し、そして人間に進化したものだということになりました。
 人類は、地球上で一番知恵があり、すべての生物や自然を手下に従え、勝手気ままに振舞うようになりました。自分だけが栄えるため、都合のよいように自然を変え、生物のバランスを破壊し、地球はすっかり汚され、滅びようとしています。飛行機の騒音と排気ガス、自動車の排気物や工場の出す有毒物を含む煤煙は、大気を汚しています。原水爆実験による放射能灰が空から降ってきます。
 海は埋め立て造成され、悪臭とハエが発生し、下水や工場汚水の流出だけでなく、廃油を不法に捨てたりして、海水も汚してきました。その為、奇形な魚さえ発生しています。
 都会にはビルが立ち並び、地盤沈下を起こし、道路やハイウエイにぎっしりつまった自動車は、排気ガスや騒音をふりまいています。人の命を奪う交通事故が発生し、騒音公害だけでなく、ゴミ公害や光化学スモッグが発生しています。
 地方にも宅地造成による自然の破壊や観光道路建設という名で、自然林を破壊しています。自動車の排気ガスによる植物の被害は増え続けています。
 農薬を使うようになってからは、昆虫や小動物がすっかり減っただけでなく大地が豊かさを失いました。人間を豊かにしてくれた科学や技術が、一方で自然を破壊し、かえって人間を苦しめるようになりました。
 文明が発達し、山や川や海や森林が開発という名で破壊され、そこを住みかにしている動物は追われます。人間は、肉を食べ、毛皮を着物にし、又装飾にと殺してきました。
 地球上で、毎日何百トンの排気ガス、媒煙、ゴミ、そして放射能や有害物質が、空や海や土の中にばらまかれているそうです。鳥や魚も数が減り、二十%の種がこの地球から姿を消すとのことです。
 その影響は、確実に人間に波及します。すでに日本でも新生児の五%はなんらかの先天性異常を持ち、子供たちの死亡原因の第一位は小児癌となっています。
 
 行き先を間違えたようです。そろそろブレークを踏んで、ハンドルを切り替える時がきたと実感します。
 
 次の一ページに「日本の公害地図」1982年少年朝日年鑑より
 
 次々ページより小学生の絵と詩
 

自然
 
 いつかはなくなるもの、
 人間の手でよごされるもの、
 この世で一番美しいもの。
 人間にあたえられた一つの大きな宝。
 自然。
 私達にとって
 自然はかけがえのない
 心やすまるものです。
 もしも
 自然が失われたら
 私達はどうなるのだろう
 ただ公害にもてあそばれるだけで
 何も手につかないだろう
 そして、
 暗く
 冷たい世界が
 私達をつつみこむだろう
 私達は
 自然によって
 生きる勇気をあたえられている。
 だから
 私達は いつまでも いつまでも
 自然を 大切にしなければならない  
            富美浜小学校  六年  室積 利恵子・郡山 美紀 (「花の心」第2号)
 
☆ 美しき日本

 花のうるおいは、自然との共生、共感であり、地球と人間の交流のみならず、生きるすべての宇宙の存在であり、地球は母なる大地です。太陽は、生きとしいけるすべての父です。花のうるおいは、この両親の愛を集めて育つ、宇宙、大自然のうるおいそのものです。
この色と姿、そして香りは、人間の力では創りだすことができません。
 千葉の地方で、豊作と長寿を祝福する美しく平和な歌があります。

 春は花、秋は稲穂を待ちやかねたる
 お孫さんとりあげて
 ひざにぞ舞わせて
 御庭の桜を眺めます
 
 日本は季節の変化にとむ美しい国です。このたぐいまれな美しさは、地球上第一級の自
然環境ではないかと考えます。その美しき日本をうたう歌は、数限りなくあります。
 
 美しき天然
 
 空にさえずる鳥の声 峰より落ちる滝の音
 大波小波どうどうと 響き絶えせぬ海の音
 
 聞けよ人々面白き この天然の音楽を
 調べ自在に弾きたもう 神の御業の尊しや
 
 春は桜のあら衣 秋はもみじの唐錦
 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布
 
 見よや人々美しき この天然の織物を
 手際見事に織りたもう 神のたくみの尊しや
 
 うす雲ひける四方の山 くれない匂う横がすみ
 海辺はるかにうちつづく 青松白砂の美しさ
 
 見よや人々たぐいなき この天然のうつし絵を
 筆も及ばずかきたもう 神の力の尊しや
 
☆ 花の種子が各地に

 自然との共生・共感を疎外した、無機的社会の環境は、花のうるおいを必要としています。佐倉市の市民二千人が「家庭や職場を花で飾り、美しい郷土づくりを推進しよう」と花の銀行を設立してから五年になります。「楽しんでする森づくり」を合言葉にスタートし
た市民・学生の行動グループであるグリーン・ドラフトの輪は、各大学に飛び火して活発な運動が展開されています。東京の青年工芸集団が、奥飛騨の山里で「緑の平和村づくり」にとりかかっています。
 財団法人日本花の会は、桜や梅、桃などの苗木を二十年の間毎年十万本を生産し、日本のみならず海外にも贈り続けています。その苦労と努力は大変なものだったはずです。
 このような花の種子が、各地方、地域から芽生えています。そんな中で朝日新聞は、危うい緑の地球のキャンペーンに乗り出し「緑の基金」を発足させ、地球防衛のための具体的行動に乗り出しました。
 この十年、狭いビルの空間や家の庭や窓に、自然の美しい贈り物を生かそうと、花がどんどん増えてきました。
 駅は、その地域の顔であり中心です。日本列島をネットワークしている日本国有鉄道は、自然のいぶきをとり戻す運動をスタートしました。今、日本の心臓である東京駅に花が飾り付けられ、駅員が水を遣っています。
 これらの運動が、これらの芽が、日本のあらゆるところで蕾を持ち、花咲き、種子を飛ばして行くことを信じます。このたった一つしかない地球に住む人々に「平和」を呼びかける国として、花のうるおいは大きな力となります。

 花
  
 花には顔がある
 うれしい顔が
 自然のめぐみをうけながら
 雨を体にうけとめて
 もっとふれ
 もっとふれ
 と、しずくにうたれてうたっている
 
 花には顔がある
 ゆかいな顔が
 ちょうや ハチと
 たわむれて
 花びらをいっぱい広げながら
 笑っている

 花には顔がある
 かなしみの顔が
 木枯らしにふかれて
 花びらたちは ちってゆく

 新たに咲くときを夢みて
 新たに咲く花たちに
 希望をあたえて
 風にまって
 消えてゆく
      佃島小学校六年 細川 昌仁  「花の心」第一号

「花の心」とは、
 自然の教義そのものであり、
 永遠なる愛と平和の心である

☆ なぜ花は平常心いられるか

 なぜ花は、このように平常心でいられるのでしょうか

一、 花は、踏まれても、折られても新しい芽を出し、花を咲かせます。
一、 花は、妍を競っても争いをしません。
一、 花は、人類の心を温かくし、喜びと愛と平和をもたらしてくれます。
一、 花は、人々の心をつなぎ、輝きと平和を与えてくれます。
一、 花は、あらゆるものの心を開き、喜びと美しさを与えてくれます。

 花は争わず、傷つけません。生を祝い、死を慰めてくれます。この愛と平和の心こそ、
花の心です。

 じんちょうげ

 あたたかい風がふいた。
 いいにおいがする
 じんちょうげのにおい。
 いいなあ。
 かわいい、かわいい花だ
 楽しく話をしているようだ
 風とおしゃべりしているのかな。
 寒い北風。
 もう吹かないでね。
 じんちょうげが
 べそかくと こまるから。
      九段小学校四年 中川 あずさ  「花の心」第三号

☆ 愛の分裂と偽りの平和が横行する

 愛だ、博愛だと唱える神々が、自分の利害を掲げて対立している現状をみると、それは真の神でも、真の愛でもありません。
 太陽や大地を拒否し、宇宙は勿論生命の流れすら分断された中で、独占と快楽を求めようとする愛という名の性行動が、己を傷つけています。
 愛されることがなく、自分も愛すべきものをもたぬ人は、むなしい刺激を求め、性や暴力や麻薬といった危険な道を走ります。現実からいくら逃げても、その行き着くところは理由のない殺人かもしれません。親が子を殺し、子供が親を殺す、こんなことがあってよいはずがありません。
 警視庁が調べた昭和五十四年は九一九人になったといいます。非行で補導された少年は九万人を超え昭和五十年の一、五倍と増加の一途をたどっています。登校拒否や校内暴力は後を絶ちません。現在進行する社会には、教え育てるはずの教育がありません。すればするほど悪くなっています。学校も家庭も社会も、子供たちから愛と生命の尊さを奪いつづけているからです。
 父親不在、母親不在、デモ・シカ先生、サラリーマン教師、受験地獄、塾々々、交通地獄、テレビコマーシャル、愛の不在。
 都市化、工業化、商業化の波にすっかり疲れ、肉体も精神もズタズタに痛めつけられています。愛のないところに平和な心が育つはずがありません。それどころか、平和という言葉自体を方便や戦術手段に使う人や国があります。「我家の平和を乱す者と戦う」「アジアの平和のために戦う」、自分や自国の利益を追求するために平和という言葉を使います。
 現代ほど、真の愛と平和の心を必要とする時代はありません。それ故に、愛と平和の本質をしっかり捉えなおし、一刻も早く家庭や学校や社会に呼び戻す運動を起さなければなりません。
 自然と人間の分断が進行する東京の街並みの中で、七十歳になる修道女のマザー・テレサは、現代社会の底深い淋しい愛の不在を感じ取り「貧困とは、飢えるだけでなく、愛に見放されていることを意味する」と悟ったそうです。

 世界のみなさんへ (偕成社より転載)

 わたしはこんな世界がほしい、
 ほんとうに美しい世界が。
 子どもたちには、こんな世界をあげたい。
 平和と愛と幸福の世界、
 楽しみと愛と喜びにみちた世界を。
 わたしはこんな世界がほしい、
 ほんとうに美しい世界が。
 子どもたちには、
 こんな世界をあげたい、
 いたるところ花いっぱいの、
 美しい、美しい世界を。
      ジャマイカ 十四歳
 
 ぼく、戦争に行くかもしれない。
 そしたら、白いインクの入った鉄砲をもっていくんだ。
 旗をぜんぶ白くしちゃえば、
 戦争している兵隊さんたちは
 友だちになると思うからさ。
      スペイン 八歳
 
 人が手をつなぐことをのぞめば
 うえた人は、ひとりもいなくなる。
 人が愛しあうことを決心すれば
 不幸はもはやなくなり、正義が支配するだろう。
      ハイチ 十六歳
 
 こんなこと、いっていいかな?
 世の中をよくすることは、むずかしくてできない。
 ぼくはそれより、近所に住むいじわるな子を、なおしてやりたい。
      ギリシャ 八歳
 
 人ごろしをする武器をうらないようにすればいい。
      イギリス 十一歳
 
 わたしだって、やくにたつわ。
      ジャマイカ 十五歳

☆ 愛と平和の根源

 愛の根源は、宇宙を実感し、宇宙が実感される生命の交流の中に存在します。その愛は、人類や生きとし生けるすべてと融合し、生きとし生けるすべてに解放されたたものです。
故に万物に愛され、万物を愛する存在こそ真の愛だと思います。
 この地球上で、古今東西、花を憎み嫌う人の話を聞きません。父なる太陽と母なる大地の愛をサンサンと浴びて咲く花は、万物に愛され、万物を愛する「愛」そのものです。
 平和とは、戦争の反対の言葉ではありません。平和は平和そのものです。宇宙、地球、地域、家庭のエネルギーがスムーズに流れ、真と善と美が生みだされる愛に満ちている状態が「平和」です。
 私欲や都合上の大儀に使われるのは、真の平和ではありません。まして、軍事や外交路線上に利用されるとはもってもほかです。愛と平和は、みずみずしい生命の躍動の中に生まれるものであり、それは総合的、有機的、解放的、永遠なものです。花は人々の心を開き、蝶や蜂などあらゆるものを結び、喜びと美しさを与えてくれます。
 この愛と平和を、日本の家庭や学校や社会に呼び起こしましょう。とりわけ次の時代を担う子供たちを、自然の摂理や教義から離反した対立と競争の場から、宇宙の愛と生命の交流する平和な世界に解放してやることです。家庭の基盤をつくる男性と女性の愛も、この愛の根源を見失ってはならないと思います。愛は人間の存在そのものだからです。

 すずらん

 「わっ」たくさんさいているよ
 きれいだなあ
 いいにおいだなあ
 すずらんって「あっ」みんな下をむいている
 はずかしいのかなあ
 すずらんっておもしろいなあ

      錦華小学校 四年 管沢 我  「花の心」第四号

 あじさい

 あじさいくんかな
 あじさいさんかな
 わかんない
 なんでいろいろな色にかわるの
 はずかしいの
 それともくやしいの
 えのぐがかおについちゃったの
 あじさいくん、なぜうごけないの
 「それはね、足が土におさえられちゃったんだよ」
 「ほんとはね、ぼくもあそびたいんだよ」
 じゃあ、どうすればいいの
 「だからいつもぼくのまえであそんでね」
 うんわかったよ
 こんどから、なるべくあじさいくんのまえであそぶね
      若宮小学校 二年 ののやま きみひさ  「花の心」第一号

☆ まず教育に花の心を

 昨年二月、パウロ二世が広島でアピールをしました。「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命を奪います。この地上の生命を尊ぶ者は、政府や経済、社会の指導者が下す各種の決定が、自己の利益という狭い観点からでなく『平和の為に何が必要か』を考慮してなされなければなりません。目標は常に平和でなければなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。
 その道こそが人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を全うさせるものです。平和への道のりを、平等、正義、隣人愛を、遠くの夢ではなく現実のものとする道なのです」と語り、イザヤ書の中から、「剣を鋤に打ちかえ、槍を鎌に打ちかえる」ことを引き合いに出されました。

 死や憎しみを生む剣や槍を一刻も早く捨て、太陽と大地の愛の中で、鋤や鎌を使えということなのでしょうか。世界宗教者平和会議の中で「愛、自由、正義、心理」を平和の別名とし、地球主義に向かうことを採決しています。
 また、日本で開かれた著名な学者による価値会議は、最終的に大切なものは「愛」であることを総括しています。
 このように、地球上の学者や、宗教者が「今こそ愛と平和を」と全世界の人々にアピールしています。新しい胎動が始まっています。その流れは、日本への注目と期待として集まってきています。日本は、単に平和を求めるのではなく、平和なくしては生きていけぬ国として、一気に国策をはっきり「平和」におき内外に向かって行動をとる時期にきています。
 愛の復権による平和国家を創るとともに、世界に向かって平和のための資金と人材を投下する時です。
 国の基は、まず教育です。自然の摂理、教義から離反した、対立と競争の教育を終わりにしましょう。花の心をもって、愛と平和と生命の尊さを学び教えていくことから始めてみませんか。
 
 東京のある保育園と小学校に、花を届けたところ「造花みたいにきれい」と言われました。デパートで買ってきたカブト虫の角が折れたからボンドでつけ、死ぬと「五百円損した」と考える子供たちは、生命のあるものとないものの区別がつかないようになっています。こんな恐ろしい状況を、絶対にこのまま見過ごしてはならないと思います。

☆ 美しい学校、美しい心

 恵泉女子大学の山口美智子先生から、十年前に感動的な話を伺ったことがあります。大意は「アメリカのハーレムの裏通りに面している家々は、戸や窓をピシャッと閉めていた。
 彼らにとって、ハウスはあってもホームはないといわれていた。ある時、裏通りに美しい草花を植え、水をまいた。それからというもの、白い歯と共に戸や窓が一日一日と少しずつ開き、一週間後には『ホームがやってきた』と口々に叫んで一人二人と外に飛び出してきた」というものです。
 この花は、ハーレムの人々の淋しい心をつなぎ、輝きと平和を与えてくれたのです。
 現在、千葉県の市川市の小学校は、教育に花を取り入れ、美しい学校、美しい心を育てています。花につつまれた学校で、平和の心を養っているこの子供たちが成長し、平和な日本の建設に働いて欲しいものです。
 「働く喜びと尊さを味わい、奉仕や協調の心を育てると共に、生命の尊厳と自然の恵みに感謝する心を育てる」という目的で、学校農園などを盛んにしている学校がいくつかあります。文部省も教育委員会も、生命教育というものを打ち出していますが、この炎は今後ますます燃え広がりそうです。
 日本一狭い小学校として有名な、東京の今川小学校は、その対策として、せめて花や緑に触れさせたいと努力しています。名門といわれる永田町小学校の校庭はゴム敷きで、革靴やバットは勿論、四、五、六年生はグラウンドで遊ぶ事を禁止されています。教育は、総合的に良好な環境の中でこそ行うべきものです。
 社会や学校や家庭、先生やPTA,頭と体と心、自然と設備・・・すべてが有機的、関連的に作用した中で愛が芽生え、平和を教え学んでいくのだと思います。青少年少女の価値は、その純粋性にあり、その基盤にたって成長してほしい美しき魂の復活です。
 価値ある社会にあってこそ、真の教育がなされますが、聖職と信じ純粋で美しく、かつ情熱ある教師たちの努力は大変なものです。そして少しずつ、デモ・シカ先生にも正しい光と目的を与えはじめています。
 「次郎物語」「路傍の石」「二十四の瞳」「ひめゆりの塔」などに登場する先生たちよりは、はるかに複雑、多様化した社会にあって「地球平和」建設こそ人類のテーマであり、教育の柱だと頑張っておられる先生方には頭が下がります。

花の活力は
 自然の摂理にそった平和の力であり
 生命の源であり、讃歌である

☆ なぜ花は強いのでしょうか

一、 花は、黙って咲き、黙って散ります。しかし、その努力は大変なものです。
一、 花は、折られても踏まれても、新しい生命を生みます。
一、 花は、蝶に蜂に新たな生命を生み出させる蜜を与えます。
一、 花は、我々を励ましてくれます。心を開き明るく我々の精神を力づけてくれます。
一、 花は、生殖器であり、たくさんの実や種子を持ちます。
一、 花は、与えられた場所で精一杯努力します。

 花は、大地にしっかり根を下ろし、太陽に向かって立ち上がり、陽をサンサンと浴びて咲き誇ります。それは生命を讃歌している姿です。
 花は、折られても踏まれても黙って芽を出し花を咲かせます。このすばらしい生命力こそ、花の活力です。

 椿
 
 つばきって 冬にも負けないんだなァ
 葉が落ちないよ
 葉を落とさないように
 力いっぱいがんばっているよ

 つばきは強いんだなァ
 風が吹いても へっちゃらだよ
 風にも負けないんだなァ
 風にも負けないくらい
 力をもっているんだなァ

 つばきは強いなァ
 私もつばきに負けないように がんばろう
      市川小学校 五年 近藤 雅子

 すいせんの芽

 小さいのに
 すごい力
 土の中から もこ、もこと
 出てくる 出てくる
 すごい力
 小さい芽
 少しずつ大きく 少しずつ
 「あっ」また少しずづ
 まるで、せのびをしてるみたいに
 一日ごとに大きくなる
      市川小学校 四年 石森 葉子

☆ 身障者が大手をふって

 今、日本の人たちは激しいストレスから病気になったり、心身が弱まっています。そして化学薬品や抗生物質などの薬が、どんどん体に投げ込まれ、地球だけでなく、肉体も汚されてきました。
 病院はさながら薬品メーカーの小売店のようになり、十兆円産業とまでいわれています。
この大事なかけがえのない肉体が、大気汚染や食品汚染だけでなく、本来救われるべき薬品からも痛めつけられているようです。異常な農薬投下の農産物と共に、母胎への影響が心配されるところです。
 昔は、火事や山、水の事故でしたが、今は毎年五十万件にのぼる自動車事故です。その大半はスピード違反や酔っ払い運転です。犯罪数も毎年伸び続け八十年に入って百三十五万件を突破し、とりわけ少年犯罪は二十万件にものぼっています。確実に陽の沈む西に向かって走っているようです。
 今、日本には二百万人の身障者の方がおられます。「日本のスナップ写真を見ても分かるが、殆んど車椅子や松葉杖の人が写っていない。このままでいくと身障者が日本社会から抹殺されるのではないかと危険を感じます」と、自ら身障者でもある弁護士の村田さんが言われています。
「私たちを不幸だと決め付けないで下さい。不幸ではなく不便なだけです」
 確かに能率、便利を至上のものの一つにしている社会は、大切なものを忘れているのです。それは他人を思いやる愛であり、平和を求める心であり、それを生み出す生命力をです。健常者といわれる人々の方がはるかに心障者なのです。機械的昨日優先社会は、人間性を閉鎖し、分離させようとしています。これは大きな誤りで、許されざることです。
 四十年後には五人に一人が老人という高齢化社会に入る日本にとって、この点をしっかり考えないと大変なことになります。
 「金」や「物」や「権力」が大きな顔をして横行する社会に、平和は勿論、愛が芽生えるはずがありません。ロマンもみずみずしさもありません。正しい人、清い人、美しい心の人は、すっかり「弱者」として、社会の片隅に追いやられ、恥を知らぬ、毒を平気で盛る「強者」といわれる人が大きな顔をして「金と権力」を手中にして、我が世を謳歌しています。
 私たちが唱えるものは「生命の讃歌」です。花の愛と活力をもって生命を讃歌することです。

☆ 新しい生命の芽が春の準備を

 人間が生命をもつごとく、自然も社会も文明も生きています。生命のあるものは、必ず終わりがあり、その終わりは又新しい生命の始まりです。
 私たちの目指す平和社会は、人間性の解放と調和です。老人も子供も身体障害者も女性も、すべての人間性を解放し生命を讃歌できる社会です。
 すでに新しい生命の芽が、各所に春の準備をしています。一例をあげますと社会福祉法人愛光園の「ひかりのさと」があります。基本となる願いを次のようにうたい実践しています。
一、 障害があろうとなかろうと、人間として生きることの尊さをみつめ、お互いに助け合い、許し合いつつ、共に生きていこうとする人々の集いであること一、 どんな重い障害であっても、その人にふさわしい住居や設備、働き、生き方を考え、各自の自己実現をより豊かなものにしていく。
一、 自給自足を基本的な生き方として、手作りの心を忘れず、贅沢をせず、無駄遣いをつつしみ、物を活かしきる生活をする。
一、 経営者と労働者、管理者と収容者という対立を一切なくし、共に生きる者として、同じ立場に立って考え合っていく。
一、 理想をめざし、お互いの意見を語り合い、謙虚な気持ちを持って実行に移していきたい。

 この種子がまかれてすでに七年、人間の本来あるべき真理と善意に裏打ちされた「花の心」と「花の活力」が脈々と流れています。果てることのない太陽の光を浴びて一層たくましく美しく、この世に新鐘を鳴らしていただきたいものです。
 両腕を失ったハンディを押し、立派な生き方をされている水村喜一郎さんや辻典子さん達こそ、神や仏から選ばれた使者ではないかと思います。
 登山を愛し、学校でスポーツを教えていた星野富弘さんが、不慮の事故で首から下がすべて麻痺され、絶望的な闘病生活をされていました。その後、わずかに動かすことができる口に筆をくわえ、花を描きはじめました。「愛、深き淵より」や「風の旅」で、花や自然、そして身近な人々の愛を通し生命の尊厳を高らかに、詩に文にうたっています。
 花の活力は自然の摂理にそった平和の力であり、生命の讃歌であることを教えてくれます。

☆ 花をムシャムシャ食べた

 私の首のように茎が簡単に折れてしまった
 しかし菜の花はそこから芽を出し花を咲かせた
 私もこの花と同じ水を飲んでいる
 同じ光をうけている
 強い茎になろう

 黒い土に根を張り、どぶ水を吸って
 なぜ、きれいに咲けるのだろう
 私は大ぜいの人の愛の中にいて
 なぜ みにくいことばかり考えるのだろう
 
 花が上を向いて咲いている
 私は上を向いて寝ている
 あたりまえのことだけれど
 神様の深い愛を感じる

 車椅子を押してもらって桜の木の下まで行く
 友人が枝を曲げると
 私は満開の花の中に埋ってしまった
 湧き上がってくる感動をおさえることができず
 私は口の周りに咲いていた桜の花を
 むしゃむしゃと食べてしまった

 神様がたった一度だけ
 この腕を動かしてくださるとしたら
 母の肩をたたかせてもらう
 風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら
 そんな日が本当に来るような気がした

☆ 活力ある生命の再生・花

 今も謎といわれるインカの遺跡、あの精巧に切られた石を見て、石を溶かす植物があったとも言われています。不老長寿の薬ともいわれる蜂蜜は、花からとれます。
 花をかんざしにした日本人、花から生命力や霊力をもらい、魔除けや病を祓うものとして、桃の花や菖蒲の花を飾った日本人。文武天皇は千二百年前に薬草園を起こしています。
自然の法則に従い、天の采配の中で、古代から伝えられた体験的手法の再評価が必要です。
 生命は尊く、その心は宇宙も包み、肉体の神秘は宇宙の生命体そのものです。しかし、現代医学は時として、肉体をモノとしてとらえ、患部を機械的に処理し、ひどい時は薬漬けにし、一層体を害してしまいます。
 本来人間は、健康そのものであり、心身一如、病は気からという言葉があるくらいですが、病気の原因も不幸の原因も、私たちの心の中にあるという原点に立ち帰ることが大切だと思います。
 「医は仁術なり」という日本医術の心の発露から生まれる、医者の育成と発掘が必要です。医者と患者との間に愛と信頼関係がなくては真の医療はありません。商業論理からの現代の薬品製造と認可制度は、すでに医療から逸脱しています。「活力ある生命の再生」こそ、愛と平和の福祉や医療の役割です。鳥がさえずり、蝶の舞う花や緑の病院や施設は最高です。薬草園は、生産、生活、教育のためのみならず、再生のためにもぜひ取り入れてほしいものです。
 医療の分業化、商業化を廃止し、総合的医学や福祉の道を探している人たちは、開花しにくいシステムと土壌が、日本中に張り巡らされているために、大変な努力を重ねています。医は仁術なりの道をはずした犯罪者たちを取り締まることも重要ですが、それ以上にこれらの人々の芽を大切に育てあげる厚生行政を望みます。この人たちの種子が日本の各地方に飛び散り、心が通う福祉国家への道を切り開いてくれると確信しています。

☆ 花には驚かされることがたくさん

 花には驚かされることがたくさんあります。
一、 花はあの小さな種子から芽を出し、葉を出し、花を咲かせます
一、 花は、根、茎、葉がそれぞれ役割を分担し、関連し、花をもち実をもちます
一、 花は大地に根ざし、太陽に向かって咲き、実をもち、枯れて種子と肥料を残します
一、 花はその場所、気候といった環境条件にそう姿、形で花を咲かせ実をもちます
一、 花は香りや蜜を創り出します
一、 カラスムギの根を全部つなぐと六百kmあったといいます
 花には驚かされることがたくさんあります。それは、宇宙や自然、神や仏の教科書を読むようです。

 花

 はなさん
 あなたはきれいね。
 赤い花
 きいろい花
 ピンクの花
 いろいろあるね。
 それから
 あなたのそのにおい
 こおすいをやっても
 そんな
 においは
 かげないよ
二年 おおさわ あき

☆ 深海魚のような人たち

 世の中には驚きも感動を伴うものと、恐怖を抱かれるものがありますが、新聞やニュースには後者が多く、暗い気持ちにさせられます。
 その原因の多くは愛の不在です。「金」や「性」や「酒」などが生み出すものや、私的利益や国家利益のための陰謀や殺害、そして戦争と悪魔の支配する社会です。
 十八世紀にイギリスの科学者でプリーストリという人が実験をしました。二つのガラス器の一方には植物を入れ、もう一方には何も入れずに、それぞれネズミを一匹ずつ入れ、空気の出入りが出来ぬように密閉しました。しばらくして見ると植物を入れたガラス器のネズミは元気なのに、植物を入れなかった方のネズミは、苦しそうにしてまもなく死んで
しまいました。後にインゲンハウスが、これが酸素であると突きとめました。
 産業革命を起こし、精巧な殺人兵器を造り出す国が、なぜ人間が生きていけるのかを知るのに、これほど時間がかかったことに驚きます。
 日本は古い昔から、植物に「生命」を見出し、神や霊が宿ると崇め、豊かな情緒を育んできました。植物を良く知り、いつくしみ、共に生きてきました。その根、茎、葉、花、そして師管、導管、根元、葉脈、そして気孔や葉緑素など、もはやその機能性、有機性は神業です。その木を切る時、お神酒をかけ、手を拝して、のこぎりを挽いた日本人の心はどこに行ったのですか。
 一本の桜や梅の木が年間取り入れる二酸化炭素は一万gを越すと言われ、その同量の酸素を大気に補充しています。アマゾンの森林を切り開いてしまったら、地球上の人類は生存できぬと早くから言われていました。
 一切の旧いものからの解放と救済が、科学に求められていたのに、科学は原子爆弾さえ造ってしまいました。救い主と思われた科学が、死の宣言を下し、死刑執行人となってしまったのです。人間の心は不安と恐怖に包まれ、頭の良い者は無気力、無感動と虚無に入っていきました。まるで深海魚のように、影や裏しか見ない視覚と心をつくってきました。
 闇や影は、蔭で死を呼びます。怨みや悲しみ、怒りの心さえ生まれます。太陽や光は生命であり、故に愛を生み出し、平和を創造できます。美しいものを美しいと感じ、善き事を善いと感じ、真理を真正面から見つめ感じる心が必要だと思われます。

☆ 野の花を拝む

 自分を信じることができない人は、人を信じることもできないように、美しい心を失った人には美しい心を感じることができません。「野の花を拝む」と題して、天応山観音教寺の浜名徳永住職は、要約するとこのようなことを述べています。

 涅槃経の中に、この世界の山川草木をはじめ、すべてのものが仏性を持つという有名な言葉があるそうです。この言葉は長らく住職の理解をはるかに超えるものであった。
 ある都会の小さな寺の一隅に白粉花が咲いていた。土地は痩せ、花は憐れなほど小さくみすぼらしかった。花には足が無いゆえ、環境が悪くても逃げ出すことができない。では、花を咲かせる事を放棄してしまうかというとそうではない。与えられた環境の中で黙々として努力を重ね、小さいみすぼらしい花をつつましやかに咲かせている。その花の心を知り得たとき、住職は心の底から震えたということです。
 人間は全く手前勝手で、自分の努力の足りなさを棚に上げて、環境のせいにし、サボタージュすらする。この花の心から見る限り、自分はとうていこの花に及ばないことに初めて気がついた。草花を両手に捧げ拝みたいような気持ちになった。
 心眼を開き見れば、まさに光聖のいわれし如く、一音一音といえども大日如来の説法にあらざるものはないのであろう。
 そして最後に名もついていない草花を、拝み歩き、仏の心に一歩でも近づきたいと、それ以来、春がくるたびに住職は自らを恥じると結んでいます。

 現代社会は忙しすぎます。大切なものを忘れがちです。コンクリートや石垣の間に咲くアザミやタンポポに気がついたら、立ち止まって見て下さい。あとは「心の眼」がまだ大丈夫か否かを自分で感じ取って下さい。

 心の広い人は
 自分の時間をほかの人に使う人だと思う
 お金は 心の広さとは全く関係ない
 心の広い人は 花のようだ
 きれいに咲いて
 きれいな空気を人に与える
      「世界の子供たち」より

☆ 花の種子をあらゆる風に乗せて

 花のうるおいは、自然との共生・共感であって地球と人間の交流だけでなく、生きるす
べての宇宙の存在です。花の心は、自然の教義そのもので、永遠なる愛と平和の心です。
花の活力は、自然の摂理にそった平和の力であり讃歌です。
 そして花は、有機性、機能性、総合性、開放性、永遠性をもった宇宙の生命体であり、生きた教本です。病床から星野富弘さんが詩を詠っています。

 役割を果たし
 今まさに散ろうとしている花
 そのとなりでは
 開きかけたつぼみ
 一枝の椿も
 大自然の縮図だ
 いつか
 草が風に揺れるのを見て、弱さを思った
 今日
 草が風に揺れるのを見て、強さを知った

 自然から疎外し、教義から離反し、人間性を閉鎖し、闇の中を彷徨わせる地球社会に、あらゆる危険が待ち受けています。核戦争、地球生態系の破壊、人間自身の内・外的な崩壊と複合汚染です。
 まかぬ種子は生えません。今こそ花の機能性、有機性、開放性、永遠性などに裏付けられた花の「うるおい」と「心」と「活力」をもって、己から隣へと花の輪を拡げていく時です。苦は楽の種子、あらゆる風に乗って種子をまく時です。
 新鮮で明るく、愛のみなぎる平和な二十一世紀の地球社会に向かって、、、

 コデマリの花

 コデマリの花
 コデマリは
 はなびら5まい
 めしべに そして おしべ
 それで一つの花
 それで一人前
 コデマリの花は
 みんなでいっしょに集まって
 一人は、みんなのために
 みんなは、一人のために
 力を合わせて 生きている
 小さな花
 それでも
 花と花が集まれば何かできる
 何かきっとできる
 大きな自然の中で
 何がおこるかわからない
 自然の中で、、、
     佃島小学校六年 柴山 順子

☆ なぜ花を

 私たちは、十八年前「新鐘」を求めて、東南アジア三ヶ国を訪問しました。サイゴン大学・ユエ大学(ベトナム)、タマサート大学・チュラルコン大学(タイ)そしてクメール王国大学(カンボジア)の学生との交歓、討論のためでした。特に悲惨で、言いようが無いほど苦しんでいたのがベトナムの学生でした。
 爆音で目を覚まし、新聞を読むと友や知人達の戦死者名、街に出ると葬式――この二十年という長く汚れた戦争の中に生まれ育ち死んでいくだろう彼等の気持ちは、ただただ胸がかきむしられるばかりでした。
 土井など、はちきれん想いで五度も戦災下のベトナムに行きました。彼等の戦争で死と隣り合わせの中での友情や愛は、とても強いものでした。「足が二本とられても、顔や体から血が噴出しても、生きているからバンザイだ」と生命力は凄いものでした。
 私たちは、どうにもならぬ大きな歴史の波と日本のだらしなさ――それは国際的力もさるものながら、誠意の意味で――を痛感し、次の三点をはっきり掴みました。

一、 農耕民族であるアジア人と狩猟民族である西洋人は違うところが多い
一、 ソ連の「平等」を勝ち取る民族独立運動という名の革命も、アメリカが提唱する「自由」のための思想も本物ではないということ
一、 戦争は死の商人を元気づけ、一層戦争を捲き起こす

 私たちは、彼等と一緒に数度の難民・孤児救済活動と、ベトナム民族のための文化展を日本各地で開催することをもって学生生活を終えました。それからが大変だったのです。
 戦場での死や叫びの声を体中に残したままの私たちをご支援下さった、宮本丈靖、野田卯一、武藤富男、山田久就の各先生方にご指導を仰ぎました。
 狩りでない生産をする太陽民族による本物の思想と行動こそ発起点でした。本物の思想とは、自己や自国のことだけを考えて、戦争や殺人を許すような思想を、断固として否定することです。生命の尊厳がまず第一です。
 「自由」のために戦うとか「平等」を勝ち取るために血を流すなど、とんでもありません。おまけに、そのうしろに人類の幸せは物であるという考えや、力や金がすべて正義であると考えることに強い抵抗がありました。そんな中でサイゴンやダラットで咲いていたフンビーやグオクランの色と香りは、何にも勝るぐらつく心の慰めでした。テト(正月)
休戦に花市場が立ち並び、一時の心を癒す平和なベトナムの人たちの表情を忘れることができません。
 とてつもない問題に取り組んでしまった我々仲間たちの事務所には、絶えることなく花が飾られ――ただ一つの贅沢――眼と心に力を吹き込んでくれました。こういった花の種子が静かに芽を出し、野望の花にかわっていきました。
 あらゆる殺人兵器、銃も戦車もミサイル砲も、みんな花でおおってしまえ!
 そのころ、そんなメチャクチャな発言を、ところかまわずしていました。それは、私たちの忍ぶことの出来ない「無念」の心からの叫びと花への祈りが重なっていたと思います。
当時、恩地日出夫さんがレポーターをされたNHKの番組で、それを恥じずに堂々と訴えていたのが、遠くて近い記憶として残っています。
 戦争終結と平和祈願のため、ベトナムの高僧たちは、自らの体にガソリンをかぶり焼身供養をしました。これは如来への最高の供養で至高の悟りを享けるためのものでしたが、「バーベキュー」とさえ言い捨てられ、どれ程絶望の底に落ち込んだか知れません。私たちは、そこから花を見つけ、花をいだき、立ち直ったのでした。
 
 花火 花火
 夜空にひろがる
 黄菊 乱菊
 町からも 村からも
 小さな家の窓からも
 見上げている
 おとなも 子供も
 空は私たちのもの
 
 風に散るものは
 花びら 木の葉
 風が運ぶものは
 花の香 花粉
 雲の流れ
 家畜たちののどかな鳴き声
 としよりも
 犬小屋の眠りかけた子犬まで
 
 花火、花火
 夜空にのぼる
 滝よ ふんすい
 丘からも 川からも
 小さな舟の上からも
 見上げている
 疲れも痛みも
 さびしさも
 心の重荷をみんなわすれて
 
 花火よ花火
 世界中の火薬よ
 花火になれ
 世界中の火薬作りよ
 花火をつくれ
 
 「ベトナムの祈り」という私たちのパンフレットに贈ってくださった、高田敏子先生の詩です。私たちは、この詩に見送られて花の仕事に生涯を賭けるスタートをきったのでした。

☆ 花の企画社という種子

 「君等は、人間にとって一番素晴らしい物の味を知ってしまった。それは『奉仕』という美果です。そのことは幸せですが、同時に社会に出て苦しむでしょう」。これは、社会化に先立つ私たちへの野田卯一顧問の助言でした。
 私たちにとって、組織づくりのための大きな命題がありました。それは社会性を持つことは当然として、大事な人生を賭けるのですから、生き生きとした愛の交流する平和な組織であることでした。そのために、まず、公益法人に代表される公的役割と社会的使命を担う定款のもと、合理性と近代性、自主性を持つ株式会社形式をとりました。
一、 平和な日本、美しい日本に向かって貢献
一、 うるおいある豊かな社会づくりへの貢献
 そして当事業目的に賛同する人及び団体に、広く門戸を開放し、もし目的に反する方向や私有化に進んだ時は、ただちに解散するを旨とする、という二項を加えさせてもらいました。
 当時、企業は利益追求に走るあまり、水俣病などが発生し社会問題になっていた時代だったからです。この主旨を理解下さった百三十余名が、株主として花の企画社の土台を支えてくれました。
 まず、花の普及を考えた時、流通に大きな問題がありました。まさに、生産者と生活者が犠牲者になっています。とりわけ農産物の流通は、物品と違い生き物であり、生物です。
 現状では新鮮なものを安く手に入れることが非常に難しい構造になっていました。私たちはフラワーチェーン・システムという、企画・生産・輸送・管理を一貫する体制をつくりました。土地なし、金なし、技術なしのナイナイづくしでしたが、「意志あるところ道あり」で、各方面の方々のご理解とご支援のもと確立することができました。
 現在、一万坪弱の土地で、年間八十万鉢の花を生産し、都会の街やビル、家庭や学校を飾っています。同時に、農場では、土壌、自然エネルギーを研究すると共に、都会では、花と都市環境や地域社会を考え、教育や、医療福祉を研究することが花の企画社のテーマです。
 私たちの代紋でもある。フラワーレボリューションのマークは、金や力によるモノへの革命ではなく、花による心の革命を目指すものです。自然と人間とが分離されんとする社会に、人間として忘れかけている心の原点を呼び戻す花を提示していかなければなりません。
 私たちの活動を紹介下さる新聞やTV、雑誌等の縁で、日本の各県から駆けつけてくれた同志と花の理念を共有し、花の生涯を目指し、土まみれ、汗まみれになって、日夜花の種子をまいています。理解者と支援者の心を受け、あらゆる風に乗ってこの種子は飛び散り根を張り、静かに芽を出しています。

☆ まがいものが出尽くした今こそ

 胎動から発芽へと成長していくこれらの花の一つが、大きな株を持ちました。地球平和を考え、行動するための、地球文化会議の発足です。
 地球の平和と安全なくして日本は存立しないことを実感させられる現代にあって、今こそ生命の尊厳と、愛と平和の尊さについて考え、行動しなければならない「時」が到来したと確信するからです。
 この地球文化会議は、あらゆる組織と縦でもない横でもない円い連帯をとり、次の三つを掲げて行動します。

一、 地球公園化に先立ち、日本列島を公園化していく運動です。これには花の輪運動や新しい地域社会の創造運動と実践で、クリーンエネルギー、土壌再生、歴史や文化の保存と伝承、また宇宙産業、平和産業でもある農業産業の理念追求と実践などが含まれます。
一、 地球平和のための博覧会へ向けての行動です。通産思考による今までの博覧会とは異にする、農林、文部、環境などが中軸になり、具体的に観てもらい学んでもらうものであり、これを機にその地域が地方の時代、文化の時代を具現化してゆく地球モデル村の創造です。
一、 地球平和と未来のための講座やシンポジウムを催し、同志を求め心の連帯をしていく運動です。

 造花のごとく「平和」という言葉は、人間の概念の世界に封じ込められ、ほとんど化石化してしまっている現在、この言葉にみずみずしい生命を吹き込み、愛を芽生えさせる時がきました。
 この平和の花は、いかなる権力と金力をもってしても創りだせるものではありません。
花の心を持った人々が、花びらとなり、種子となり、花となってこそ、平和の花が咲き花園が造られるのです。
 まがいものが出尽くした今こそ、本物が登場する時です。国家、国益主義から真の地球への愛を生み出すものへと脱皮する時だと思います。

☆ 終わりに

 私たちを大学時代から見守って下さっている阿部賢一先生は九十二歳になられますが、この数年、特に何度もおっしゃられることがあります。
 「ボクは、仏教者でもクリスチャンでもないが、この宇宙には大きな力、摂理が働いている。人間を支配しているなにかがある」
 このように言われる先生が、我々の十周年の集いに集まって下さった皆様の前で「花は天下無敵だ」と言われました。非常に勇気と希望を与えられたのですが、「ただし、問題は扱う人間だ」と釘をさされ「本をしっかり書くこと」を勧められました。

 いつの時も、バイブルの山上の垂訓を引き合いに出され、花の尊さを語って下さったのは田実渉相談役で「美しいものを美しいと感じる心が失われた社会にあって、この心を呼び起こして欲しい」と、折に触れ語られました。
「鳥がさえずるが如く、花が咲き乱れる明るい家庭を作ってほしい」と、同志の結婚式に祝って下さった相談役も、この八月十九日午前十一時、八十歳の人生を終られました。
 しかし、これらの種子はしっかり私たちの心にまかれ、永遠に絶やすことはありません。
「路上に咲く一輪の花は世界の征服者だ、君等はエライ、しっかりやれ」と病床で最後の遺言をして下さった太田耕造先生、そして今は亡き千葉三郎、栗山廉平顧問や鈴木一先生などからご指導を受けたことは、私たちの中でしっかり育て、実を持たせ、必ず次の時代に引き継いでゆくことが、私たちの天命と思っています。
 滝口宏先生が言われました。「昔の日本人の花についての感覚は、咲いている部分ではなく、その花の根もとになる草木を一体としてとらえていた。切り離した花は、生命を失ったものとして考えていたからです」

 まさに私たちは、多くの諸先輩や先生方、また先祖を離れて考えることはできません。
 すべての養分を受け、立派な花や実をつけ、あらゆる風に乗せて種子を飛び散らせることを見届け、私たちも花の人生に終止符を打てるよう、最善の努力を重ねて参りたいと思います。