花の心で愛と平和を
     花に託した人生・土井脩司(花の企画社会長)の生き様

 一九六六年戦火のサイゴンで「花のように生きよう」と決意した一人の男の夢は、志を同じくする仲間とともに、一歩一歩確実に実現に向かっている。フラワーショップからスタートし、花の生産と販売をする会社、「花と緑」で「愛と平和」を目指す農芸財団へと展開、本拠のある千葉県の北総台地成田周辺からその活動は、日本全国へそして地球規模へと拡大しようとしている。

 戦火のサイゴンで咲く真っ赤なフンビー

 その男・土井脩司さん(52歳)と初めて会ったのは一九七二年。渇ヤの企画社が誕生して2年目のことだった。
 東京・市谷のマンションの一室にあった本社事務所の壁には、
「鉄砲の前に 花をつきつけろ そして そっと花を手渡そう」
と書いた紙が張ってあったのが印象的だった。これが花の企画社の合言葉だった。
単に花の生産・販売を業とする営利会社とは異質のものがあることは、この合言葉でもわかるだろう。
 ここに創業の動機―――「夢」が託されている。
そこから六年ほどって、それを探ってみよう。
 ヴェトナム戦争がであった。早稲田大学の学生だった土井脩司は、岡村昭彦(写真家・故人)のカメラが捉えた戦争の悲惨を見た。
それを機に日本東南アジア学生親交会を組織し、「新鐘を求めて」を旗印とする日本東南アジア学生親交団の団長としてヴェトナム、タイ、カンボジアの大学を訪問、交歓するとともに討論も行った。  
 ヴェトナムで訪れた大学は、サイゴン大学とユエ大学。
「ヴェトナムの学生は悲惨でした。二十年続いている戦争の中で生まれ育った彼らは、言葉に尽くせぬほど苦しんでいました。でも、足を二本とられても、顔や体から血が吹き出しても『生きているからバンザイだ』と語る生命力は凄いものでした」
 東京で和平会議が開けるようにしてヴェトナム戦争を終わらせてほしいという彼らの必死の期待を背に帰国したものの、日本の政府や政党は動いてくれない。自分たちだけでやれることは難民や孤児の救済活動だけだった。何度救援物資を運んでも戦争は終わらない。
無力感に打ちひしがれて、土井はサイゴンの公園で青い空に映える真っ赤なフンビーの花を見るともなしに見ていた。
「ヴェトナムの高僧が自らガソリンをかぶって焼身自殺をしたのは、如来への最高の供養だったのですが、西欧の人たちは、これをバーベキューと呼んだものでした。東洋の心と西洋の心の違いなんでしょう。
 ボクもガソリンをかぶって憤死してしまおうかとも考えました。でも、高僧の供養もバーベキューと言い捨てられてしまうのに、ボクが死んだって蟻一匹が死んだほどにしかなるまいというむなしい思いが襲ってきました。
 目の前に咲いているフンビーは、踏まれても、?がれても、真っ赤に咲いている。見ているうちに自然に涙が流れはじめ、ふと、花のように生きなくては――と思い至ったのです」

 自分の生き方を会社のあり方に賭ける

 土井さんがベ平連など、いわゆる平和運動にしなかったのは「理屈抜き、視覚から入ったから」と言っている。
 生命の尊厳が第一であろうとする土井さんには右も左もなかった。「平等」を勝ちとる民族独立運動という名の革命も、「自由」のために戦うという思想も「本物」とは思えなかった。戦争はただ「死の商人」を暗躍させるにすぎない―――。
 一九六八年、少し遅れて大学を卒業してからも、土井さんは親交会やヴェトナム難民救済運動を続けたが、無力感は消えず、ただ、真っ赤な花のイメージが心の片隅から去らなかった。だが、翌々年の正月、その花のイメージは平和産業のシンボルとして明確になった。
「就職先も無いまま、心に焼きついた花のイメージを誰彼となく話していた時、デザイナーの岡田三千彦さんに、そんなら花の商売をやったらどうかと言われて、コレダと思ったのです。  鉄砲で行われる革命の代わりに花による心の革命を起こそう。フラワーリボリューションだ」
岡田氏がアマンド社長・滝原健之氏を紹介してくれ、その年の四月、アマンド目黒店にフラワーショップを設けることができた。メンバーは土井さんを含めて四人。親交会の仲間である。これが翌年七一年に設立された、花の企画社の前身である。
「株式会社として経済活動をするわけですが、その活動が社会にマイナスにならないよう気を配っています。花は美しい。だからといって公害産業になるはずはないとは考えません。花粉アレルギー、肥料の問題など、いつ自分たちが公害の源になるかもしれません。
 会社の目的には、平和な日本、美しい日本づくりに貢献、日本とアジアを結ぶ花の産業の育成、潤いある豊かな社会づくりへの貢献をうたい、この会社が目的に反する方向に進んだ時とか、私有化の方向に進んだ時は直ちに解散すると、定款に明記しました。
 ボクたちは、自分の生き方をこの花の企画社のあり方に賭けたんです。理想を実現するためにのみ、同じ理想を持っている仲間と一緒にこの事業を始めました。
ボクたちのこの仕事が受け入れられないような社会なら、そんな社会に生きていく価値はないと思っています」
 二二年前、土井さんは、触れれば火傷しそうな熱い思いをこのように語ってくれたが、その姿勢は、その風貌とともに今も変わらない。

 空港反対闘争のど真ん中に農場を

 花の生産のために農事組合法人花の生産舎組合を千葉県芝山町につくり、テストファーム山中農場を開設。創業二十周年で社長の座を仲間の一人・白石源次郎さんにバトンタッチして会長となった土井さんは、この農場近くの「山中の家」に住む。土井さんの祖父が住んでいた土地に、仲間の集会場のように作った家である。
 現在、花の生産の主力は、成田東峰の農場敷地6〇〇〇坪、一棟1〇〇〇坪の温室が3棟ある。これは千葉県に提出した北総農芸センター(フラワービレッジ)構想の一環としてのパイロットファームで、今では千葉県花植木センター内に位置している。
 ここは成田空港建設・開港に際して激しい反対闘争が行われた三里塚の中心地。沿道には殉職した三人の機動隊員の碑もある。なぜそんなところに花のモデル農場をつくったのか。
 「NHKの座談会に呼ばれて、当時、反対同盟の青年行動隊長だった島寛征さんから、初めて成田の問題の凄さを知らされたんです。彼らの闘争のキャッチフレーズは、この闘争を発火点として日本を第二のヴェトナム化しろというものでした。とんでもないと思いましてね。それに抵抗するために、その中心地、中核派の闘争本部の横で花をつくりはじめたのです」
土地は千葉県の所有地。危険だからとなかなか貸与を許してもらえなかったが、やれることを実証した。
 「その土地に近づくと、見張りの人が太鼓を叩く。すると反対の学生や農民がやってきて、テメエ誰だ、賛成か反対かと問う。反対だと言わないと入れてくれない。思想チェックがあったのです。
 でも、花を植えにきたんだと言うと、何も言わずに通してくれたんです。花は超イデオロギーなんですね。しまいには、お前たちは体制でも反体制でもない、非体制だと学生に言われましたよ。これには県も驚いたようで、保有地を貸してくれたのです」
この農場には、空港公団側も反対派の農民もやってくる。双方ともに花に心を癒やされていたにちがいない。

  人が集まり、心も知恵も金も場所も集まった

「書くのなら、花について書いてくださいね。花が人を集めてくれて、その人たちが、知恵や心や、お金や、場所を提供してくれて今日があるんですから。
 主役は花にしてください」
土井さんはそう言うが、花は言葉をしゃべってくれない。花の心は伝わるが、それは言葉ではない。
 確かに花の企画社には人が集まった。親交会のメンバーで花の企画社のメンバーにならなかった人も、社外から協力した。別の会社に就職して、夕方、会社が退けるのが夜九時、十時になっても、市谷の花の企画社に集まって、マーケティングや流通システムづくり、フラワーチェーンシステムと称する企画・生産・輸送・管理の一環体制のソフトウエアづくりに協力していた人たちを知っている。
 それは、花の魅力、土井さんに言わせると花の神秘な力ということになるが、私にはそればかりとは思えない。土井さん自身が発する不思議な吸引力がある。邪気のない的な言動は他人をノウと言わせない力を持っている。放っておけない気にさせる。花に捧げる土井さんの無垢の情熱に軽く酔わされ、鼓舞される。自分も何かしないではいられなくさせられるのである。
 だから、親交会時代から、財界も、マスコミも土井さんの活動をサポートしてきた。それに“花”という無敵の旗印が生まれ、そこに生き甲斐を全身でぶつける人が集い、さらに多くの支援者が生まれた。故人となられた元三菱銀行の田実渉氏もその一人だったし、その遺志を継いだ瀬島龍三氏は、一九八六年の「花と緑の農芸財団」の発足に強力なアシスト役を演じた。自ら「花の世話人」になり、当時はユニホームを脱いでいた長嶋茂雄さんを「純粋な人だから世話人にお願いしてみよう」と引き入れてくれた。さらに長嶋さんが財団発起人・初代理事長を快諾したのには、瀬島さんの陰の力があったにちがいない。農場を訪れた長嶋さんは、花と土井さん、その仲間たち、地元の人たちの要請に、花のような笑顔で答えたという。
「私は花が好きですし、千葉県人です」
 その理事・評議員に名を連ねた人を挙げるには少々紙数が足りない。現在長嶋さんは名誉理事長で、長嶋さんの後を継いで二代目理事長となったのは、日本電波塔(東京タワー)社長の前田福三郎さんだ。専務理事は扇屋ジャスコ会長の安田啓一さんとたる人たちが、ガッチリ組織を固めている。
 土井さんの言う通り、人が集まり、心が、知恵が、お金や場所も集まったのである。

 花は自然、花は生命、花は愛

 「花を選んだのは、花を通じて平和の思想、平和の心を伝えたいからです。そして人を傷つけない平和の経済を貫きたいからです。
平和の経済は花の企画社で実現に努めています。花の心は、花の生産舎組合の人たちが大自然に支えられながらつかんでいかなければいけないでしょう。
 そして花の思想は、花と緑の農芸財団の活動で訴えていきます」
今花の企画社の経営から一歩退いた土井さんは、財団の常務理事としての活動がメインになっている。
 財団の設立目的は、「人々の心に愛と平和をもたらす花と緑の農芸を啓蒙し、普及し、振興すること」となっている。
 具体的な活動は、大きく分けて三つの分野で行われている。
まず、研修事業。一九八三年に千葉県山武郡芝山町に一町歩の農地を買ってつくった花の農場に八六年十月に農芸塾を開塾し、実習、研修を行っている。塾生は、国内はもとより、韓国、フィリピン、スリランカ、ドイツなどからもやってきている。土を耕し、約四十種の花や野菜、ハーブなどを育て、豚や山羊なども飼う体験研修によって、みずみずしい感性を持った若者を育てるのが目的だ。財団本部もここにある。
 そしてこの農芸塾は、財団の大目標である花村=フラワービレッジ構想につながる。千葉県の北総地域に、花の農園、フラワーミュージアム、交流広場、農芸や農芸品の享受の場をつくり出そうというものだ。
 花の企画社が発足以来、積極的に展開してきた花の輪運動も、今は財団が引き継いでいる。小・中学校に花の鉢を無料で配布し、花の心を伝えようという実践活動だ。
 財団の機関紙『花の心』は、もともと花の輪運動の本格化に当たって次のようなメッセージとともに創刊されたもの。

 花は自然、花は生命、そして花は愛。
 花に学び、花を考えて、いきたいのです。
 主役は心と心。愛と愛。
 都会と農村、先生と生徒、車と人、
 文化と文明、物質主義と精神主義・・・
 そんな対立関係の中から、
 調和と創造の時代を
 模索できないものでしょうか、
 私たちのまわりには、
 胃袋や頭のためだけの“もの”が
 はんらんしています。
 だからこそ、
 心の食べもの、心の読みもの、
 心の書きものを、わかち合いたいのです。
 おおらかに、たからかに、
 生きることのよろこびを、
 歌いませんか。

 「もう心がないと生きていけない時代になってきたのではないですか。
花は語りません。黙って咲いているだけ。でも、教えてくれるんです。花は太陽の賜わり物だということを。生命は、太陽と大地の賜わり物であるということ。生命の誕生を、愛を、感謝の祈りを。
 東洋には、この太陽と大地の恵みに生きる農耕民族が多く、狩猟民族とは心のあり方が異なります。平和観も、太陽の民族は、静けさ=カームを求め、星を背負った狩猟民族は、平和のために武器を取るといったの平和でよしとしています。しかし、そうした人たちも、花を差し出せば、恐がって、武器を向けるといったことはありません。花の色、形、香り、それが人の心に平和を伝えます。
 花は最大のコミュニケーターです。地球を救うのは花かもしれないと思っています。
心の時代と言われる二一世紀に、世界中の人々と花を共有できたらいいと願っています」
心に花を! そのために生涯を賭けている人たちがいる―――。

         1994年12月 月刊「黙」  夢実現の経営  寺門克氏(経営評論家)