フィデル・カストロのサイン
昭和42年(1967年)7月26日。私はキューバの東、革命の発祥地であるサンチャゴデクーバにいた。この日はカストロ首相が26歳の時、バチスタ政権打倒の為、モンガタ兵営を襲撃した日だった。蜂起は失敗したが、キューバ革命後8年たって、私はキューバ政府から招待され、日本キューバ学生友好視察団なるものを組織して、キューバにいた。
サンチャゴデクーバからバスで10時間もかかったグランティエラのコーヒー農園。28日の夕。カストロの演説があった。私は少しでも近くで見ようと、演壇の脇で降りてくるフィデル・カストロを待ちかまえていた。
来た。一緒にいたメキシコとキューバの娘達が「フィデル、フィデル」と叫ぶ。ヒゲの軍服姿が近づいてきた。と、ちらっとこっちを見た。護衛兵を押しのけて、目の前に来た。左隣のメキシコのマリアアントニアに話しかけた。
「どっから来たんだ」「メヒコよ」彼女はカストロからサインをもらった。
右隣のキューバ娘、ニレテが私にカードを渡して、フィデルからサインをもらえという。
「フィデル、彼は日本の学生代表団の団長よ。彼にもサインしてやって」
「おお、娘。そんなに重労働させないでくれよ」
(といって、カストロは緑色のボールペンでサインをしてくれた。握手)
「どうぞよろしく。私は日本の学生です。マキコ・ヤマモトの紹介です」
「おお、マキーコ。今、話し合う時間がなくて非常に残念に思う。日本に帰ったら日本の学生によろしく」
「君達、私の演説が短かったから、腹は減ってないだろう」
キューバ革命の英雄、フィデル・カストロ。その手は柔らかく、やさしかった。彼と何を話したかは感激していて、ほとんど覚えていなかった。後日、フィデルと自分が何を話したか、サンチャゴ・クーバに住むニレテに手紙で聞いた。ハバナのホテルに彼女からの手紙でわかったことが前述の内容であった。
サインを重労働だとか、長い演説をするカストロが比較的短く終わったので、「お前ら、腹へってないだろう」と私達を茶化して立ち去ったのであった。
フィデル・カストロのサイン。キューバの新聞・エルムンドに掲載。(黒枠真ん中が私)
7月26日の革命記念日の大集会。カストロ首相は私のすぐ目の上にいた。サンチャゴデクーバの広場には10万人の大聴衆でうづまった。カストロは夕陽を背に、あるときはあじり、あるときは語りかける。その演説はなんと3時間半にも及んだ。革命後8年。若者達が新しい国づくりの理想に燃え、真剣に取り組んでいるその情熱がうらやましかった。 毎日グラフに掲載された私の写真と文。生まれて初めて原稿料を毎日新聞からもらった。新宿郵便局に振り込まれた原稿料を受け取りにいった日。その日は雨だった。金額は忘れたが、その金で傘を買って、友人と新宿の赤提灯で飲んだら無くなっていた。