佐賀の夜空に竿燈ゆれる

 「墓地の移転工事を引き受けたんですが、佐賀の墓があったんです。何とか遺族を捜してもらえませんか」
 秋田市郊外、秋田市街を見おろす新屋日吉町の高台に荒れた墓地があった。
 この場所は近くの日新小学校の生徒の遊び場所にもなっている。砂地をはい上がり、墓地を見渡すと草ぼうぼうの中に、かなり風化した三基の墓がみえる。その中の一基には、肥前武雄馬渡栄助と刻まれていた。秋田戊辰の役の戦没者の墓であった。昭和61年の春。
 遺族探しを友人から頼まれたのがきっかけで、私の計画は遺族が見つかったら秋田に招待して慰霊祭を執り行う。遺骨が発掘されたら佐賀にお返ししようということだった。
 肥前佐賀・武雄市の馬渡年夫さんが遺族と判明した。昭和61年7月、戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会を結成し、遺族を招待し、現地で慰霊祭が執り行われたのである。「佐賀藩士慰霊の歌」が披露され、祖先の墓前にぬかずく遺族に参列者の涙を誘った。
 翌年5月、南向きに埋葬されたいた馬渡栄助のご遺骨を佐賀県に届けるため、佐賀藩士秋田慰霊団を組織し、佐賀へ向かった。武雄市の馬渡家・菩提寺で慰霊祭が開催された。「まごころ秋田歓迎委員会」がつくられ、武雄市民あげての歓迎を受けた。
 ここまでは計画とおり。だが、熱い歓迎に感激し、秋田に佐賀藩士慰霊碑を建立すると武雄市長に約束してしまった。
 昭和63年は戊辰の役120周年。実行委員会を組織して、戦没者合同慰霊祭、史料展などを開催。10月21日の同日、墓地跡に新たに整備された葉隠墓苑に佐賀藩士慰霊碑が建立され、佐賀県慰霊団を迎えて除幕式が執り行われた。碑の前には佐賀市の木・銀杏、武雄市の木・梅の記念植樹もされた。
 次は私どもが佐賀を訪問する番である。5年間、佐賀藩士慰霊祭を毎年10月に開催してきた。墓苑に近い町内会や商店会の方々も参加するようになった。昨年は戊辰の役125周年。秋田の竿燈を佐賀で披露したいと考えた。ねぶり流しの行事であった竿燈は仏教の影響を受けた民俗行事。竿燈に託して、北国に眠る佐賀藩士を、125年ぶりに故郷に帰っていただこうという訳である。
 佐賀藩士慰霊竿燈慰霊団一行は12月11日、12日にに佐賀県武雄市と佐賀市で竿燈を披露した。佐賀の夜空に秋田の竿燈三本がゆれ、佐賀県民に大きな感動を与えた。これも皆、秋田と佐賀県民のご厚情のたまもの。
 人間は交流によって文化を発展させてきた。佐賀市の日新小学校と秋田市の葉隠墓苑に近い日新小学校の交流計画も芽生えている。今年も歴史の有縁を大事にして「日々新たなり」(大学)でいきたい。
                                                    (河北新報・論壇)
 (ささきみちお氏 昭和21年。秋田県大内町生まれ。早稲田大学卒。佐賀藩士慰霊秋田委員会事務局長   。秋田ふるさと塾主宰。著書「私の地域おこし日記」(無明舎出版)ほか。)