「報恩は天へ」 週刊アキタ ( '97 /10 /24)
「先輩、ッチワス」 「おお、飯くったか」
大学キャンパスで、運動部の後輩に声をかけられた。昼前だったら、飯くったかといって昼飯を奢らなければいけない。自分が昼前に先輩と会ったら、奢ってもらうのが当然だったし、先輩になったら、当然のように慣例に従う。「じゃあ、高田牧舎でも行くか」といって、大学前のちょっと高級なレストランに連れていく。
昭和40年代初めの頃の東京。ラーメンが60円だった。高田牧舎はカレーライスが評判だが高い店。中に入ると学生の姿はまばら。テーブルに座って、ズボンのポケットをさぐる。ない。千円札もない。「ちょっと待ってろ」といって、大学構内で知り合いを探す。級友を見つけて「おい、千円貸せ」といってふんだくり、後輩の待つ店まで戻った。
それから30年もたった。20歳も違う運動部の後輩が全国紙の新米記者になって秋田にやってきた。「先輩、先輩」といってこられると可愛がってやりたくなる。新米記者に居酒屋から夜半に電話しても彼が来れるのは何時も九時過ぎで、大概はこっちができあがってしまっている。彼の分を払ったか定かでない時があったかもしれない。
授けた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め(中国故事)
「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ」 (竜馬がゆく。桂小五郎が竜馬にいった言葉) (司馬遼太郎)
同じように、司馬遼太郎はいう。「何事かを成し遂げるのは、その人の才能ではなく性格である」斉藤道三の自覚として「生あるかぎり激しく生きる者のみが、この世に生きたといえる者であろう」そして、「燃えよ剣」で司馬遼太郎は土方歳三にいわせている。
「男の一生というものは美しさを作るためのものだ」
先頃、大館市のスナックで、畏敬する住職さんがカラオケで歌った。小林旭の「惚れた女が死んだ夜は」を歌われた。いつも感じている言葉がテレビに映し出されている。
「いい奴ばかりが先にいき、どうでもいいのが残される」
そのとおりだと、この歌をカウンターで聞きながら、畏友野呂金悦氏を思った。彼はこの春、知事選挙の応援演説中に倒れ、急逝した。金さんには色々と世話になった。残されたどうでもいい俺等は、天国に単身赴任した金さんへ恩返しはできない。天に、宇宙に返すつもりで後に続く、子供や孫達のために、いい秋田を残さないといけない。(献杯)
中村喜四郎さんを知っています。といっても先般収賄で有罪判決を受けた元建設大臣ではない。親の名前を襲名した中村代議士の父上殿をである。
昭和四四年、参議院議員会館の道場で知った。当時の中村喜四郎氏は参議院議員をされていた。古武士然とした威厳の中にやさしさを秘めた風貌であった。息子の代議士先生は親から武道を学んだのだろうか、最後まで裁判を争うという。
「武」の意味は岩波の漢語辞典によると、足首を表す「趾」という字と古代の代表的な武器である戈(ほこ)を組み合わせたもの。これから相手に向かって行動に移る瞬間の姿を表したものとある。武にはそれと違ったの意味もある。武という字は「戈」と「止」の二つからできている。武道とは戈を止める、いわゆる戦いを止めるための術を追求する道とされる。
戦後、GHQの政策はこの日本に二度と戦争を起こさせないことだった。日本人を好戦的にしない、いわば骨抜きにすることでもあった。そこで武道を禁止する。終戦時の秋田警察署長、菊地留吉氏は武道を奨励する武徳会の会長をしたという理由で公職追放になった。進駐軍は武道の意味が平和を求めるものだということを理解しなかった。武道とは「礼に始まり礼に終わる」といわれるように、精神的修練から求める人間形成への道。
国会議事堂裏、参議院議員会館の地下に道場がある。国会議員の秘書時代、ここで剣道を始めた。昭和43年当時、参議院議員だったレスリングの八田一郎会長に剣道はいいぞと勧められた。レスリングの試合で腰を痛めていたので、スポーツはもう出来ないと思っていた。八田さんは俺も腰を痛めた、剣道は腰をそんなに使わないからと、道場に連れていかれた。見取り稽古をしていろという。稽古を見て学べということである。当時、参議院議員の中村喜四郎氏も道場に稽古にきておられた。会えば冗談しかいわない八田先生と中村師範との稽古はほれぼれするほどの品格があった。私はお二人から指導を受ける機会はなく、豪快な打ち方をするある政党新聞のカメラマン氏から剣道を習った。それは南条流といって、竹刀が相手を打つ瞬間、左手をまっすぐ伸ばす流儀だった。手元の左手に右手が重なる、それだけ竹刀が遠くに届く。道場にはさる新聞社の政治部記者も来ていた。彼、南条流は邪道だから止めろという。一度身体で覚えたことはそう簡単には変えられない。
秋田に帰った昭和46年の春。大館市の武道館。神殿にまず礼をしてから稽古が始まる。中西派一刀流九段・泉通四郎先生から私は剣道を学んだ。白髭の泉先生は私の流儀を邪道などとはいわず、直させることもしない。ただ一つの注意は、あの男とだけは稽古するなという。その人の剣道は肩を揺らして姿勢が悪く、小さな剣道だからといわれる。稽古後、師範室で泉先生の話を聞くのがまた楽しみだった。 泉師範が東京・浅草署の警察官時代の話。
警察署の道場で、腕に止まって血を吸っている蚊を止めて見せるといい、できる訳がないとする同僚と賭をした。ンムッと気合いをかけて腕の筋肉に力をいれると、蚊が針を抜けずに羽をぶんぶん振るわせて飛べなくした。腕の力を抜くと蚊は針を抜いて飛んでいったという。先生の腕はそれだけ頑丈に鍛えられていた。武道についても話を伺った。何の為に武道の修業をするのか。この時に聞いたことを日記に書いている。それを後に作ったテレビ番組「七尾専次郎の世界」に使わせてもらった。
昭和59年。十年ぶりに大館市の職場に移り、単身赴任となった。泉通四郎先生はすでに亡くなっておられたので剣道ではなく、空手に挑戦した。 師匠は鷹巣町・北士館館長の七尾専次郎先生。七尾館長は空手道だけでなく、居合道、古武道の師範でもある。
二年間道場に通って、テレビ会社の同じ単身赴任仲間と、七尾先生のテレビ番組を作った。タイトルが「武に生きる」ー七尾専次郎の世界ー。稽古風景を撮影した。鷹巣町の北士館道場。外は雪。高段者達が上半身裸で空手の呼吸法である三戦(ちん)・転掌の稽古をしている。道場内は型の稽古で、湯気が立つくらいになった。彼らの背中からはつぶつぶの汗が出ている。カメラを回させ、絵になる背中を撮ろうとするがいけない、カット。そこにピップエレキバンが貼られていた。
先日、鷹巣町で武に生きる七尾先生と会い、「武」とは何かと尋ねた。一言、「争わないことだよ」といわれる。テレビ放映された「武に生きる」に泉通四郎先生の言葉を入れている。
「武道の修業は自分を鍛えることであり、相手への和を修得することにある。つまり、自己鍛錬によって人への愛を得ることである」(合掌)
過ぎたるは及ばざるがごとしの、過ぎたるは度を過ごすの意味。ローキード事件で有罪が確定し、裁判所や検察批判をしてきた佐藤孝行氏が大臣になった。入閣の感想で、佐藤長官は論語にある、過ぎたるをすんだことと曲解したようだ、と毎日新聞の余録にある。「過ぎたるは及ばざるがごとしで、過去のことは忘れて、現在与えられた仕事に尽くしたい」といわれた。新総務庁長官は国民の批判に答えるには、保身と省益の為に反対してくる役人の首を切るぐらいに、行政改革を断行する意外にない。
過ぎたことだが、過ぎたることをした体験は忘れられるものではない。
過ぎたるは及ばざるがごとしとは、度を超えたらいいことはないぞ、ということだろう。だが、スポーツ選手にとって度を超えなければ、速くならない、強くならない、筋肉もつかない。練習や稽古が楽だったら何もならない。もうこれ以上走れないのでやめる。腕立て伏せもできるところでやめる。これでは進歩できない。これ以上走れない、腕があがらないと感じた時に、くそっともう一回、二回と続けることで成長する、筋肉もつく。
昭和39年、東京オリンピックの年。駒沢体育館でレスリングのオリンピック代表選考会が開かれてる。57`級で全米学生チャンピオンの上武洋二郎選手が出場している。私は上武選手のお付き。相撲でいえば褌担ぎだった。早稲田大学を休学し、オクラホマ州立大学のレスリング留学から帰ってきたの上武さんの体は均整のとれていて、胸も厚い。当時のマットは四角で、試合は五分間の二ラウンド形式。上武選手は決勝戦までフォール勝ち。タックルしても外すことがない、芸術的ともいえる。それも左右にできる。上武洋二郎選手は東京オリンピックで優勝、四年後のメキシコオリンピックで再び金メダルを獲得している。付き人の私は上武さんと青山通りを歩いていた。東京オリンピック後の事。神宮球場へ向かっている。ん、上武さんの歩き方がどうも変だ。つま先で歩いている。速い。私は横に付きながらつま先歩きの理由を聞いてみた。
「これもトレーニングだ。俺にはレスリングしかない、だから一日中、稽古のつもりでやってる。食事も左手で箸を持って食べてたろう、あれも左右にタックルできるための訓練だよ。次はメキシコオリンピックの目標があるからな」私は世界一になる人は違うんだなあと感服し、上武さんを真似て、つま先歩きしながら考えていた。その日、左手で箸を持った。こっちはつけやき刃であったが、上武先輩から大きな事を学んだ。私のレスリングへの挑戦は、論語のいう意味の及ばざるがごとしであった。最初の試合の翌日、日刊スポーツに載った。3分8秒フォール負けだったが過ぎたるはで、首に筋肉が付き、共に汗した良き先輩、仲間が貴重な財産として残っている。
で、母校レスリング部創立70周年記念誌に書いた原稿を紹介したい。
昭和39年の初夏。青山レスリング会館。関東学生リーグ戦に出場した。対戦相手は日本体育大学の勝村選手。なんと、世界選手権52`級の銀メダリストだった。四角いマットの端に立った私は生まれて初めての試合に、胸が押しつぶれそうだった。キャプテンの秋山さんから肩を抱かれ、「いいか佐々木、フォールだけにはなるなよ。がんばれ」三野先輩のアドバイス。「あいつは腕をつかんで振り回してくるから気をつけろ」私はゴングとともに夢中で飛び出した。気がついたら、左腕を捕まれ倒されブリッジしていた。日体大応援団がワッショイ、ワッショイと手をたたいているのが聞こえる。くそっとあがいたが、力つきた。コーナーに引き上げ、秋山主将に「すみません」と謝ったら、笑顔でいってくれた。「よくやった。3分もよくもった」 私はこの言葉で胸がこみあげ、つらかった減量のことなどがふっとんだ。
高校時代はブラスバンドでラッパを吹いていた。大学では運動部にと、レギュラーになれる確率の高いレスリング部の門をたたいた。練習を始めて3ヶ月。首が少しは太くなった頃、試合に出ろといわれ10日前から減量開始。5`減量しなければいけない。試合前日の計量で間に合って、試合は3分8秒フール負け。左腕が反脱臼し、冬の関西学院大学との交流試合で腰を痛め、早慶戦では不戦敗だった。ポンコツになって二年生の秋、リーグ戦後に退部。
20数年後、秋田の合宿にこられた宮野先輩の温情で0B会に入れてもらった。息子が今、大学3年生。入学する前にいった。有意義な学生生活を送れたかどうかは、いかに多くの先輩、友人、仲間を持てたかにかかっているぞ、と。マットの上にいた親父と違って、彼は天文部に入って空を眺めている。
日本の、この秋田の夏。野球ファンにとって、甲子園球場で秋田商業高校が二回戦で敗退して終わった。石川雅規投手の活躍は、甲子園の小さな大投手だった今川敬三さんを思い起こさせてくれた。ただ、頂けないのは球児達のオーバーなガッツポーズ。あれは美しくないパフォーマンス。これが少年野球まで伝染している。
全県少年野球試合を観戦。7月31日は炎天下、県立球場で秋田西中対岩城中戦、市営八橋球場では大館市立成章中が強豪秋田南中を破って金浦中と対戦。県立球場に戻って西仙北東中対上新城中の3試合を観戦した。この日で秋田市内の中学校がすべて敗退。山奥の中学校で野球部だった私は、田舎の野球少年達に拍手を送った。
戦後の栄養難の頃に野球をやった者からみて、今の野球少年の体格は見違えるほど大きくなった。足は速いが体のちっこい二塁手もあまり見あたらなくなった。
昔になくて今にあるのがガッツポーズ。あれは巨人にいた外人助っ人クロマティあたりから始まったのだろうか。それが高校野球、少年野球まで流行してしまっている。
私共の栄養不良少年時代、ベース上でガッツポーズなど思いもよらなかった。二塁打を打ってベース上に立っても、嬉しいがハミカミが先だって照れくさかった。
この夏の少年野球。八橋球場でタイムリー二塁打を打った少年が、ガッツポーズをした。応援団の歓声に答えて、フラダンスのように腰まで振った。みっともない。あの一四歳の少年を監督はバットの根元でゴッツンやってもいい。そこで又、今川敬三さんのこと。
昭和49年の秋。秋田商業高校の野球グランドで練習を見ていた。今川敬三監督の姿があった。バットを持って外野ノックをしていた。と、大きな声で選手を呼んだ。緩慢なプレーをしたその選手は走ってきて、帽子をとって監督の前に直立した。今川監督はバットの根元でその選手の額を思いっきり叩いた。コキーン、とその音が周りに響いた。私は今川さんに声をかけられなかった。
今川さんと会ったのは学生時代。新宿・花園町にあったスナック・ルピナス。そこは運動部学生の溜まり場だった。早稲田の野球部OBの増田冨士夫マスターが今川さんに私を秋田出身だと紹介してくれた。ルピナスで再会した時、彼は商学部の五年生だった。秋田なまりだった。「今、学校に残って教職課程をとってる。商業の先生になって、甲子園に連れていきたい。オメも秋田に帰ったら、遊びに来えよ」
それから十数年後。秋田商業の野球部監督として甲子園に出場された今川先輩に声をかけられず、そのうちにと思っていたら、大館市で交通事故死とのニュースを見た。新宿・ルピナスの増田先輩へ電話した。「知ってますよ。こっちの夕刊に小さな大投手交通事故死と載ってます。酒の強い、いい男だった」
今、今川監督のようにバットの根元で選手をコッキンやったら、球児達は皆、辞めてしまうだろう。しかし、今川さんが監督の頃、ガッツポーズは確実になかった。大打者王貞治、落合博満はホームランを打ってもガッツポーズはしない。例えしても、投手に見えないようにそっとこぶしを握る。秋田出身の落合はいっている。「ガッツポーズは、打たせてもらったピッチャーに失礼だから」
大人になっていくということは、とりもなおさず自立することにある。そのために相手のことを思いやる、考えられる人間になれるかであろう。
秋田市内の中学校の弱小野球部監督を引き受け、その年に市内リーグ決勝まで進出させた先生。後に高校の監督、部長として甲子園に4回出場された方から野球部の特別な指導方針は何かと伺ったことがある。「グランドに入る前、出た後に帽子を取って礼をしろ。常にボールを持って離すな」だといわれた。現在は、教育行政に携わっておられるその先生にもう一度電話で尋ねた。
「グランドへの礼は、相撲の土俵と同じで、自分を育ててくれたグランドへの愛着、思いやりの気持ちです。常にボールを持っていろとは、一球入魂の気持ちを持てということですね。今の子供達は基礎練習がおろそかになって、守備力が低下している。それは、苦しい事を後回しにして、楽しいことを先にしてるんですね。守備練習は苦しいが、バッテングは楽しいし、それがガッツポーズになるんでしょう」
秋田の野球少年、十四歳達の夏は八橋球場で終わった。彼らの中から、甲子園の舞台で活躍する球児もでるだろう。タイムリー二塁打を打っても、ベース上で笑顔だけの選手に育ってほしい。 そんな笑顔に拍手を送りたいのです。