「秋田の人」佐々木三知夫氏@
帝国ニュース週刊秋田県版 1998・1/5
地域づくりに情熱を燃やす男がいる。みっちゃんの愛称で親しまれている佐々木三知夫(公務員)である。
ひやみこき(消極的)と言われる秋田県人の中にあっては際立つ行動、実践派。
これまで「秋田県を面白くする会」を発足させ、情緒ある地域づくりに取り組む一方、秋田戊辰の役佐賀藩士慰霊事業を行っている。また若手経営者の会「AIグループ」を結成、現在「秋田ふるさと塾」を主宰。そのほか数多くの会を結成し、「会魔」と称される。
歯切れのいい文章をものにし、「私の地域おこし日記」「ふるさと秋田夢おこし」などの著書もある。
人と人との出会いを大切にし、郷土を愛し、エネルギッシュにしかも無私の行動を続ける佐々木三知夫氏のこれまでの歩みを振り返る4回シリーズ。
「多彩な略歴」
1946年(昭和21年)由利郡上川大内村(現大内町)生まれ。上川大内中では野球部、本荘高校ではブラスバンド(トランペット)部に。早稲田大学(第一商学部)ではレスリング部に所属。学生時代、早稲田大学中南米研究会幹事長として、日本キューバ学生友好視察団を組織。団長として革命6年目のキューバを一ヶ月に亘って視察。国づくりに励むキューバの若者に接して大いに感銘を受けた。これが後に氏を地域おこしに駆り立てる原点になる。1968年(昭和43年)卒業。商社マンになる夢をあきらめ、東京農大の盗聴生となって農業を学び、四国・松山市の井関農機で農機具の研修、神戸ではブルドーザ運転手として働いたこともある。その後、参議院議員秘書等を務め、1971年(昭和46年)秋田県庁に入った。
県庁では北秋田財務事務所、産業労働部商工課、民生部青少年課、秋田保健所、大館保健所、福祉保健部保健衛生課、児童福祉課、国保援護課に勤務。秋田県生活センターにおいては、県外出身主婦による「井戸端ゼミナール」を開催し、直に県民からの現場発想の大切さを学ぶ。現在は管財課補佐である。
さて、佐々木さんがこれまで本業(公務員)をちゃんとこなしながら行ってきた地域おこしや国際交流についてみよう。イラスト入りの「秋田ふるさとづくり研究所」所長・佐々木三知夫の名刺の裏には小さな文字でぎっしり書き込まれた氏の活動記録には驚く。
1971年(昭和46年)「秋田県を面白くする会」を発足させ、情緒ある豊かな地域づくりを目指し、花ゲリラ作戦、がんばる愛のコンサート、雪上野球大会を開催。
1977年(昭和52年)秋田県中小企業経営実践講座の卒業生による「AI(エーワン)グループ」を結成。若手経営者による一番経営を目指し、勉強会を続ける。また、タクシー会社社長や新聞記者など8人の他業種からなる「八人会」を結成し、年4回程度の情報交換を行う。
1978年(昭和53年)第3回毎日郷土提言賞論文の部で「新たな講の実践から」が県優秀賞を受賞。
1980年(昭和55年)異業種の10人からなる「もも太郎の会」結成。昼食会による情報交換を行う。
1985年(昭和60年)秋田県の中心地・河辺町にヘソ神社を建設するため、AIグループ有志と北海道のヘソ・富良野市の北真神社を視察。ヘソ神社は86年(昭和61年)に河辺町岨谷峡に建立。
1986年(昭和61年)「戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会」を組織し、戊辰の役で戦没した佐賀藩士の遺族を秋田に招き、秋田市新屋の墓前で慰霊祭を開催。(これについては次号で詳しく紹介する)。
1989年(昭和62年)東京六大学秋田野球連盟を結成。以後毎年リーグ戦を行う。
1989年(平成元年)2月。明るく、元気な、情緒ある郷土づくりを目指し、地域づくりのネットワークを図る「秋田ふるさと塾」を秋田市川反に開設。機関誌「ふるさと呑風便」を毎月発行。(シリーズ3回目に掲載予定)
一方、国際交流活動も多い。秋田地区日中友好協会事務局長として中国留学生への里親事業を行う。本荘市深沢に露国遭難漁民慰霊碑を建立。また、ウラジオストク市は医薬品を贈呈、ペルーへは柔道着を送る運動も行っている。
海外へは1967年(昭和42年)アメリカ、メキシコ、キューバを訪問。79年(昭和54年)には訪ソ青年の船でソ連(当時)へ。翌80年(昭和55年)にはタイ、バングラディッシュのユニセフプロジェクト視察。84年(昭和59年)秋田県茸産業中国視察団を組織し、上海、北京へ。91年(平成3年)日本海洋上セミナーでウラジオストク訪問。93年(平成5年)にはギリシャ、イタリア、フランスを訪ねている。
現在、秋田県を面白くする会代表、秋田県中小企業問題研究所主宰、戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会事務局長、東京6大学秋田野球連盟理事長、秋田県タッチ協会常任理事、秋田ウラジオ会理事、秋田ペルー協会理事、石田東四郎・孫保傑一家支援秋田委員会副会長、由利本荘ふるさと創造研究所顧問、秋田ふるさと塾主宰。
── これはどんなきっかけで出来たんですか。
この会は秋田市川反のオデン屋「江戸中」で生まれたんです。高校時代の友人4人が飲みながら「何か面白いことをしようや」と結成した会で、会則や会費を決めていない。
私は18歳で郷里を離れ、24歳になって戻ってきた。郷里から外に出てみて、ふる里について知らなすぢた自分に驚いた。郷土秋田で過ごしたことのある在京の何人かの人に、秋田の印象を訪ね回ったことがあった。皆、秋田の封建性を指摘しながら、秋田の素晴らしい自然、秋田の人の人情の深さをいい、それだけは大事にしてくれよと語ってくれたんです。秋田を知るためにも、この世で一番欠けているのは情緒ではなかろうかと仲間でつくったのがこの会です。多少の遊び心も含まれている。
これまで黄色い花のガードレール作り、繁華街の柳並木の根元への花ゲリラ作戦、タクシー情緒創り作戦、また目の不自由な人達のための点字による民謡集作成と彼らの民謡グループの発表会である「頑張る愛のコンサート」の開催、独特なルールによる雪上野球試合などを行っています。
情緒とは自然と人間の思いやりによりもたらされる。「いい汗 うま酒 よき仲間」をモットーに活動を続けています。
戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊
── これまでの数々の活動の中でも「戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊」は特に印象深いものがあるのでは・・・。
それは1986年(昭和61年)、秋田市新屋西地区の小高い丘にあった三つの佐賀藩士のお墓から始まったんです。土地区画整理事業で墓地を移転しなければならなくなった。
しかし遺族の承諾がなければ、改葬を市役所が許可してくれない。「法律では遺族が見つからない場合は、新聞社2社に3回も公告し、2ヶ月経過しないと改葬できないことになっている。公告は出しましたが、こんな北の秋田まできて死んだ兵士が可哀想で、なんとか遺族がいたら見つけだしてほしい」と友人の高橋正氏(石の勘左エ衛門梶jから依頼されたのがきっかけでした。
「戊辰戦争とは1968年(慶応4年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いから、翌年5月18日の函館五稜郭の戦いまでの薩長を中心とする倒幕派と旧幕府・佐幕派との戦争」。
秋田戊辰の役は、当時奥羽地方で唯一倒幕派(官軍)についた秋田藩が庄内藩や南部藩などの奥羽越列藩同盟軍に攻め込まれて形勢不利。そこへ1700人もの佐賀藩士が援軍として来秋し、秋田藩士とともに庄内藩と戦い、多くの兵士が北国の露と消えた。最後の激戦地・下浜長浜(現在の秋田市)での戦いでは、佐賀藩士の奮戦によって当時の新屋村(現在の秋田市)と久保田城下は戦火を免れたのです。
遺族探しはなんとしてもやらねばならない。そして、佐賀藩士の慰霊を行い秋田の義とヒューマニティを示さなければと思いました。早速行動を開始した。まず佐賀に住む大学時代の友人に三基の墓の写真を送り、地元の佐賀新聞に協力してくれるように依頼しました。佐賀新聞は「北国秋田市に眠る兵士 三基の墓 遺族探して」と大きな見出しで書いてくれました。新聞で呼びかけた2日後、三基の墓「佐賀藩兵卒 兵蔵之墓」「佐賀官軍平兵エ之墓」「肥前武雄 馬渡栄助墓」のうち馬渡栄助のひ孫・年夫さん(当時58歳)が佐賀県武雄市にいることが判明したんです。
今度は秋田魁新報が「”援軍”佐賀藩士の墓118年ぶりに遺族判明」ー秋田市の墓地跡に残る三基の一つ」ー「戊辰に消えた兵士の霊古里へ」ー無縁仏になる寸前に県職員ら尽力ーと応えた。きっかけをつくった佐々木三知夫さんはあ「遠く北国までやってきて、秋田のために命をささげた兵士の墓が野ざらしのままになっているのが気の毒でした。残る二人の子孫も分かれば本当によいのですが・・・」と私の談話も載せてくれた。おかけで県庁へいってもの随分と声をかけられましたね。
遺族を秋田に招待
電話や家族でも大きな反響があったことから「八人会」の協力を得て、佐賀藩士の遺族を秋田に招待し、慰霊祭を行う計画を立てた。「戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会」を組織し、会長は中安正衛社長AKT秋田テレビ社長(当時)にお願いした。
中安家は常陸以来代々佐竹家に家臣。中安家の曾祖父は戊辰の役で監軍として戦線に加わったひとりといわれています。こうして、民間有志による委員会が発足、遺族を秋田へ招待しての慰霊祭が実現することになります。一般からの寄付を仰ぐべく「奉加帳」を作成し、次のように支援をお願いしたんです。
「今ここで、私どもは、佐賀藩士の遺族判明を契機に『秋田戊辰の役とは秋田にとって一体何だったのか』と再び考えなおし、先人の辛苦を偲び、佐賀県の遺族を温かく迎えて、共に戦没藩士を慰霊したいと存じます。そして秋田・佐賀両県のきずなを基とする新たな交流を深めていきたいと考えるものです」
1986年(昭和61年)7月14日。馬渡年夫さん姉弟、石井義彦武雄市長、武雄氏の郷土史家ら16人が秋田に迎え新屋日吉町で「慰霊祭」を行うことができました。
私は馬渡年夫さん姉弟を曾祖父のお墓へ案内した。三人は異郷に散った先祖の墓前にひざまづき、頭を下げ、しばらくの間じいっと手を合わせていた。合掌する三人の後姿を眺めていて、胸がこみあげてきましたね。佐賀県慰霊団一行は秋田県知事・市長・県議会議長などを表敬訪問したほか歓迎会に出席、「秋田の皆さんの義とヒューマニズムに心から感謝して」帰郷されました。
翌62年5月には武雄市の「まごころ秋田歓迎実行委員会」(会長石井義彦市長)から招待され、中安氏ら20人が佐賀を訪れ遺骨をお届けし歓迎を受け、交流を深めました。
こうして秋田戊辰の役で戦死した佐賀藩士の墓の遺族を探し当て、慰霊祭を執り行い、ご遺骨を佐賀へ届け、秋田市新屋の葉隠墓苑に戦没佐賀藩士慰霊碑を建立することができました。88年(昭和63年)10月に秋田県生涯学習センターで戊辰の役120年記念事業を行い、敵味方合同慰霊祭を開催しました。
以来、佐賀藩士慰霊祭と毎年10月に皆済しています。今年は慰霊碑建立10周年、戊辰の役130年を記念し、再びご遺族をお迎えして慰霊祭を行う計画を立てています。
秋田市の繁華街川反通り。九百軒もの飲食店がひしめく川反三丁目の飲食ビル三階。そこに秋田ふるさと塾の事務所がある。通称川反塾舎とも呼ばれる。塾舎で仲間と一杯やっていると下からカラオケのメロディが聞こえてくる。
平成元年2月24日。昭和天皇の大喪の礼の日。この日に秋田ふるさと塾が誕生した。秋田県内の地域づくりを実践している仲間達36人が集まった。情緒ある個性豊かな地域づくりを目指す。月一回、地域づくり実践セミナーを開催。機関誌を発行することが決められた。
昨年12月19日。ソニー創業者井深大(まさる)さんが亡くなられた。私は井深さんから「人間」を教えられた。昭和43年3月。私どもの大学卒業式に当時ソニー社長だった井深大氏が校友代表として挨拶された。最後に「君たちはこれから社会へでる。世の中はそうあまいもんではない。厳しいものだ。でも最後は人間だ、人間性だよ」といわれて演壇を離れられた。以来、その人間だよという言葉が今でも頭の中に強く残っている。
CTG(コンピューター・テクニック・グループ)という仲間がいた。大学卒業後、そのグループに入れて貰った。東大工学部の院生槌屋治紀氏(現システム科学研究所長)を中心として、彼らは日本で初めてコンピューターによるアートや映画を作った。印税で稼いで東京タワーに下にある芝西久保のマンションで、毎週火曜日の夜、CTGゼミが開かれていた。科学者等色々な人間が集まってきた。このゼミがふるさと塾の参考になった。
井深さんは最後は人間だよといわれた。大隈重信侯も人間の目的は人格形成にあるといっている。人間性を創るためには、多くのいい人間と交わればいい。
会魔と呼ばれた。多くのいい人間と交わるために色々な会を創った。考えてみると20を超える。最初に創った会が、秋田県を面白くする会。この会のモットーがいい汗、うま酒、よき仲間。そして、明日の大内を創る会、由利本荘ふるさと塾、象潟ねむの木会、秋田県中小企業問題研究所。AIグループ、この会は秋田県中小企業経営実践講座のOB会で、秋田県のヘソ、河辺町岨谷峡に辺岨神社を建立した。それから8人会、もも太郎の会、戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会、秋田戊辰の役120年記念実行委員会、大館ふるさと創り研究所、東京6大学秋田野球連盟、日本あすなろ郷舎、サハリン同胞に秋田米を送る会、割山恐妻連盟(休眠中)、今娘の会、露国遭難漁民慰霊秋田委員会、川反先人慰霊(川反観音建立)委員会、小野進顕彰会(秋田県自然保護の草分け小野進先生の顕彰碑を森吉町小又峡に建立予定)、秋田箱根駅伝の会、石田東四郎氏・孫保傑一家支援秋田委員会、由利本荘ふるさと創造研究所、秋田ペルー協会、秋田ウラジオ会等々。勿論自分一人で作った訳ではない。よって、懐と肝臓が苦しくなってきた。塾の結成は、これまでの仲間が一同に集まれる機会を作ることでもあった。人的財産を共有することでもあった。
秋田ふるさと塾地域づくり実践セミナーを4月から9月まで毎月第4金曜日に開催。10月はAI(秋田で一番になる会)グループの経営実践セミナー、11月はふるさと塾人間道場(望年会)を開催してきた。12月は休んで、1月から3月までは冬季学習会。県内外の著名講師を呼んで勉強会を開催してきた。通算して80人を超える講師から川反塾舎に来て頂き貴重な話を伺うことができた。講演内容を塾機関誌毎月の「ふるさと呑風便」に掲載している。塾開設5年目に4年間の塾講師の講演内容をまとめた「ふるさと秋田夢おこし」という本を無明舎出版から発行した。地域の再生は可能なのか!?秋田の地域おこしの旗手たちや応援団が勢ぞろい。熱血、はみだし、ホラ吹き、理論家、ユートピア、超現実派の面々がバトルロイヤルで秋田の未来を語る、と本の帯にある。
畏友佐々木隆一氏(よねや社長)が「横手いい落語を聞く会」を初めて10年。地域に笑いを提供されてきた。地域づくりは笑顔づくりでもある。秋田ふるさと塾は今年10年目。人間の笑顔づくりをこれからも続けたい。
ふりかへらない 道をいそぐ (山頭火)
最初から結論。地域づくりは人づくり、なんです。これはお題目のようにわれていること。でもやっぱり、人ではないでしょうか。
日本ふるさと塾主宰の萩原茂裕先生は、「ふるさとは子どもや孫への贈り物」とおっしゃる。先生のいわれる人づくりとは「心の角度を変えて自分のマチを見れる人」「他人のために汗を流せる人」
「足元の材料を耕し直せる人」
そんな人を作っているマチは伸びています、といわれる。
5年前にギリシャのアテネを訪ねたことがある。アクロポリスの乾いた岩山を登り、白亜のパンティノン神殿を望む右崖下に露天の劇場が見えた。ディオニソス劇場である。ここで2400年前、様々な劇が上演され、著名な人物が揶揄嘲笑され、大政治家ペリクレスですらそれを免れなかった。華麗な構造物が残っているギリシャの都の美しい街づくりはペリクレスに負うところが大きい。ペリクレスは、我々の都アテナイはギリシャ人の人づくりの場所である。人づくりこそ街づくりの理想であり、政治家の役割は人づくり以外何もないといっている。ギリシャ人の考えていた人づくりとは、日本風にいって「文武両道においてすぐれたる者、それが立派な人間づくり」である。
拙書「私の地域おこし日記」(平成4年発行)の帯に「地域おこしは誰にでもできる。先人に学び郷土を深く愛せばいい」とある。これは出版社の無明舎出版が宣伝用に考え出してくれた言葉である。「秋田に散った佐賀藩士を今に蘇らせ、モノより人づくりを提起する熱血漢のおもしろ地域おこし奮戦記」
熱血漢といわれるはこそばゆいが、この本は秋田戊辰の役で戦死した佐賀藩士の墓の遺族を探し当て、慰霊祭を執り行い、ご遺骨を佐賀へ届け、秋田に慰霊碑を建立するまでの物語。記録性があり、地域づくりは歴史と人の縁を大切にしたいと書いたものです。
夕陽が見える日露友好公園が本荘市深沢にあり、中に「露国遭難漁民慰霊碑」が立つ。 昭和7年12月1日。ここ深沢海岸でロシア・ウラジオストクの漁民ニコライ少年が遭難死し、共同墓地に手厚く葬られた。60年後の平成3年、ここにニコライ少年慰霊碑建立の話を持ちかけた。最初はなかなか地元の理解が得られない。そこで地元の青年達と、共同墓地跡のカキ殻やゴミを取り除き、一緒に汗を流した。ウラジオストクへ行き、沿海州ラジオ放送に出演しニコライ少年の遺族探しの協力依頼をしたが果たせず、出身地ルスキー島に渡って石を持ってきた。その石は今、慰霊碑の台座にはめ込まれている。深沢地区に露国遭難漁民慰霊碑建立委員会が設立され、募金活動が始まったが、当初はなかなか集まらなかった。町内会長が思い悩む。それを見た会長夫人がいった。
「父さん、募金が集まらなかったら田んぼ売ろうか」それから、地元の若妻達もがんばり、募金も集まった。ゴミ捨場が公園になり、慰霊碑が完成した。平成4年12月1日。慰霊碑建立除幕式には地元の子ども達も集まり、ウラジオストクからの来賓達とほほえましい交流が始まった。まさに、ふるさとは子どもや孫への贈り物であった。
先般、この話を鹿角市で講演した。地域づくりは若妻の力を引き出すことが大事だと。そしたら叱られた。妙齢の女性から若妻でなく、ナイスミディといいなさいと。
地域づくりには三っつの者が大事といわれる。わかもの、よそもの、ばかものである。これを最初にいったのは東京女子大学の伊藤善市教授だと記憶している。私はこの三っつの者にナイスミディを加え、先人の知恵を借りた地域づくりは成功すると考える。
山形県出身の伊藤先生は最近の著書「地域開発の政策課題」で次のような面白いことをいわれている。
「過疎地域を活性化させるのに必要なのは『知恵だせ、欲だせ、元気だせ』ということではないだろうか」
過疎化の進む秋田県はどうも、山形と比べても欲がない。デンデンムシムシではないが、ゆったりしすぎだ。知恵はある。欲をだして元気をだそう。
人多き人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人(上杉鷹山)