「敵味方合同の慰霊祭も計画」 朝日新聞 ('97 '12 '10)
「戊辰(ぼしん)の役と薩摩藩」という冊子と、九月に建立された「戊辰之役戦士顕彰碑」の写真が「鹿児島戊辰の会」の麻野繁樹さんから送られてきた。薩摩藩の中心地・鹿児島市に顕彰、慰霊する中心塔がなかったため県外に墓参する遺族のためにも顕彰碑が建立されたとのこと。
戊辰之役五十年祭に建立された薩摩藩の慰霊碑が、全国に十カ所ある。秋田市の全良寺官修墓地の碑の台石には、戦死者名が書かれた四角い陶板がはめ込まれている。
秋田戊辰之役では新政府軍二十三藩と奥羽越列藩同盟軍六藩が戦い、約一三三〇人が戦死した。秋田県内の寺院には多くの兵士の墓がある。昭和六三年十月、佐賀藩士五四人の名前を彫った慰霊碑が秋田市新屋の高台に建立された。墓地移転に伴い、無縁仏だった佐賀藩士の遺族を探し、慰霊祭をしたのがきっかけだった。
以来私どもは、毎年十月に慰霊碑のある葉隠墓苑で佐賀藩士の慰霊祭を行っている。墓苑に植えられた佐賀県武雄市の木の梅と佐賀市の木の銀杏は随分大きくなった。石井義彦・武雄市長は六年前、三度目の訪問の時、市長が記念植樹した梅の木が枯れてしまっていた。慌てて植え替えたのだが、隣の武雄市議会議長植樹の梅の木より細い木を植えてしまった。ばれるかなと案じていたら、市長は隣の梅の木を見て言われた。
「議長のほうがふとかなあ」
来年は戊辰の役が始まった年から百三十年。佐賀藩士慰霊碑建立から十周年。ご遺族を招待して慰霊祭をしたい。敵味方合同の秋田戊辰之役百三十年祭も計画している。
中央塔を立てられた鹿児島県の遺族にも来て頂きたい。
秋田ふるさと塾を開設して9年目になる。事務所は秋田市の繁華街川反(かわばた)の飲食店ビルの3階。毎月1回、地域づくり実践セミナーを開催してきた。迎えた講師が今まで85人。山形県金山町の岸宏一町長や、岩手県東和町の小原秀夫町長にも謝礼は顎足程度で来ていただいた。地域づくりはいい汗、旨酒、よき仲間でうまくいく。村町づくりに汗して、悩んで、楽しんでいる人や古老の話の方が、中央講師のよりも地域づくりに役立つ。
ふるさと塾で地元の地方史研究家からここ川反でのさらし首の話を聞いた。「秋田戊辰の役の前、秋田藩が奥羽越列藩同盟を離脱しないよう説得にきた仙台藩通史一行が秋田藩士によって暗殺された。慶応4年7月4日のことです。一行のうち6人が川反5丁目橋のたもとにさらされたんです。夜陰、一人の首にそっと、羽織をかけていった女性を番人が目撃しているんですね」
橋のたもとにあった料理屋の主人が毎日線香をあげていた。ところが5丁目橋の拡張工事のため、その料理屋が壊され、供養できなくなった。
そこで、仙台藩士と川反の先人の慰霊碑を橋のたもとに建てようとなった。そっと羽織の女性の話を聞き、観音様だなあとなって、川反観音像建立委員会が設立された。折しも官官接待自粛で川反通りに元気がなくなった。川反振興の新名所づくりだと委員会が結成されたのが二年前。しかし、橋の拡張工事の完成が大幅に遅れ、募金活動もまだできない。缶ビールの空き缶を募金箱にしようとふるさと塾では、セミナー終了後の人間道場で缶ビールを飲んできた。
今、塾の台所の隅に、その空き缶が山のように積まれている。
秋田市の繁華街・川反(かわばた)通り。その飲食店ビルの中に「秋田ふるさと塾」がある。地域づくりは人づくり。ふるさとを愛する仲間をいっぱいつくればいい。これまで「秋田県を面白くする会」をつくって、まず雪上野球大会を開いた。次いで秋田戊辰の役の戦没佐賀藩士慰霊碑を建て、さらに露国遭難漁民慰霊秋田委員会を作って六十四年前に遭難死したウラジオストクのニコライ少年の慰霊碑建立などを仕掛けてきた。あまりに会を作りすぎ、会魔と称され、肝臓とフトコロが苦しくなった。それまでの仲間をまとめて一杯飲ろうと「ふるさと塾」を始めたといっていい 六月八日。白神山地で植樹祭があり、仲間と出かけた。この冬のふるさと塾で、ふもとにある峰浜村の田村一郎前村長が「ブナを植えよう」と語りかけたのを受けたものだ。その心は「ブナを植えて海を育てよう」。参加者百二十人にワカメが配られた。袋には「森よありがとう。海からのプレゼントです」とあった。 帰りに大潟村に寄った。ふるさと塾で子供達に思いっきり遊ばせようと仲間とつくった2fものレンゲ畑がある。草むらの巣でヒバリがさえずり、子供が「きれいきれい」と走り回る。周りはもう一面の水田。 「今年は田んぼにするのに遅いなあ」と田の主の長男に声をかけると、 「ええ、父から鳥が巣立つまで待てといわれているんですよ」
地域づくりとは、人の心をきれいにすること。 (公務員 51歳)