小田豊二のせい
 甲子園球場。熱い高校野球が終わったらようやく30度をきった。
 秋田市向浜の四面グランド。8月5日。ピッチャーマウンドの上はカンカン照り。先発して2回までは調子が良かったが、3回になったら日射病で倒れそうになった。頭から水をかぶって投げたがノックアウトされてしまった。
 涼しい話をしたい。秋田県では夏だけでなく、冬も野球をやっている。
 「雪の積もる地域では、冬、
 グランドは白い雪でおおわれたまま・・・。夏に比べると使うことはずっと少なくなります。『秋田県を面白くする会』の人たちは、冬使われてないグランドがなんだかもったいない、何か雪国ならでの、楽しいスポーツはないかな・・?と考えました。そうして生まれたのか『雪上野球』です。
 第一回目の雪上野球大会は昭和53年1月16日、秋田県立球場で、「秋田県を面白くする会(三太組)」対「ひょうちゃんず」の2チームで行われました。以後大会は、毎年一回開催されるようになり、昭和59年には日本雪上野球連盟が結成され、参加チームも増えました。13回目の大会からは、会場を秋田県東由利町の町立球場に移し、今では全県選抜チームによる大会になっています。『秋田県を面白くする会』では全国大会も開催していきたいと考えています。(後略)」
(遊雪辞典)
 これは国土庁地方振興局に頼まれて書いたもの。
 雪上野球は冬のグランドがもったいないから始めたと書いた。これは嘘で、実は小田豊二のせいなんです。
 昭和52年の夏、東京六本木のあるスナック。学友小田豊二と飲んでいた。彼は学生時代、中南米研究会の同期で作詞作曲もする多能な男だった。週刊プレ一ボーイの記者を辞めて、フリーライターになっていた。
 「おまえ、夏は秋田で何やってる?」「野球やってるよ」「冬は?」「酒飲んでるな」「酒、おい、冬、冬も野球やってくれ。そしたら、秋田に取材にいけるぞ」
 この夏七月の末。新宿の紀伊国屋書店の地下で小田と飲んだ。彼は集英社から「幇間の遺言」を出し、これは文庫本になった。最近、三木のり平の聞き書き「のり平のパーッといきましょう」を書き、三万部ほど売れたいう。小田はいう。「おい、おまえ、秋田で聞き書き運動を起こせよ」
 拙書「私の地域おこし日記」の帯にこうある。
 「地域づくりは誰でもできる。先人に学び、郷土を深く愛すればよい」
 先人の聞き書き運動をまとめたら、文部省から聞き書き辞典が発行されるかもしれない。そしたら、今度は嘘をつかないで、小田豊二にいわれてやったと書こう。(秋田ふるさと塾主宰)