欅(けやき)
 秋田県の近代史に一つの汚点がある。
 幕末から明治。新政府側の圧力に対峙する奥羽越列藩同盟に加盟していた秋田藩は、勤王方の明治新政府側につくか右往左往していた。それに対し、来藩した仙台藩使者志茂又左衛門一行は、盟約に従い他方勢力の奥羽介入排除の要求をした。その最中、来藩中の奥羽鎮撫総督九条道孝の参謀、薩摩藩大山格之助にそそのかされたとされる砲術所の藩士が夜陰、仙台藩の使者を暗殺。そのうち6人が5丁目橋のたもとにさらし首にされた。
 使者の暗殺は今でいえば国際法違反である。仙台藩の人々に秋田の人心信じ難しの念をもたらしたのである。まさに歴史の汚点である。
 さすがに「義」に反する行為を恥じたのか、秋田藩勤王派の総帥吉川忠安が八橋の高台に慰霊碑を建立。 その後、慰霊碑を埋め、その上に秋田宮城県人会が大きな仙台藩殉難慰霊碑を建立。揮毫は勝海舟である。
 先般、秋田まごころ大賞を受賞した石川史郎さん。
 彼は仙台藩士がさらし首になった橋のたもとで「でんえん」という小料理店をひらいていた。そして30年近く毎日、線香をあげ、仙台藩士を供養されてきた。
 ところが、5丁目橋の拡幅工事のため「でんえん」はなくなった。供養する人がいなくなった。そこで橋のたもとに川反先人慰霊碑を建立しようという気運がもりあがった。今年の7月4日に建立の運びだった。
 毎年7月4日、秋田市八橋の仙台藩士殉難碑の前で仙台藩士慰霊祭が執り行われる。これには10年前から仙台藩志会の一行も参列されている。第132回仙台藩殉難者慰霊祭が開かれた。今年はあいにくの雨。慰霊祭は藩士が埋葬されている西来院で開催された。
 仙台藩志会会長の伊達篤郎さんは正宗公四男の子孫である。席上、慰霊碑建立を約束していた伊達会長に仙台藩士慰碑建立が延びていることをお詫びした。お役所が一転して、公用地である河川敷に慰霊碑は駄目とのことになったのだ。  伊達会長は慰霊碑建立に私たちも浄財を集めますといってくれるが、これはお断りをさせてもらった。これは秋田の「義」ですからと。その代わり、宮城県の木を来年持ってきて頂き、その木をさらし首になった橋のたもとに植えて頂きたいとお願いする。伊達会長はいわれる。
 「慰霊碑建立は市民感情もあるでしょうから、場所にはこだわらなくてもいいのではないですか。来年、苗木を持ってきて植えましょう。宮城県の木は欅ですね」
(秋田ふるさと塾主宰)