「坊ちゃん」から「箱根の坂」まで
はじめに
四国・松山市の繁華街。そこに「坊ちゃん書房」という本屋があった。さすが松山と感心して本屋で、捜した。「坊ちゃん」が当然のようにある。文庫コーナーにあった本を買って、仮住まいのアパートに戻り、20年ぶりに読んだ。
もう30数年前の話で、東京の学校を出て風来坊をしていた頃のことである。
「坊ちゃん」を途中まで読んでいて、急に思い立った。赤いい手ぬぐいはないが下駄はある。坊ちゃんのまねをしようと、部屋を出た。外はもう暗い秋。カタカタと下駄の音を鳴らして、近くの停車場から道後温泉行きの市電に乗った。「坊ちゃん」。父から買ってもらった初めての本だった。小学校の4年生の時。私の息子が小学校4年になって買ってやったのが絵本の「坊ちゃん」である。
野球少年だった私は、読むのは漫画雑誌の「野球少年」で付録に付いてくる好きなプロ野球選手のカードを集めていた。好きな球団が「毎日オリオンズ」だった。山内和弘選手のフアンになり、彼が大毎から阪神に移籍してからも、広島のコーチになっても、中日の監督になってもその球団のフアンになった。 但し、川上監督に請われて、巨人の打撃コーチになった時は例外である。山内和弘氏は今、台湾のプロ球団で打撃コーチをされていると聞く。
我が家には世界文学全集や文学書がいっぱい本棚に並べられていたし、二階の一部屋には本が雑然と詰まっていた。
高校生となって、野球少年の夢だったプロ野球選手は諦め、ブラスバンド部に入ってトランペットを吹いた。読書はもっぱら推理小説。エラリークイーンの「Xの悲劇」等々。本荘の北陽堂書店で買った「若きウエルテルの悩み」は唯一の文学書だった。
3年になって、受験勉強で推理小説どころではない。英語の担任教師の印藤良生先生が、「お前だったらこれくらい読めるでろ」といって渡されたのが「五大湖物語」。それほど見込まれたのだから読まなければいけない。受験勉強のあいまに英語の辞書片手に何とか読破した。
三代の回顧大学時代はレスリング部に入った。東京オリンピックの年だった。東伏見の合宿所で読むのはスポーツ新聞だけ。2年生の秋のリーグ戦を前に肩と腰をやられて合宿所を出た。移った所が、オンボロ下宿屋で大学近くの戸塚諏訪町。インド大使館公邸がそばにあった。今まで文学部横のレスリング道場での稽古が4時から6時まで。その時間が空いた。暇になるとかえって学校にもいかなくなる。
下宿の近くに東京23区で一番高い山、戸山台にある通称箱根山がある。登った。頂上から眺める東京タワーは中程まで赤いスモッグがたちこめている。箱根山を下ったところは喜久井町、夏目寿司という店があった。夏目漱石が小さい頃育ったまちだ。
レスリング道場前の高台に穴八幡神社があった。五木寛之が貧乏学生時代、ここの境内をねぐらにしていたという伝説があった。訪ねて捜してみたが、寝泊まりできそうな場所はない。
その頃はまだ、五木寛之の「青春の門」はなく、「青年は荒野をめざす」がベストセラーになっていた。
戸塚町は神田や赤門前と同様、古本屋街である。下宿屋への途中に古本屋が何軒もある。ある本屋の店頭に積まれている文庫本のなかに「我が半生」があった。ウインストン・チャーチルの自叙伝だ。定価10円。ラーメン60円の時代である。これは実に面白かった。チャーチルは21歳で米西戦争の際、キューバに渡った。そこで葉巻を覚えてきた。
レスリング部を辞めて、中南米研究会に入っていた私は、自分も何時かキューバに行ってみたいと思った。
ある古本屋の一番上の段に「三代の回顧」松村謙三自伝があった。欲しかったが、高くて買えない。
松村謙三元農林大臣。小学校6年の時、ラジオで聴いて覚えていた。当時、自民党総裁の岸信介総理に挑み、負けを覚悟の選挙だったが、丸の内ビルの掃除のオバさんまでカンパを届けたくれたという、民衆に愛された、反骨で信念の政治家だった。
上京していた母を上野駅に見送り、小遣いをもらって、尊敬する松村先生の本を求めていちもくさんにその古本屋に駆けつけた。あった。昼なのに下宿屋に戻って、「三代の回顧」を読みふけった。
「過去を語る者は進歩の停止した人間のすることである」とする松村先生の本は、自伝というよりは多くの人間との出会いを記した本だった。
天皇陛下のことが書かれていた。戦後、マッカーサー元帥との会見の際、元帥は命乞いに来ただろうと勘ぐっていたが、天皇陛下は「自分の身はどうなってもいい、国民をよろしく頼む」と請われ、マッカーサーは天皇に尊敬の念を抱いた、とあった。
30数年後、天皇陛下後崩御の朝、我が家で家族4人、皇居の方向に向かい黙祷した。今、成人した子ども達2人はその事を覚えているだろうか。昨年、桜田会から発刊された「松村謙三伝」を次女の小堀治子さんから送って頂いた。読んでみて松村先生に対する尊敬の念が強まっている。
昭和42年。大学4年生の夏。キューバやカストロに関する本を殆ど読んでいた。日本学生キューバ友好視察団の団長となって、チャーチルと同じ21歳でキューバへ行った。カストロ首相と会って見たかった。日本キューバ学生友好視察団団長として、二度会った。カストロ首相から日本の学生へのメッセージをもらい、革命の建設に意欲を燃やす青年達と語り、国造りとは面白いなと感じた。帰国して商社への就職はあきらめた。もっとも、通信簿の優の数が極端に少なく、一流商社に入れるわけがない。
郷里に帰ってふるさとづくりをと考えた。その前に海外に出て、日本を知らない自分を痛感した。卒業してから、日本の各地で風来坊をやった。 大阪、神戸、四国の松山、千葉県佐原市。日本人と戦争
キューバへ一緒に行った、ジャーナリストで翻訳家として活躍していた木村譲二氏。三〇数年後の一昨年、光文社から「日本人と戦争」という本を出された。電子メールで木村氏から文庫本を出したよと知らされていた。
本はもらうものでなく、買って読むもの。私は最初にあとがきを読み、それからはじめにを読む癖がついている。
木村さんは、この書を表した動機をあとがきに書かれている。
「明治維新と戦後復興につぐ三度目の変革期にある私たちとしては、身辺の変化や世論の動向をただ傍観するのではなく、過去二度の変革をふくむ日本における”近代の全体像”をとらえてみる必要があります。なぜならば、全体には部分の総和以上のものがあるからです。
さて、そうなると、どうしても日本の近代化にともなって起きた戦争、あるいは日本人と戦争の因果関係の見直しが下敷きとなるのではないか、と考えて私なりにまとめてみたのが本書です」
まえがきにはこう書かれている。「日本人の場合、戦争に対し、きわめて敏感に心理的アレルギーを起こすのです。この太平洋戦争の後遺症といわれる強いアレルギー反応のせいで防衛問題をタブー視する悪弊がしみつき、いわゆる”平和ボケ”の症状に陥ったのです。しかし、著名な英国の軍事評論家リデル・ハート氏が『平和を欲すれば、戦争を理解すること』が大切なのです。」
小学一年生で上海事変に遭遇し、市街戦で父を失った著者は、それが初の戦争体験だった。戦争とは″非情な状態″に映ったが、戦争の素顔は荒々しさよりも、むしろ冷淡さが印象深かった。平和を欲するからこそ、この本を書かれたのであろう。
そんな著者はベトナム戦争に従軍記者として体験し、″非情な状態″に日本人は対応できないだろうという。
著者はこの言葉を私たちに強調したかったと思う。
「日本には昔から義理人情を重んじる風潮がありますが、そのような風潮に育まれた感性では″非情な状態″に対処しにくい面があります。これにたいし″非情な状態″に苦もなく適応できる騎馬民族系の人びとがいることを知っておく必要があります。そうしないと、私たち日本人がとなえる『平和』は、独りよがりで国際的に通用しないものになっているからです」人生劇場(尾崎士郎)
学生時代の愛読書は尾崎士郎の「人生劇場」だった。村田英雄の人生劇場を台詞入りで覚えた。義理がすたればこの世は闇だと歌い、母校の第二校歌として四番まである。
名著笠信太郎の「ものの見方について」は、義理人情を否定していた。義理を受けた者は与えた者一生頭が上がらないからという訳であろう。だが、中国の故事に「授けた情は水に流せ 受けた恩は石に刻め」とある。
日本人は演歌が好きで、指導者に情緒的な人間を求めるのは義理と人情を重んずるが故であろう。秋田市川反に、山本実さんという演歌師がいる。彼の伴奏で、人生劇場をよく歌う。たまには違う歌を歌いたいが、山ちゃんのリクエストで、この歌を台詞入りで歌わせられてしまう。
人間の存在を決定するものは、人間そのものではなく、人間関係である。と、作者の尾崎士郎先生がいっている。西郷南洲遺訓
大学を卒業して1年、関西、四国と風来坊をやって、国会議員の秘書になって、国会議事堂の裏にいた。東京・青山の知人宅に居候をして参議院議員会館に自転車で通った。あの赤坂の高速道路下を自転車で上るには大げさだが命がけであった。
居候宅が、キューバから招待状を取り付けてくれた山本満喜子さん。彼女は、日本海軍の育ての親、総理大臣もやった山本権兵衛の孫だった。居候宅には新左翼の藤本敏夫や、小説家の団一雄、俳優の津川雅彦、皇族の清宮様など、多彩な人が集まるところだった。山本権兵衛自伝が部屋の中に無造作に置かれていた。テレビではNHKの大河ドラマ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が放映されていた。目が悪くなって、テレビがまぶしくて見られなくなった。山本さんが「眼科の先生を紹介してあげるからいってらっしゃい」という。そこは六本木にある西郷眼科だった。その先生、西郷隆盛のお孫さんだった。診察中、何人かのお客を待たせて、「お前気に入った、爺さんの言葉を教えてやろう」という。「過ちを過ちと知らざればただちに一歩踏みだすべし」と聞いた。いい言葉を頂いた。後に「西郷南洲遺訓」を買って捜すと、それらしき言葉があった。
「過ちを改まるに、自ら過ったさへ思ひ付かば、夫れにて善し、事をば棄て顧みず、直ちに一歩踏み出す可し」
文庫本の「西郷南洲遺訓」はしばらく背広のポケットにいれていて、ボロボロになってしまっている。秘書を辞めて郷里に帰ろうとしたが、余りに秋田県の事を知らない自分に気がついた。ふるさとを知るには、一番情報の集まっている県庁に入ろうと思った。23歳の誕生日の日から松村謙三先生宅に近い、鷺宮の3畳間を間借りする。牛乳配達をしながら、試験勉強を始めた。戸塚の古本屋へいって、行政法や民法等の法律書を買った。これらは試験が終わったらすっかり忘れてしまった。約半年間、試験勉強以外の本はほとんど読むことはなかった。
坂の上の雲(司馬遼太郎)
郷里に帰ることになって、大学ゼミの先輩で兄貴分と敬愛する杉山雅洋さん(現早稲田大学商学部教授)に会った。お前、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んだかと聞かれる。是非読んで見ろという。 昭和46年1月、大館市にある財務事務所に配属になった。「坂の上の雲」を読んだ。面白かった。読み応えがあった。それ以来、司馬遼太郎の本はほとんど読んだ。二度読みもしている。
30年たって、大学を卒業した息子に「坂の上の雲」を買ってやった。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」主人公の一人、秋山好古に読書論を語らせている。
「本を読んで、気に入った言葉を一つでも見つけたらそれでいい」
以来、司馬遼太郎の本からは気に入った言葉を随分見つけた。「峠」で出処進退をいっている。「進むときは相談、退くときは独り」「政治の基本は人身掌握」燃えよ剣では「男の一生というものは美しさと作るためのものだ」「どうなる、とは漢(おとこ)の思案ではない。婦女子のいうことだ。おとこはどうするという以外に思案はないぞ」と土方歳三が沖田総司にいう。 「何事かを成し遂げるのは、その人の才能ではなく性格である」「人のいのちは何のためにあるか。人の世に用立てるためにござる。人は人の為に存する」
昨年発行された向井敏の「司馬遼太郎の歳月」は司馬文学、司馬史学の魅力を改めて思い起こしてくれた。
箱根の坂(司馬遼太郎)
司馬遼太郎の本で何が一番好きかと聞かれたら、いろいろあるが「箱根の坂」には学ぶべき事があった。
それは「心」と「義」だった。
ー心とは如かんー「他人(ひと)を傷む情、古くよりの家来の横顔にふと老いをみたときの悲しみ、敵の勇者をよう者と思う情」「人は頼もしくあらねばならない。人から頼まれ、人の命をかばい、人の暮らしを立つようにしてやり、人の悲しみにはわがことのように亡くこころを持つ。これらをつねに日頃から養っておかねばならない」この正月、NNKの大河ドラマ「北条時宗」に登場した武士が「義」という言葉を何度も使っている。「世の中、人のため義を通す」「義を果たす」等々。
司馬遼太郎は「箱根の坂」で義を語っている。ちょっと長いが記してみたい。古き物語を聞きても、義を守りての滅亡と、義を捨てての栄花とは天地格別にて候。
氏綱は、北条家のいわば第一義の倫理は「義」であるとした。このことは大名として、ときに白刃を手づかみするほどに危険な思想であるといえる。『孟子』には、しきりに義が説かれている。孔子が言いつづけてきた仁を、当然、孟子も説きつづけてたが、かれはむしろ仁は人間の本然の情のなかに自然に含有している、とした。それよりも義を思うべきだ、とするのである。孟子は、一方で仁が自然の情であるといいつつ、他方で、人間はもし倫理的自律性をもたねば利を思う、ともいう。利はしばしば他人のものを奪う。ついには、みずからをも損なう、という。「上下交々(しょうかこもごも)利を征(と)れば、国危うし」といい、「義をあとまわしにして、まず利を追い求めれば、ついに人は他人のものを奪いつくさねば満足しなくなる」ともいう。孟子は利を悪(にく)み、義をたかくかかげた。
義という倫理には、仁のように人の自然の情の中に含有されておらず、人にとって外に存在している。義の字義には、道理・すじみちという意味もあれば、同時に「外から仮りたもの」という意味もふくむ。善きものである仁や悪しきものである利とはちがい、義は人が、いわば私情を殺して意思力で外からひきよせ、行動目標もしくは、ばねとするもので、義をおこなうのは情としてはつらく、しばしわが身を危うくもする。しかしながら、義がなければ国家にも個人にも美しさがない、と氏綱はいう。さらに、美しさがなくて繁栄をえたところで仕方がないものだ、と氏綱は痛烈にいうのである。孟子は、利をきそいあう戦国の諸侯たちに仁・義を説きまわってついに容れられることがなかった。書生論であるとも思われた。が、氏綱はこの置文という家憲により、本気で息子に義を相続させようといているのである。司馬遼太郎は「国盗り物語」で仁と義の違いもいう。
「人間、大をなすにはなにが肝要であるかを知っているか」(斎藤道三)「存じませぬ」(赤兵衛)
「義だ。孟子にある。孟子が百年をへだてて私淑していた孔子は、仁だといった。ところが末法乱世の世に、仁など持ちあわせている人間はなく、あったところで生まれつきのお人好しだけだろう。そこで孟子は、義といういわばたれでも真似のできない戦国むきの道徳を提唱した。孟子の時代といまの日本とは、鏡で映したほどに似ている」
庄九郎は、聖賢の道を理想とし、現実の克服には奸謀を用いようとしている。ところが、奸謀は、単に奸謀であって人はついてこない。そのために、「義」「信」をこの男は、自分に課した「道徳」にしているらしい。はじめにもどってあとがき
松山での風来坊は腰に白い手ぬぐいをさげ、下駄を履いて道後温泉行きの市電に乗った。道後温泉についた。3階建ての大きな風呂屋だった。二階には休息場があったが、にわか坊ちゃんには金がなくて、二階には上がれない。大衆浴場の風呂に入る。そこで、坊ちゃんのように風呂場で泳がねばならない。大きな浴槽で泳いだ。それからひげを剃ろうとして、立ち上がって鏡をみたら、貧血を起こしたのか、くらくらっときた。鏡に向かって倒れ、ガツンと額を強烈に打った。レスリングで頭突きを鍛えていたから何ともない。だが、もし、後ろに倒れていたら後頭部を打って死んでいたかもしれない。
温泉を出てから、今度は団子をいっぱい食べなければいけない。団子屋を捜したがない。お土産屋に団子があった。甘いものに弱い私は、一本食べて、胸焼けがしてきた。これは坊ちゃんの小説にはない。目撃する生徒はいないが、お土産屋さんの女店員さんにお茶を頂けませんかといったら、笑われてしまった。私にとって読書とは、どうなるでなく、どうするかという実践への道を学ぶためにあるような気がする。
人様に笑われないよう、これからも時間をつくっていい人間になるため、いい本を読んでいきたいとおもう。