あと一歩の物語


 3月5日午後2時。男鹿市文化会館。館内は超満員であった。NHKのど自慢の予選が始まっている。ひとみさんは、観覧席の右横で出番を待っていた。彼女の番号は211番。予選出場者は220人で、その中から翌日の本番には20人しか選ばれない。舞台の上では出場者が20人づつ呼ばれ、椅子に座って待っている。1人平均、40秒から50秒が持ち時間。素人歌手達が歌っているとピーっとブザーが鳴って、次の番。「アリガトウゴザイマス」と録音された女性の声。客席にはそれぞれ応援団が陣取り、拍手と声援があがる。
 ひとみさんの番までは2時間以上もある。
 大館市駅前の市営アパート1階の飲食街。いい店があると、先輩が連れていってくれたのが二年前の春。「ひとみ」というスナックのドアを開けると若いママが、広いカウンターの中で車椅子でキビキビと動いていた。
 カウンターには10人ほどが座れる。ママの瞳も綺麗で、名前が田村ひとみさんといった。「どうしたの」と気軽に聞けるほど、彼女は元気で明るい。車椅子になったのは5年前、スキーの怪我がもとで、不自由になったらしい。ひとみさんは、元バスガイドで歌もうまい。そうだ、歌に挑戦。NHKのど自慢に出場してもらおうと考えた。  この話を「白瀬中尉をよみがえらせる会」の渡部幸徳会長に話した。感動体験を共有してきた彼もすぐ乗り、「ひとみ」へ何度も足を運ぶ。そして、白瀬京子さんという女性で初めて、ヨットで世界一周を果たした白瀬南極探検隊記念館の初代館長を偲ぶ歌「夢のアドレス」を歌ってもらうことになった。
 男鹿市文化会館には金浦町の「白瀬中尉をよみがえらせる会」の面々も駆けつけてきた。
 ついに彼女の番号が呼ばれた。渡部会長が車椅子を押して、舞台の袖に案内。他の出場者は舞台の右側に座っている。デレクターから呼ばれた。渡部会長が舞台へ車椅子を押していく。振り向いた彼女の緊張した笑顔は、救いを求めているようだった。客席に走って戻り、一番前の席からカメラを構えた。

 あなたのヨットは 今も帆に太陽の切手貼り 果てしない航海続けて 便りの始まりはいつも ディアマイフレンズ アドレスは「光の平(たいら)海原にて 白い波涛よ あなたが賭けた遥かな夢を 僕に届けて
 うまい。カメラのファインダーを覗いているうち、マイクを持つ一生懸命な彼女の姿が、曇って見えなくなった。なぜか目に涙がにじんでいる。彼女はうまくまとめて歌った。予選通過は間違いないと思った。
 しかし、無情。20人の本番出場者に、あと一歩だったと聞いた。
 それから数日後。秋田市山王の「二歩」という居酒屋で、歌謡教室を開いている石野ひさしさんと会った。彼、ひとみさんのレッスンを引き受けたいといってくれた。すぐに大館の「ひとみ」へ電話。彼女、この前は期待に答えられなくてごめんなさいという、謝るのはこっちの方。車椅子の彼女にのど自慢の結果があと一歩だったなどとはいえない。
 「好きな演歌を歌って、いつか老人ホームを慰問するのが夢なんです」という。
 そう、夢の中で一歩二歩と歩いていって欲しい。昨日夢は今日の努力で明日はほんものになる。