七月四日


 秋田市の華街川反五丁目。五丁目橋のたもとに「でんえん」という小料理がある。暖簾をくぐると、右側が小上がりになっていて、窓を開けると、いい風が入ってくる。窓の下を鯉が泳ぐ旭川が流れている。
 五月二七日。秋田ふるさと塾地域づくりセミナーと人間道場が終わって、講師達と二次会がでんえん。何時もながら冷奴が旨い。彼らと盃を傾けていると、ラグビー好きのご主人、市川史郎さんと美人の奥さんがやってきていわれる。「困ったことになったんです」
 初めて「でんえん」を訪ねたのが昭和六三年の秋。秋田戊辰の役百二十年記念事業を計画し、庄内藩・仙台藩や南部藩と秋田藩、その敵味方別なく合同慰霊祭や記念講演などを開催。一段落した頃だった。
 秋田藩が奥羽越列藩同盟を離脱し、明治新政府側につくきっかけとなったのが、仙台藩通使の秋田藩士による暗殺だった。列藩同盟からの離脱を阻止しようと派遣された十二人の仙台藩士は、当時の今野旅館に泊まっていた。慶応四年七月四日の夜。秋田藩勤王派によって襲われ、志茂又左衛門他五人が暗殺された。他の七人は捕らえられ、同月十六日に斬首された。暗殺された六人の首は大町五丁目の橋のたもとにさらし首にされたとある。
 仙台藩士が暗殺された旅館は今はホテルになっている。さらし首になったその橋のたもとに小料理店があった。ちょっと覗いてみた。カウンターに座って、旨い湯豆腐を肴に酒を飲ませて貰っているうち、いい調子になって主人についつい喋ってしまった。
 「昔、ここの橋のたもとにさらし首が・・」
 「知ってますよ。私は川反で三十五年いますから。毎日、線香をあげさせてもらってます」
 流し場を覗くと冷蔵庫の上に香炉が置かれていた。確かに線香の匂いがする。思わず手を合わせた。知ったかぶりをして恥をかいてしまったが、何故か嬉しくなって、酒のピッチがあがった。
 それから、でんえんの主人、石川史郎さんは毎年、七月四日の仙台藩士慰霊祭に招かれている。仙台藩士の眠る秋田市八橋の西来院でひらかれる慰霊祭には、仙台藩志会の伊達篤郎会長も、毎年七月四日の慰霊祭に出席されている。
 秋田県宮城県人会(五城会)の木内昭会長は、さらし首になった仙台通使の一人高橋市平の子孫。「仇討ちに秋田にやってきたが秋田美人と結婚してしまい、返り打ちになってしまった」と笑う。昨年七月四日の慰霊祭で伊達会長から、伊達家十八代が秋田県出身の女性と結婚したとも聞いた。
 百二十六年も過ぎた今年の七月四日にも、仙台藩志会の伊達会長一行を迎え、仙台藩士慰霊祭が勝海舟揮毫による仙台藩士殉難碑の前で催される。
 でんえんの主人が「困ったこと」というのは、河川改修で店が取り壊される事になったのだという。近く工事が始まるらしい。
 七月四日には、仙台の一行を「でんえん」に案内したいのだが、それまで間に合うかどうか。まだわからない。