秋田まごころ大賞です。
  
   
 

  秋田まごころ
 ラッパを吹きながら丘の上を見上げた。天皇陛下が手を振られている。本荘市南中学校グランド。国体会場に陛下が激励に見えられたのだった。私は本荘高校ブラスバンドの中にいた。昭和36年の秋だった。
 38年前の秋田国体は「まごころ国体」といわれた。最初からこう呼ばれたのではない。
 沖縄にある千秋の塔。これは秋田国体に参加した選手団が声を上げて建立されたもの。秋田のまごころに感激し、恩返しにと建てられた、沖縄で戦死した秋田県出身者の慰霊碑である。
 後年、東京で広島出身のある漫画家と親しくなった。彼は高校時代弓道の選手として秋田国体に出場。湯沢市の民宿先で受けた親切は忘れられないと語っていた。
 平成元年2月24日。秋田ふるさと塾を秋田市川反の飲食ビルに開設した。昭和天皇の大喪の礼の日であった。以来毎月地域づくりの実践セミナーを開いている。地域づくりも最後は地域を愛するまごころ。塾の二次会はよく、川反5丁目橋のたもとにある小料理屋「でんえん」だった。店は橋の拡幅工事のため、閉めざるを得なくなった。
 この「でんえん」の元主人市川史郎さんに「秋田まごころ大賞」が授与される。
 受賞理由:慶応4年7月4日に暗殺された仙台藩通史がさらし首になった場所で20年近く毎日供養してこられた。一昨年、仙台藩志会(伊達篤郎会長)から感謝状を受け、県民に感動を与えた。
 秋田まごころ委員会がこの3月末に設立された。県民に感動を与えたまごころ行為に感謝し、まごころ大賞を受けて頂き、まごころ秋田を共創する、というのが設立主旨である。審査委員会(委員長新野直吉元秋田大学学長)が開かれ、「でんえん」の元店主が大賞に選ばれたのである。
 6月12日。秋田市・榮太楼旅館にて授賞式が開かれる。市川さんには大友康二先生の詩が書かれた「感謝の楯」が贈られる。
 ありがとう
あなたの まごころの花の音符は
五線紙の曲から
豊かに流れ
美しい人生賛歌となる
ふるさと秋田のこころを
誇り讃える
その歌声は
心の琴線にひびく
ありがとう そして
おめでとう
  秋田まごころ委員会

設立主旨 とてつもなく秋田県民に感動を与えた、まごころ行為に秋田まごころ大賞を受けて頂き、まごころ秋田を共創する。
事  業  秋田まごころ大賞を設け、秋田県民に感動を与えたまごころ行為に秋田まこころ感       謝会を開催し、感謝状と副賞を受けいただく。
委  員  阿部和夫 大内睦子 大友康二 工藤清一郎 小国輝也 佐々木三知夫 
       佐野元彦 菅谷理市 菅原雄一郎 瀧廣明 竹村菊昌 新野直吉 沼沢益子 
       能登文敏   
基  金  県内外の有志から、秋田まごころ基金として、秋田まごころ大賞の副賞とする。
事務局  秋田市千秋矢留町7−32−102 佐々木三知夫
           電話 018−834−5835       平成12年3月

    第2回秋田まごころ大賞授賞式  大友康二世話人代表より鈴木富雄氏へ 
                             (平成13年1月30日 榮太楼旅館) 
 平成13年1月30日 榮太楼旅館。第二回秋田まごころ大賞授賞式。50人以上集まってくれた。司会進行は小国輝也氏、大友康二先生が、まごころの挨拶。受賞者は、元NHKのど自慢のアコーディオン奏者で、戦後50年間、秋田刑務所に音楽で慰問を続け、戦後の荒廃した県民に音楽により勇気を与え続けられた鈴木富雄さん。会主をつとめる秋田ナツメロ会のみなさんも応援に駆けつけてくれた。副賞には書家佐々木青洋先生の額入りの「喜」と書かれた書、ハーモニカ演奏まで頂く。歌手を目指していた小林工業の小林忠彦会長が東海林太郎の「赤城の子守歌」を披露され、歌と音楽の楽しい授賞式であった。
  二次会は鈴木さんの店「オルガニート」へ。途中、奥さんへ副賞として焼き芋を買って向かう。
                               (ふるさと呑風便1月号より)
 秋田まごころ大賞秘話 田とんでも列伝(番外編) ー虎落笛(もがりぶえ)ー
                                    2001/7


 秋田市向浜。昭和三六年の夏。秋田国体のボート会場が秋田運河だった。高校ブラスバンド部一年の時。我らボート部は決勝進出を果たした。私はスタートから五百メートル程手前で待っていた。何と、我が高校は外側をトップで進んできた。ボートと並ぶ。トランペットを左腕に抱えて一緒に走った。途中で抜かれた。ゴール付近からワッーという歓声が聞こえた。優勝したんだ。
 あの感動の秋田国体は「まごころ国体」だった。その名称は後からいわれたことだと秋田国体の司令塔役だった大友康二先生から教わった。きっかけは民泊先での親切に感動した、沖縄の選手団である。国体で受けた親切の恩返しにと、沖縄選手団が沖縄戦で亡くなった秋田県出身者433柱の慰霊碑を建てようと運動を起こし、翌37年1月に「千秋の塔」が建立されたのである。
 30数年後の今日、まごころ秋田の影が薄くなり、黒まるっ秋田の状況に、まごころ秋田の復権ができないかと考えていた。秋田県民にとてつもない感動を与えた方に「秋田まごころ大賞」なるものを受けて頂き、秋田まごころを共創しようとおもいたった。とっておきの方が現れた。沖縄の嘉手川素子さんであった。

 奥入瀬くん

 平成10年の春、沖縄・那覇市の嘉手川素子さんから、丁重なお手紙と泡盛を頂いてしまった。十和田湖で受けた親切な青年探しの御礼である。大したことをした訳ではない。

 平成8年の夏、嘉手川さん親子三人が、奥入瀬駅伝で遅れたバスを待っていたら、通りがかりのホンダシビックが止まって話しかけてきた。運転していた東北訛りの青年から休屋まで送ってもらった。お陰で盛岡までの高速バスに間に合い、予定どおり盛岡、花巻に行くことができたという話。
 彼女はその体験を秋田魁新報「えんぴつ四季」に投稿された。それを見た読者がかえって感激し、沖縄の彼女のところへ感謝の手紙と秋田こまちがどっさり送られてきたと聞く。
 そこで、秋田市立千秋美術館長(当時)の渡部誠一郎さんとまごころホンダシビックマンを探そうと考えた。もし見つかったら彼に「秋田まごころ大賞」を受けていただき、沖縄にいってもらおうという訳である。渡部館長は車の中にあったという報道の腕章からマスコミ関係者だろうと八方探したが不明。私は陸上関係者だろうと、秋田市の陸連やホンダ車のデーラーを当たったが不明。そこで、秋田魁新報の仁部正志社会部長(当時)にお願いして記事にしてもらった。載った。平成10年4月8日。嘉手川親子の写真入りで見出しに、十和田湖で親切にしてくれたあの青年に会いたい。2年前に本紙に投稿、「ぜひお礼を」吉報待つ。

 見つかった。四月一九日。大館市の畠山博さん(三五歳)。嘉手川さんは彼のことを「奥入瀬クン」と呼んでいた。奥入瀬クンは日本陸連公認審判員で、当日、十和田八幡平駅伝の手伝いをするため、休屋に向かっていく途中で、奥入瀬のバス停で待つ3人の親子連れを見つけたのだった。
 畠山さんはいう。「女性が時計をとても気にしているので『急いでいるのかな』『同じ方向なら乗せてあげよう』と思って声を掛けた」
 ダッシュボードの上に「報道」と書かれたステッカーがあったが、駅伝大会当日、広報車として畠山さんの車が使われたためだった。
 さて、奥入瀬君に秋田まごころ大賞を受けてもらうのに、会を作って審査をしてもらわなければいけない。渡部館長と相談し、その組織をまごころ秋田共創委員会(仮称)とした。

 主旨:とてつもなく秋田県民に感動を与えたまごころ行為に秋田まごころ大賞を受けていただき、まごころ秋田の再生をすすめる。
 基金:県内外の有志から一口1万円を出資していただき、まごころ基金として秋田まごころ大賞 の副賞とする。

 平成11年2月27日・秋田パークホテルにて設立準備委員会を開催。
 平成11年5月1日。秋田市・榮太楼旅館。秋田まごころ大賞審査会(新野直吉委員長・元秋田大学学長)が開かれた。大賞候補が3人ほどあげられたが、お願いした審査委員8人の満場一致で畠山博氏に決まった。
 大館の畠山さんに電話し、受賞の内諾をえた。仕事の忙しく土曜日だったら出席できるというので、6月5日(土)に授賞式を開催することとした。沖縄の嘉手川素子さんに連絡するととても喜んでくれて、授賞式に出席するといわれる。
 ところが、なぜか突然、奥入瀬君から受賞辞退の電話があった。ほんとに困った。もう一度審査委員会を開く余裕はない。委員の方々に電話して、秋田市川反で小料理店を経営していた方を紹介し、推薦した。よかろうとあいなった。

  でんえん店主

 今、秋田市川反5丁目橋のたもとに白御影石の小さな観音像が建っている。その場所は、秋田戊辰戦争前夜、秋田藩士によって暗殺された仙台藩士6名がさらし首になった所である。川反観音像は殉難仙台藩士の慰霊碑でもある。建立のきっかけは橋のたもとで毎日、仙台藩士の供養をしてこられた小料理店でんえん店主の市史郎さんであった。

 次のような授賞式の案内文を有志の方々にだした。

   ありがとう   大友康二 詩

 あなたの
 まごころの花の音符は
 五線紙の曲から 
 豊かに流れ
 美しい人生賛歌となる
 ふるさと秋田を誇り讃えられる
 その歌声は 心の琴線にひびく
 ありがとう そして 
 おめでとう

  秋田まごころ大賞授賞式ご案内
 日 時 平成11年6月5日(土)午後6時〜8時30分
 会 場 榮太楼旅館
 会 費 7,000円(内2000円はまごころ基金)

 欅の葉も新緑に色づいてきました。皆様におかれましてはご健勝のことと存じます。
さて、一燈照隅のまごころづくりをと、過日、秋田まごころ委員会が発足し、第1回秋田まごころ大賞を次の方に受けていただくことになりました。
 ついては、上記のとおり授賞式を開催いたしたく、ご出席くださるようお願いいたします。

  受賞者 市川史郎さん(元小料理店・でんえん店主)
 受賞理由 慶応4年7月4日に暗殺された仙台藩通史がさらし首になった場所で30年近く毎日供養を続けてこられた。一昨年、仙台藩志会(伊達篤郎会長)から感謝状をおくられ、秋田県民に感動を与え、現在、川反先人慰霊委員会の副会長として仙台藩士の慰霊碑建立に尽力されている。

                        審査委員長 新野直吉 (前秋田大学学長)

    平成11年5月吉日

            各 位

                    秋田まごころ委員会  世話人 大友康二 竹村菊昌 
 
 NHK秋田放送局のスタジオ。午後5時5分からゴーゴー秋田が始まる。キャスターの進藤信行さんに促され、スタジオに入る。マイクが一本上から下がり、進藤さんの右横に座る。女性キャスターの渡辺悦智子さんは大きなイヤホンをはめて一寸離れた所にいる。リクエストの選曲を担当しているらしい。6月8日。秋田まごころ大賞について話をしてくれるようにと、進藤さんから呼ばれている。

 県民を感動させた何気ないまごころ行為に感謝しようと秋田まごころ大賞を考える。3月末に秋田まごころ大賞設立委員会を設立し、5月1日に審査委員会を開き、その後色々あって、市川史郎さんに決定した。130年前の慶応4年7月4日。秋田藩士に暗殺された仙台藩通史が秋田市大町5丁目橋のたもとにさらし首になった。市川さんは、その橋のたもとで「でんえん」という小料理店をやっていた。そして30年近く毎日、お店で線香をあげ、仙台藩士を供養されてきた。仙台藩志会では毎年7月4日、秋田市八橋の仙台藩士殉難碑の前で行われる慰霊祭の参加されている。会長の伊達篤郎さんは政宗公の6男の子孫である。一昨年、市川さんは7月4日の仙台藩士慰霊祭の前日、仙台藩志会(伊達篤郎会長)から感謝状を受けている。
 スタジオ内につり下がったマイクに「奥羽越列藩同盟を離脱しないように秋田藩に説得にきた仙台藩の通史を暗殺・・・」と話していった。リクエストの松山千春の音楽が流れる。悦智子さんにまごころの詩を読んでもらったらと提案。
 渡辺キャスターはありがとうの詩を朗読し、ジーンときましたと語る。聞いていても琴線にひびく。

 秋田まごころ大賞授賞式。6月12日(土)夕方6時から「榮太楼旅館」で開かれた。司会進行が佐野元彦氏。琴線にふれる、まごころの授賞式であった。
 あいさつが素晴らしい。皆さん、礼儀正しく謙虚でこころ優しい方々である。審査委員長の新野直吉先生。「歴史を学ぶ老書生として、もし市川さんの事を知っていれば、最近出した『論点あきた史』に仙台通史の供養されてきたことを書きたかった。まごころ大賞に市川さんのような方を選ぶことができたのを光栄に思います」
 まごころの詩を書いてくれた大友康二先生は、市川さんに自筆の詩が書かれている「感謝の楯」を贈呈して頂く。「私のようなこの歳になると、色々と利用されることが多い。このようなまごころ大賞のために、私の名前が利用されるということは嬉しい限りです」
 受賞者の市川史郎さんは「私にも二人の子どもがいます。この賞を誇りとしたい。ありがとうございました」と挨拶。
 世話人の竹村菊昌氏の乾杯挨拶、能登文敏先生の挨拶も琴線にひびいた。 授賞式には23人の方々が出席された。会費は七千円頂いた。内二千円はまごころ基金となる。
 金銭は、次の琴線に使わせて頂こうと思います。(ふるさと呑風便99年6月号「琴線」より)

  あそこでの、あの人

 元NHKのど自慢のアコーディオン奏者の鈴木富雄さん。街を歩くと見知らぬ人から頭を下げられることがある。「どうも、お世話になりました」「?」「あそこ(刑務所)で」「そうでしたか、おめでとうございました。がんばってください」
 鈴木さんは50年間、毎年1、2回、秋田刑務所へ音楽慰問を続けられた。この30年間は仲間に呼びかけ、NHKのど自慢と全く同じ光景を刑務所講堂に再現されている。規則ずくめの中に暮らす人達に、たとえ3分でも舞台の上で「俺の天下」といえる時間をつくってやりたかったのである。

 20世紀の暮れ。榮太楼旅館。秋田まごころ大賞審査会を開催。大友康二委員、小国輝也委員他。第2回目の秋田まごころ大賞は、元NHKのど自慢アコーディオン奏者の鈴木富雄さんに決まった。
 受賞理由:戦後の荒廃した人々を音楽で励まし、県民に明るい希望を与えてこられ、50年間、秋田刑務所へ音楽による慰問活動を続けてこられた。戦後から半世紀、音楽により人々を励まし、秋田刑務所に慰問を続けてこられた。
 12月25日。中学野球部後輩の小松正夫秋田市文化課長とまごころ大賞受賞候補の鈴木富雄さんの店、大町第3金忠ビル内「オルガニート」へ。なんとそこで同じ中学先輩で近所だった佐々木輝雄、文男兄弟がいる。兄弟仲良く懐メロを歌っている姿はいい風景。鈴木さんとお会いし、大友康二先生からまごころ大賞の電話要請をしてもらう。お二人は旧知の仲、鈴木さんは謙虚な御方、で喜んで受諾して頂いた。お客同士、ふるさとのまごころ酒で乾杯。鈴木さんの伴奏で森進一の「おふくろさん」を歌った。
 1月30日。榮太楼旅館。第2回秋田まごころ大賞授賞式。50人以上が集まってくれた。同姓のよしみで鈴木姓の方々にもご案内した。「50年間全くの無報酬で奉仕して下さった。感謝の一念につきます」とあそこの刑務所の職員2人も出席される。司会進行が小国輝也氏、大友先生がまごころの挨拶後、まごころの詩入りの木版を授与される。鈴木さんが会主の「秋田なつめろ会」の仲間も大勢お祝いに駆けつけてくれた。もう一つの副賞に書家の佐々木青洋先生から「寿」と書かれた色紙が渡され、ハーモニカ演奏まで披露。東海林太郎に憧れ、歌手を目指していた小林工業会長の小林忠彦会長が鈴木さんのピアノ伴奏で「赤城の子守歌」を歌われる。出席者に用意した歌詞は、ふるさと、青い山脈、砂山、高校三年生、そして秋田県民歌。歌と音楽の楽しい授賞式であった。なつめろ会の方々と鈴木さんの店、オルガニートへ歩く。途中、鈴木さんの奥さんへ副賞として焼き芋を買って向かった。

  ハワイのおかあさん

  高知の新聞と地元紙に載ったまごころこもる温かい話。
ほんとうのサービスとはこのようなものだと感涙した。
「高知の日本料理店・司にある日、会津若松の消印の押された手紙が送られてきた。差出人は元高校の校長先生。苦楽を共にした奥さんを定年前に亡くし、冥福を祈るため四国八十八カ所の巡礼巡りをし、最後に立ち寄った高知空港の日本料理店の司に入り、ビール一本と土佐名物のかますの姿鮨一人前を注文した。加えて、「申し訳ありませんが、グラスは二つで」と。

 注文を受けた若いウエイトレスは、どうしてグラスが二つ必要なのだろうと不思議に思いながら、指示に従い、まずビールとグラス二つを出した。すると、客は女性の写真をテーブルの中央に置きその前のグラスにビールを注いだ。手にしていたグラスにもビールを入れ、乾杯した。
 ウエイトレスは、お客さんは亡くなった奥さんの写真を持って巡礼巡りをしてきたのだろうと思った。そこで、鮨ができあがって運ぶ時に、箸と箸置きを二組、小皿を二枚持っていった。元校長先生の手紙には次のように書かれていた。
「四国への旅には、家内の写真と一緒に出かけ、食事時には一緒にビールを飲みました。しかし、お箸と小皿を二人分出していただいたのは、おたくの店が初めてでした。驚きました。感動で体が震えました。帰りの飛行機の中では、涙が止まりませんでした。本当に、ありがとうございました」(商工情報・13.2.11付け)
 この2月初め。ハワイの秋田県人会会長の足利緋寿さんから仕事場に年賀状が届いた。「他の課に移ったかもしれませんが、私の記憶には佐々木様が残って居ります・・」とあったので、覚えていただいて光栄ですと、返事をだした。 その足利さん、四国・愛媛県の宇和島水産高校の実習船衝突事件でまごころ秋田を発揮された。
 ホノルル日本文化センターで最初の記者会見の席上、堀田校長の口から、「事故後の支援について領事館や日本政府、そして秋田県人会などに厚くお礼を申し上げたい」
 秋田県人会とは会長の足利緋寿さんのことであった。彼女は事故後にすぐ、沿岸警備隊に駆けつけた。二人いた領事館員は事故報告を日本政府に連絡するのが精一杯。足利さんは生徒や乗組員のお世話や警備隊との通訳を四日間、不眠不休で世話をされた。生徒達がアラモアホテルに移った後も、動揺し疲れ切った様子の生徒達のもとに連日訪れ、不安の除去に努められた。(秋田魁新報・13・2・18付より)
 先日、高知の親友・浜田慎吾に電話した。日本料理店・司のかますの姿鮨、二人前を送ってくれるようにと。ハワイの足利さんへは、彼女のことが掲載された秋田魁新報の記事を送り、秋田まごころ大賞の候補にさせていただきたいと。
 日本の最大のサービス業であるべき政官が汚れた金まみれのていたらくの中、ほんとうのサービスとは何か教えて頂いた。金偏でなく、人偏である。高知のウエイトレスさん、ハワイの足利さん、真にありがとうございました。(サービス・ふるさと呑風便2000年1号号より)

 第3回の秋田まごころ大賞にはハワイ秋田県人会会長の足利緋寿さんに決まった。
 5月にふるさと雄和町の帰られると聞く。雄和町に住む岸部章一さんが連休にハワイにいかれるときいて、まごころ大賞のことを話してもらうことにする。
 ハワイから帰った岸部さんんから電話があった。足利さんとお会いし、素晴らしい方で感激した。「私のような者が、そんな素晴らしい賞に穴があったら入りたい」とまごころ大賞受賞の内諾を得たといわれる。 ハワイ秋田県人会会長の足利緋寿さんの受賞理由:ハワイ秋田県人会会長として、日頃からハワイ在住の秋田県出身者のお世話をしてこられた。この度のえひめ丸遭難事故の際、遭難者が保護されたハワイ沿岸警備隊のゲート前で「今、あの子達は私を必要としているのよ」と、実習生達との通訳や心のケアをされたまごころ行為は県民のみならず、日本中に大きな感動を与えられた。

 5月11日。秋田市・榮太楼旅館。第3回秋田まごころ大賞授賞式。今回も50人もの出席者。雄和町の前町長の工藤清一郎氏、秋田県教育長の感謝状をハワイへ持って会われた元秋田大学学長の教え子の方々も出席されている。勿論、第2回目の受賞者鈴木富雄さんと秋田なつめろ会の方々も出席されている。授賞式は笑顔と涙と歌と、まごころの会となった。

 数日後、足利さんの本家、河辺町戸島へ車を走らせた。鞄に入るというので、副賞のまごころの詩が彫られている秋田杉の木版をお届けするためである。笑顔で迎えてくれた。
 帰り際に聞いた。
「足利さんが沿岸警備隊のゲート前で叫んだ言葉、英語で何て叫ばれたんですか」
「ゼア マイチルドレンだったかしら。ほんとうに自分の子どもと思っていましたから。心からそう思っていました」