葉隠墓苑物語

              



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 大森山の頂上に立つNHKのテレビ塔。そこから南側、ちょっと下ったところに記念碑があります。これは昭和の初め、大森山の治山記念に建立されたものです。碑文の中には、ここが戊辰の役の陣地跡だったとも書かれています。
   大森山の砲台跡
 慶応4年正月。京都で始まった戊辰戦争の戦火がこの年の秋、秋田まで飛び火し、大森山の頂上に佐賀藩の砲台場が備えられ、右手の海辺の集落、下浜長浜の方向の敵陣めがけて大砲が打ち込まれたのでした。
旧暦9月12日、この下浜長浜の戦いで秋田藩士は11名、援軍の佐賀藩士6名が戦死され、秋田市八橋の全良寺、新屋の忠専寺などに埋葬されております。敵側の庄内藩は7人の戦死者を出しました。敵方の首は新屋の三本木にさらされたといわれております。
 この戦いで敗れた庄内藩は撤退し、秋田戊辰の役は、当時の新屋村と秋田城下が戦火にまみれることなく終わったのです。
 この戦いの前の8月29日。現在の岩城町勝手の戦いで負傷した佐賀藩武雄の馬渡栄助(34歳)は、新屋まで運ばれましたが、大嶋弥治兵衛宅で亡くなりました。弥治兵衛は今の日新小学校の上、西の山と呼ばれた場所に栄助を丁重に葬って墓石を建てます。そこから少し下がった両脇には長浜の戦いで戦死した同じ佐賀藩の軍夫、兵蔵(43歳)と平兵衛(36歳)の墓が向かい合い、手前に小さな地蔵様が立てられました。
   佐賀藩士の墓発見
 佐賀藩士のお墓のあったこの墓地は、戦後の農地解放で無縁墓地となり、荒れるにまかせ、近くの日新小学校の生徒の遊び場にもなっていました。
 昭和61年春、この一帯が区画整理事業の対象となり、団地が作られる事になりました。砂地で原野の状態であった中に小高い丘があり、松や桜が植えられ墓地になっていました。しかし、この台地も墓地は削られて、近くに墓地公園として造成され、移転されることになったのです。
 新屋西地区土地区画整理事業組合から移転工事を請け負った高橋勘左エ衛門石材工業の高橋正社長が、墓地の一番上にある風化した3基の墓石に佐賀藩武雄などと書かれているのを見つけました。これは戊辰戦争で亡くなった佐賀藩士の墓だと気がつきました。彼は暖かい南国から寒い北の国秋田で戦死した兵士を可哀想に思い、友人に遺族探しを頼んだのです。その友人はすぐに、佐賀藩士の3基のお墓の写真を撮って、佐賀県の友人宛に送り、その写真が佐賀新聞に掲載されました。馬渡栄助の遺族が見つかりました。武雄市に住む曾孫の馬渡年夫さん(58歳)でした。年夫さんは「秋田にもお墓があったとは知らなかった、出来れば秋田に墓参りに行きたい」と佐賀新聞の記者に語っております。
 新屋西地区土地区画整理組合の高橋金太郎理事長は、遺族が見つかるまでと墓地移転工事を延期していてくれました。
   佐賀藩士慰霊祭
 その年の6月、戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会が組織され、秋田テレビの中安正衛社長が会長に、高橋金太郎氏が副会長になられました。そして、遺族の馬渡年夫さんを秋田に招待し、慰霊祭をとり行うことになったのです。
 7月13日、武雄市の石井義彦市長を団長とする慰霊団一行16人が来秋されました。半分ほど削られた新屋西の山の墓地には白黒の天幕が張られ、祭壇には下浜長浜で発掘された砲弾も供えられていました。参列した佐賀藩士慰霊団の中には、馬渡年夫さんと姉弟もおりました。
 墓地にある先祖の墓にぬかずく馬渡さん達3人は手を合わせ、しばらくじっとしたままでした。そして、大友康二作詞、菅原良吉作曲の「佐賀藩士慰霊のうた」が歌われ、参列者の涙を誘ったのです。
 佐賀県慰霊団一行は慰霊祭の後、下浜長浜や勝手の戦場跡を訪ね、象潟町にもある佐賀藩士の墓地を参拝されました。一行が秋田を離れる時、馬渡さんは、先祖のお墓を持っていかれますかの問いに、「秋田の方々が佐賀藩士のお墓を手厚く護って頂いているのを見て感激しました。他の佐賀藩士のお墓を残してひいじいさんだけ帰るのは葉隠武士として本望ではないでしょう。これからも秋田の方々に護ってもらいたいと思っています。もし墓から遺骨がでたら分骨してもらえませんでしょうか」と語っています。
   佐賀藩士、ふるさとへ帰る
 翌62年1月、寒風吹き付ける墓地で、馬渡栄助、兵蔵、平兵衛の墓が掘られました。近くにできる墓地へ移転するためです。馬渡栄助の墓石は30センチほどまで砂に埋まっており、墓を囲む四角い石枠が出てきました。更に深く掘り出されていくと、最初に松材の寝棺の破片が見えてきました。そして錆びた脇差しが出てきました。真ん中からざっくり折れていましたが、漆仕上げの鞘の部分が残っていました。それから青銅製のキセル一本も出てきました。そして、墓堀人が土の中から現れてきた頭蓋骨をみて声をあげたのです。
「おお、南向きになっている」北向きに埋葬されるはずが、故郷九州・佐賀の方向に向けて埋葬されていたのでした。秋田の新屋人のまごころだったのです。
 座棺で埋葬されていた兵蔵の墓からは副葬品としてキセル4本がでてきました。その日は大寒。寒く厳しい冬です。墓地発掘に立ち会った関係者は温かくなったら、南国九州の故郷にお返ししますと合掌した。
 この年の5月、中安正衛会長を団長に佐賀藩士秋田慰霊団が組織され、一行19人が馬渡栄助の遺骨を持って、佐賀県を訪ねました。遺族の見つからなかった兵蔵の遺品は佐賀県庁で井本勇副知事に手渡されました。その後、一行は馬渡栄助の故郷武雄市へ向かいました。馬渡家の菩提寺正法寺に到着し、境内で白箱に入った遺骨が中安団長から馬渡年夫さんに手渡され、119年ぶりに故郷に帰ったのです。本堂では「佐賀藩士慰霊のうた」が流れ、慰霊祭が催されました。武雄市では「秋田まごころ歓迎委員会」が組織されておりました。秋田の一行は文化会館での歓迎会で、心温まる盛大な歓迎を受けました。
 慰霊団一行は武雄市長と会見の際、来年の戊辰の役120周年記念に、援軍では一番多く戦死された佐賀藩士の慰霊碑を秋田に建てたいと約束してきました。
   戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑
 戊辰の役の戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会では、秋田に帰って早速募金活動を始めました。丘にあった墓地は削られ、50メートル程南に移転され、葉隠墓苑と名付けられました。募金は県内外から集まり160万円。墓苑内には、大きな鳥海石の慰霊碑が建立されました。
 63年10月21日。戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑の除幕式が執り行われます。葉隠墓苑には石井義彦武雄市長を団長とする佐賀県慰霊団一行25人、地元新屋地区の方々、関係者60人が参列されました。天竜寺八島国雄住職による読経の後、中安正衛会長と馬渡保雄氏によって序幕されたのでした。慰霊碑には葉隠の四誓願の言葉が記され、秋田戊辰の役で戦死された54人の佐賀藩士の名前が刻まれています。
 そして、戦死者を護るためにと佐賀市の木である銀杏、武雄市の木の梅の木が記念植樹されました。
 その後、銀杏や梅の木も大きくなりました。当時は建物も数件しかなかった団地には市営住宅も出来、人口も増えて町内会館も建てられています。葉隠墓苑の回りには桜の木が植えられ、墓苑を訪ねた「佐賀を元気にする仲間の会」は秋田市の木、けやきを植えていきました。
 平成5年12月。戦没した佐賀藩士の英霊を秋田の竿燈に託して故郷に帰そうと秋田竿燈慰霊団が結成され、新屋の方々も参加し武雄市と佐賀市で3本の竿燈演技を披露し、佐賀県民に大きな感動を与えました。
 毎年10月20日頃には葉隠墓苑で佐賀藩士慰霊祭が開かれます。
(戊辰の役佐賀藩士慰霊秋田委員会事務局長 佐々木三知夫)
  ※これは平成6年、地元町内会に頼まれ、子供用に書いたものです。多少加筆してあります。

葉隠墓苑
 昭和六十一年(1986年)、原野であった当地が土地区画整理の対象となり、一画にあった墓地の移転が必要とされた。墓地には慶応4年、秋田戊辰の役で戦死された佐賀藩士の墓が3基あった。馬渡栄助、兵蔵、平兵衛と墓標にある。故郷を想い、北国の露と消えた3名のなかで、佐賀県武雄市に住む馬渡年夫氏が子孫と判明した。 私共はこの年の六月十五日、佐賀県から子孫の方々をお迎えし、当地で戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊祭を開催した。そして故郷佐賀県の方向に埋葬されていた藩士の御遺骨を翌年の五月十五日、佐賀県の御遺族へお届けして、秋田と佐賀の歴史の絆を深めたのである。 百二十年もの時を超え、戊辰のこの年に先人の辛苦を偲び、秋田で殉難された佐賀藩士の霊を慰めるため慰霊碑を建立したものです。 慰霊碑建立にあたっては、県内各層からの御芳志を、また佐賀県葉隠研究会の御厚情により葉隠研究家、栗原荒野先生書の葉隠四誓願を慰霊碑に刻ませて頂いた。
 この地を葉隠墓苑と称し、殉難された五十四名の佐賀藩士への鎮魂歌を捧げて秋田と佐賀との縁(えにし)を尊び、生かされんことを望む。
   佐賀藩士慰霊のうた   詞 大友康二    曲 菅原良吉
一  過ぎし戊辰の たたかいに
   旅の遠さよ きびしさよ
   葉隠武士の 名にたえし
   みたまよねむれ やすらかに
二 松風荒き 北国の
   久保田に散りし 白露よ             
   肥前の想い 果てしなく             
   みたまよ ねむれやすらかに 
三 今故郷に 人ありて
   尊き勲し  讃えんと
   集う祈りの 美しく
   みたまよ ねむれとこしえに
         
 昭和六十三年(一九八八年)十月二十一日
                             戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会

   葉 隠 墓 苑 を訪ねて  平成15年8月3日

 武雄市の木・梅の植樹をされた石井義彦・武雄市長は除幕式以来、2度葉隠墓苑を訪ねております。すっかり大きくなりました。
 大坪勇郎・武雄市議会議長の梅も大分大きくなりました。15年たってちょっと枯れそうです。代植する計画です。
 原田彰・佐賀を元氣にする仲間の会会長が秋田市の木・欅を、佐賀県庁の大草安幸氏が建立十周年の際に、佐賀県の木・楠の木を植樹され、二本ともしっかり北の地に根付き戦没佐賀藩士を護っています。 
 


 葉隠墓苑の案内板は13年経って朽ちてしまい、先祖が佐賀県出身のツバサ広業且ミ長の桝谷健夫氏から新たに作って頂きました。



 平成10年10月18日の建立10周年記念祭に、佐賀・鍋島家の家紋にある杏の木を井本勇知事代理で古庄健介武雄市長が植樹されました。
 杏の木はかなり大きく成長し、今年4月、知事を引退された井本勇氏が訪ねられるのを待っています。

 葉隠墓苑(平成10年春)10月18日(日)午前10時〜 建立10周年記念慰霊祭。
「葉隠と秋田」佐賀県・大草安幸さんのHPへどうぞ。
http://www2.saganet.ne.jp/ankou/hagakure.html


「戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑建立10周年記念祭」 秋田ニュース(高杉静子さん)へhttp://www4.ocn.ne.jp/~shizukot/bosin.html