ふるさと呑風便 ’98・2・20  NO、107

   民 官  

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 清水宏保選手が長野オリンピック五百bスピードスケートで金メダル。百六十一a、父親を亡くしている。テレビに映し出されている清水選手の笑顔が美しく、感動の涙を誘う。同じニュース帯に、大蔵省キャリアで道路公団に天下りした井坂某の顔が写しだ出される。何と醜いことよ。怒りを誘う。
  自民党参議院議員の秘書時代のことだからもう三十年も前。参議院議員会館の部屋は七階にあって、窓の向こうが自民党本部である。その写真を撮ってアルバムに貼った。下にこう書いた。
「汚権者の巣」
このアルバムを今の女房(昔も同じですが)の親父さんに見られてしまった。ガチガチの自民党だった父上からこんな事を書いていいのか、と心配顔でにらまれた。

この自民党本部の農林部会に議員代理で覗いたことがあった。大蔵省の幹部を呼んでの、農林予算関連の説明会だった。その幹部はメガネで長身、いかにも東大エリート官僚といった感じ。数字がポンポンでてくる。こっちは日頃使っている数字とは桁違いで面食らっている。終わってから、部屋の出口で、奧野誠亮代議士がその大蔵省エリートに声をかけた。そしたら、元自治省事務次官の奧野先生はぴしゃりとやられた。
「先生、それはお門違いです」
へええ、大蔵省の役人とは偉く強いんだなあと痛感した。
それにしても、大蔵省は自民党本部以上に「汚権者の巣」だった。

大館税務署長がいわゆる馬鹿殿修業とやらで、三十歳前の大蔵エリートだった。こっちは当時県税事務所の納税係主事。土足禁止の酒販会館で税務署の古参職員と入り口にいたら、その馬鹿殿がやってきて、ボクはいいだろうと靴をはいたまま、二階へ上がっていった。後にその大蔵エリートを見たのは、鷹巣町のある公民館での懇親会。当時、出川禮一町長の横の上座。ガキみたいな挨拶して、町長からちやほやされて、ご満悦の表情だった。そんなんで、地元の町長やら名士とおつきあいをして、若い大蔵エリートは賢い馬鹿になっていく。元酒田税務署長やって代議士になった新井某もそんな馬鹿殿修業して、大蔵OBの顔で証券会社から儲けさしてもらうようになった。

もう、官民一体とかいうのはやめよう。官は民が汗水ながして働いて納めた税金で賄われている。官は民の下にあるのだ。民が上で官は下。民官というべし。マスコミもこれから民を先にすべし。会議の席順も民が上座、官は下座であるべき。民は自信を持て。
昔の国鉄時代。当時の古林肇道毎日新聞支局長から聞いた話。国鉄の若いエリートがある会合で、自分の席順が不満で席をたった。それを見た古林さん、「あの若僧、何様だ」と国鉄本社の知り合いの幹部に電話。その若いエリートは後に左遷させられたとのこと。
地方分権とは国と地方は対等だということである。その対等意識がうまれない限り、分権なんて何時のことか。県は市町村の上にあるのではない。国は県に仕事をしてもらうのが仕事、県は市町村に仕事をお願いするが仕事である。
官官接待は、国が県を、県が市町村を、市町村は民間を接待しなければいけない。役所は接待費を予算化して、国は県を川反で接待する。県の役人は市町村の担当者を地元で接待すればいい。
一昨年秋、元秋田空港跡で日産ドライビングチームに来ていただき、若者向けの安全運転講習会を開いた。実に手際よく感心した。
終わってから、外で民缶接待させて頂いた。缶ビールで。


  ふるさと塾地域づくり実践セミナー
★平成9年9月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「ザ・ブーン.第3セクター論」
★岩田 亮 氏(ザブーン総支配人)

 私、出身は名古屋です。大学で北海道へ行って、そのままリクリートに入りまして、最初の配属が北海道支社だったんですね。その後、東京本社に異動になりまして、二年半いて、平成3年に安比高原スキー場のリゾート開発をやってまして、元々昭和五二年に盛岡のホテルを買収した時から始まってるんですが、平成三年にその別会社に入りました。
 ホテルの仕事は全く素人でして、サービス業は全く初めてでした。現金をお客さんと対面してやり取りすることがなかったんです。
 東京に二年半いて、住環境が悪くて、地方都市で仕事をしたほうがいいと思いました。希望通りになりまして、盛岡グランドホテルと安比ホテルに四年弱おりました。
  リクルートにいたときはスタッフ畑、人事とか教育とか労務管理、企画室が長くて、盛岡にいって一転してホテルの現場で仕事をしながら、人事、採用の仕事もやっていました。
最初、私はフロントでした。夜勤があります。午後一時に出勤してきて、午前十一時に仕事が終わります。うちのホテルは二交代です。夜勤をして明けるとそのまま採用とかの仕事をして、夜飲みに行って、フロントをやって、明けたらまた別のスタッフの仕事、ほんと四六時中、やってましたねえ。
スタッフの仕事だけ選択できたんですが、せっかくホテルにきて現場の仕事を覚えないのはもったいないと思ったんです。ホテルのフロントというのはホテルの顔だし、サービス業の原点があるんですね。ありとあらゆる苦情があって、フロントやると人間の幅ができますね。
今まで、ある程度の人としか付き合ってないじゃないですか。そんな非常識な人と付き合ってはいないし。会社に入ってもスタッフ畑の人しか付き合っていません。フロントやっていると、住専と同じですよ、ホテルは基本的に後払いです。最初から払うつもりのないお客がいます。三〇万も払わないで夜中にいなくなってしまう人、信じられないんです。
安比ホテルには四〇〇室あります。日曜日の朝、チェックアウトが集中します。で並ぶ訳ですが、私は小さい頃から順番を守って並びなさいと教わった。ほとんど女性客です、並ばないで横から入ってくるのは、すみません、お並び下さいというとおこっちゃう。
会社などのパーティで冬になるとコートを預けます。千着ぐらい預かります。パーティが終わって皆さん、並ぶわけです。概して男の人は並ぶんです。並ばないのはおばちゃん。(笑い)女性への偏見かもしれませんが、お花とかお茶のパーティが一番困るんですよ。並ばないんですよ。並ぶように塀を作っても、それを自分で動かしちゃったりして。(爆笑)
ホテルでやくざがピストル自殺したり、これはマスコミには伏せました。そんな事がわかったら、お化けがでるなんて言われてお客がこなくなります。(笑い)その後、安比にいきまして、スキーは出来ませんが、スキーショップの担当でした。そこで普通じゃ経験できないこともしました
例えば、総理大臣になる前の○○さんが愛人と来てたとか、元チェッカーズの××が岩手の女と来てたとか。(笑い)これオフレコ。
安比が静かになりますと盛岡のホテルに戻りまして、そこでやったのが宴会サービス。高校出二,三年目の人に教えて貰いながら、お皿やフォークの並べ方とか、色んなノーハウがあるんですね。
結婚式というのは一番儲かる商売です。一日、一会場で二回できるのは優秀なんです。うちは三回転やるんです。そうすると披露宴と披露宴の間が三十分しかないんです。でも披露宴は時間どおりにはおわりません。正味十五分です。はい終わりました。その後戦争です。次の披露宴の会場づくりにノウハウがあるんです。それは現場の子達が考えたんです。バックヤードに、丸テーブルにクロスをかけて、その上に全部セットしておいて、足を折りたたんで裏に積んで置くんです。それを持っていくだけでいいんです。考えているなあと思いました。
ですから、結婚式に出ても、この人はサービス業に携わっているか分かります。
私、皇太子殿下が結婚して、最初の旅行で盛岡に来られて、サービス担当でして、皇太子と雅子さんを案内して、知事との昼食会のサービスをしまして、お話をしました。私、昔から浩宮様に似てると言われているんです。その話をしようと思いましたが、(笑い)雅子さんも皇族になったばかりで緊張されてました。
我々はVIPの方をお迎えするというのはステイタスです。

盛岡に来て四年目に、秋田市の太平山リゾート開発、バブルの時代の開発で頓挫してしまって、その見直しのコンサルタントをしたのが、安比高原を開発したのがリクルートの江副前会長とリクルートを興した小倉さんという親爺なんです。その中で第三セクターの経営者を民間から招聘したいと、小倉さんが盛岡のホテル社長に話があって、藤里のユトリアの支配人も僕と一緒にやっていまして、リクルートから第三セクターに出向者は多いんです。それで、何故か社長から僕が呼び出されて、詳しいことは言わないんですよ。ザブーンのパンフレットを見せられて、「うちの会社から経営者をきてほしいといわれてる、お前いったらどうだ」と。私は盛岡に来たのも、田舎であればあるほどいいと思っていました。もう、二つ返事で、明日からでも行きますよ。
盛岡では中間管理職でしたから、そろそろ新しい仕事をしたいと思っていました。二三日したら、秋田市から新聞の分厚いコピーが送られてきました。第三セクター・ザブーンの経営者全員更迭とか、滅茶苦茶なことを書いてるんです。こういうとこだったのか、どうも話がうますぎるなと思ったんです、私も。
大変だなあと思っていたんですが、でも、最低のとこへいけばこれ以上下がることはないし、ちょっとの努力ですぐ上向きになるんじゃないかと。今、絶好調の所へいって一生懸命やっても下火になるようだったら、どん底のところへいって、自分なりに一生懸命やれば、ちょっとでも上向きになって誉められるだったいいポストだと、そんな新聞記事を読みながら思いました。
平成七年の二月に秋田市に単身で来ました。カミサンと結婚した時は東京でしたが、盛岡に二人で一緒に来たときに、ホテルの方で総支配人の秘書ということで働いていました。秋田に来ることになって、カミサンはホテルを辞めて四月に来まして、以来、秋田で今、二人で暮らしています。

そこで、第三セクターですが、私はリクルートグループ以外で仕事をするのが始めてなんです。皆さん感じておられるでしょうが、リクルートは民間の中でも最も特殊というか、格好よくいえば、斬新、若々しくてほとんど仕事を任されて、固定観念にとらわれずに仕事ができる。それを返していえば非常にいい加減で、常識はずれのところがあって、人から後ろ指を指されるところがある会社なんですけれど。そういうリクルート的風土の組織以外のところでは初めて仕事をする。そういうことで、ビックリすることが確かにいっぱいありましたね。(続く)


我が青春風来記(94)
       早海三太郎
  新宿区霞岳町(37)

 三太郎にはキューバへ行く前に是非会って、話を聞かねばならない人がもう一人いた。
 東京の夏は蒸し暑い。東横線の車内は扇風機が回っているだけ。 学芸大学前駅で降り、坂を上る。柿木坂。途中、大きな木造家があって、そこは慶応の学生達の下宿屋だった。知り合いの慶応の学生、枦がいた。彼は慶応のラテンアメリカ研究会のメンバーで慶応との交流会で何度か飲んだことがあった。鹿児島出身の彼は、吉本先輩はもうすぐ戻ってきますからといって。二階に上がって自分の部屋に案内してくれた。が、その四畳半にはとても入れない。布団を敷くスペース以外は古新聞だらけ。
 そういえば、グンゼの御曹司の慶応ボーイの石田のアパートの部屋も汚かった。本棚の上に黄色い液体の入った牛乳瓶があった。その液体を時々、下の落とすため、庭木が枯れていた。彼も高田馬場のアパートを追い出され、学芸大学前駅にいた。その後、グンゼの社長になった話は聞かない。
 枦の部屋の隣が吉本さんの部屋だった。鍵はかかってなく、広い部屋で小綺麗。そこへ吉本槇夫さんが帰ってきた。吉本さんは福井県の出身、慶応を出て小松製作所に就職していた。ラテンアメリカ研修会の会長で、一昨年に革命後のキューバを訪ねている。慶応には珍しい親分肌で、後輩の面倒見もいい。
  「ようきた、」と吉本さんはキューバでの話をたっぷり聞かせてくれた。福井の新聞にキューバの紀行文を書いたので君も、書いた方がいいといってくれた。
「キューバに招待されていた、イタリアの学生はプレイボーイで、彼奴は世界の中心は自分の国だと思っていたな。北ベトナムの軍服を来た少女も招待されていて、アメリカの飛行機を撃墜したとのことで英雄扱いだったよ」
 面白かったのは、慶応の大先輩、松永安左右衛門の西伊豆の別荘を訪ね、中南米の踏査隊の寄付をもらいに行ったら、巻紙に慶応出身の財界人の名前を書いてくれたとのこと。「大阪の鐘紡へ松永さんの巻紙を持っていったら、最初は秘書に断られたが、武藤社長が巻紙を見て松永先生のであればと、三十万円くれたよ」
 お世話になった吉本さんは今、中米のパナマにいる。この話は最近読んだ「民は官より尊し」に載っていた。
呑風日誌抄1月分
 一月一日(木)大内町新田の一礼祭へ。農業改善センター。挨拶させられ、「県民の笑顔つくりが自分の商売で、ふるさとのご用聞きをします」ふるさと酒に酔っぱらって、車の中の杉の枝払い機を取り出し、敬悦と作治と一緒に近くの杉の枝払いの杉ゲリラ。途中、詔男(のりお)君の家の前で捕まり、詔男兄弟とカラオケ、自然薯を頂き、旨酒だった。
 五日(月)秋田駅前・久保田会館。箱根駅伝の会。秋田県出身の箱根駅伝出場者が集まり四年前から開いている。私はこの会の提案者として、日本体育大学で四度箱根に出場した嘉藤晋作先生のご配意で参加。皆、箱根駅伝出場に誇りと自信を持つ。来年は、箱根駅伝を見に行く会で、応援に行こうと話す。メキシコオリンピック銀メダルの君原健二さんは大分県湯布院の箱根駅伝合宿で東海林太郎の歌を愛唱していたとのこと。
 九日(金)NHKエデケーショナルの奥津憲仁氏と山王・大江戸ラーメン。お米の料理番組を三月に聖霊高校で制作する準備で来秋。 彌高会館。県庁大内会。敬愛する阿部正紀高校教育課長は中学は野球部、高校はブラバンの先輩。二次会は幹事達と秋田駅前多良。
 十五日(木)年賀状を整理できないまま、お年玉記念切手が当たったが五十枚。確率2%。
 十七日(土)マタギの村阿仁町根子の町会議員・山田博康さんの熊鍋塾。熊肉が柔らかく美味。山王・しの八。佐々木正光ちゃんが又、面白い製品開発。秋田大学の松岡昌則教授はグローバルに考え、ローカルに行動しよう。阿仁町の悲恋伝説の滝、安の滝を名刺の佐藤司法書士、魁新報の村上記者、県議候補者等多士済々。
 十八日(日)雄和町・坂本塾。講師は雄勝町の押切宗助雄勝セラミック会長の「めだかの学校」一日一億円の売上げ。自分達の町は自分達で考えようと九州・四国以外、全国の道の駅三百六十カ所を奥さんと訪ねる。第三セクターは必ず失敗する、その町長の姿勢が分かるという。岐阜県知事は道の駅をふるさと創りの一貫として捉えている。秋田県の道の駅NO1は西目の道の駅とのこと、年間五十万人が利用している。
 AAIジャパンの五味隆志社長、小さな研究開発用ロボットを制作し、小坂駅舎に会社を置き、生物原理に基づいた産業が伸びると、カナダの会社と秋田を行き来し、農業分野、福祉分野での知能ロボットを開発されている。何故、成田空港の近くでなく、小坂町ですかと聞いたら、小坂町の川口博町長と意気投合したとのこと。
 良い人は良き人を呼べる。
 十九日(月)昼、海洋少年団の指導者で空手道場主宰の佐東正章さん。海の祭典で秋田港でカッター競技大会をやるとのことで相談。ウラジオストクから少年二人を招待することに。厳寒、大雪に「舞酔」へ。彌高神社の北嶋昭宮司、司法書士の綾小路洋子先生と。ペルー協会の事。
  二十日(火)昼。大江戸ラーメンを三浦書店の三浦義明氏と。生ゴミ高速処理機械バイオメイトの事業展開。
  二一日(水)川反・鳥八。石川公正先輩と赤カブで一杯。河北新報の木村記者、谷田部氏と。秋田ボランティア協会の菅原雄一郎会長とレディへ、丸ちゃんへ。マスターの丸の内さんとは昔、ちょっと一緒にラグビーをやった。鷹巣町福祉施設吉野学園でボランティアをした丸の内氏はそこで「人間の基本に帰れた」と。
二三日(金)ふるさと塾。講師は中国・長春市経済交流委員会の王志文氏。演題「環日本海時代の経済交流」有能な人材である。趣味がカラオケとの事で、終わってから下のレディでウラジオストクからのビクトル先生と中露対抗カラオケ大会を開催。渡部薫と鳥八で彼の義弟、佐藤寛氏を偲ぶ酒。
二四日(土)朝から、本荘市のインターネットボランティアの石井護さんが来てくれて、ホームページ作りの指導。基礎知識がないため、難しい。バウハウスの森川社長から「たら鍋」をやるから来ないかと電話。ホームページづくりは中止し、三時頃、森川宅へ。ユウキャンの渡辺哲夫ラガーマン達。ルポライターの小西一三さんが金浦町から鱈を仕入れてきた。鱈鍋や刺身をたっぷりで、男鹿工業ラグビー部の内藤監督もやってきてラグビー話。夜、九時頃まで飲ってしまい、ボランティア協会の送別会に行けないでしまった。
二七日(火)ウラジオ会。パークホテル。秋田市役所に交流員としてやってきたチュイコフ・デニス、ビクトル先生、秋田県国際交流員のイーゴリの歓迎会。秋田ハラショー会と合同で開催。二三歳のやる気マン・デニスを引っ張り、二次会は館へ。彼が昨夜飲んだ酒、銚子で十本。
二八日(水)協働社大町ビル。日中友好協会主催の春節。中国留学生とその家族が六〇人程集まる。事務局長時代に始めた。留学生のお父さん役、佐藤孝之助さんが話す、十年前の留学生達と比べ服装が良くなり、皆明るくなった。山王・八条で本荘高校同期で秋田放送報道部の越後谷寛、毎日新聞の渡部慶一次長と。越後谷と川反・ピアノサロンkへ。