「ふるさと呑風便3月号」平成10年3月20日(第108号)


   面映ゆい  

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 尊敬する(これほんとですからこう書きます。尊敬とはその人の思想と生活を学んだうえです)書道家佐々木青洋先生の「心線」3月号にある雑感片々は面白い。今回の随想「読んでいてくれる人もいた」を読ませてもらったが、面映ゆいというか、おこがましくって恥ずかしい。
 それは呑風便1月号の巻頭言「賀笑」を青洋先生が読まれて書かれたものだった。
「この佐々木三知夫さん、私のことを書くときはきまって頭に『尊敬する』とつけるから、いつも面映ゆい気持ちになるのだが、この文中『自分しか書けない字を書く』とある。『これこそ”書の神髄”なのだ。三知夫さんは謙遜してこう書いたのだろうが、私にとっては極めてショッキングなことばで、『三知夫さん。分かっているじゃないか』と肩をたたいてやりたいような気分であった」
 肩をたたかれるんは嬉しいですが、”書の神髄”などわかっているはずなんですよ先生。
いつもこの原稿はせっぱ詰まってから書く。生来のおっちょこちょいとものぐさすから、深く考えないで、乏しい語彙の中からつい書いてしまう。
「自分しか書けないような字を書くしかない」は「楷書や隷書を初歩から勉強しなおす時間はとれないし、上手にもなれそうもないから、自分らしい字が書けるようになったらいいなあ」の意味があります。ピアノのバイエルを一四番までやったことがあるが、もう一度やる意欲はない。ピアノをやるとしたら、自分の好きな曲を選んで、何度も何度も練習すれば自分なりの曲が弾けるようになるのかと思う、といった感じなんです。
 小学生の頃、親爺からいわれて書道塾に通ったことがある。冬の日曜日の午後からだったので、スキーで遊ぶのに忙しかったから三日坊主だった。今でも書いた覚えのある字は「祥雲」だった。師匠は今年九三歳になる小松天嶺先生。塾にまじめに通っていれば、いっぱしの書を書けるようになっていたかもしれない。

 昭和四六年一月。秋田に帰ってきて最初の勤務先が大館市。仕事は税金を納めてくれない人が相手だったので、仲良くはなれない。そこで三年の間、剣道、書道、尺八を習い初段以上を取ろうと決心。何とか剣道は二段、尺八は琴古流の初伝までいった。書道は、初段を取ったとはとてもいえないなあ。 剣道は東京で南条流の剣道の稽古していたが、大館の師匠泉通四郎先生は自分の型にはめず、のびのびとした教え方だった。
尺八の師匠藤盛健吉先生も、他流派都山流を批判したりしないし、いいものはいいとした自由な考えだった。

 高校時代、国語の試験用紙の四角い解答欄が小さすぎて、こんな中に書けないと全部白紙で出したことがあった。四角四面の習字紙の中に字を埋めるのも苦手だった。
人間という商売を長くやっていると、少しは「美しいもの」とそうでないものの識別が出来てきたように思う。特に「書」にはうーんと唸るような美しい書体に出くわすと嬉しくなる。
 面映ゆいのですが、インターネットのホームページ「ふるさと呑風便」を開設しました。地域おこし人の全国ネットワークがねらい。ホームページの表紙には青洋先生の書を掲載させて頂きました。本荘のインターネットボランティアの石井護さんがスキャナーで綺麗に取り込んでくれたものです。早速、見ず知らずの方から山頭火の書がいいとの発信を受けました。

 美しく、勇気づけられる書体を、インターネットの「ふるさと呑風便」でご覧ください。


ふるさと塾地域づくり実践セミナー

★平成9年9月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「ザ・ブーン.第3セクター論」(2)
★岩田 亮 氏(ザブーン総支配人)

 ザブーンの実状これが第三セクター独特のものなのかは、その後第三セクターの方々と情報交換していくうちに、ビックリした事柄の五〇%ぐらいはやはり、第三セクターだから独特にある。
第三セクターに入って一、二年経つうちに第三セクター独特の課題、問題点を自分なりに認識できるようになってきました。
 今、全国で第三セクターで箱物を作って経営して、第二の住専になるんじゃないかという大変な状況にあって、うまくいってるのはないんじゃないか。秋田でもふるさと村とかポートタワーのセリオン、県木住をどうするとか、太平山観光開発も同様ですが、公的資金を導入しないかぎり、大金持ちが寄付してくれない限りうまくいきません。全国の第三セクターはどこでも経営が厳しくなっていて、たまたまリクルートでは地域活性化事業というのがあって、町おこしとかむらおこしとか、地方公共団体を商売相手にしてやってます。
 そこのマネージャーやってるのが、僕のリクルート時代の人事をやっていた同期でして、彼らも第三セクターのコンサルタントを頼まれるんですね。彼は机上の理論ではアドバイスできると、彼は実はサービスの仕事とか、運営とかホテル、レジャー施設の仕事を一回もやったことがないんで、本当の意味でアドバイスはできない、と彼もいってました。彼もいまさら現場に出向して、一五も年下からこき使われるのは二の足を踏むと。僕もあの時、二の足を踏まないでよかったと思います。最初はいやだったけど、やってみると面白かったですね。自分でやったことがあるか、ないかということは仕事として全然違います。
 第三セクターの特徴といっても、太平山観光開発を通じて、他の第三セクターの関係者の話を統合すると、マイナスの特徴が考えられます。こういうところを何とかしなければという点がクローズアップされてきます。

  一つは、内部の組織的な問題なんですが、今、私が来て二年半でそれは排斥してうちにはありません。第三セクターのこれから二〇年、三〇年どうするかということよりは、例えばゼネコンから来た役員は自分の会社の儲かることを考える。役所から来た人はどうせ二年もたったら戻るから、その間、事なきをえればいいという発想じゃないでしょうか。
 そうすると何が起こるかというと、上層部と現場とものすごくかけ離れてしまうんです。我々のビジネスというのは、何度もいうように現場がすべてです。現場が一番正しいんです。現場の状況を知らずに、お前ら明日から結婚式三回転やるぞといったって絶対できない。現場の仕事をやったことがある人がいうから、説得力があるし、可能なんです。ところが寄せ集めの上層部で運営に関しては素人なんです。こういう人たちが現場と隔離して勝手なことを決めて勝手なことをやれという訳です。そうすると、我々のビジネスの一番大切な現場が出来るわけがない。一番忙しい時にお前ら新聞読んでいるくせに、こんな大変なこと出来るわけないじゃないかと現場は思うんです。こうなると我々の商売は絶対うまくいかない。上層部とどんどん乖離していきます。
 お客さんに接している現場からの声というのは、イコールお客さんの声です。それを聞いてやらないとサービスそのものもお客さんから離れていってしまう。
 現場にいる人たちも経営者から離れていってしまいます。現場中心ということが一番大事なことです。じゃあ、どうすればいいか。

 僕は、温泉に来てのサービスをやったことはないですが、質の違うサービス、フロントもやったし、お店、皿洗いもやったし、芝刈りも、駐車場整理もやったし、それなりに色んな経験ができたんで、それなりの経験があるということで向こうも多少構えています。
 それでも、僕の経験がストレートに生きるということはありません。何が大切かというと、現場で一生懸命頑張っている子にどの方法がいいか聞いて、そしてやる。うまくいかなかったら、どうしたらいいか話し合って決める。だから真っ先にサービス部門で頑張っているのを捕まえなければいけない。言葉悪いですが、これを子飼いにしなければいけない。そうすると元々やる気のあった人間ですから、能力さえ認めて仕事を任せればどんどんやるんですね。そうなってくればもう、全然まかせっきりです。現場ではこれは大変だなということでも経営サイドとして、お願いしなければいけないことがいっぱいでてくるんです。実際は無茶なことを。
 そんな時に支配人の言うとおりにとしておかないとダメなんですね。正直いって僕が結論をもっていても、全部会議で決める。これこれ新しいことをやろうと思っている。こういう業者さんがこういう商品をいってきている。これを全部現場の会議で決めます。
 そうやって任せていけば、彼らも直接業者と交渉して、いい物をいれる。

 もう一つ、民間の会社で理屈の上では、誰が考えたってやったほうがいいこと。例えば売り上げを上げるために社員全員でノルマを持ちましょうと。これはリクルートではよくやりました。毎日、お前ノルマを達成したかチェックされてました。盛岡では結婚式何組紹介したかとか、紹介しないとボーナスからばーっと引かれます。
 こっちにきて、堂々と抵抗するのにはビックリしました。誰だって嫌なのはわかりますよ。それを公の議論の場で反対するんです。
 これはそういう雰囲気にしちゃったんですね。上層部は上層部で勝手なことやってる。現場は上層部は理解してくれない、適当にやったほうがいいやと。
 そのノルマ制には最初すごい抵抗がありました。例えば、民謡ショーをやる。チケット一人一枚、供与天引きすることにしました。

 第三セクターといって黙っていてはお客さんはやってこないんです。従業員全員がお客さんを引っ張ってくるようにならないといけない。近くに競合施設ができたとかがあっても、私はザブーンの何々さんがいるから来るんだというお客さんを持っていることが大事なんです。そういうネットワークをたかだか、三千円の民謡ショーのチケットをきっかけに作ってほしい。最初はものすごく抵抗がありましたが今は当たり前になっています。
 第三セクターということで、外からのプレッシャーもあるんです。今でも市民の大部分の人はザブーンの職員は市役所の職員だと思っていますね。一般市民からは税金でやってる施設だと。事実、税金から補填を受けてますし、建物の補修もあり、半分合って半分ないところがあります。そういう市民の目はものすごく厳しい。新しいことをやると必ず文句がきます。でも、純民間であればそれを無視してもやれる。第三セクターとなるとそうはいかない。
 一市民の声は検討、対応ぜざるをえないんです。お客さんの声というのは我々の勉強になるポイントになるんです。苦情を無視するということではないんです。
 ただ、我々が良かれと思っていることに苦情があってもこれには、敏感に対応し、あまり過敏に反応してはなりません。それでも我々のポリシーを変えてはいけませんね。今まで、運営に関して、市長や市役所から口出しされたことはありません。これは助かりますね。


我青春風来記(96)
      早海三太郎

 新宿区霞岳町(37)

 松永安左衛門は西伊豆・堂ヶ島の別荘「一日庵」で、毎年夏は太陽と潮風を浴びて過ごした。(昭和三〇年代後半のこと)ここに五,六名の慶応の学生がやってきた。彼らはラテンアメリカ研究会の学生で、彼らがその地へ行くための寄付を、慶應義塾卒業の政財界の間を回って募って歩いたのだ。そしてわざわざ辺鄙な堂ヶ島までやってきたわけである。学生達の申し出を「フン、フン」と聞いていた松永は、「ところでほかに誰のところを訪ねたのか」と質問をした。数人の名前が挙げられたあとに、藤山愛一郎の名が出た。当時の藤山といえば、有力な次期首相候補だった。「それで藤山はどうだった」「秘書に会って、断られました」「なに!藤山本人とは会わなかったのか」「ええ、会ってもらえませんでした」この瞬間に、突如として「バカヤロウ!」という大声。学生たちは畳から飛び上がって驚いた。「首相候補になったからといって、後輩の面倒もみれないのか!藤山も藤山ならば秘書も秘書だ。それにおとなしく引き下がってくるおまえたちもだらしない」と松永は語気鋭く怒り始めた。そして松永は、藤山宛にスラスラと和紙に一筆したためた。
「ここにわしから藤山に依頼する一文を記しておいた。これを持って、もう一度行って来い。ちゃんと藤山からもらえたら、もう一度、ここに出直して来い。そしたら君たちの要求する三倍の寄付をしてやろう。さあ、早く行かないと、今日の最終バスに乗り遅れるぞ」
 それから二、三日後、学生達は笑顔で「お陰様で藤山さんからもらえました」とやってきた。「おう、そうか」松永もニコニコ顔で約束した要求の三倍の寄付をしてやった。
 三太郎の中南米研究会の先輩達も慶応には負けていない。同じ頃南米を調査旅行した中村正幸先輩も語ってくれた。「当時の岸首相から五万円寄付貰ったよ、栄作にも電話しておくと言われ、弟からも同じ5万円もらったなあ」
 凄い先輩達の影響があって、三太郎も多くの政界、財界人と会った。キューバへ行くということで、寄付は現金でなく、日立製作所からトランジスターラジオだけ。しかし、尊敬する松村謙三先生に会えて、帰ってたら遊びにこいと言われたのは希望だった。(続く)


呑風日誌抄2月

 2月1日(日)秋田市新屋・秋田晴酒造へ。第5回酒屋唄を飲む会。蔵の中は3度。今日の作業は米とぎ。♪ハアー宵にもとするヤーエ 夜中にふかすノヤーエ 朝の寒さにヤーエ アリャ酒造る。
 2日(月)午後、佐野元彦君達が、南極観測船しらせ秋田誘致の件で、寺田典城知事と会談。寺田知事、十一月十四日に東京・晴海から出航する「しらせ」を見送ると約束。むつみ造園。ロマン佐々木吉和社長、桂造園土木の加藤薫専務、グリーンコーディネーターの小野田セツ子さん達と新寿司。
植える花夢、花の祭典の相談。千葉の心友・花と緑の農芸財団土井修司氏へ電話し、協力依頼。
 3日(火)5日まで秋田県自治研修所にて、英会話の研修。野呂克彦先生と食堂で一献後、若い県職員達とわいわい深酒。
 6日(金)秋田駅へ毎日新聞編集委員・三木賢治氏を出迎え。ばったり会った大内町教育長の大平謙一郎先生と車で大内町へ。三木ちゃんは、バレーボール実業団ダイエーの元キャプテン・堀美和子さんの取材。森林組合で働く彼女はいう。「木の仕事とバレーと通じるものは、やる気と根性です」
夕方、秋田市大町・いずみにて三木氏、毎日新聞の渡部、清水記者と多献。
 7日(土)ビクトル先生のロシア語教室開催。秋田市大町のほっぺちゃん事務所にて。20人集まる。夕方、三浦書店の三浦義明さんと山王・スペイン料理グランビアへ。中南米へ一年間旅行する三浦朋子さんへ友人紹介。パナマの吉本槇夫先輩へおみやげを託す。 十日(火)仕事場で育てている鉢植えの朝顔が咲く一輪。白い小さなしぼり朝顔。鳥海町の元気印佐藤定樹さんと大江戸ラーメン。フォレスタ鳥海で開催する広域ヤングゼネレーション研修会の相談。
 十四日(土)朝から本荘市のインターネットの達人石井護氏が来てくれて、「ふるさと呑風便」のホームページづくり。彼のお陰でホームページがバレンタインデイの日に開設。表紙に佐藤雄治郎先生の版画、新春鳥海。佐々木青洋先生の書「ふりかへらない 道を急ぐ 山頭火の句」。呑風便が世界に発信される。
午後、ロシア語会話教室。秋田市大町、ほっぺちゃん事務所。
ビクトル先生、熱心。「百万本のバラ」の練習。これはマスターしたいもの。
 十六日(月)秋田市三和町・靉ケーシーランキンのミニライブ。昼は栗田養護学校でライブやり子供達大喜び。去年もやって今年も生徒達が待ってたケーシーのライブ、秋田養護学校では校長から何故か断られたという。
 十七日(火)朝、ケーシーから電話。彼が見舞いに行く予定だった雄物川町の佐々木太郎左衛門さんの長女亜紀子さんが亡くなったという。何と痛ましい。友人や東京の内藤武宣先輩達へ報せる。
昼、県庁でウラジオストクのビクトル先生と三浦書店の三浦義明社長と大江戸ラーメン。
 夕方、ビューホテル。高松和夫氏を囲む新春の集い。盛況。駅前民謡会館近くの「道心」へ。彌高神社の北嶋昭宮司と。夫婦仲良くやってる店で好感。民謡会館の義声庵へ何年かぶり。
 十八日(水)昼、東北電力秋田支店の関場博広報課長と秋田域外キャンペーンについて。ヒューマンネットワークのいい発想。
 52歳になってしまった。吉永小百合さんの年齢に追いついた訳です。我家でビール。
 二十日(金)雄物川町の佐々木太郎左衛門氏宅。亜紀子さんの葬。近くのお墓へ雪の中。太郎さんの命令で泊まっていくことに。
 御詠歌一番 紀伊の国那智山 ふだやくや 岸打つ波は三熊野の
 那智のお山にひびく滝つせ
 二番 古里をはるばるここに
 紀三井寺 花のみやこも  近くなるらん
 亜紀子さんが好きだったという小沢ケンジのCDを聞く。二時まで太郎さんと飲む。
 二一日(土)夕方、協働社大町ビル。秋田文化座友の会新春の集い。佐々木愛さん。山谷初男さんの唄。ケーシーもアンコール。
 二二日(日)雄和町のミネソタ州立大学のジョンモック先生と大内町から東由利町へ。野球場にて第7回秋田県選抜雪上野球大会。雪は十分。天候晴れ。今年はミネソタ州立大学秋田校の学生チームも参加。開会挨拶。秋田県を面白くする会で二試合に出て、ファストとキャッチャーやって負けて。 モック先生と雄和町に戻り、農業改善センターで坂本塾、町づくり研究所の成果発表会。
 二四日(火)二六日まで自治研修所にて英会話研修。実践的な研修。休み時間は志ん生師匠のビデオで笑う。
 二七日(金)ふるさと塾。講師は東由利をおもしろくする会の小野克弘氏。雪上野球から音楽会、サンタクロースの面白い話。地域づくりは面白くなければいけない。
どんぷう後記
 何とか公約どおり、誕生日までにホームページ「ふるさと呑風便」を開設できました。
アドレスはwww3.justnet.ne.jp/~donpu/welcome.htm です。ご覗覧ください。