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   賀笑  
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 ご健勝お祈りします、と年賀状に添え書き。去年のうちに年賀状の添え書きを全部書けず、正月2日から家に閉じこもって書いていた。残った約千枚が横に積まれている。フーッとため息。気の置けない友人には「おーい○○ 元気か」ですむ。顔が思い出せない人には、ご健勝お祈りします。どうもこの言葉は気に入らない。集中力がなくなって、せいぜい三十分も書いてられない。

ふと、尊敬する書道家佐々木青洋先生の主宰する東日本書藝院の機関誌「心線」を開く。「いやーっ」と声を上げた。美しい書体が目に飛び込んできた。青洋先生の山頭火の句である。

ふりかえへらない 道をいそぐ

 そして、大島俊子さんが書かれたという「賀笑」も見つけた。

これも頂こう。筆箱を持ってきて、墨を摺る。ご健勝はやめて小筆で賀笑とかく。笑は人が笑っているような字体に書く。山頭火の句も青洋先生にはとても及ばず。自分しか書けないような字を書くしかない。これで年賀状の添え書きが楽しくなった。

 青洋先生、ありがとう。

今年の年賀状も色々。県外、秋田市、由利本荘、その他と分類する。戻ってきた賀状が十数枚ある。転居先不明。転居して一年過ぎたら手紙は差出人に郵便局から返戻されることを知ってかしらずか。転居届けはなかった。頂いた年賀状から探し出す。あった。そんな賀状に大概は添え書きはなし。住所を確認してもう一度、賀状を書く。パソコンの住所録を訂正する。

嬉しい添え書きも多く頂いた。「賀状は人格」と以前、河北新報に書いたことがあった。添え書きには相手への呼びかけだ、と。それを見た石沢友隆元河北新報秋田総局長の年賀状の添え書きが、「佐々木さんに添え書きを何と書こうと悩みました」だった。

 秋田大学前学長・新野直吉先生と秋田経済法科大学学長の井上隆明先生からは、毎年激励の添え書きを頂く。嬉し笑い。まさに賀笑。

今年の元旦も十一時からふるさと大内町新田の一礼祭に出席。挨拶させられて、自分の商売は県民の笑顔づくりだ、先の話をする酒を飲んでお役に立ちたい話した。 ふるさと酒にしたたか酔っぱらってしまい、後輩の敬悦と作治を誘い、車から枝打ち鋸を取り出し、道路端の杉の枝を払う。杉ゲリラをしたら、太陽の光が差し入こんでくる。笑顔の運動になった。

佐賀県の大草安幸さんの年賀状にホームページ「ふるさと談話室」の案内があった。町づくりリーダーのネットワークを目指すとある。アクセスしてみて驚いた。謹賀新年・吉野ヶ里遺跡の綺麗な写真が登場。自分もこんなホームページを作りたかった。町づくりの仕掛け人コーナーを覗く。

 と、一番目に何と、小生の名前が載っている。

早速、大草さんに電子メールを送り、秋田ふるさと塾のホームページ「ふるさと呑風便」作りの指導を受けることになった。

今年は何とか呑風便のホームページを作って全国に笑顔づくりの風を発信したいと思う。

愛峰鳥海山の写真入り年賀状も三枚いただいた。実に美しい。ホームページに使わせてもらおう。

年賀状の嬉しい添え書きがまだまだある。大館市の竹村菊昌さんから次のとおり。

「暮れに川反とんかつやで大兄を肴にとんかつを食べずに、酒をたらふく食べてきました。お元気で」

呑風便の編集方針は面白くて役に立つこと。酒の肴にされて、嬉しい笑顔の旨酒、先酒になれたらと思う。これでまた読者から、今年も飲み過ぎるな、奥さん大切にしろとお叱りを受けそうである。 ハイ。賀笑。

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秋田ふるさと塾地域づくり実践セミナー

★平成9年8月22日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「十文字映画祭」
★小川 孝行氏 (十文字映画祭実行委員長)

私は一九五〇年生まれですが、二〇年前に親父を亡くしまして、三年前におふくろも他界しました。名前が孝行ですが、親孝行したい時には親はなしでした。家族は妻一人と高校三年の娘と中二の息子と四人家族です。

私は春から十文字町役場から県の自治研修所に出向していまして、電話で十文字映画祭の事を話せ、一杯飲めるからと言われて、飲むのが好きなもんですから、飲み会の誘いには断らないとの信念がありまして、やって参りました。

十文字町のパンフレットを持ってきました。一番後ろのページにイベント案内がありまして、自分の権限で映画祭の事も載せてあります。これは四回目でしたか、豊川悦史、山口智子が来た時の写真です。

小学校時代の恩師に、自分の意見をはっきりいえる人間になるんだよといわれたことが印象に残っています。でも、自分はぐっと控え目な性格だと思っております。

地元の高校を出て秋田市の会社で営業やってまして、それから東京へ出まして、フリーターみたいなことをやって十文字に帰ってきまして、町役場に何となく就職してしまいました。昨年、勤続二五年の表彰を受けました。今、県の自治研修所で野呂先生の下で悪戦苦闘しているところです。

十文字町は交通の要所をいわれていまして、旧羽州街道と浅舞街道、岩手から本荘への道がクロスしていまして、一六〇〇年代に新田開発で集落が形成されて発展してきた町です。小さい頃、年輩の方から「うちの町は県南の上海といわれたんだよ」とよく聞いたことがありました。去年、仕事で中国の上海に行き、すごく雑多で古いものと新しいものが同居して、国際色が非常に豊かでした。そこで、あ、どっか似てるねと謎がとけたとの思いをしました。うちの町に住んで雄勝、平鹿に勤務する、地の利が良い町で、何かごちゃごちゃしてますが、文化的な活動が結構あるんです。

俳句が盛んだったり、県南では珍しいジャズ喫茶があります。

それから批判的ではありせん。よく秋田は足引っ張りが多いと言われてますが、それも余りありません。飲食店も人口の割に多く、何かやるには十文字に出てみようという土地柄なんです。

映画祭という単なるイベントなんですが、そんな土壌があって十文字町で始まったのだと考えている訳です。応援もしないけれど、かまわないよという土地柄。そんな下地がありました。映画館は三軒あったんですが、横手も湯沢の映画館も廃館になって、最後の一軒だけ残ったのが、十文字の映画館だったんです。その頃、町でも学卒を採用するようになって、都会で生活してきた職員なんか映画を見たい、でも映画館ないし、大曲や秋田まで行かなければいけない。じゃあ、自分達で映画を見る機会をつくったらいいんじゃないかとなりました。自主上映会を始めたんです。自主上映するときはフライトしようと、会の名前を「夜間飛行」としました。メンバーは役所の連中から話がでたもんですから、当時九人の中の八人が役所の人間でした。あと一人が商工会の職員です。当時妻帯者が私一人で、あとは皆若い。五年ぐらいは年に一,二本、高くて一五万円ぐらいのを借りてきて、チケット七百円、協賛金二千円ぐらいのパンフ代でやってきました。五年ぐらいやってメンバーが結婚して活動が停滞してきたんですね。それでもメンバーで仙台行って映画を見てきたりしました。

そのうちにこれでいいんだろうかという声があがってきました。

そろそろフライトしようぜ。

じゃあ次回のために積み立てをしよう。四年間、一人三千円づつ積み立てをしまして、気がついたら百万円になってました。こんなに貯まってどうすんだとなりまして、

今までは一日、映画一本か二本だったんですが、何本かまとめてやろうと。それが第一回の映画祭でした。ちょうどその頃、竹下さんの一億創生資金がありまして、地域おこしに助成するということで、町の企画にスタッフがおりまして、我々のグループも基金に申請してみようとなって、町から百五十万円つきました。合わせて二五〇万。じゃあ、映画だけではつまらないだろうし、ゲストを呼ぼうと。

その時、事務局長をしている藤原が、「俺、知り合いいるよ」「誰だ」「永島敏行だ、下宿で一緒だった」それからずっと永島との付き合いが始まったんです。九月に思い立って、早速いってみるべえと三人で出かけまして、彼の事務所を訪ねました。

「実は十一月頃にこういう企画で三日ぐらいで十本から十二,三本かけて映画祭をやるのでゲストにきてほしい」と話をしたところ、「それは無茶だよ、この業界は売れない役者は別だが、時期を考えてくれ」と軽くあしらわれてしまいました。そうこうしているうちに十月の初めでしたか、永島さんのほうから電話がありまして、「この間の件ねえ、俺の先輩に相談したら、正月は空いているんだよな」彼が新人賞を貰った「遠雷」という作品と監督と、脚本家が行けるようになったからとなっったんです。

その時は、ドライブインシアターといって、十二月三一日、紅白歌合戦が終わってから、朝までやろうと、それをプレイベントにしまして、五日間通しでやりました。全然ノウハウもありませんでしたし、ちょっと無茶でしたが、結局は十文字映画祭も六回目を数えるようになりました。秋田の厳しい冬を知ってもらおうと冬に開催しています。

 当初はコンセプトがなくて、単純に映画をたくさん見たい、映画館でみたいという純粋な気持ちでした。一回目に来ていただいた監督、脚本家とそれ以来続いているんですが、ずっとやっていくんだったら、日本に映画祭はいっぱいあるんだから、先進的なところを視察したほうがいいよといわれました。お恥ずかしいところ、それまで映画祭というのがあることを私自身も知りませんでした。そこで紹介されたのが、湯布院映画祭でした。そこで二回目の前に女の子から行ってもらいました。あそこは今年で二一回目ですが、彼女はそこから色んなノウハウを貰って帰ってきました。旅費は実行委員会から出して、五日間、湯布院映画祭のスタッフとして働き、その後三回ほど派遣するようになりました。そこでは未公開の作品をマーケティングする所でも知られているんですが、色んな制作者が来るんですね。ネットワークの広がりができる大先輩の映画祭なんです。

その後、東京国際映画祭もあるんだよというので、どういう風にやっているんでしょうかと聞きにいきました、一〇日間で、一日一億円かかる映画祭と聞いてびっくりしました。事務局長さんが親切な方で、どういう決算になってますかというので、うちのほうは三百万から四百万ですが、東京映画祭も同じですねといわれました。

額は違うんですが、最近、行政からも企業からも助成金が少なくなって大変なんですよ、でもお互い頑張りましょうと応援を頂きました。その方が次の年の映画祭に見学に来てくれたんです。ネットワークしていかなければと非常に勇気づけられました。全国の映画祭は大小、五,六十あるんですが、昨年東日本、西日本に分けて読売新聞が紹介してくれました。東日本の十五のうち、うちの映画祭も取り上げられまして驚いたこともあります。東京国際映画祭、山形ドキュメンタリー、夕張ファーム、今年幕開けをした盛岡ミステリイ映画祭とかは、行政と企業がタイアップして、映画によって地域おこしをしようというねらいがあります。それ以外は手作りの映画祭です。湯布院映画祭を大分の平松知事がローカルのイベントとして出発したけれども、グローバルな展開が期待できるものの一つだといっています。行政主導でなく、自主自立の手作りの活動体です。

湯布院映画祭を始めた中谷健太郎さんは、湯布院を国際都市にしたいと始めたと私に語ってくれました。人と人との出会いの場所が求められている、大都市ではその場所が提供できないという発想をお持ちの方でした。「イベントをやるということは人に会いにくるんだよ、小川さん」と。

手作りの十文字映画祭は今では近隣八市町村からスタッフが集まってやっています。最近、如何に継続していくかと悩んでいるんですが、一つは方向性の問題です。

毎回のようにやるかやらないかの議論になります。運営体制の問題もあります。思い切って若返らせてやろうと考えています。財政確保ですが、チケットだけでは賄えません。一千万円近くかかっています。みんなにお金は後から付いてくる、企画次第だといってます。

私達はイベントによる地域おこしだということは念頭においてやてきたわけではありません。サークル活動だと。実際は好きな事をやるために楽しんでやるというのが本音です。コンセプトがない映画祭だといわれましたが、やっているうちに、らしきものがつかみかけてきたのかなと思っております。それは映画を通じてアジアをもっと知らなければということです。もう一つは作っても日の目をあびないいい作品を紹介していこうと、おこがましいですが、この二本柱で挑戦を続けていけたらと考えています。

それから、永島さんが農業にこだわっており、冬だけでなく、夏も来たい、子どもに農業体験させたいとのことで、最初、家族で私の田んぼに田植えにきて、秋は刈り取りまで来ました。今年は三十人程で来てくれました。業界人が増えて女優の松原千明さん親子も来てくれました。初日は民泊して、これは映画祭の副産物的なんですが、これも年間、循環していくんじゃないか、長くやっていると何が起こるかわからないものですね。そういう実感をもっています。

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呑風日誌抄(12月分)

 十二月1日(月)昼、秋田パークホテル。秋田ウラジオ会役員会。

ロシア極東大学函館校のヴィクトル先生も出席。今年から秋田に住むことになりそう。環日本海時代への貴重な人材である。

山王・八条。河北新報の木村正祥記者と。三浦書店の三浦義明社長も。新規事業展開の話。くもはれで朝日新聞の神野峯一支局長から地域通信の原稿を頼まれる。電子メールでと。

三日(水)八人会。秋田港セリオン。タワーに上がり美しい雪景を眺める。ここはアベックコーナー。キャプテンクックにて望年会。 長門伸一社長から誘われ川反・秋田杉へ。秋田稲門会の改革話。

五日(金)鹿角市へ。船友伊藤正隆氏に寄り、鹿角パークホテル。鹿角地区事業主交通安全推進協議会へ。タカヤ電工舎の吉田重信先輩のご配慮。安杖鹿角警察署長が八幡平地滑災害のご尽力で表彰された。「交通安全と地域づくり」と題して講演。懇親会で秋田県警の名刑事といわれた村山徳次郎さんと運命的な出会い。毎日新聞の三木賢治編集委員が大変にお世話になった方。二次会は美ふじへ吉田さんと一緒に。美ふじの日本キリタンポ協会加藤照子会長にシロバナタンポポは順調に育っていると報告。チャチャハウスにも。

六日(土)雄和町サイクリングターミナル。雄和夢広場21で講演。「最後は人間、人間性」ー秋田県の地域おこしービデオ「人間マップ」を放映してもらう。面白若者グループ「トトカルチョマッチョマンズ」にふるさと塾事務所を活用してもらうことにする。

七日(日)秋田駅前イトーヨーカドーへ女房と。「アンデスの健康食品と伝統工芸展」同じ内容で五年前開催した。違うのは後に皆瀬村に永住したソクラテスシオタ氏が育てたアンデスのハーブの植物がある。冬物を持ってこなかったペルーの柔道研修生ミランダ君にペルー協会から手袋他を贈呈。

 八日(月)秋田市大町ビル・Jタイムにて三九会。菅谷連合会長、加成義臣県議、渡部慶一毎日新聞秋田支局次長と九七年の忘年。

九日(火)元県連合青年会長で弟分の佐藤久明氏がドイツ製の枝打鋸を持ってきてくれる。これで美林再生杉ゲリラを決行する。キャッスルホテル。民謡の佐々木常雄さんの日民技能章受賞記念ディナーショー。秋田の民謡人勢揃い。一般人代表民謡全国大会サミット会長加賀亮三さんの乾杯の音頭。我愛ラーメン大江戸の母さん堀井ヤス子さんと会う。大内出身のシンガーソングライター津雲優から誘われ、滝温泉の東海林順一社長達と横町の「あしながおじさん」へ。津雲優の伴奏で秋田アーバンビルドの小助川正三社長達と本荘高校の校歌を合唱。階下の「イーグル」で加賀先輩、後輩で平安閣の戸賀瀬好弘支配人と三次会。

十日(水)オアシス会。彌高会館。阿部直耕さんから誘われた異業種交流会へ。秋田ふるさとづくり研究所所長として参加。儲からない研究をしてますと挨拶。

 山王・佐竹へ。高校先輩の小林富保県議、ブラバン後輩の毎日の渡部慶一次長、自治労副委員長になった杉原毅君と。ハミングロードでカラオケ。後輩達は上手い。

 十三日(土)山王・養老の滝。トトカルチョマッチョマンズの忘年会へ。若者達とあゆかわのぼるさん、大曲市教育委員会の生甲斐学習担当営業員・斉藤千代繁氏。十六日(火)第一生命の学友福永尚弘と山王・館。ワシントンホテルでワイン、そしたら焼き鳥を食いたくなって、川反・鳥八。

十八日(木)役所の忘年会。キャッスルホテル。カラオケで秋桜を歌うがダメ。三浦書店の三浦義明さんが迎えに来てくれて、渋谷鉄平君も誘いスエーデン製の外車で山王・焼き鳥「鳥ぎん」へ。

十九日(金)吉永小百合さんからふられる。秘書の坂田さん(女性)から電話。八月七日秋田稲門会での原爆の詩の朗読は、スケジュールが合わずとのこと。全国から平和祭での出席依頼があると。何時か秋田にきてもらいます。

二〇日(土)秋田市手形・渡部誠一郎先生宅へ。佐賀県武雄市から送られてきた「楠木」の苗木を。新屋日吉町の葉隠墓苑に植える楠二〇本は来年、移植する。

二二日(月)大潟村の相馬喜久男さん。あきたこまちをどっさり持ってこられる。秋田市三和町の靉にて、じっくり飲る。

二三日(火)東由利町の地域おこしグループ「弁天島ほたるの会」の依頼。サンタクロースを連れてきてくれと。ミネソタ大学秋田校のジョン・モック先生が快諾。

雄和町の親戚工藤四郎さん宅に寄り、益子夫人からモック先生の自宅に案内してもらう。大内町を越えて東由利町まで雪道を一時間。道の駅黄桜で2b近いモック先生がサンタクロースに扮装。髭は自前。子ども達と記念写真とプレゼント。歓声上がる。雄和町に戻り、坂本賢二博士宅へ。

二六日(金)渡部誠一郎千秋美術館長と毎日新聞の渡部慶一次長と三和町・靉にて。今年最後の忘年会。後は年賀状書き。

※どんぷう後記

 厳しく不安な時代こそ、恥を知り、美を尊び、再生への市民の連帯が生まれる。今年もよろしく。