恩

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仰げばと疎し和菓子の恩。ワープロをたたくとこう出る。
卒業式に仰げば尊し、と歌われなくなり、我師という言葉は和菓子に変わってしまっている。

扇谷正造さんの本に「現代文の書き方」がある。私は多くの文章入門の本を買って読んだが、最初に教えられたのが、扇谷さんの「文は短文で書け」であった。
講演も何度か聞いたことがある。懇親会の料理屋で、扇谷先生の話をテーブル下で手帳にメモを取っていた。翌日、次の会場に案内した銀行支店長に私のことを「彼はモノになる」といわれたそうである。扇谷さんの楽しみは、恩師へのささやかな恩返しをすることだという。扇谷さんからは、会社倒産後、頑張っている友人へ色紙を書いて送ってもらった。
「友よ、朝の来ない夜はない」とあった。
文章の師であった扇谷さんへの恩返しは、亡くなられる数ヶ月前に秋田銘菓金萬を送っただけだった。モノにはなれない。
中学時代の恩師、亡き伊藤章先生は英語を好きにしてくれた。
大学時代の恩師、中西睦先生から人生のあり方を教えて頂いた。
年賀状にはいつも励ましの言葉が書かれていた。今年ももらえない。恩返しもできないまま、逝かれてしまわれた。
日本の福祉の原点といっていい、秋田の感恩講。江戸時代、文政十年(一八二七年)に始まった感恩講は那波家九代目、三郎右衛門祐生が貧民救済事業と乳幼児保育の援助を行った。親を失った孤児達にも援助の手をさしのべた。現在も那波家の感恩講の精神は脈々と受け継がれている。
感恩講の施設で育った体操のオリンピック金メダリスト遠藤幸雄さん。現在は日本大学文理学部教授。遠藤先生は、実に明るく愉快な人。3年前、西仙北町で講演をお願いした。講演の内容も感動的。ウルトラCを編み出したのは、先生の6×9(楽)イコール9×6(苦労)だ。絶え間ない努力のお陰だといわれる。先生は秋田空港までの車中も、我々を笑わせっぱなしだった。
感恩講をつくった那波家現当主三郎右衛門氏から、感恩講の意味を伺ったことがある。
「感恩とは感謝報恩ではありません。恩は人にではないんです。天に感じて返す、という意味です。それにしても遠藤先生は素晴らしい方です。何年も前から毎年、盆暮れにお菓子代といってお金を送ってきてくれます。全部合わせたら三百万円ぐらいなるでしょう」

聖書に一輪の花の言葉がある。
「すべてを忘れることなく、また赤裸々でもなく、我らは栄光の雲から出ずる。神は我らが家なり、草原の輝きはもはや戻らず。花は命を失っても、後に残ったものに力を見いだそう。本能的な思いやりのなかに、苦しみの末の和らぎのなかに、永遠なる信仰のなかに、生きるよすがとなる人の心。その優しさとその喜びに感謝しよう。人目にたたぬ一輪の花も、涙にあまる深い想いを我にもたらす」

この春定年を迎えるある県庁職員は、昨秋、お世話になったと秋田市にある官舎前の道路端に水仙の球根百個を植えた。春には黄色いラッパ水仙が一輪。いや二輪、三輪、百輪と咲き並ぶだろう。
昨年、秋田市の歓楽街川反の「とんかつや」の主人が引退した。 彼は四十年世話になった川反に恩返ししたいという。今年七月までに、川反の先人慰霊と、川反旭川沿いの一角に、観音様か、地蔵様を建てようとしている。お二人とも天へではなく、地に恩返しをされる。


ふるさと塾地域づくりゼミナール 

★平成10年6月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「奥羽南線にSLを」
★ 木村 妙子 氏
  (C62プロジェクト実行委員会)

 私達の町、雄勝町は山形県との県境の町なんです。三つの峠がある町で、一〇八号を通して松の木峠、雄勝峠、宮城県とは鬼頭峠が開通しました。
 峠が私達の町に、文化を伝え、や産業、経済をここまで引っ張ってきてくれたものと考えております。峠サミットが昨年開催されました。私達の町に最初に、坂の上田村麻呂が有谷峠を作ってくれたのがそもそもの発端でした。それから、明治の雄勝峠、昭和の鬼頭峠が一八年間、工事が閉鎖されていましたが、昨年仙台圏とつながり通年道路になりました。三八〇億の予算を投じて頂いて、日本で初めてエコロード、自然環境にやさしい道路でして、動物が交通事故に会わないように道路の下に獣道を作り、蛇などが側溝に落ちた場合、立ち上がりができるようにスロープもあります。
 ブナや雑木が削られた部分は、元に戻そうと植林をしたり、自然のままに戻そうといういう道路が平成八年八月に開通しました。
 じゃあ行政だけがお祝いをしていいのかという時に、地元にこれだけの財産を頂いたのに町民として何かお祝いをしてもいいのではないかと、若者達から意見がでました。そこで、創作演劇をしようとなりました。
 町民八〇人程、小学校四年生から、七〇歳のお年寄りまで入りまして一年がかりで演劇をつくりました。それが「ふるさとは今変わる、やろで、やらねば」というタイトルで、夢エコロードということで演劇をさせて頂きました。
 若者達が一生懸命やっているんだから、支援したいということで資金面をどうしようかとなりまして、そのための環境づくりが私達年代の役目だと思って演劇ができました。
 私達の町に道路が出来たお祝いをしようというだけじゃなくて、仙台圏と繋がった、これを経済、文化が吸い込まれるストロー現象でなくれ、町にどうやってお客様を連れてくることが出来るだろうか。まちの活性化のためになるのであるのであれば、素晴らしいことだと立ち上がった訳です。
 この演劇はたった一回だけでしたが、この火種を絶やすのはもったいないとなりまして、尚徳館ということで、勉強を続けてきました。私達の町には、三一五年の歴史を持つ院内銀山がありまして、明治天皇にお出まし頂いた経緯があります。その時に出来た、尚徳書院の名前をお借りしまして、尚徳館として勉強会を毎週金曜日に続けてきました。
 そこから出たのがSLの話なんです。尚徳館にはSLプロジェクトという会ができまして、演劇部分をやっていこうというグループもあります。音楽でも活動していきたいというグループもあります。
 SLプロジェクトというのは、一九九九年に山形新幹線が新庄までと決まりましたね。そこで県南地方が新幹線こまちとの空間地帯になって落ち込みがある。JRの地図には湯沢、雄勝は載ってないような感じもありまして、こんなことでいいのかと言う発奮がおこりました。この停滞しているのを何とかしたいということから、SLだったら、置いてるだけでもインパクトがあるんじゃないかという人もおりました。いや、どうせやるんだったら動かしてみようじゃないかとなったんです。

 今、雄勝町は小町で売り出す他に何もないんです。ところが今、小野小町は県北、中央の方へ全部取られてしまいまして、JAのあきたこまちとか、新幹線こまちとか、地元に貢献のない小町なんです。(笑い)そこで何とか地域活性化の為に、SLを山形県の新庄から横手まで動かしてみたいと思っています。
 この募金活動として一枚千円でSLカードを作って販売しています。そして、金融機関とかに協力をお願いしているんですが、なかなか立ち上がっていきません。やはり行政がこれについてこなけらば、成功する話ではないんですね。
 秋田大学の清水浩四郎先生とか、出納長の佐藤正夫さんとかにお願いし、JRさんとかにパイプをつくって頂いたんですね。SLカードはそれでも思うようにさばけてはいきませんが、民間で頑張っていることを認めてもらわないと行政もついてきてくれないのですね。
ただやりますではなくて、頑張って汗を流さないと人様はついてきてくれません。キャンペーンに仙台まで行きましたし、秋田駅前のアゴラ広場でもやりました。
 カードを売ってのPRにも限界がありますが、それでもやってますよとマスコミが取り上げてくれ、引っ張ってきてくれてます。
 十一月に秋田魁新報さんで、「奥羽南線にSLを走らそう」と大きく取り上げてくれました。それを見て、一番最初に反応があったのは、山形県の県庁からでした。山形県の企画の方から雄勝町役場へ電話がありました。「この話を聞きたい、ほんとにツバサがくるまでSLが走るんですか」ということでした。それで、私に山形県庁まで来てくれということで、出向いたことがあります。山形県でも協力したいので頑張ってくれとのことでした。本当に山形は早いですね。

 このSLはC62といいまして、全国で最も大きく、重く、美しいSLなんです。鉄道マニアからホントに来るんですかといわれ、このSLが動いたら多くのマニアに人達が来ると思います。
 立ち上げが湯沢雄勝広域圏になるんですが、どのような形になるかは、湯沢市長の肩にかかっています。行政がタイアップしてくれるのであれば信用が増して、民間との二本立てで一般企業から寄付を仰いで進めていきたいと思っています。
 C62は札幌で平成七年まで動かしていたんです。いったん車庫入れしてしまうと、動くまで一億円かかります。(笑い)この度5月に尚徳館に十五人の人達で札幌に、C62に会いに行ったんです。そしたらものすごいインパクトで、デコイチよりも一回り大きいんだそうです。
 今、日本でSLが走っているのは福島県の会津とか四、五カ所ですが、C62の三号機というのはJR北海道が所有してまして、小樽からニセコ間を平成7年まで走っていました。昭和23年に生まれまして現在五〇歳です。ですから老朽化するには早いんじゃないかと思いますが、実際にこれは、改造機といわれ、もっと前に誕生したようです。これは東京・大阪間の東海道線を走った特急ツバメなんだそうです。野球の国鉄スワローズはここからきているんだそうですね。
 これが北海道に渡った時に改造された機関車ですが、それが小樽市民が復活運動を起こしまして、それが起きてから七年まで走ったそうです。図体が大きく、管理費がかかるということでギブアップしてしまったようです。
 C62がどうのように地域に効果をもたらすか。来た場合、動かすのは月に金、土、日の第一、第三程度で年百回から百二十回運行です。今、これの三両が来るんですが、一車両に八〇人乗れます。三両で二四〇人、それが小町を使って山形に行くのが二四〇人、帰りがツバサと使って秋田に入る込む人が二四〇人、四八〇人になります。それが出来れば旅行会社とタイアップしたいと思っています。それが、地域に二万円落としてくれますと、一〇〇回運行で、九億六千万になります。
 羽後町とか増田町のようにホテルや旅館のない町があります。行政の人は、じゃあそういう町はどうするのかといいます。そういう所には、今のグリーンツーリズムのような形をとってもらえたらと考えます。一軒に五,六人でも泊まって頂いて、ご飯が美味しいねと言われたら、これは秋田こまちですよ、じゃあ秋にこれを送ってくれませんかとなるだろうし、増田町だったらリンゴを送りますと。泊まって頂いた方とは親戚づきあいが期待されます。
 そこで三万円を使ってもらえたら一四億、二〇億になるんです。そういう形の波及効果を狙いたいなと思っているんです。
 秋田のJRに来るまで一億かかるといわれているんですが、運行費だとかの費用を考えると赤字で二億、三億かかるとみています。
 それでも民間の力を借りてやっていけば、波及効果を大きいと思います。
 峠サミットですが、今年の三月に山形県の金山町でありました。そこで私はSLの話をさせてもらいましたら、真室川町商工会の人から婦人部で話をしてくれないかと頼まれました。十万円予算が余っているから、それを全部、SLカードと一緒に買ってあげますと大変有り難いお話でした。
 やはり、女性がまず立ち上がらないとうまくいかないんじゃないかと思います。
 C62と私達が出会って、若者達のやる気、奮起があって今、あおられています。私達は足を引っ張ってはいけないのですが、意外と地元の人達が冷ややかなんです。
 あんた方がやってるんでしょ、といった感じでしてね。私達は私利私欲でやっている訳ではないんですが、もう少し温かく見守って欲しい。若者達がやりやすいように道をつけてやることが大事だと思います。

 自分の商売の話ですが、雄勝町は小野小町が代名詞なんだから、去年亡くなった父からやってみないかといわれ、十五年たちました。小町園というお店をやっています。小町堂の隣なんです。小町堂の恩恵を受けて小町園があります。その恩恵を地域にお返しすべきと思っています。父は「儲けは後からくる、まず人の為にすることが先だ」といってました。この教えを守って地域おこしに、町の議長をやっている夫と一緒に一生懸命やっています。


呑 風 日 誌 抄

 十二月2日(水)タッチラグビー「みっちゃんず」の納会。銀座ライオン新国道店。メンバーで元日ハムエースの工藤幹夫氏の野球談義。大沢、阿部、太、祥、横山君。メンバーに茶髪の美容師卵のいるのは嬉しい。来月は、ソフトボールチーム「あべちゃんず」の試合で頑張る。
 5日(土)飯田川町・開得寺にて「縁」と題して講演。お寺での講演は初めて。レスリングの小玉正巳大先輩の地元。新野建臣住職の依頼で、懇親会でも檀家の方々と良き出会い酒。
 新野さんから、「北方と中国」と題する本を見せて頂く。みどりやの小松末松初代社長が私財を投じて日中友好運動に尽力されたことを知る。鹿角の栗山文一郎氏の「あかね染め」復活の話も。
 6日(日)日本民謡協会(三浦朱門理事長)から民謡功労賞を受賞された進藤義声さんの祝賀会。
協働社大町ビル。盛会。浅利協働社社長の隣、中国での戦争体験のお話を伺う。
 7日(月)山王・秋田青年会議所事務所にて、しらせを秋田に誘致する会。秋田市横町・中華居酒屋「銅羅権」にて、「小西吉則さんを偲ぶ会」。マスコミ関係者、横手支局時代の10人が集まってくれた。魁の出版部長をされた佐藤孝次さん。南由利原高原に建てた別荘で、小西さんと大森町長の阿部勝行氏と仲直りをさせたかったと。小西さん、良き友に恵まれてましたね。佐藤、堀井、那須、梅津(秋田魁)、阿部(河北)・進藤(NHK)、羽中田(読売)、渡部、高木(毎日)、大友(秋田テレビ)の諸兄。
 9日(水)秋田の国際交流員の四つ葉クローバーの女子四人と昼食会。年賀状の話。
 十一日(金)県議会会議室にて外国人との県議会議員との意見交換会。柴田康二郎県議、加成義臣県議が適切なアドバイス。
 秋田県民会館での東海林太郎生誕祭。女房に行ってもらう。千秋会館。環日本海学会秋田大会解散総会。環日本海学会、国際シンポは成功だった。次回の環日本海学会は、日本海上の洋上セミナーでと中締め乾杯。二次会は稲本俊輝教授達と近くの楽市。多良で藤本剛先生と三次会。
 十四日(月)東京商工リサーチ本社の荒谷紘毅情報本部長から電話。第三セクターの論文を週刊エコノミストに書いた、民間出身の寺田知事でなければと。
 本社で活躍する彼に二月のふるさと塾講師にお願いする。
 十五日(火)秋田市大町の地ビール「あくら」伊藤雅、中島達夫両先輩、土方博生氏と。中島さんから川反の懐メロスナック「本因坊」へ、「上海帰りのリル」を歌う。熊本のおっかさんを連れてきたい。
 十六日(水)秋田市山王・八条にて忘年会。石と水の研究家勘左エ衛門社長、北嶋昭宮司、綾小路洋子司法書士。秋田名誉県民・TDKの山崎貞一氏は本当に偉い方だと勘左エ衛門。同感。亡き恩師、中西睦先生からいわれたこと、「飲み屋で女に絶対さわってはいかん」を思い出した。誰かと違って、私はさわりません。
 十七日(木)課の忘年会。有楽町の焼肉大昌苑。いと短き乾杯あいさつ。二次会を本因坊に寄ったら、秋田経済法科大学の井上隆明学長に見つかり、懐メロ。そして「つくしんぼ」へ。
  二二日(火)大内町・美佐子食堂。大内町民謡競演会の相談を受ける。佐藤定夫大内町民謡連合会会長。滝温泉の東海林順一観光協会副会長や、佐々木作治さん達。何のために開催するか、大内町を民謡の里にする、日本民謡史料館をつくることをスローガンとすることに。名称を「大内町民謡の里づくり実行委員会」とすることに決める。実行委員長に東海林順一氏。中学同級生・美佐子さんから絶品の「蟹味噌」を頂く。
 二三日(水)東由利町の黄桜の里サンタフェステバルへ。東由利町の蛍の会主催。元気な町づくりをすすめる阿部幸悦町長と「ふれっそ」で旨いコーヒー。今年もミネソタ大学のモック先生が東由利町でサンタクロースに扮して、子供達と撮影会。髭は自前。
 二八日(月)御用納め。最後の忘年会。山王・館、親友渡部薫と。毎日新聞を取ってもらうことになり、故小西吉則さんの横手通信部の後任、佐藤正伸さんの歓迎会に。 渡部慶一支局長と山王・山路へ。
彼の「案山子」を聞く。
どんぷう後記
 去年の暮れは、忘年会のお誘いを何件かお断りし、健康に注意をしました。が、新年会が待っていそうです。恒例の地獄の年賀状書きは二六〇〇枚。墨を摺って全員に賀笑と、小筆で書きました。が、添え書きを全員には書けず。年賀状で頂いた、心強い激励のお添え書きに恐縮して、感謝します。
 今年もふるさと塾を続けます。
日時・毎月第四金曜日、六時半〜
会場・ふるさと塾事務所
演題 1月22日/「おかみさんのまちづくり」(越後谷慶子さん)
2月26日「/第三セクター地域づくり論」(荒谷紘毅氏)
3月26日「大変革」めだかの学校(村岡兼幸氏)
どうぞ、ご出席ください。