ふるさと呑風便9月号


    山陰路   

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大阪空港から三〇人乗りのプロペラ機に乗って出雲空港に着く。九月一日午後十二時。空港の側まで宍道湖が続いている。
空港からレンタカーで出雲に向かう。途中、出雲市長だった岩國哲人さんが造った出雲ドームを見学。しっかりと百五十円の入場料を取って観光施設になっている。
出雲大社。御祭神の大国主大神は国造りの神様、「だいこくさま」と讃えられ、福の神、縁結びの神、産業の神様として慕われている。天下無双のおおやしろといわれるだけあって、壮大な社だった。大鳥居をくぐって、長い参道の途中、蝦夷山桜が枝に花を付けていた。本殿には大きなしめ縄。参拝客も多い。二礼二拍一礼、ではなく、二礼四拍だった。柏手を四っつも打たなければならないほど、出雲大社の神様は本殿の奥深くに鎮座されておられるようだ。
地域づくりを自分の生き甲斐と心している者にとって、国造りの神様出雲大社参拝は念願だった。
宍道湖の北を走る。平田市に入って、酒造りの神様「松尾神社」の看板があった。これは見過ごせない。京都にも松尾神社があるが、山陰の松尾神社は急な階段を登って、小さな本殿には誰もおらず。
松江市。赤と白の夾竹桃の街路樹が美しく続く。レイクライン堀川めぐりでお堀を屋形船が、武家屋敷をレトロ調のバスが走る。神戸市助役だった新市長のアイデアが生かされて、若い女性の観光客が増えている。武家屋敷の中に小泉八雲記念館がある。現在、曾孫が地元大学の助教授をしていた。
翌朝、松江駅。米子行きの鈍行列車に乗って、鳥取県淀江町へ行くつもり。乗った電車が予定時刻より早く発車した。車内アナウンスは出雲行きという。しまった。逆方向だ。次の駅が乃木。降りて駅員さんに乃木大将と関係ある所ですかと聞いたが、わからないという。切符に誤乗とスタンプを押される。松江行きの電車はしばらく来ない。バスが駅前に止まった。松江行きだ。乗り込む。二十分程で松江駅に着いたが。淀江駅に十時四分まで着かなければいけない。前日、淀江町の森本和夫町長から駅に黒塗りのクラウンを迎えにやるとホテルに電話があったのだ。
松江駅に止まっているタクシーに聞いた。米子駅まで五十分、七千円だという。お願いした。親切な運転手さんで、松江のことを色々教えてくれた。高速道に入ってくれたが、米子に九時半までにはとても間に合わない。その運転手さん、七千円でメーターを降ろして、淀江町まで送りましょうといってくれた。淀江町に入って駅を捜そうとタクシーが止まる。そこへバイクのお年寄りが近寄って、どちらをお探しですがと尋ねた。何と親切な人のいる町だろうか。

水と緑と史跡の町、淀江町。役場には、内藤武夫さんが待っておられた。内藤さんの先祖は、秋田戊辰の役で戦死し、協和町境・万松寺に眠る鳥取藩士内藤弥吉郎。お墓まで案内して頂いた。昭和二八年に建てられた内藤矢吉郎(鳥取では弥が矢になっていた)のお墓に秋田の銘酒をかけた。これが翌日の地元新聞に載った。実はこの酒でこの日、鳥取市で佐藤健鳥取県市町村振興課長と一緒に飲む予定だった。彼は昔、自治省から秋田県庁に派遣され、ふるさと塾にも何度か出席した快男児。健ちゃんこと佐藤課長は秋田には行くといわないで、帰るという。鳥取市で飲んだ翌朝、彼はその新聞の写真を見ていった。「この酒を昨日飲めるはずだったんだ」
十月十七日。秋田戊辰戦争百三十年の合同慰霊祭が秋田市の彌高会館で開催される。内藤武夫さんも淀江町長も出席される。山陰の健ちゃんも秋田に帰ってくる。


秋田ふるさと塾地域づくり実践セミナー

★平成10年3月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「縁尋機妙・商売の心 尽くす心」(2)
★ 竹村 菊昌氏 (元秋田銀行副頭取)

一つには、自己抑制力を身につけさせること。人間は絶海の孤島で本能のおももくまま、わがまま勝手に暮らしているわけではない。大勢の中で人間らしく暮らしていくには、その欲望を抑制する力、道徳ともいわれるかもしれないけれども、そういう力を持たなければいけない。それを身につけさせるのが教育だと。
二つ目には、先人が築いてきた伝統、文化なりを引き継いで後世に継承していく教育をする。
三つ目には、人にはそれぞれ個性や、才能があり、それを伸ばしていく教育をしなければいけない。
この三つを最低必要な教育としてあげておりました。安田生命のテーブルを囲んだ総代の皆さんは同意見でした。では何で今あげた教育が欠けてきたのか、自己抑制力、先人の伝統文化の継承、個性才能を伸ばすことに欠けているのは何なのか。これらは皆、学校教育よりも家庭教育、社会教育にあると。その欠けているものの一つには遊びの要素がない。今の子供達には気の毒なんですが、学校から帰ると塾なり、日常のスケジュールがびっしり決まっていて、マニュアル的な生活をしているというんですね。
確かに私は、町内の一年生から六年生まで集まって遊び、時には他の町内と喧嘩したりしました。そうなれば、先輩後輩の長幼の序というものが身についてくる。遊びも上の人から教わった遊び、これを更に自分で工夫して発展させて下の子につなげていくという。そういう遊びの要素が今の生活には全くない。マニュアル化した生活だけだという話でした。全くうなずけることです。そのマニュアル化のいい例として、駿河台の理事長さんが嘘のようなホントの話としていってました。
 修学旅行に行きますと大きな風呂に入る訳ですが、生徒達は皆、海水パンツをはいて風呂に入るそうです。(笑い) それから日本アカデミーという女性の理事長さん。
「マクドナルドに買い物に行きまして、母が三〇個くださいといいましたら、店員がここで召し上がりますが、お持ち帰りですかと聞いたんだそうです。聞き違いしたのかと思って三〇個ですよというと、にこやかに『承知しました、三〇個ですね。お召し上がりですか、お持ち帰りですか』」マクドナルドのマニュアルはそうなっているんでしょうか。これは東京のマクドナルドの話で、秋田のマクドナルドでは何というかわかりません。秋田のマクドナルドは金萬の大内さんで、睦子さんと私は仲がいいので、秋田のマクドナルドの話ではありません。(笑い)
この頃は、子供ばかりではなくて、世の中マニュアル化しているなあという気がしています。

店員の応対は自然に、これに尽きると魁新報の記者が書いてましたが、私は、自然にではなくて、お客さんを思う気持ち、お客様に尽くす気持ち。これがあれば、マニュアルはマニュアルとして、マニュアルどおりではないことがお客様を思う気持ちがあれが出てくるのではないかなあと思います。
 これも新聞に掲載されていたものですが「数年前、大蔵省の中堅幹部と雑談をして、話が現代若者論に及んだ。興味深かったのは東大法学部を卒業し、公務員試験を優秀な成績でパスして入省した若手キャリア官僚の実態だった。とにかく驚いたのは作文能力の低さ、と彼はいう。例えば、審議会の審議のまとめの報告書を書かせると、間違いな敬語を平気で使う。報告書は外部に公表することを前提とする。審議会委員の発言を紹介するのに、いちいち何々とおっしゃいましたと書く。あるいは発言の微妙なニュアンスに無頓着で、ほんとに前向きな発言かわからないのに、前向きに検討といった表現をやたらと使いたがる。上司は執筆者に注意をして書き直しを命じる。ところが直したはずの報告書に目を通すと指摘した箇所以外はもとのまま。問いただすと答えは、そこは直せと言われませんでした。自分で考え、工夫する意欲が乏しく、言われたとおりのことしかやらない、マニュアル人間が増えているのは大蔵省も例外ではないようだ。東大法学部卒だからこそ、よけいにそういったタイプが多いのかも知れない」

ですから、先にいった石川忠雄慶応塾長の話。慶大卒だから石川塾長の肩を持つ訳ではありませんが、家庭教育、社会教育が重要な部分だといってますから、自分の才能なり能力を発揮できる最低限の教育、自己抑制力をつける教育、それから伝統や文化を引き継いで伝えていく教育、この三つが今の教育の欠けているのかなあと。この教育をどうにかして、社会に、家庭の中で育ていけるようになればなあと思う訳です。
社会の中でといったのは、企業の中でといっていいと思います。
企業の中で従業員を、店員を、そういうふうに育てていくことが大切なのではないかと思います。それがまた、お客様に尽くす姿勢、心につながっていくのではないかと思うのであります。
福岡の女性がいうように秋田は接客態度が悪いとすれば、どうして直していくのか気になります。
そこでこの不況の時に、大変いい商売をしている会社があります。
その中の一つにロイヤルという自動車部品の全国展開をしている会社(イエローハット)があります。鍵山社長といいます。そこは朝、午後から雨が降ることがわかっていても、本社にある八十台くらいの車をピカピカに磨いてから出発します。それだけではなく、社内の便所から事務所から道路まで綺麗に掃除を毎日します。徹底的にいわば掃除をする。社長はそうなるまで二十年かかったといってます。それは何故かと掃除をすれば人の痛みがわかる。自分も幸せになりたい。人も幸せになってもらいたい。人の痛みがわかるのは掃除という発想からです。

銀行は三時になればシャッターを降ろしてしまいます。後は皆が一生懸命になってその日の当日の締めをして、五時六時、昔は九時十時ということもありました。支店長は、やることがなく暇なんです。外を回って歩けば別ですが、店の中でハンコを一つ二つ押せば終わりなんです。自分のことでなんですが、私はロビーに出て、お客さんが見る雑誌、表紙が本体と離れていることがあるんです。それをセロテープで貼ってくっつける。ポスターが切れていればそれをつくろう。一生懸命、そういうことをやれば、ほんとに鍵山社長ではないけれど、お客様を迎えるという気になりますし、行員も知らず知らずについて来てくれます。
秋田の接客態度が悪いとしたら、それを直す方法としては、長い目では家庭教育ですが、企業の中で社会教育をしていかなければいけないと思います。教育の為には経営者が店主が、その気持ちになって、社員と距離をおかないで、飛び込んでいくことが必要なのではないかと、私の経験からそういう気がします。
率先垂範といいますが、社員と一緒になって、上がお客様に尽くすんだと商売をやっていけば、下もついてくる。それが一つの方法ではないのかなあと思うんです。
ともかく、商売とは人様に尽くすこと。これが商売の最も大切なことではないかと。
 秋田が人様から喜んでもらえる秋田になればなあと申し上げた次第です。


我青春風来記(102)
     早海三太郎

 新宿区霞岳町(42)
パサディナシティはロスアンジェルスの郊外。閑静な住宅街にタック中村氏の家があった。白い二階建ての邸宅。中村次郎君から広い芝生を歩いて玄関に通された。何とか、と英語で叫ぶと中から、奥さんが急いでかけよってきた。やさしそうな日本人で、日本語だった。「ようこそいらっしゃいました」といわれてホットした。

居間も明るく広い。奥さんは日系二世だった。高校生と中学生の女の子が二人娘がいる。ご主人は魚釣りいってもうすぐ帰ってくるという。「疲れたでしょう。バスに入って」という。風呂のことだ。
その風呂場は何と二階にあった。
ドアを開けると床は絨毯で、トイレと一緒。お風呂は映画に出てくるように横に長い。モンローが石鹸を泡立たせて、足を上げるシーンを見たような記憶がある。
奥さんがお湯をだして出ていった。半分ぐらいお湯で埋まった。入る。横になる。お湯が溢れそうになった。お湯の止め方がわからない。三太郎は焦った。どうしたらいい。床が水びだしになりそう。何とかそれらしい蛇口をひねったら止まった。
 石鹸で身体をどうやって洗うんだ。ビシャビシャやったら外の床が濡れてしまう。カーテンがあった。そう、これを引いて洗うんだ。お湯に入ったままタオルに石鹸をつけて身体を洗っても力が入らない。日本の風呂屋みたいにゴシゴシやれない。上にシャワーがあった。これで洗い流すんだろう。西洋風呂から疲れて上がる。
夕食は広いキッチン。冷蔵庫がバカでかいのにビックリ。買い物は一週間に一回で、無駄な物は買わないようにしているという。
ご主人のタック氏が我々の為に鱒を釣ってきてくれて、刺身のご馳走だった。こんな刺身はもちろん、日本でも食べたことがない。
赤身の刺身はとろけるように美味しかった。
二人の娘さんはどうみても美人ではない。目の大きくて色の黒い高校生は、次郎君や両親と英語で話している。何をいっているのかさっぱりわからない。日本人の顔をしているのに英語をペラペラやるのはどうも変に感じる。
 三太郎は高校時代、英語の学力試験で何度か一番になって構内の廊下に貼り出されたことがある。大学入っても英語を学んだのに、話せない。彼女に、頭で英作文して、日本語を何か知ってますかと質問した。
 曰く。「アイ ノウ ワンワード、ベンジョ」(続く)


呑風日誌抄8月分

 8月2日(日)夕方、秋田駅。日本語会話教室を受講する留学生達を、和久建設の奥山直巳社長が一週間ほぼ無料で宿舎を提供するとのことで、雄和町の別荘へ案内。奥山会長が歓迎用の吟醸酒5本も用意していてくれた。アメリカの若者達感激。
3日(月)昼、秋田市将軍野のブルーナイル。ビクトル先生による「おかみさんロシア語会話教室」中村エミ子さん出席。
夕方、キャッスルホテル。鳥取県淀江町の森本和夫町長さんと。鳥取藩士の遺族が見つかったとのこと。協和町万松寺に眠る内藤弥吉郎の子孫が淀江町にいたとのこと。諦めていたので嬉しい。9月初めに淀江町を訪ねると約束  4日(火)ミネソタ大学に留学する県職員2人の送別会。回りを明るくする人間になってこい。
8日(土)金浦町白瀬南極探検隊記念館。早稲田大学奥島総長を本荘市の今野鍠司先輩と出迎え。
白瀬中尉の墓参りをして頂き、はななす荘で歓迎昼食会、ナマコ好きの総長のために金浦町ではナマコの佃煮を試作して味わってもらった。なかなかいけるとOK。
秋田市のニューグランドホテルにて稲門会総会。総長講演で大隈五訓の話。
1何事も楽観的に考えよ
2怒るな
3むさぼるな
4愚痴をこぼすな
5世の中のために働け
ビアガーデンで大懇親会。
二次会を川反・祭り囃子。0Bの秋山さんがここでもナマコを総長にだしてくれた。
十日(月)彌高会館。オアシス会。若手オーナー経営者の話。
十三日(木)大内町新田。お墓参り。
十四日(金)午前。鳥海町紫水館。若者地域おこしグループが始めた「三船敏郎映画祭」で風林火山を観る。三船敏郎は父親の実家が鳥海町にあり、何度か訪ねている。その縁を生かしたい。
美佐子食堂で恒例の中学同級会。
十五日(土)秋田市・護国神社。終戦記念祭。ツバサ興業主催で毎年参加。今年は黙祷の間に「国の鎮め」の演奏を頼まれる。ラッパは、フィリピンでアメリカ兵が見つけ、アメリカに持ち帰った後、10年前、日本に返還されたもの。
先がつぶれたラッパだが、何とか護国神社の本殿に響かせた。小林孝哉先生から「昭和の名将と卑将」の講演。進む時には先頭、退く時には最後部という、知・仁・勇・美の名将の話には感銘。
十七日(月)大江戸ラーメン、透花から山王・楽座へ。スポーツ国際交流員の引っ越し、歓迎会。
十八日(火)通町・仕出し「せきや」社長と。蘭州会会長。店のみんな社長のことを「とうさん」と呼んでいるのが好感。 新屋の高橋大和さんから電話。高橋親子の執念で掘り当てた福祉健康長寿温泉に西目の勘左エ門が来ていて、三人で風呂場の中で酒を浮かばせて飲む。
十九日(水)東京日本橋八丁堀。互明商事の真下勝幸部長と昼飯。昔、一緒に中国へ行った仲間。
東京・広尾の青年海外協力隊訓練センター。三十年前、青年協力隊に応募しようかと訪ねた懐かしい所。新宿。協同通信編集委員の伊高浩昭先輩、三十年前メキシコで伊高さんに世話になり、その恩返ししたいという学友若林正彦と。伊高先輩、酒を飲むときは二人か三人で飲る。それ以上になると雑談となって時間の無駄という。
同感。伊高先輩、来月に駐日キューバ大使と会うので、カリブの砂を輸入する話をしてみるという。三人で歌舞伎町、最後はカラオケ。
坊主のアパートに泊まり、佐々木家五訓を書いておく。大隈五訓を参考。1人の悪口をいうな。2愚痴をいうな。3悲観して準備、楽観して行動しろ。4生々堂々。5世の中のためになれ。
二三日(日)秋田市寺内。花徳から花を買って故丸山完さんのご自宅へ。仏壇には納豆ご飯、ビールの缶ビールが供えられていた。
昌子夫人から豪快で人情味厚かった故人の話を聞く。
二四日(月)秋田キャッスルホテル。浅草おかみさん会主催のディナーショー。ジョン・ブルニアス・ニューオルリンズジャズ。女房と。浅草のおかみさん達は元気がいい。終わって帰る知事夫妻にアンコールの歓声。
二五日(火)夕方、秋田市八橋のサンライフへ。ロシアのビクトル先生と。二時間たっぷりトレーニング。毎週来ることにしたいが。
二八日(金)ふるさと塾。男鹿半島九九九実行委員会代表の糸井真吾さんが講師。平成九年九月九日の記念手ぬぐいを売って資金とした話には感服。二次会は階下のレディでロシア民謡。
二九日(土)マクドナルドを持って鹿角市毛馬内の船友伊藤正隆さんへ。兄貴分の勝田士郎さんから古代焼きの夜なべトークへ呼ばれている。縄文の家でブナとレンゲの種を渡して話し、タネが切れる。大湯ホテルで与謝野鉄幹夫妻が泊まっただろう部屋にバタン。
三一日(月)東北電力秋田支店にて秋田ディレクターミーティング。「酒」をテーマに実践の段階。秋田藩で懇親後、秋田駅。夜行列車日本海4号で大阪へ。