ふるさと呑風便7月号(’98・7・20)


   東京万歩計   

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 東京へ行くと運動になる。よう歩くからである。
どのくらい歩くのか、万歩計をベルトに付けて上京した。

九時五〇分。六月二三日。羽田空港に着く。タラップを降りて。これが東京での第一歩。
  大内町資料館の阿部力先生と一緒である。今日の目的は、日本民謡のテープ一万本を収集した早大名誉教授松原普先生からテープを大内町に送る手続きをとること。
 浜松町までモノレール駅への階段を降りる。結構長い。浜松町から山手線に乗り換える。
松原先生のご自宅は練馬区中村南で、西武新宿線の鷺宮から歩いて10分程の所にある。以前、お伺いした時に、ふるさと大内町を民謡の里にしたい、出来ましたら先生が集められた民謡のテープを寄贈してもらえませんでしょうかと恐る恐る話したら、いいですよと軽く承諾された。九〇歳になる松原先生は、私がいたずらで集めたものがお役にたてるんだったらとおっしゃってくれた。
午前10時前。山手線はまだラッシュアワー。歩き疲れる前に人ごみ疲れがする。
 高田馬場から西武新宿線に乗り換える。まだ窓の外からほんの少し、畑も覗ける。鷺宮駅には十分ほどして到着。歩く。
 十一時半。松原先生宅。クロネコヤマトの方に来ていただいた。大内町資料館へ一万本のテープの輸送料が、梱包料を含めて十一万円。後払いで送ってもらうこと。これで東京での目的を果たした。 松原先生に御礼をいって、鷺宮駅まで歩く。これまで二千歩程は歩いたろうか。
高田馬場駅で阿部先生と別れ、地下鉄東西線へ。日本橋で浅草線に乗り換え、東日本橋駅で降りる。ここに、槌屋治紀の会社、システム技術研究所がある。彼は昔、日本で初めてのコンピュータグラフィックを作ったCTGのリーダー。NECの電子ブックの開発者で東大工学部講師も務める。誘われていた元CTGの仲間のヨットセーリングに参加できないので、秋田の銘酒を差し入れだと渡す。
  彼の机の前には東京湾の航海地図が貼られている。週末にヨットで何処に行こうかと考えて仕事をしているという。一万本の民謡テープの話をするとデジタル化したらいいと、黒板にスラスラ数字と記号を書き出して、十六ギガ、ハードデスク3台あればいいという。
 地下鉄の浅草駅へ。 二時。浅草おかみさん会の会長と会うのが目的。蕎麦処「十和田」へ。結構歩く。おかみさんさんの冨永照子さんはいかにも元気。秋田ふるさとづくり研究所長の名刺を渡すと、「ああ、うちに出店しない」という。協同組合浅草おかみさん会で作った「旬の市ビル」に出店しないかということだった。全国のさびれた商店街を元気づけるには、おかみさん達の力の結集しかないと実感した。
旬の市ビルの中にある「地域資源開発機構」事務所まで歩く。

 六時。浅草から地下鉄新宿駅に着く。紀伊国屋書店の二階へはエスカレーターで登る。秋田デレクターミーティングを進める出村企画の出村社長と待ち合わせて、同じビル後ろにある「雀の叔父さん」へ。ここは三〇年前からのなじみ。そこへ悪友の若林正彦がやってきた。別へ行こうと、新宿西口の高層ビルまで彼と二人で歩く。三九階の会員制の高級クラブに案内された。
 十一時。小田急新宿駅まで又、歩く。十一時半。小田急線向ヶ丘遊園駅。息子に寿司食わせて、駅前でタクシーを待ったが、来ない。
 歩こうやと、約十分。
 十二時。やっと息子のアパートに着く。万歩計を見るのは忘れていたが、会った人間十三人。
「フー。よう歩いた」のであった。


ふるさと塾地域づくり実践セミナー
★平成10年2月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「東由利を面白く」
★ 小野 克弘氏
(東由利をおもしろくする会長)

雪上野球をやってるもんですから、今日は代打の切り札と登場しました。私は昭和二七年生まれで、今年四六歳になります。
阿部十全と一緒に「田子作」というグループをやってました。その時に塾長と合いまして、今羽後町の町長をやっている佐藤正一郎さんと一緒にやって来て、「頑張る愛のコンサート」、目の不自由な民謡グループのコンサートに、当時、人気絶頂の田子作をノーギャラで頼むという(爆笑)。忘れもしません、千秋会館でやったのが佐々木さんと会った最初でした。
芸人では食っていけないなと、田子作を辞めてから、百姓をやって農業近代化ゼミに入って活動してました。当時、佐藤正一郎さんがゼミの県連の事務局長をやって冬にゼミバスで東京に出てくる。その時は東京にいて、売れない芸人でして、正一郎さんから飯を食わせるからと呼ばれ、若い根っ子の会の加藤日出男さん、農政ジャーナリストの団野信夫さんとかに、リンゴ箱と米を持ってタダで講師を頼んでることをずっと見てきました。それで、おめえ、県連さ来いといわれました。
当時、東由利では農近ゼミがなかったんです。それで、事務局長は勘弁してもらって、企画部長ということで、急きょ、東由利に農近ゼミをつくってもらって、由利郡からいきなり理事として県連に出てきたという訳です。

そこでこの間は佐々木さんにタダででましたから、県連にむたっと協力してもらったという訳です。
佐々木さんにお願いして一番ヒットだったのが、当時の経団連の会長「土光敏夫さんと秋田の農業青年が語る」という目玉を勝手につくって、何とかコネクションがないかと「困った時のみちお頼み」(笑い)というのがありまして、経団連にコネがないかと。その時に、花の企画社の土井さんを紹介して頂いて、そこから経団連の秘書課までいきまして、忙しい方なので最初は十五分ぐらいの約束だったんですが、土光さんも岡山の田舎で育って農家のこともよくわかっている人で、米の自由化問題など、十五分の約束が一時間以上も話すことが出来ました。

東由利をおもしろくする会を何で作ったかといいますと、本家が秋田県を面白くする会というのがあります。
東由利というのは出羽丘陵のど真ん中にありまして、純田舎で、山も低からず高からず、雪も一bを降りますし、山間地の代表的な町です。
我々はそれを逆手にとりまして、秋田県南部の中心地と勝手に位置づけをしています。
車で本荘市に三十分、横手市に三十五分、湯沢市に四十分、大曲市に約四五分と。我々は車に乗ることに対しては何も偏見もありませんが、本荘や横手の町の中に住んでいる人は車で五分以上車で行くと、はるか田舎だと思っておりますが、私達にとっては1時間以内は通勤範囲だと思っています。
東由利をおもしろくする会を作ろうと思ったのは、実は雪上野球をやって七年目です。その倍以上前から作ろうと二、三人で酒飲んでました。何せ小さい町なもんですから、首長選挙のしこりというものがありますから、やりたくとのやれなかったということがありました。おもしろくする会の活動を本格的に活動を始めたのは、そういうしこりをなくそうということで、今の阿部幸悦町長が立った時に我々三〇代中間の仲間が集まって、このままでは町が二つに別れておかしくなる。そこで飲まない、金を使わないという選挙をやろうということで、最初、ベテランの町会議員、重鎮、名士といわれる方々から我々の会は雑魚(ザッコ)の集まりといわれました。
ザッコはザッコなりの意地があると、酒出さない、金使わない運動をやっていったら、阿部さんが当選しました。「元気のでる東由利町」が町長のスローガンでしたので、元気を出すには何かをやらねばダメだ、じゃあおもしろくする会をつくろうとなったんです。
いままではただ、酒飲むだけの会でしたが、正式に発足して何かをやろうとなりました。その中の一つが雪上野球なんです。
幸いにして秋田市で、地球の温暖化が影響して、市民グランドの雪が二月頃なくなって、雪上でなくなってしまった。それで大森町の寄り道しましたが、東由利でやるということで、秋田県選抜雪上野球大会というのをやって今年、七年目を迎えました。
これは、世界でも東由利でしかやってないので、非常に権威が高くて、(笑い)どういう訳が全国放送が三回も放映されました。
三月四日、ズームイン朝で一分ほど放映されます。
雪上野球のルールは、全日本雪上野球連盟(会長石井千万太郎・秋田大学教授)のつくったルールです。
今回はズームイン朝に放映になるということで、特別ルールを作りまして、先頭バッターは三塁にも進めるんです。バッターが一塁に走らないで三塁に走ったらその回は、三塁から回らなければなりません。走者にボールをぶつけるとアウトとか、一塁に生きると東由利特産のフランス鴨のソーセージを食べるというルールを作りました。ところが、余り長いソーセージだと喉につまって走られないというので、急きょ半分にしました。そういう野球をやりました。

おもしろくする会は野球ばかりではありません。面白音楽会もやっております。私も昔、歌をやってましてそのつながりで、全く売れないタレントさんがいる訳ですね。全国各地を回っていて、十人でも二十人の前でもいいと、最低のギャランティーでいい。三十人集めれば千円で、三万円払える訳です。フォークソングの教祖がこっちの方に遊びに来るという情報をキャッチしまして、そういう歌い手を招いてコンサートをやり、終わってから必ず飲み会をやるんですね。
私共のキャッチフレーズが本家からもらったんですが、「いい汗、うま酒、よき仲間」でして、必ず酒は飲まなければいけません。(笑い)宴会の方がおもしろいという会でもあります。
ここふるさと塾をキーステーションにして、色んな人と会います。
 そこで横のつながりが出来てきまして、落語家の三遊亭歌之助師匠を由利郡内四カ所でやりました。今売り出し中の千畑町の日本一いかさま奇術師ブラボー中谷も出演した演芸会もやりました。これは東由利で落語家の噺を聞く機会はなかなかないので、町民から喜んでもらいましたね。
それから、由利本荘地域創造研究所を作って、金浦町の「白瀬中尉をよみがえらせる会」とか、象潟町のトライアスロン実行委員会とか矢島、由利町とのかの地域づくりの変わった仲間と連携をとってます。変わっている人間はそれなりにパワーがあります。何かを起こすときに、我々がその受け皿になりたいと頑張っているところです。
雪上野球は、大森町の大森ワインとうちのフランス鴨が結びついて一つの商品パックができたきっかけだったんですね。これで何とか社会に認められてきたんです。
これからは、南国から親子チームを呼んで全国大会を目指し、雪上野球連盟の公認ボールやバットとつくろうかと思っています。
「いい汗、うま酒、よき仲間」で面白くしていきます。


我青春風来記(100)
       早海三太郎

 新宿区霞岳町(41)

羽田空港。七月九日午後7時。大勢の人が見送りに来てくれた。日本航空のカウンターでチェックイン。荷物が六十`で定量オーバーだった。中身を聞かれて、本ですというといいでしょうとOK。
日本学生キューバ友好視察団団長として、何とかここまできた。
隊員の中原哲夫は渋谷のパチンコ屋の親爺さんから、出世払いで金を借りて、参加できた。
学習院の安田亮隊員は日本橋の呉服屋の倅だから、親のすねで参加できる。
キューバのカストロ首相から招待状を取り付けてくれた日本キューバ文化研究所所長の山本満喜子さん。三太郎の背広姿を見て、「馬子にも衣装ね」と笑う。
旅行会社からもらった日本航空と書いたカバンを肩にさげてエスカレーターで二階の待合室へ。
中南米研究会の先輩後輩達が集まっていてくれた。同期の小泉郁夫と橋本文隆はチリへ。小田豊二達は南米踏査隊で今頃アルゼンチンにいるだろう。
 慶応のラテンアメリカ研究会の面々も見送りに来てくれた。
 スペイン語クラスの級友はいう。「お前はいいよなあ。こっちは就職運動で企業回りだよ」
中央大学卓球部副主将の阿部慎吾が彼女を連れて来ていた。卓球部一年生の浜田美保さん(後の世界選手権女子ダブルスチャンピオン)といった。慎吾が彼女を紹介すると、柱の陰で恥ずかしそうに下を向いた。
姉たちは不安そうな顔をしている。外国へ向かうゲートは一つしかない。
二村幸子さんが近づいてきて、小さな箱をそっと渡した。
「何?」
「飛行機の中で開けてみて下さい。あなたが帰った後、徹夜して作ったんです」

 七時五十分。「ありがとうございました。行って来ます」と大勢の見送りの皆に御礼をして、ゲートを出る。ボーイング七〇七。ロスアンジェルス行きの飛行機は飛行場の西端に止まっていた。もうすっかり暗くなっている。
 外へ出て、飛行機まで歩いていくと、頭上から「早海さーん」と声がした。クラブの後輩達が見送りゲートにいた。慶応の橋田君が何か投げてよこした。コンクリートの上に落ちた小さな箱が転んでいった。走ってそれを拾った。タラップを登っていった。(続く)