ふるさと呑風便5月 ’99
アマベル
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私の女性遍歴、ではなく花遍歴に一つの花が加わった。
アマベル。朝顔に似た花を咲かせるペチュニヤをひとまわり小さくした可憐な花です。
この浅い春。仕事場に心友・土井脩司(花と緑の農芸財団常務理事)から電話があった。
「アマベルをいらない?。ペチュニヤに似た花だよ。秋田にトラック一台分贈る。何かに役に立てたらいい」
有り難し 友の情は 無にすべからず
30年程前。彼は学生時代、ベトナムの孤児救済活動を展開後、心の革命を花に託し、「花の企画社」を設立。私はその時、東京中野区方南町の彼のアパートに一時居候をしてた。自分の進路に悩んでいた頃だった。
私は秋田に帰り、彼は三里塚闘争に燃える成田芝山に花の農場を建設。1995年、長島茂雄さんを理事長に「花と緑の農芸財団」を設立し、花の輪運動、農芸塾、フラワービレッジ構想等を展開してきた。
土井氏の弟で、農芸財団理事の土井信行さんからも電話。
「佐々木さんと会いたいから、4トン車で花を積んで秋田へ行きますよ」彼は豪快な男で、花の種も、封筒もどっさり送ってくれる。
とりあえずアマベルを少し送りますという。
段ボールに送られてきたアマベルは50鉢もあった。赤、紫、ピンク、白の可憐な花。花の大きさはペチュニアとサフィニアの中間ぐらい。アマベルの意味は原産地ブラジルの言葉で「愛らしい、やさしい」という意味。
アマベルと聞いて、キューバの看護婦さんの太い注射を思い出した。キューバ・ハバナ大学医学部のレスリング道場。酒場で親しくなったサンチャゴという医学生とレスリングの練習試合をすることになった。投げをこらえて、肩を痛めた。強いはず、キューバの元バンタム級チャンピオンだった。医務室に連れていかれ、看護婦さんから太い注射を肩にブスリと刺された。痛いのなんのって。
その後、カマグエイという町のプールで泳ぎ、耳に水が入って痛くて眠られない。看護婦さんがきて太い注射を取り出して、お尻に打つという。思わず手を合わせていった。「アマーブレ、ポルファボール(やさしくしてください)」・・・・・「イタタタタ」
4トン車といってもどんな大きさか見当がつかない。5月6日の午後一時半。秋田県子ども会連合会副会長の鈴木郁夫さんと、高速秋田道南口で待った。来た。ゲートから出てきたトラックは大きい。大型トラックの助手席から信行さんが手を振っている。
アマベルは全部で八四〇〇鉢を積んできたという。雄和町へ六〇〇〇鉢、五城目町へは一〇〇〇鉢を提供。我住まいの通路脇に残りの鉢が降ろされ、色とりどりの花畑となった。
地域づくりだといってまちおこしに精を出してきた。肝心の足元の、自分が住んでいるまちに何もしていない。割山町内会総会に出席。ここに25年住まわせて頂いた恩返しにアマベルを提供したいと申しでた。新屋割山町には約四〇〇世帯。一世帯一鉢を提供すると回覧版を回してもらった。
5月9日の日曜日。石井鉄二郎町内会長、畑山喜久雄庶務部長も立ち合い、町内の方々が配布時間前から集まった。育て方をカードにしてカミさんと二人で配る。皆さんが嬉しければこちらは楽しい。
その夜、千葉の土井脩司氏へお礼の電話。「アマベルとは天の鈴」だよという。なるほど天から愛の鈴を頂いた。痛い注射とはだいぶ違うのであった。
私は埼玉県の出身で、秋田市の通町という所に住んで20年になります。通町橋を渡りますと上通町、中通町、大工町の3町でできています。道路の向こう側とこっち側の商店街が通称通町になっているんです。
私達が住んでいる所が大工町なんです。大工町って知ってる人はいなんです、知ってました?ああ嬉しい。(笑い)
そこで大工町ですから、婦人の会をマダム・カーペンターズといいます。(笑い)大工町には何もないんですね。何もないというのは子ども達がいないんです。私達の子ども達が今から10何年前に子ども会を作ったんです。で、うちの子ども達が卒業してしまったら子ども会も終わりなんです。次の子どもがいなんです。みんなジジババ商店街というか、何にも出来てこない。
通町の道路拡幅というのがあって、車道はそのままですが、歩道がすごく広くなりました。2bの歩道ができて、それまでは斜めになって歩かなければいけないほどだったんです。通町ではなく素通り町といわれていたんです。(笑い)お客が素通りする町だとみんな納得していたんです。
歩道拡幅の計画が30年たってようやく出来ました。去年の5月に大々的な通町開通イベントが行われました。その時に商店街の旦那さん方が張り切ってチンドン屋を呼んだり、第九じゃないけど合唱団を呼んだりしてやったんです。
それだけではもったいないといいうので、その後の6月、7月の第4土曜日に、露天を出したりしてまちおこししようではないかと旦那さん達で決まったんですね。上通町の方にはお店がいっぱいいるんですよ。奥さん達にも上通町若妻会があって、半纏かなんか作って色々やっているらいしいんです。で、中通町は関谷さんと銀行があるために、何もやってないんですね。私達、大工町は菊谷小路と保戸野鉄砲町の間なんですけども、中に会社があったり、駐車場や問屋さんがあったりであまり商店がないんです。この5月のイベントの時に、私達に仕方なくラーメン屋さんを回してもらったんです。皆さん、菊屋小路までくるともう、通町ではないと思って行っちゃうんですね。
私はお祭りが好きなもんですから、向かいの問屋さんの奥さんで東京からいらしたんですが、二人とも関東の人間ですからとても気があって、それじゃあ何かやろうかしらと色々考えたんですが何もないんですよ。
それでは手始めにと、大工町の一番外れに川口屋さんというお菓子屋さんがあるんですね。そこからワゴンに乗せて無理矢理お菓子を持ってきたんです。大工町でここからもやってますよと、あわてて白いエプロンをしてやったんです。これが評判がよかったんです。
8月に草市というのがありまして、これはずっと昔からやっているようですが、大工町商店会としては金魚すくいとかのお店を頼んでいるんですが、今年はスイカでも売らないかと主人達が決めました。私達はその話に何ものってなかったんですが、スイカを仕入れてさあ、売りましょうとなって、夫は偉いもんですから、並べることは並べる。(笑い)全然やってくれなんです。結局、走る回るのは私達だと気がついたんです。
その時、Mのスイカで、高かったんですが、千二百円ぐらいしてたんです。それを私達は、五百円、六百円、七百円、八百円の段階で売ったんです。そしたら買いに来た人が、中は白いんでしょうとか、どっかの八百屋さんの回し者が来てね、仕入先がどこかわからなければ買えないとかいってね。そういうひどい人も沢山いましたけれども、その時はあっという間に売れたんです、スイカが。(笑い)
多少儲かったんですね。それで私達手伝ったおかみさん達がお茶を飲もうとなって、で、そこの場でせっかく盛り上がったんだから何かやろうとなったのが、マダムカーペンターズ、大工町婦人の会なんです。
会をつくるには、会則を作ったりを、きっちりやりました。で、エプロンを作りました。私は洋裁が好きですから私が全部エプロン作って、使ったら洗って私が保管して、九月のイベントの時に、会長、副会長とかではぎょうぎょうしいですので、世話人として3人。私と向かいの奥さんと平野書店の奥さんと3人で世話人です。そこで何を仕入れるか、そこからが大変でした。安くなければ売れないということが頭に入っています。
仕入れて売れなかったらどうするか。もしも雨が降ったらどうするのか。この責任はだれがとるのかということまで。仕入れは世話人3人がお金を出しました。言い出しっぺの私達が責任を取らなければいけない。会員は23人でした。10日くらい前にポスターを作りました。大工町は誰も知らない。そこからUターンされては身も蓋もない。ポスターはカレンダーの裏に手書きで作りました。全部内の中に貼ってもらって、前日に私達もらいに行って今度は外に貼りました。
当日は朝からキュウリを袋詰めして、ともかく安かったんです。30本で百円とか、それが口コミで安いというのが広がったんです。
売れるには売れたんですが、一番失敗したことは、安いというのが全面にたったので、お客さんは安いということだけで来るということがわかりました。それでももっとまけろとか、儲けはいらないのですが、客層が悪い。(笑い)
九月には全部売れには売れたんですが、ちょっとショックを受けてしまいました。というのは、私達の売る野菜は無農薬の野菜だったんです。形が悪かったりしてちょっというのが多かったんです。形が悪いと安いと思うのが当たり前なんです。無農薬といっても、十回農薬をやるところを5回にすれば無農薬なんですね。私のところに野菜を持ってきてくれるのは横手の奧の方の人なんです。とても親切でいい人です。
九月は失敗だったんですが、十月のイベントは別の作戦を立てました。季節がら温かい、におい、煙を出そうとなりました。
焼き芋です。(笑い)もう一つは肉まんをやりました。肉まんは仕入れが高いんですね。高くても美味しい肉まんにしようと、ともかく三人で色んな肉まんを食べました。決まったのが高いんです。一個百五十円。売れるかとうか心配でしたが、秋田テレビのワイドユウで宣伝しないかとありましたので、ポスターを持ってエプロン着て出演しました。そしたら、テレビの威力はすごいですね。肉まんと焼き芋が売れました、売れました。その時の客層は9月の時と全然違うんです。(笑い)10月の成功でマダム・カーペンターズのイベントは終わったんですが、そこで問題が残りました。利益が出てしまったことなんです。一番大きな問題は23人の会員の誰が売ったかということなんです。どのくらいの人が手伝いに来ると思いますか。会則にはイベントを協力する、盛り上げるとあるんです。でもお店をやっている人は出て来れないんですね。それできちっと手伝ってくれた人は7人なんです。そこで私達の儲けは時間給ではないかとなりました。
そしたら時給なんかいらないという人が多いんです。時給分を払って残った利益を次のイベントの費用にする計画なんですが、まちおこしはしたものの、この利益分の配分を如何にするかというのが目下の一番の問題です。これが解決されれば、マダム・カーペンターズは永遠に続きます。(笑い)
バスターミナルからタクシー乗り場に鞄を押して歩いた。行き交う人々はのんびりしていて、人なつっこい表情をしている。
日本のタクシーと違ってオンボロだ。気の良さような運転手だった。鞄を助手席に運んでくれた。
驚いた。後部座席に乗ったら、運転席との間に鉄の棒が2本、横についている。これは何ですかと聞くと、ペラペラペラ。何をしゃべっているか理解できない。後で聞いた話だと、強盗避けだった。
ホテルモンテカルロへ行ってもらう。キューバの招待を取り付けてくれた山本満喜子さんの紹介。
三太郎は貧乏だから、ここのホテルでいいという。名前からしたらリゾート風だが、全く違っていた。幽霊がでそうな5階建ての古ーいホテルだった。
後年、悪友の若林正彦がキューバへ行き、羽田に出迎えに言ったら、三太郎の顔を見るなりいった。
「お前に紹介されたメキシコのホテルに泊まったら幽霊がでたぞ」
幽霊ホテルでもカウンターでは英語が通じる。一日1ペソ(1ドル・360円)だという。
安い。部屋も結構広かった。ウルグアイ通りは人通りも少なく静かだ。ホテルの部屋のベッドに休んでいると、掃除のおばさんが入ってきた。ぺらぺら何か話しかけられた。よくわからない。スペイン語会話を勉強してきたつもりなのだが、ヒアリングがだめ。その叔母さんが大きな声で廊下にいる仲間を呼んだ。「マリーア」「ケー?」マリアとケー?だけはわかった。英語でホワット。「なあにー」だ。邪魔だから外へ出ていってくれということだった。
ホテルの外へでる。向かいに露天の果物屋があった。あるある。
日本では見られない、果物の王様といわれるマンゴー。いろんな種類のバナナ。ザクロもあった。
果物屋は母娘でやっている。日本の温州ミカンはないが、大きなオレンジがいっぱい積まれている。 日本人だというと娘の方が三太郎にミカンを一個差し出して、食べろという。三太郎はお礼をいって皮を剥いて、一つづつ取り出してその皮を剥いて、と、やっていたら、母さんが日本人はなんとかいう。自分でミカンをもう一個取り出した。ナイフで四等分に切り、その一つを口に近づけ、こう食べるのよといって、皮だけ残してモグモグガバッと飲み込んだ。
メキシコ風オレンジの食べ方を三太郎は学んだ。(続く)