ふるさと呑風便4月号’99
愛
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
照れくささを忍んで、愛という言葉を使わせてもらうと・・・。
といった書き出しで若い頃、何かに書いたことがあった。
信太アイさん。昔、秋田保健所で同職だった心優しく美しい人。 保健婦さんのOB会「秋田県ゆずり葉の会」での講演を頼まれた。 アイさんからだから、講演テーマは「ふるさとに愛を」でどうですかといってしまった。洒落でいった言葉でも責任を負わねばならない。四月三〇日の講演にあわせてこの巻頭言の題も「愛」とした。
そこで、パソコンに書き貯めているメモ管理データの中から「愛」を二つ貼り付けをした。
「1威 上に立つものにそれだけの品格威厳があること。
2愛
民を愛する政治である。官僚は往々にして自らもまた民で あることを忘れ、何か民と異な る特別の存在の ように錯覚して、民と抗せんとする。
3清
清廉である。上に立つもの、政をなすものが腐敗堕落すれば天下の治まるわけがない。ー中略
要するに、政治の本質は為政者の修養にあり、政治の極致は万民をして心安く、分を知り、疑惑なからしむにある」(山鹿素行流政治論)
人に可愛がられる方法を教えてあげます。『人に面と向かっていろいろなことはいわなくても、カゲにおってあの人は善い人だ、まことに利口な人だ、というように、つねにほめていると、いつかその人にわかる、以心伝心、自然とそれが先方の人に通じて喜ばれる。
ひっきょうするに、人をそしるということは、自分の無能を表明することになるのだから、よくよく慎まなければならぬ』
(福沢桃介の言葉)
文芸春秋「司馬遼太郎の世界」、「回想の司馬遼太郎」に優しい愛を感ずる名文があった。
「動物好きの人が、野良犬や捨て猫の前にしゃがみ込んで、『ホラ、こいこい、おいで』と手をさしのべているときの、こよなく優しく柔らかいまなざしを、誰でも見たことがあると思う。
野良犬や捨て猫は一瞬、身を低くして警戒の体勢をとるが、やがて優しい眼の色にひかれてソロリ、ジワジワとにじり寄る。『お、きたか』とひとこえ、すくいあげるように抱きあげて膝に乗せ、『寒くはないか?』『腹がへっているんじゃないか?』と、ゆっくりと背中を撫でてやる。
司馬先生は、犬や猫のみならず、どんな人間にでも常にこの眼で向き合った。(菜の花 高峰秀子)
司馬先生のような心の広い人は身近にいる。近江宏平先生。一緒に訪ソ青年の船に乗った仲間でつくった小倉ゼミナールの名誉教授。
先日も教授、駐車場整理の見知らぬ若いガードマンに大きな声で「ご苦労さん」と声をかけられた。びっくりしたその若者は思わずニッコリ笑って先生に敬礼をした。
動物好きの人間は、もっと身近なところにいた。近所を一緒に歩いていると、野良犬がいそいそと歩いている。「ワンチャン、どうしたの」と声をかける。しゃがんで「おいで、おいで」というと、その犬は立ち止まる。やがて頭を低くして「クンクン」と声を鳴らしてそろそろと近づいてくる。彼女は抱き上げて頭をなでる。
彼女とはうちのカミサン。この春、「あなたほど秋田を愛して、仕事をしているのにどうして」と泣かれてしまった。私は中仙町の出身ではないが女を泣かせ、てはいけない。
朝、サクサクと鰹節を削る音で目が覚める。カアチャンがおにぎり弁当のおかずを作っている。今まで照れから恐妻弁当といってきた。明日から愛妻弁当といおうか。
いまさら遅いといわれそう。
男鹿半島なまはげ伝説九九九というイベントの実行委員長となっていますが、提案をしたという事でなったんです。メンバーが集まって協力して頂いた結果、色々マスコミなんかで取り上げて頂きました。結果的には大成功ということで、評価を得ています。
このイベントのきっかけですが、自分の住んでいる男鹿市が過疎化していって人口が減っています。そこで経済的な波及効果を生むような地域を活性化するようなことがないかと考えていました。ただ漠然としてて、実際どう動くかとなると非常に難しい問題で、自分は何ができるかと去年の四月頃から友達と飲んでいて、平成9年9月9日があるなと、999ということで何かイベントなんかできないかと話をしてました。岩手では宮沢賢治の銀河鉄道999(スリーナイン)をもとにしたイベントをやるんじゃないか、男鹿でも何かをと漠然に思っていました。
私は家業で夜、タクシーの配車の仕事もしているんですが、暇な時間もあるんです。事務所に貼ってある男鹿市の拡大地図を見てました。男鹿半島でいえば南側に五社堂があって、そこはなまはげ伝説で有名で、九百九十九段の石段があるの見つけました。これだと思いました。九百九十九段と平成九年九月九日が一致するんです。
この共通点をもとにしたイベントができないかなと思いました。 仕事の関係上、男鹿半島の観光協会から声がかかってフューチャー21とか、将来の男鹿半島を考える会に参加したり、男鹿大橋の手前に夕陽を予告する伝言板を提案させて頂いたりしてました。
たまたま男鹿半島の観光ボランティアガイドの方々と知り合いました。皆さんはボランティアですから、男鹿半島の観光をどうするかを考えていて、「愛の風」という機関誌を出しているんです。
この第一号に「まちおこしの成功の秘訣は」と題して書いてまして、「若者、よそ者、おおバカ者」がまちおこしに係わることだとありました。これが私に強く感じるものがありました。
平成9年9月9日に、五社堂の九百九十九段で何かやろうと観光協会に秋山さんにこのアイディアを持っていったんです。そこでボランティアガイドの方々に来ていただいて、自分なりに企画書を作ってみて頂きました。それは、9月9日に寒風山でなまはげを999匹集めたイベントでした。
第一回に魁新聞でメンバーを募集して三,四人ぐらい集まって、ボランティアガイドも入れて23人集まりました。五月に入ってから第一回準備委員会をやりました。
会を重ねる度に、やはり五社堂に九百九十九の石段があるからと会場は多数決で決まりました。
会に23人のメンバーが集まったんですが、実際仕事を持ってますし、日中動ける2,3人で準備を進めてきました。そうすればお金はどうするんだ。寄付集めはやったことがあるのかとなります。
ただ寄付集めではこの景気の悪い中では、市民に対して酷ではないか、じゃあ県とか市から助成金を頼んでみたらということで一応お願いしました。ダメだったんですが、前から税金を使うという意識はなくて、テレカとかを売ってやろうと、それも向こうから買ってくれるようなものをと考えました。メンバーの中からタオルなら安く仕入れることができるとあって、そこで赤鬼、青鬼のタオルをワンセットを九百九十九円でどうだという意見が用意されていたかのように出てきました。
すぐ行動に移って、タオルを秋田市内の業者に作ってもらいました。赤鬼と青鬼の絵、男鹿半島なまはげ伝説九九九、平成9年9月9日 五社堂と書いたタオルを売れる人に沢山、それぞれ友人知人、旅館、地元商店だとかに売りました。売れました。(笑い)
ちなみに私は七〇〇組売りました。一つ千円として七十万です。
責任があるし、自分が動かなければ人も動きません。最後に男鹿市役所にもお願いに行って、佐藤一誠市長から全職員から買ってもらうように頭を下げてお願いし、五人ぐらいで市役所に乗り込んで各課を回って全部で二百三十本ぐらい売りました。全部で職員は四百人いますけど。(笑い)
タオルは順調にあっという間に、全部で三千本売れました。
収入はタオルで約三百万円。製作代が八四万円でしたから、収益は二一六万円ですね。寄付金は5万円ありました。999記念テレカは四十万円程で、全部で三四六万円が収入です。
これで音響、照明とかをイベント会社にお願いして、七〇万でした。このイベントの中身を考えた時に、ここはどういう地かわからないといけないので、なまはげ伝説の語りで、村人の三人が紹介するのと、なぜ999段なのかというとなまはげが悪さとして、地元の村人が困って、なまはげと交渉して一晩で、一番鶏が泣くまでに千段の石段を作れば、地元の娘を与えるし、好きな食べ物を与える、何でも好きなものを与えるといった訳です。そうしたら五匹のなまはげがどんどん作っているので、村人がこれでは千段できてしまうと、999段できた時に一番鶏ではなくて、夜明け前にあまのじゃくがコケコッコーと泣いてしまったのでなまはげが悔やしがり、999段作った所に樹齢千年の天然杉があって、それを根こそぎ引き抜いて、地面に逆さまに刺して、山に入っていなくなってしまったというのがなまはげ伝説です。
男鹿のなまはげが入っていった山を本山、新山、毛無山という男鹿三山といっています。その時、地元の門前地区の人は、なまはげを鬼と呼んでいました。鬼が山に入っていって平和がきて、鬼が作った九九九段がこの伝説です。
男鹿半島のなまはげが全国に知られていますが、なまはげというのは日本海側、津軽半島から秋田には雄和町にもありますし、酒田、新潟の方まであります。九州の宮崎にも似たようなものがあります。
他の地域には伝説がないそうです。男鹿には五社堂に伝説があるから、男鹿半島イコールなまはげだといわれているんです。
そこで9月9日のイベントでどういうことをやったかといいますと、開催目的は、「なまはげ伝説の五社堂の九九九段を登ってもらい、『なまはげ』に扮したり、日頃のうっぷんを晴らしてもらう。なまはげ伝説と、伝説の発祥の地を全国に向けて知らせ、同時に男鹿をもっと面白くしたい」です。 あと一段を出来なかったなまはげには「うっぷん」を晴らしたいというのがあるだろうから、なまはげのうっぷんを晴らわないといかんと。そこで全国にうっぷんを募集しました。「うっぷんの葉書」を当日、五社堂に持ってきてもらうか、郵送して頂くかを考えました。結果的には一二〇〇通ほど集まりまして、イベントの中でなまはげがうっぷんの短冊を焼き、宮司さんが五社堂でお払いをしました。この時、迫力をつけるためになまはげ六〇匹を出しました。九九九段は登りが十五分かかるんです。綺麗な石段でなくて、交互にある石なので、なまはげ太鼓等を五社堂に上げるのには大変でした。総勢百二十名で上げました。そのうち二十名が市役所の人で、これは画期的なことでした。それに地元住民、消防署、警察署、東北電力から協力してもらってこのようなイベントができました。
振り返ってみて、ヒットだったのは、タオルを売ったことで資金集めができたことだと思っています。
次は十年十月十日です。
振り向くとバスの中の女子大生の眼と合った。何故か思いついた歌が園まりの「夢は夜ひらく」だった。有楽町にあったナベプロを訪ねた時、聞いたメロディだった。
思い切って歌った。
選曲ミスだった。スローテンポでラテン気質のメキシコ人には受けない。一番だけで歌い終わって拍手はパラパラ。早稲田の校歌「都の西北」をでかい声で歌った方が受けたのにと後悔した。
バスに乗って二日目の昼。メキシコ第二の都市グアダラハラに到着した。朝食のために降りたレストランで、その美少女と席が一緒になった。仲良くなったホセも同席した。メキシコシティに恋人がいるホセはしきりに彼女に話しかける。どうも三太郎との仲を取り持つ気があるらしい。彼女、バハカルフォルニア大学の二年生だった。黒髪に大きな瞳、三太郎は学友の若林正彦の好みだろうなあと彼女を見ていた。メキシコシティでレスルトランを経営している叔母に会いに行くという。レストランの名前はレストラン「ナイルだと教えてくれた。メキシコ市に着いたら訪ねていくよといってしまった。
グレイハウンドバスはメキシコシティに近づいている。三日目の朝、道路がゆっくりと上り坂になってくる。窓の外は荒野、サボテンが林立している光景が広がる。
メキシコの首都メキシコシティは、南部の中央高原にあって標高2200bにある。富士山の5合目に首都があるようなもので、バスの中にいても、気のせいか空気が薄くなってくる感じがする。
メキシコ市街に入ってきた。大きな近代的な塔が見える。ラテンアメリカ塔だ。メキシコは中南米、ラテンアメリカのリーダー格を示している塔。古くからの文化の要地で、十四世紀アステカ王国の首都であった。1521年スペイン人コルテスが占領、破壊し、新しいスペイン人の首都を建設した。
車中の陽気な若者ホセは、スペイン系の白人青年である。
長旅のバスはメキシコ市の中央ターミナルに到着。アメリカ・ロスアンジェルスから三日半のバスの旅だった。
ホセは「チャオ」(イタリア語でさよなら)といって帰っていった。そう、彼女には叔母さんだろう、迎えに来ていた。肝心の彼女の名前を聞くのを忘れていた。