ふるさと呑風便4月号
不可
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東京駅。3月28日。ホームで新聞を買って新幹線の中で開いた。朝日新聞の朝刊漫画の横に掲載されている記事の見出しをみて、「またか、まだか」とつぶやいた。
「うそよ うそうそ、それもうそ」の縦見出し。秋田県のカラ懇談会費返還訴訟、和解の根拠もニセでした、とある。
浜松の結婚式場で同じ新聞をみて、当たり前だが同じ「うそよ うそうそ」の記事を又見て、「ここでもか」とつぶやく。当日の秋田版の新聞は記事の中身は同じだが、「うそよ」の見出しではなく、「懇談会、返した金の根拠もカラだった」であった。
全国に与えた秋田県の不名誉なイメージは金に換算したら幾らになるか。朝日新聞の全国版社会面に2段の広告費だと七七六万円。全国紙三紙だと二千万円を超える。うそうその記事だけで秋田県は一日、二千万円以上の損害を被ったことになる。全面広告をだすとしたら四千五百万円かかる。
全国に恥をさらした秋田県庁の食料費問題。他県との決定的な違いは、職員同志の飲み食いが桁違い多かったこと、それに公文書を偽造して公開したことである。
まさに無恥。この問題を引き起こした職員は、六千人の中の一握り。
和を以て尊しとなす。この和、役所でいえば、カプセルの中でマイナスをかばい合う職員の輪である。食料費問題で訴訟を起こされた職員には、弁護士費用は県費から出せない。だから、職員にカンパを求める。カプセルの中でそれを断るには少なからず勇気がいる。
ニセ公文書を書いた職員とその上役は不可の烙印を押された、錆び付いた電池のようなもの。民間から新しい性能のいい電池に換えたらいいと思うのだが。腐った電池には減俸何ヶ月だけでなく、老人ホームでお年寄りを世話するボランティア活動も義務づけたらいかがだろうか。民間の厳しさを少しは体得させたほうがいい。
日本銀行の副総裁に民間のマスコミ人だった藤原作弥さんが就任した。庶民に顔を向けた日銀にと期待されている。
この人、面白そうな方である。3月22日付け毎日新聞の「酸いも辛いも」に藤原副総裁のエピソードが載っている。ー田中真紀子さんに振られる(?)の巻。田中蔵相(当時)はでき愛していた真紀子さん(当時早稲田大学学生で演劇に凝る)の婿探しをしていた。某社記者が蔵相に「時事の藤原が独身ですよ」。田中蔵相に届けられた興信所レポートには「@学業成績不可多しA反体制思想の持ち主Bバーの二階に下宿、大酒飲み」とあって一件落着となる。
田中真紀子さんとは偶然でしかないが、大学時代同級生だった。貿易スペイン語のクラスで二年間だったが、話もしたことなどない。彼女に近づこうものなら、親爺の逆鱗にふれるということだった。
小生も藤原副総裁のレポートではないが、バーの二階に住む以外は、不可多しも当たっている。
政治学も不可だった。三年生の時、考えることがあって政治学の試験用紙に「来年又、先生の講義を受け直します。不可にしてください」と書いた。
翌年、勝村茂教授の講義で記憶にあるのは、初の社会党片山哲内閣をつぶしたのは時の大蔵省主計局長福田赳夫だった、ということ。 前期の授業にはキューバ行きの準備でほとんど出なかったが、後期はまじめに受講した。試験もカリスマの定義とか、出来たつもりだった。通信簿で優はもらえるかと思っていた。だが結果は、かろうじて「可」だった。
秋田県を赤点の不可から可にするにはかなりの時間がかかる。
今日お集まりの方は経営者の方々が多いと察してまして、まず、ジェトロをご活用頂くために、ジェトロの役割について、ご紹介したいと思います。ジェトロ秋田貿易情報センターの初代所長で、3年たちました。最初、県に出向し、ジェトロ(日本貿易振興会)秋田を設立するための準備を県の商政課の方々と進めました。平成6年10月1日付けでジェトロ秋田がオープンになりました。秋田の貿易を絡めながら、ジェトロ秋田の事務所をどのように運営してきたのかを話し、ジェトロの役割について述べていきたいと思います。
ジェトロは昭和33年に通産省の外郭団体として、設立されました。目的は戦後日本が経済成長を遂げるためには、外貨を獲得して、その外貨を資金源として経済成長を遂げていくと。そのために日本の製品を輸出して外貨を稼ぐ。極端にいえばドルを稼ぐということです。その輸出振興機関として設立された機関です。佐々木さんの学生時代のクラブの先輩、私より6歳上でしたが、増島貢さんはまさに、輸出促進のためにジェトロに入ってこられた方です。
私も昭和46年に入会しました。
現在のジェトロというのは、輸出促進は企業の営業活動の中で充分なされているものですから、三つの役割を持っています。
一つは輸入促進。アメリカや欧米等先進諸国から比べますと内外価格差があって相当高い。そこら辺を先進国並に是正して、経済成長を遂げていくことです。
二つ目は、日本が経済大国になったということで、発展途上国への支援です。ODA、発展途上国への経済援助をやらせて頂いてます。三つ目が産業協力。先進諸外国との技術、共同研究、製造業を中心とする産業協力を行い、日本の新しい製品をつくって海外との交流を図っていく。
この三つがジェトロの今の大きな役割です。当然、そこには地域の国際化ということも入っております。そういうことで、国内には30数カ所のジェトロ事務所があります。海外には80数カ所のジェトロ事務所がありまして、総勢千三百人という体制で働いております。
秋田県がジェトロを誘致して、何とか秋田の国際化を図って欲しいというラブコールが十年ぐらい前から続いていたということです。この間、四国や福島にもジェトロ事務所が設立されるようになりまして、その順風の中で秋田にも全国33番目の事務所として設立されました。東北六県の中では一番最後にできた事務所です。スタッフは私を入れて6人の小さな事務所ですが、開所式は豪華でして、佐々木知事、柴田県議会議長、石川秋田市長、通産省の中川貿易局長等の来賓が出席されています。
私共の理事長が前日に来秋された際、車の中で「秋田はどういう風に国際化していこうとしてるんですかねえ」と質問をされたんです。車の中に当時の県の商工労働部長の増田さんがいたので、県の国際化についていろいろ議論したのを覚えています。ただ、それが県の国際化の方向と一致するかは当時、自信がありませんでした。翌日、知事への表敬訪問の際、知事から「どのように秋田を国際化していくのか全くわかりませんので、それをジェトロに教えて頂きたい、その為にジェトロに来ていただいた」といわれました。そこで三人が一応の答えを得たということです。
ジェトロ秋田設立の目的の一つは、県内の中小企業の方々に対して、対外取引を通じた国際化。それを通じて県内の経済を活性化していく、そのお手伝いをすることです。その意味で知事から拝命を受けたジェトロへの期待と一致する訳です。
私どもは通産省の外郭団体です。外国との国際化のツールは教育とか、文化とかがあるんですが、私どものツールとしては経済、産業を通じた秋田県経済の活性化、国際化が命題です。
私も三年ぐらいのうちに、異動があるのではないかと、三年計画をたてました。言葉でいえば、ホップ、ステップ、ジャンプの簡単な方程式をつくりまして、事業を行って秋田を国際的な貿易を目指してやっていこうと考えました。
第一のホップは、県内企業の意識調査をやりました。県内企業が貿易をしたいのか、海外企業との取引に興味があるのか、それを把握しない限りは戦術、戦略をたてられないもんですから。私がこちらに参った時はステップが全くなかった。知り合いは家内のお父さんの友達が一人おられた以外は、まず真っ新な状態でした。ジェトロが国際化を進めていくために、秋田県の中小企業の皆さんはほんとにそれを望んでいるのかどうか。それを把握しなければ私どもの仕事ができない。非常に簡単な調査でして、まず貿易をしたことがありますか。あった所は何処と、どんな商品を。貿易をしていないところで、今後貿易をしたいか。何処と。どんな物でといったニーズ調査です。それを約四千社ぐらい行いました。
恐らく百件ぐらいしか回答がないと思いましたが、四五〇社の答えを頂きました。これには非常に驚きました。秋田県の中小企業は貿易に飢えていたのではないかと思わった程です。ジェトロとしては水を供給できるターゲットを得て、秋田での役割の重要性を痛感したところです。
そこで四五〇社に水まきというか営業活動を行いました。セミナーを開催するとか、各種イベントとか、巡回貿易相談を行うとか、事務所にいるんではなくて、積極的にこちらから出ていきまして、県内の中核都市を回ってPRを行い、対外取引のノウハウをアドバイスし、海外市場に関する情報提供するという事業を行いました。
設立一年目というのは、セミナーを十六回行いまして、海外から収集したサンプルの展示商談会を八回行いました。この半年にジェトロへの相談件数は千五百件ありました。来場者が千百人という盛況となりました。この勢いにのって平成七年度も営業活動をどんどん行いまして、セミナーを四十回、サンプル展示や商談会のイベントを十回、海外へのミッション派遣を五回、逆に海外からのミッション受入し、展示会、商談会を三回と色んな事業を行いました。その年はジェトロへの貿易相談件数が二千六百件。来場者が千七百人。
そこで一番力を入れたのがFAZの調査でした。それは地方の港を国際港にすることでして、それで輸入促進をして活性化していこうという通産省の時限立法の事業だった訳です。そこで秋田港をFAZの指定港にと働きかけました。その為の調査として、秋田県とその周辺県の商圏を調査しまして、充分な貨物の確保ができるのか、その効果が生まれるのか。というようなデータを取りそろえる事前調査を行いまして、その役割をジェトロが事務局として引き受けました。約千万円の経費で県内と青森、岩手の企業のアンケート調査を行いました。当時の貨物の流れを把握したり、秋田港を国際港とした場合、利用するかの意識調査を行いました。そこで、我々が目を疑うほどの潜在的な貨物の量が存在することが判明した訳です。
今までの年間輸出が十二,三億円ぐらい、輸入が五百億円ぐらいしかなかった。ところがFAZの調査をした結果、潜在的な需要が相当あることがわかった。潜在的な貨物の輸出が千五百億円ほどあったんです。輸入が八百億円ぐらいあった。(続く)
新宿区霞岳町(38)
日本を離れキューバへ旅立つにあと5日。三太郎は、何かしら胸のざわめきを感じてきた。不安か、武者振るいでもなく、何かしらのあせりがあった。7月4日だった。
日記に記している。
ー友人達は就職で多忙、あせっており、不安がりそれに引き替え自分は全くのんびりしているようにはた目に思えるだろう。キャンパスでスペイン語研究会幹事長の三苫と会った。彼はスペイン語をすっかりマスターし、翻訳の仕事までしている。彼の情熱と努力を聞き、自分は責められている気分だった。自分のスペイン語の努力の足りなさを痛感する。その不足を何か他の努力、他の機会を利用して自信を深める事ができるさ、と心に決めようとするが、やはり、不安を感じざるを得ない。
交通論の授業が終わった後、中西睦先生の研究室を訪ねた。何か先生に頼りたかった。そして、勇気を与えられた。それは、先生かが自分に大きな期待をかけてくれていることだ。不安な自分に先生はいわれる。
「現実に負けてはいけない。戦うことだ。理想との断絶に橋を架けるのがお前の役割ではないか。何のためにキューバへいくのだ」
そうだ。周囲の心を同じくしていた友人達は、就職という現実にぶつかり、何のためらいもなく理想を捨て、いとも簡単に多少の悔いは残して挫折していく。人生観を一生持ちえるのであろうか。とうとう理想に終わり、疎外感をあきらめとともに味わう。
オレは負けまい。その為の自信をメキシコへ、キューバへ行って体得してくるのが第一の目標ではないか。
中西先生は、しきりに現実に挫折するなといい、栗原と一緒にバッチをつけてくれとおっしゃった。
先生の自分に対する期待は大きな勇気を与えてくれ、それに答えるということは、心よい自分の義務に思われるー
中西先生は研究室の外まで三太郎を送ってくれた。「就職のことなどいらない心配するな、俺が何とかしてやる」と大きな手で三太郎の肩をたたいた。言葉は励ますためにある。
三太郎は新橋の京成トラベルへ行き、一八万円の代金を払ってパスポートと切符、日航のカバンをもらった。後はドルに替えるだけだった。あと5日。(続く)
3月2日(月)秋田市山王・はらた。児童福祉課時代の栗河和夫さんの母子福祉担当の送別会。二次会は山路にて、次期毎日新聞秋田支局長も来て、何やらおかし。
6日(金)川反・鳥八。石川公正先輩の二回目の出所祝い。三浦書店三浦義明氏と。市町村の広報マン、鳥海町の佐藤定樹君、山本町の田村征孝君達も。NHKの大越洋子さん、娘まで来てしまった。
10日(火)朝日新聞秋田支局の神野峯一支局長の本社転勤で、山王・だいこんや。毎日の渡部慶一次長、秋田放送の丹内モモコさん。山路で歌い、ギャラリーで朝日の山口新支局長と。
十一日(水)秋田稲門会。ニューグランドホテル。二次会は川反・あきた杉。長門伸一会長と、新生秋田稲門会の幹事長候補に石川健君がいいと、決める。
十二日(木)岩橋豊毎日新聞秋田支局長の本社転勤祝い。山王にある岩手放送秋田支局長の鈴木修氏の単身赴任マンションで。鈴木さんの手作り料理で一献。奥さんが買ってくれたという吉永小百合の写真集を見て、ビデオまで見て、隠れ小百合ファンのおじさん三人。
十四日(土)鳥海町・フォレスト鳥海。「広域ヤングジェネレーッション研修会」へ。元オフコースのドラマーだった小坂町出身のオオマジローさんと地域づくりの鼎談。オフ・コースとは、コースを外れたという意味だった。こちらも同様。彼の成功の原動力は苦労した母親を楽にさせ、武道館でのコンサートを見せることだった。
十五日(日)フォレスタ鳥海で朝食がフランス風料理。ご飯はあるが納豆はなしで、午前中、水墨画を佐藤教室で習う。
午後、大内町の実家に寄り、農業改善センターで書道家・小松天嶺先生・アベツトム先生の出版記念会。「老筆は死なず」来賓の瀧廣明大先輩の挨拶。この日のための歌の披露が素晴らしい。
「老筆は死なず 主題よきかな読みつがれ 語りつがれて 後の世まで」短歌を学びたいと思った。
九三歳になる小松天嶺先生から小さい時、習字を習ったことがあった。三日坊主でした。
十六日(月)海外技術研修生の送別会。みずほ苑。ペルー協会から北嶋昭事務局長と出席。ペルーの柔道家ミランダ、ドミニカのサンチャゴを館に連れていって。酔っぱらうとスペイン語が出てくる。
十七日(火)秋田市桜の合気道河辺道場の河辺茂氏と、魁新報の那須優記者が座配してくれた。河辺先生の息子が経営する「みなみ」にて。雄物川町の佐々木太郎親子、毎日新聞横手通信部の小西吉先輩則と。合気道・河辺師範の極意は「受け流す」カミサンの小言も受け流すとの事。太郎さんと川反・とんかつや。亡くなった愛娘亜紀子さんの追悼詩集の相談。
「十二月三十一日の話」小四・佐々木亜紀子
ねえ、1月1日はいつ?
それは明日だよ。だって、今日は土曜日で、明日は日曜日だから来週じゃない? うん・・・・・
二十日(金)野呂金悦氏を偲ぶ会。秋田市大町ビル。野呂金さんが連合青年会の副会長時代の仲間二十人が集まる。比内町から奥さんが遺影を持ってこられる。大友康二先生も。九時過ぎに全員知事公舎へ。ジーパンの知事夫妻と懇親。毎日新聞の小西吉則さんと公舎から山王・山路へ。岩橋豊毎日支局長の送別会。歌歌。
二一日(土)秋田市新屋・秋田晴酒造。酒屋唄を飲む会へ。酒の絞り込みの作業。これに出ないと名前がお酒のラベルに載らない。
秋田経法大学柔道部道場へ。北嶋昭ペルー協会事務局長、綾之小路次長と。ミランダに柔道指導された遠藤教授にお礼。
二二日(月)聖霊高校へ。NHKエデケーショナルの奥津憲仁氏が来ていて、「ふるさとごはん料理教室」へ。お米クイズ、日本は世界で米の生産高が何番目?
8番目でした。夕方、山王・八条にて奥津氏、エデケーショナルの江田篤史氏と一献。
二四日(火)大内町農業改善センターへ。戊辰戦争一三〇年フォーラム。懇親会で、恩師の佐々木勝敏先生から本荘・由利短歌会に入って短歌を教わることに。
36会を秋田市山王・むかし(ママが大内出身の森川厚子さん)連合秋田の菅谷理市会長、加成義臣県議と、毎日新聞秋田支局長となる渡部慶一氏のお祝い。二次会が穂寿美、銀行の偉い人がいたが、場所は不明。
二七日(金)昼、弥高会館、ペルー協会でミランダ君の送別会。
アトリオン東北電力センスにて「秋田域外キャンペーン」の会議。駅前鎌田で懇親会からパークホテルでの役所の送別会に顔を出して、川反塾舎でふるさと塾。講師は前秋田銀行副頭取の竹村菊昌氏。「尽くす心」受講者全員に「縁尋機妙」の著書を頂く。
二八日(土)浜松市の鳥善。姪の池田厚子ちゃんの結婚式。桜、二分咲き。東京に戻り、息子洋平と向ヶ丘遊園駅前の寿司屋で一献。
どんぷう後記
※4月から国際交流課という所に異動になりました。日頃、やってたことを今度は税金を使わせて頂いてできる、ということでしょう。電話0188ー60−1218