ふるさと呑風便11月号
縁(えにし)
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「久保田」の縄暖簾をくぐると先客がいた。見覚えがある。
十月十六日、夕方。秋田駅前の小料理店に「佐賀を元気にする仲間の会」一行十五人を案内する。世話人代表の原田彰さんは、肥前たぬき踊りのコンテストをやって、優勝、準優勝者も連れてきている。
全国の地域づくりリーダーのインターネットワークを目指す、大草安幸さんも一緒。学生時代のクラブの同期、橋本文隆も初めて秋田にやってきた。橋本は十二年前、秋田戊辰の役戦没佐賀藩士の遺族探しに協力してくれた。彼らの目的は、佐賀藩士慰霊碑建立十周年慰霊祭に出席すること。五年前に佐賀で披露した秋田竿燈のお返しにと肥前たぬき踊りに披露。
乾杯、肥前たぬき踊りの紹介、自己紹介と話が弾む。と、隣に座っていた先客から話しかけられた。「佐々木さん、佐賀からきたようですね」そうだ。彼は二ツ井町・清徳寺の鈴木さんであった。
清徳寺には佐賀藩士が八人眠っている。明治十四年、明治天皇の東北巡幸に際、同行した大隈重信参議は、清徳寺を訪ねて、同郷の兵士達のお墓に参拝し、直筆と思われるお布施を残している。清徳寺に眠る佐賀藩士樋口のご遺族、佐賀市に住む村山登惠子さんは今回、慰霊祭には残念ながら欠席との連絡があった。村山さんから薩摩焼きの酒器を頂いたことがある。この縁が久保田での再会となったのだろう。
十年前の戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑除幕式。十月二一日。慰霊碑建立の縁を作ってくれた西目町の高橋勘左エ門石材工業(現、石の勘左エ門)の高橋正社長と新屋の葉隠墓苑へ向かった。風が強い。はるか日本海の南に竜巻が出来ていた。こりゃあ大変だと思ったが、現地に着いたらすっかり風も止んでいた。石井義彦武雄市長一行一九人と秋田県副知事丸山完氏が参列され、序幕の時、私は秋田ステージ専務・加藤恒雄さんと慰霊碑の陰に隠れていた。慰霊碑を覆う幕が絹でなく、布だったため。リハーサルをしても慰霊碑から滑り落ちない。そこで慰霊碑の裏側でこっそり、布を押し上げる。秋田戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会の中安直衛会長と佐賀藩士馬渡栄助遺族馬渡保雄さんがテープを引く。うまくいった。あの愉快な恒さんはもういない。
十年後の慰霊祭。前日から台風が日本海を北上している。前日の大雨がこの日、十月十八日は止んだ。しかし風が強い。葉隠墓苑に張られたテントが風でピタピタ揺れる。慰霊碑に刻まれた戦没佐賀藩士は五四人。この日、佐賀からの参列者は奇しくも、五四人。これも縁。参列者は百人を超える。地元、日吉団地の子供達も参加している。葉隠墓苑は遊び場、憩いの場でもあり、地元のシンボルとなっている。
一〇年前に植えられた武雄市の木、梅は大きくなった。
ここだけの話だが、市長植樹の梅の木は、植樹三年後に枯れてしまった。佐賀を元気にする仲間の会植樹の欅は、植えて直ぐ雑草と一緒に草刈り鎌で切られてしまっていた。梅も欅もむつみ造園の佐々木吉和社長から代わりの木を頂いて植え替えたものである。
数年前、石井市長が植え替えられた梅と大坪議長植樹の梅の木を見較べていった。「議長の方がふとかな」。でも、ばれなかった。
梅も欅も今は大きく伸びている。周りに植えられた桜の木も今年の春から、花が咲き始めた。
慰霊碑の前には秋田・佐賀両県知事からの花輪。佐賀銘酒・窓乃梅が置かれていた。読響が始まった。参列者の焼香、遺族代表の挨拶、佐賀県知事メーセージ。
♪ みたまよねむれとこしえに
佐賀藩士慰霊の歌が流れる。
穣(ゆたか)と読みます。二二画あるんです。秋田もたくさん穫れるところですが、この名前はお米が沢山穫れるという意味なんです。五穀豊穣の穣で、実はこれ数字の単位なんです。
ゼロが二四個つきます。兆というとゼロが一二個ですから、穣が使われるようになるのは、よっぽどのインフレにならないといけません。
念願のふるさと塾の会合には一度来たいと思っておりました。
今日のテーマであります「人づくり・地域づくり」ですが、私は中小企業診断士でもありますから、専門家ではありません。
東京世田谷区の商店街の診断などもしてますが、まちづくりのお手伝いをしたことはあります。
人づくりといいますが、全国歩いて研修して回って、人がつくれると甘い考えもありません。壇上でエイ、ヤーっとやって人がつくれたら苦労はしません。
私は、人というのはそのまんまの姿で、いまのまんまの姿でそれなりに出来上がってくる。そのまんまで素晴らしいんです。その素晴らしさを、知恵を集めていくと地域も自然によくなっていく。これが私の信念なんです。
地域を興そうとか、人をつくろうとか、というのはおこがましいんです。地域が出来上がってくるのを少し、後押ししながらお手伝いしようかなと思っています。
元は銀行員だったので、お金の勘定ぐらいはできるかな、人様に知恵を差し上げるなどとは考えてもいませんでした。いつの間にかこういう道に入り込んでしまいました。好きでなければできないということもあるんですが、自分の知っていることを色んな訓練したり、ゲームをやったりして、そのなかで皆さんが嬉しそうな顔をしていくのが嬉しいもんですから、今日、どのような嬉しい顔をされるかなとやってきていつの間にか十一年目に入ってしまいました。
銀行員として大阪、高知、名古屋、東京といろいろ歩きました。
そのお陰で外国語はダメなんですが、日本語は四カ国語ができる。(笑い)秋田語も少しはわかると思ってたんですが、今日は市役所の方のいうことがさっぱりわからなくて恥をかいてしましました。
名古屋のみゃあみゃあ言葉は地元の人間と間違われるまで出来ます。地元の言葉は大事にしなければいけないと思いますね。地方へ行くと地元の言葉を嫌って捨ててしまっている人が入る。名古屋の人は典型的なそういう人なんですよ。偉大な田舎といわれ、名古屋弁にコンプレックスを持って入る人が多い。大阪の人はどこへ転勤してもそうやで、なんてやってます。名古屋の人は東京へ行ってもすぐ共通語に変わる。いいじゃないですか。昔から言葉は国の手形といわれてます。
食えない時代でしたから、三十数年銀行員をやってきましたが、小さい頃は学校の先生になりたいと思ってました。今みたいな人にものを教えていく商売というのは非常に幸せと思っています。
カバン一つ持って北は稚内から南は那覇まで、寅サンみたいなことをやってます。
好きな言葉、あるがままに生きる。私はある時から急に、自分が楽になりました。若い頃はこんなんではいけない、もっと成長しなければと背伸びしてましたね。もっと完成しなければ、立派にならなければと。考えてみれば人生、六十年、七十年生きたところでそんなに完成する訳ではありません。
今のお前のまんまでいいじゃないか、欠点は認めようじゃないか。
許してくれよカーちゃん、という訳で気ままに、気楽に生きています。わがままも一緒になっているようですので、家内には頭があがりません。(笑い)
酒を飲んでも、肯定的に考える人、否定的に考える人の違いがある。もう半分しかないより、まだ半分もあると考えて飲むほうが幸せになれるんです。
東京の大森に地獄谷という所があります。恐ろしい所じゃないんです。行ったら楽しくて抜けられないという意味です。そこのちっちゃなバーで、ボトルが置いてます。悪友と行きまして、ボトルが空になったんで帰ろうとしまして、ママさんが新しいのを入れて帰ったらといいます。そこで一本入れて帰った。一週間して入ったらボトルには半分しかない。しか、ないと思わず叫んじゃったんです。そしたらママさんが、この間来たお友達が三人ぐらい来て楽しく飲んで行かれましたよという。あなたは話し方の先生で、肯定的にものをいえと食ってかかったんじゃないですか。半分しかないとはなんですか。(笑い)
反省しました。五十%はOKだという考えで行かなければいけないと思いますね。
肯定的なものの考えで人と付き合っていると、いろんな得なことがあります。言葉を使ってのコミュニケーションというのは、かなり不確実なものです。ところが人間関係がよいと、人に好かれていると間違ったことをいっても、頭の中で修正して聞いてくれるという作用があります。
これを私達の専門用語でいうと意味の生産性といいます。間違ったことを聞いても、好きな人のいうことは頭の中で修正して聞いてやる。例えば、昔の同僚にヘビイスモーカーがいて、「A子ちゃん、イレブンスター買ってきてと頼む」私はイレブンスターというタバコがあったかなと思った。そうするとA子さんはにっこり笑って「はい、イレブンスター」といってセブンスターを買ってくるんですね。そうか、そういう関係なのか?。(笑い)これが意味の生産性のいい関係なのかと思います。
人間関係が悪かったら、いうこと聞いてくれないですよ。それぐらい言葉というのは人間関係というのが変わってきます。
そんなことを考えますと、話し方にしてもあんまり、テクニカルなことは教えてないなと思います。
人に好かれろ、好かれろといってますね。職場の中でも好かれてたらそれなりに良いことがあるんじゃないですかといっているんです。人に好かれれば自分の話も聞いてもらえます。
人間て素晴らしいんです。肯定的に全てを認めていって、そこを原点として、人に好かれる話かたををするともっと人は動いてくれるんじゃないかな、と思っている訳です。
さてお金の話をしましょうか。
銀行に三〇数年いましたが、お金というのは空しいですなあ、実に。
お金を扱って楽しいと思ったことはなかったです。お金というのは今風でいえば、ソフトウエアなんですね。これをまるで物みたいに扱うようになった時にバブルになったんです。あれをまるでハードウエアのごとく扱いはじめて、おかしくなっちゃた。
昭和六〇年から六一年頃、盛んにお金を貸し回ってました。銀行員は何やっていたかというと、お金を借りて下さいよといってた。金利安くするから借りて下さい。金は借りてくれない、しょうがないから、土地買えとか投機をすすめた。土地はソフトウエアなんです、それをハードように売った。それがバブルの頃の銀行員です。はじけるのは当たり前なんです。
今銀行はやることがない。不良債権をかかえて、貸せなくなった。
これからやることは、一億総貧乏化ですね。みんな貧乏に耐えなければいけません。(続く)
プロレスを見たかったが、ロスに別れを告げなければならない。住宅街のタック中村家の周りを散歩してみる。広い緑の芝生のある平屋の家にフォーセイルとの看板が立っている。日本の売家だと、何かさびしい家のイメージがあるが、アメリカの売家は明るいイメージがある。ここにもアメリカの豊かさを実感した。
朝、親切な中村夫妻の見送りを受けた。奥さんに、兄から貰った水墨画の絵を何枚かプレゼントして喜んでもらえた。高校生の娘達は学校へ出かけていない。
中村次郎君(現国際線パイロット)が車で送ってくれた。広いバスターミナルでサンディゴまでの切符を買う。サンディゴから国境を越え、ティファナでメキシコシティまでの切符を買わなければいけない。バスの側面に大きなグレイハウンドの犬が描かれている。アメリカは動物の名前を会社名にしている。ブルドーザーのキャタピラーは芋虫という意味だ。
キューバに行くと、帰りはアメリカには寄れない。アメリカとキューバは外交断絶の状態にあり、キューバのビザの印があるパスポートを持っている外国人はアメリカから帰国できないということである。名残惜しかった。
バスはフリーウエイを時速二〇〇`ぐらいで走っている。乗客は殆どアメリカ人か。サンディゴにはその日にうちに到着。小さなターミナルで下車すると、メキシコ人の子供達が集まってきた。彼らは国境を越えてやって来たのだろうか。乗客の荷物を奪うようにして取る。バイヤー風のアメリカ人がメキシコの子供に荷物を運ばせている。三太郎もティファナというと子供に荷物を奪われた。アメリカ人の後をついていった。そこには黄色ではない、緑色のタクシーが止まっていた。アメリカ人が一緒に乗れと手招きする。メヒコのニーニョ達にチップを渡すと、メキシコ人風の運転手が降りてきて、トランクに荷物を入れてくれる。アメリカ人は助手席に座った。三太郎は後部座席に。タクシーは数分走ると、遮断機が見えてきた。西武新宿線の踏切みたいだ。東京の駐車場の叔父さんのようなメキシコ人が遮断機横の事務所の窓から顔を出した。パスポートといっている。タクシーを降りてパスポートを見せるとポンとスタンプを押した。遮断機が上がった。車に乗り込む。タクシーはあっけなく国境を越えた。(続く)
十月2日(金)秋田市八橋三和町「靉」にて、ハンガリー、ロシア行き職員の壮行会。
4日(日)秋田県民会館。「みんなで歌おう東海林太郎」知人が直立不動で東海林太郎の歌を歌う。「佐々木満先生を囲む会」東京六大学秋田野球連盟の面々と出席。約千人、満さんの人気が未だ大。
5日(月)協和町役場へ。佐々木町長、加藤総務課長へ鳥取藩士慰霊団受入のお願い。十六日に協和町で出迎えと歓迎会を催してくれることとなる。秋田戊辰の役戦没者の縁が広がってほしい。
5日(月)秋田市・千秋会館。秋田戊辰の役百三十年実行委員会会議。懇親会はやるが県外からの遺族や関係者の歓迎会はやらないという。ホスピタリティがない。こちらでやろう。大友康二先生を会長に「秋田戊辰の役県外慰霊団歓迎会実行委員会」を結成し、十七日の彌高会館を予約する。
6日(火)東北電力秋田支店。秋田デレクターミーティング。具体的な秋田まごころ大賞も提案。
新屋の高長寿司。新屋葉隠会の会合。十八日の佐賀藩士慰霊祭の実施準備。秋田竿燈囃子を歓迎会で演奏してくれる佐々木功氏と新屋駅前「扇」へ。東京の敬愛する里見和男先輩へ電話。
8日(木)第一生命の学友福永と山王「館」久しぶり。
十日(土)秋田ユネスコ協会主催の外国人による「日本語弁論大会」へ。知事表彰代読。男鹿の「なまはげの森コンサート」に行けずじまい。
十二日(月)秋田商工会館。経済同友会事務所にて、秋田ワールドゲームに向けての一般県民向け英会話推進の話。那波宗久氏の提案、ブライアン・アルストロム氏達のプロジェクトの検討会。
環日本海学会の実行委員会。秋田経科大学。「館」にて毎日新聞高崎支局の神田順二局長と旨酒。
十四日(水)仙北郡南外村中央公民館。大曲仙北生涯学習推進員連絡協議会で「生涯学習と地域おこし」の講演。反応があって嬉しいが準備不足を反省。大内町に寄り、佐々木作治君に十七日の慰霊団歓迎会で民謡の披露を依頼。
十五日(木)中国・甘粛省の農業考察団一行と畜産試験場を視察。千三百万円のアメリカ乳牛を見る。
十六日(金)佐賀県武雄市慰霊団一行三九名を秋田空港に出迎え。パークホテルに案内し、空港に戻り、佐賀を元気にする会一五人と鳥取県淀江町の森本和夫町長一行一三人を出迎え、鳥取県一行は協和町の加藤総務部長の案内で協和町へ。原田彰さん達佐賀元気の一行を駅前「久保田」に案内。乾杯。
十七日(土)佐賀元気の仲間は十和田湖、大湯温泉ホテルへ。
武雄市の荒踊りの一行を秋田市内案内。村上正人君にお願い。午後、鳥取県市町村振興課長の佐藤健ちゃんと山王・大江戸。彌高神社前の芝生にて、国指定重要無形文化財「武雄の荒踊」の披露。優雅で躍動感のある踊り。秋田県初公開である。荒踊一行とねぶり流し館にて竿燈の実演を見物。
彌高会館にて秋田戊辰の役百三十年記念慰霊祭へ。終わってから五階で慰霊団歓迎会の司会。寺田典城知事が駆けつけてくれて、歓迎あいさつ。小田嶋社中の民謡日本一2人の秋田民謡披露。肥前たぬき踊りが披露され、笑いを誘う。松本秋次先生のピアノ演奏、秋田市議平沢健治さんの万歳三唱。最後は小生のトランペットで「ふるさと」の合唱で、二次会は川反。佐賀の学友橋本文隆とレディへ。
十八日(日)日本海を北上する台風もおさまり、雨はなし。秋田市新屋・葉隠墓苑。佐賀藩士慰霊碑建立十年祭。大友康二作詞・菅原良吉作曲「佐賀藩士慰霊の歌」が流れ、参列者百人の涙を誘う。読経、佐賀県知事のメッセージ、佐賀鍋島家の家紋となる杏の記念植樹、佐賀県の木、楠の記念植樹。大草安幸さんが贈られた楠の記念植樹が行われた。
日吉会館にて、佐賀藩士慰霊団の歓迎会。佐々木功氏の津軽三味線、笛、ハーモニカ演奏。ここでも肥前たぬき踊りが披露された。
お別れ、やらずの雨が降る。
二二日(木)秋田市有楽町の映画館へ。「モンタナの風に吹かれて」。何年かぶりに女房と。
二三日(金)AIグループ経営実践講座。横手運送社長の塩田謙三氏の講演。環日本海の拠点構想。川反・吉野屋にて二次会。
二四日(土)大内町・楢渕寺にて母の七回忌。夕方、美佐子食堂にて、佐々木正人、佐々木浩、小笠原良一、小池幸紀の諸兄と多献。
二七日(火)秋田市山王、秋田青年会議所事務所。南極観測船しらせの誘致委員会専門部会へ。
二八日(水)山形県最上郡戸沢村へ。最上川川下りの発着点の村。地滑り後の跡地に高麗館を建て、韓国との国際交流を進めている。
二九日(木)鉱山の町から観光・技術のまち小坂町へ。「資源・文化を考えるシンポ」へ出席。
三〇日(金)関東基礎工事の西村欣社長と県林務部へ。西村社長、秋田県の不評を買った千葉県山武町の県木住の欠陥住宅の基礎調査のボランティアを申し込まれる。山王・館、川反・杉へ。
三一日(土)秋田市文化会館。環日本海学会国際シンポ。レセプションで多くの人材を得る。