ふるさと呑風便10月号


    幕末志士道   

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 強者どもの夢の後、ではなくなっていた。祇園は変わらず。
 京都東山。戊辰戦争一二〇年の年(昭和六三年、一九八九年)の夏。霊山(れいぜん)記念館があって、幕末維新の志士達の顕彰と検証を行っているところ。そこで、戊辰戦争の史料を調べた。
 記念館を出て、霊山を見上げると鬱蒼とした常緑樹の森になっていた。ちょっと登ってみた。雑草が茂る小道には細長い風化した小さな墓が並んでいた。頂上付近にたどり着くと、立派なお墓がある。木戸某と読める。桂小五郎だ。何で木戸孝允の墓が京都にと、不思議に思いながら、坂を下っていった。と、小さな細長い墓の中に、ふと坂本との名を見つけた。隣の墓の名は、中岡と読める。そうか、京都・近江屋で襲われ、維新の夜明けを見ることなく逝った坂本龍馬と中岡慎太郎の墓だった。
 暗殺場所の京都河原町四条には旅行社の支店があり、側に小さな石碑が立っている。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地」とある。
円山公園には両人が並んだ銅像が建っている。東山にはなかった。
霊山から帰り際、靴下のうえから藪蚊に刺されて、ケえケえ(かゆいかゆい)といって坂を下っていった。

 十年後の平成十年秋、京都駅で東山方面の観光チラシを見ると、坂本龍馬の墓と載っている。バスに乗って東山へ。霊山へは上り坂。大きな霊山観音が見える。登りつめる。突然、胸ポケットの携帯電話がブルルルと振動した。京都の親友・斉藤哲雄からだ。「今、東山の霊山に上ってるとこだ」
「ええ?どこや、そこは」
 志士への道は観光地になっていた。入り口に大きな案内図。入場券三百円のカードを自動販売機で買って、駅のホームの改札口のようにカードを差し込んで入る。階段を登ると、上部が三角の細長い墓が並ぶ。土佐藩士の墓が続く。那須信吾の名前が見える。司馬遼太郎の小説で聞いた名前だ。坂本竜馬の墓はすぐ見つかった。そこには中岡慎太郎と一緒の小さな銅像がある。十年前にはなかった。藪蚊に刺された所はもっと上の方だった。他の墓とは少し引っ込んだ場所に二人の墓が見えた。花が添えられ、千羽鶴が木の枝に掛けられていた。横には無名の志士の墓が縦に並んでいる。(合掌)
 長州藩士の墓も並んでいた。久坂玄端、吉田稔麿、何故か前に訪ねたことのある山口の萩・吉田に眠る、高杉晋作の墓もあった。他の墓の碑銘より字が鮮明に見える。 熊本藩招魂社、そして鳥取藩招魂社もある。福岡藩招魂社の奧には平野国臣の墓もあった。霊山の一番高い場所に伊藤博文の墓があることになっているが、そこへは鉄線は張られ入っていけなかった。一段下に、木戸孝允の墓がある。内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允墓とある。下っていくと、天誅組の人々の墓のある側に、東屋があった。長椅子に座る。観光地になった墓所では蚊に食われなかった。

 東山・霊山から眺める京都の町並みは変わらない、東寺の五重塔が美しい。
 幕末の志士も遊んだろう、通い詰めた道だったろうと、祇園を歩く。学生時代は、ここは通り過ぎるだけだった。斉藤哲雄が、祇園近くの料亭「文香」に案内してくれた。そこで 幕末志士が暗殺された京都伏見にある寺田屋は行った話をした。ママが今日の夕刊に載ってるといって、京都新聞をもってきてくれた。寺田屋を核にしたまちづくりの話題が載っていた。
 ママさんからお杯洗の使い方も教育してもらった。酒のつぎ方、つがれ方も西と東では違う。西ではお銚子をお猪口につけてはつがない。志士道から酒道の話になった。祇園の夜は静かに更けゆく。


ふるさと塾地域づくりセミナー
★平成10年4月24日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「地域づくりと国際化」
★ リサ ベングトソン氏(秋田県国際交流員)

 日本語が上手でないけど色々なことをいいたいので頑張ります。
 日本のまちづくりについてですが、面白いのはアメリカの警察官と暴力の問題などについて話したいと思います。どうしてかというのはこの件は、まちづくりに影響をもたらします。
 その前に、自己紹介をしたいと思います。アメリカのミネソタから来ました。去年の8月に県庁に来ました。秋田は初めてですけどは3年前には大阪に住みました。十一ヶ月ぐらい関西外国語大学で日本語を学びました。それからアメリカに戻って、大学を卒業して一年ぐらい日本通運、ペリカン便で働きました。その後、今の仕事で秋田に来ました。 両親はアメリカにいます。双子の妹もおり、栃木県の役場に勤めています。三歳下の妹もロンドンでファッションの勉強をしています。両親は寂しいからと日本やロンドン、旅行にチャンスがあるとあちこっちに行っています。
 私がどうして日本に興味があるからいいますと、私の父はアメリカの東芝で働いています。アメリカの東芝はそんなに大きくはないんですが、病院に関係があります。
 私の父はサービスエンジニアで、病院にある機械をなおしています。
父の仕事のお陰で奨学金をもらって高校の時、6週間ぐらい横浜に来ました。それで日本に興味を持ち、その時から日本語を勉強しようと思いました。
 それで今まで日本語を勉強してきましたが、間違いが多いから気楽に聞いて下さい。後で皆さんに質問をするかも知れませんからよろしくお願いします。

 もしアメリカの警察官を聞かれたら、どんな風に思いますか。どんなイメージがありますか。暴力的で色メガネをかけているとか。これはテレビの見過ぎです。当たり前ですが、日本の警察官と同じですごくいい人です。
 アメリカの警察官と日本の警察官はほんとに色々な点で似ています。まず、警察組織が似ています。
例えば日本でも、パトロールがあって、防犯と交通指導と教育活動、麻薬に関する仕事もあります。
 日本の場合、ある町が二万人の人口で、警察官は大体三十人います。アメリカだったら同じぐらいの町で警察官は何人必要だと思いますか。それは、四十五人ぐらいです。それもニューヨークではなく、アメリカの普通の町です。
 日本でもアメリカでも一番多い仕事はパトロールです。アメリカの四十五人の中の半分以上はパトロールです。アメリカの警察と日本との一番の違いはアメリカには交番がありません。アメリカには交番は必要がないと思います。道も広くて、私の友達の父が警察官で、一日その人とパトロールカーに乗ったことがあります。その日は暴力的な事故があって、救急車の後ろにいました。二百`ぐらいのスピードで走っていました。
 アメリカのパトロールは車だけではなくて、歩いている警察官もいるし、馬に乗っている人もいます。交番の代わりに、警察官には自分の地域があります。その地域を守らなければならない。守るよりも信頼関係を作ることがすごく必要です。五年前にアメリカの警察官はすごく悪いイメージがあって、地域との信頼関係をつくろうという動き方があって、今は地域とのいい関係があります。
 私の友達の父と話す機会があって、そういう関係が一番大事であって、一日中パトロールではなくて、地域に住んでいる人達と話したりして、警察官が子供におもちゃとか野球カードをタダで上げたりして、仲良くしていました。
 学校でパトロールといえば、暴力的だと思われますが、交通安全の為ですね。生徒の数が千人以上の高校には、警察官が一人います。それはアメリカでは十六歳になると免許証をとれます。
 そういう交通安全の為に警察官がいます。アメリカの高校で、免許をとるドライビングスクールがあります。私は高校に入って一ヶ月ぐらい授業が終わって、高校の駐車場で運転の練習をしました。
 学校で一万円ぐらい払ってくれて車も貸してくれるます。ほとんどの人は高校に入る前に、車を運転したことがあります。
大体アメリカ人は法律を守りません。一六歳になる前にほとんどの人が車を運転したことがあります。私の両親は凄く厳しくて運転はダメでした。
 学校で交通安全教育の必要がありますから、警察がいます。
 それから、最近の問題で麻薬があります。それて麻薬乱用防止教育を学校でします。小学生5年生の為に一年プログラムをします。
 私もこのプログラムを受けましたが、大きな印象を受けました。
 もし、こういう麻薬をとれば体にこういう影響がありますと、細かく教えます。マリファナはこういう臭いがします、気をつけて下さいとか、麻薬を何時も使っている人を呼んで、話を聞きました。
 麻薬のせいと生活でこういうこともありましたと教えて貰いました。そして、麻薬をやらないようにと教えます。
 こういうプログラムは警察官の責任です。毎日、こういうプログラムをやっています。
 もう一つの面白いのは、子供は最近、パソコンをやったりしていますが、怒り方がわからなくなっているんですね。怒るときにどうやって気持ちを表すか、麻薬だけでなくて、子供が暴力的にならないようなプログラムをしています。
 五〇年前アメリカは、日本と同じように麻薬の問題はひどくなかったんです。教育をしなかったから、危なくないと思って大きくなった。このプログラムは日本でもあればいいと思います。シンナーとかの麻薬が大きくならないようにです。これがアメリカの警察官の仕事です。
 もし事件が起こったらどうやって捕まえるか色々な方法がありますね。日本もそうでしょうが、指紋も当たり前、聞き込み捜査をしたり、日本ではポスターを貼りますが、アメリカでは広すぎるからでしょうか、使いません。
 代わりにインターネットを使うようになりました。インターネットでこういう人を探していると、盗まれた物も出します。この方法で犯罪者を捕まえます。
 アメリカの拳銃についても話したいと思います。私はアメリカの警察官と話をしたときに、拳銃は何時も持っています。でも学校にいる警察官はあんまり持っていません。アメリカの家庭で何パーセント拳銃を持っていると思いますか?。思ったより少ない、ほんとに三五%だけです。
 最近は教育のお陰でどんどん拳銃の数も少なくなりました。三五%のなかでもどうやって拳銃を買うかわかりますか?。今は法律ですごく厳しくなりました。拳銃を買いたかったら、警察署へ行って申込書を出します。その後、二週間待ちます。もし刑務所の入ったことがあれば、又スピード違反が三回あれば、ダメです。(笑い)
 それから拳銃を持っても家に一八歳以下の子供がいれば金庫に保管していなければいけません。銃弾も違うところに入れておかなければなりません。
 アメリカが独立して以来、拳銃を持つのは権利だとされていますから、それを変えていくのはすごい時間がかかると思います。
 今まで、アメリカの警察官や暴力の話をしました。ちょっとアメリカのイメージが変わりましたか。


我青春風来記(103)
     早海三太郎

 新宿区霞岳町

 カルチャーショックというんだろうか。三太郎は初めての外国・アメリカのロスアンジェルスでの見聞で最も大きかったことはアメリカの豊かさだった。
 商店街は夜中でも店の電気が赤々とついている。道路も広い。
 ホームステイ先の中村家には地下室もある。車も二台もある。娘の部屋に通されて、広いタンスの中にはドレスがずらりと掛けられている。
 ただし、ロスのサンセット通りにはたくさんのピッピーがいた。
彼らは高度に発達した文明を拒否した生活をおくっているのだと聞く。サンセット通りのトイレに入って、ドアを開けようとしたら、急に中から髭の大男のヒッピーと出くわして度肝を抜かれた。
 中村次郎君がデズニーランドへ案内してくれた。ロスから二時間程走ったろうか。アメリカでは高速道路をフリーウエイという。道路の制限速度はフリー。それに広い。片道六車線もある道路を百`以上出して走る。戦前、大野伴睦という政治家がアメリカのフリーウエイを見て、こんな国と戦争したって勝てるわけがないと実感したそうである。
アメリカ人が生活をエンジョイする様、娯楽を大事にする様子はデズニーランドに行ってもたまげた。半端でない。
 入り口でチケットを買う。八ドル十セント。それはABCDとパスポートのように様々な娯楽館ごとに入るごとにチケットが切られるようになっている。デキシーのバンドが通りを演奏して歩く。様々なマジックショーがある。アフリカのジャングルを船で通る。池があってそこを潜水艦ノーチラス号が浮かび、岩場に人魚の格好をした女性が手を振る。
 広場ではインディアンと子供達が輪になって踊っていた。とても一日では全部見切れない。チケットは残った分は次に来ても使えるとの事。お土産店に入って、ミッキーマウスの絵はがきを買った。裏にプリントインジャパンと書いてあった。
 アメリカには名残惜しかったが、立たねばならなくなった。十日間、中村家にお世話になってしまった。メキシコまでは飛行機だと約三万円、節約の為、バスで行くことにした。グレイハンドバスでメキシコシティまで何と、三日半もかかるのであった。(続く)


呑風日誌抄9月
 9月1日(火)大阪・伊丹空港から三十人乗りのプロペラ機に乗って出雲空港。レンタカーで出雲大社へ。途中、出雲ドーム見学。大社神殿へは大鳥居前から百メートルも歩く。大きなしめ縄の神社に二礼四拍一礼。国造りと縁結びの神様に参拝して、悟った。国造りは縁づくりでもあると。
 松江。途中、宍道湖の北にある酒造りの神様松尾神社を参拝。松江城、小泉八雲記念館を見学。お堀に屋形船、レトロ調のバスが走る堀川めぐりレイクライン。松江東急イン泊。近くの酒場で一献。
 2日(水)全国国際交流推進会議。大林組の松江営業所の福間憲二さんが下関市の兄貴佐々木耕二さんからのお土産を持ってきてくれた。ホテルで参加者と懇親会。
 3日(木)朝、松江駅。出雲行き電車に乗ってしまて松江駅に戻ってタクシーに乗って、親切な運転手さんから淀江町まで案内してもらう。淀江町役場にて、協和町にお墓がある鳥取藩士の子孫内藤さんと会い、森本和夫町長、読売新聞米子支局浜田記者から取材を受ける。助役さんの案内で内藤家の墓参り。古墳公園でどんぐりの町おこしの話を聞く。
 鳥取市。県庁の地域おこし仕掛け人、安藤隆一さんと。佐藤健市町村振興課長と会い、鳥取県出身岡野貞一作曲「ふるさと」の記念碑を見る。安藤氏、健ちゃん達と鳥取の地域おこし話で多献。
 4日(金)京都駅。東山の霊山。幕末の志士の墓参り。南座前のレストランで高校時代からの親友斉藤哲雄と会い、祇園近くの料亭「文香」へ案内してもらう。酒道の話、オリックスの仰木監督は祇園でもてる話等を聞く。祇園の「松田」にて、北川さん達と一献し、哲ちゃんから京都駅に送ってもらう。北へ夜行列車。
 8日(火)秋田市新屋・高長寿司。佐賀藩士慰霊祭の打ち合わせ。新屋葉隠会結成。大内町出身の内装業でエンタテーナーの佐々木功氏とほのぼの亭へ。
 9日(水)秋田市保戸野の生け花松生派大師範根本柳月先生から講義。生け花は平安時代から八百年の歴史がある。花は生けたら人になる。「生け花とは花を使って自分の気持ちを表現すること」
 銀座ライオンにてミネソタ州立大学音楽祭の相談。三浦義明氏、野口裕子先生、モック先生。
 十日(木)梅の里「琴丘町」へ大内町の方々と視察。役場の梅課長だった飯塚さんから案内される。町が梅栽培の奨励して六年。今年から収穫。民の自助努力も必要。
 十二日(土)象潟町沖でキス釣り。夕方になって沖で鳥山が出来ていたのでサビキ釣り。鯖が強い引きで面白いように掛かる。金浦町の白瀬フェアへ。海賊焼きに参加の全日空秋田支店の鈴木支店長達へ釣りだての鯖とキスを焼く 十四日(月)昼。秋田キャッスルホテル。秋田県遺族会主催の「佐々木満先生を囲む会」へ。敬愛する佐々木先生の為にと、田口大事務局長からの依頼で、黙祷の時間に「国の鎮め」をラッパで、「ふるさと」をトランペットで。
 十八日(金)象潟町体育館。ルーマニア少年少女合唱団公演。歓迎会がくりりんハウス。金巌町長、ルーマニア大使館のマリンブルジャア書記官。ルーマニア語で「美しい」はフルモアサ。二次会は金先輩達と岡本で焼き鳥。象潟病院の成田茂先生の所へも行って乾杯。
 十九日(土)仙台。NHKグランド。仙台秋田稲門会対抗野球大会の十年目。今年から山形稲門会も参加。炎天下で二試合。山形には快勝。打撃好調、投げてはやっぱり打ち込まれて、仙台チームとはこれで2勝8敗。ワシントンホテルで祝賀会。二次会は国分町。牛タンの「喜助」大河原大先輩と。
 二一日(月)岩手放送秋田支局長の鈴木勇さんの送別会の二次会。河北ビル。同門の山口朝日、渡部毎日の両支局長、4人で山王へ。
 二二日(火)秋田パークホテル。秋田県卓球協会主催のスポーツ交流員魏さんの歓迎会で乾杯音頭。先輩多数。スポーツ関係者の良杯。
 二三日(水)仙台の中国人医学博士靖大淨先生と本荘・清吉そば食べて、西目町の勘左エ衛門へ。
 二五日(金)ふるさと塾。講師は榮太楼旅館社長の小国輝也氏。「東海林太郎生誕百年」彼は東海林榮太楼と称して、秋田元気づくりの為、大歌手、東海林太郎の顕彰とイベント事業に燃えている。
 二六日(土)佐々木功氏と秋田市の美園クリニックへ入院患者の慰問。鎌田正・京子夫妻の歌、功ちゃんのの三味線、小生の尺八。小田嶋師匠の横笛、ハーモニカにはホスピスの方々から大拍手だった。
 二九日(火)高久正吉県議と秋田市・佐竹史料館。戊辰戦争百三十年記念資料展へ。小生の著書も田口勝一郎先生が出品されていた。高久先輩から弥助そばを。息子洋平が、川崎からバイクで無事帰郷。
 三十日(水)秋田市新屋・葉隠墓苑。むつみ造園工業の佐々木吉和社長と。佐賀藩士慰霊祭での佐賀県知事記念植樹の下見準備。
どんぷう後記
恒例のふるさと塾人間道場
日時 十一月二七日午後六時半
会場 弥高会館
会費 六〇〇〇円・ゲスト出演、カラオケ大会。良き出会いの場にしたく、気軽にご出席ください。