ふるさと呑風便5月号


    暗 明   

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 穴八幡神社。新宿区馬場下にある。ここの境内に五木寛之が寝泊まりしていたという伝説があった。 学生時代、そこを見に行ったが、立派な境内で寝泊まりできるような場所は見あたらなかった。
今、五木寛之の「大河の一滴」を読む。私共は、尾崎士郎の「人生劇場」を読んで育った。毎日新聞の三木賢治北海道報道部長達は五木寛之の「青春の門」だった。
 それでも学生なりに五木寛之の小説には影響を受けた。
 卒業して風来坊してた頃、学生時代の仲間4,5人と新宿で飲んでた。これから四国へ行くんでじゃあと席を立つ。誰かが「青年は荒野を目指す」と言った。「さらば新宿愚連隊よ」といって別れた。
 今日の「大河の一滴」には自殺のことが書かれている。毎年の交通事故死が一万人前後、自殺はその二、三倍。「心の内戦」の時代。
 秋田県の自殺率は全国一。特に高齢者の自殺率が高い。
秋田の民謡は他県と違って明るい韻律がほとんどで、バラード調は「姉こもさ」ぐらい。
秋田県の明るさの陰に、暗さは自殺率の高さがある。
秋田県の憂鬱を考える会に出席させて頂いた。4月6日。秋田大学法医学教室。福祉、宗教、マスコミ関係者が集まった。この会は秋田大学医学部の吉岡尚文教授が主宰する会で、これまで自殺防止のための様々な提言をされてきた。 その一つ。行政、警察、福祉、医療などが有機的に一体となった「自殺防止(予防)対策室」なるものを設け、自殺の徹底的な分析を行い、(病歴調査、聞き取り調査、遺書の分析、動機の適格な把握等)それを基に対策を立てる。 国、県や市町村に交通安全部門があるのに、自殺防止対策はない。 交通事故の2倍以上の死者を出しているのに、行政で自殺防止を取り上げたところは聞かない。

いや、秋田県由利町では昨年、自殺防止のために「高齢者の生きがい調査」と題して調査を行っている。秋田県の憂鬱を考える会の調査でも同様の結果がでているが、由利町の高齢者の自殺は一人暮らしにはなく、3世代同居が多いということである。
 これは一体、何を意味するのか。生き甲斐喪失ではあるまいか。家族の役に立たないとわかったお年寄りの気兼ねが自殺の要因になったと考えられる。由利町では老人クラブで空き缶回収のボランティア活動を始めた。又、家族と十分なコミュニケーッションをとるようにするなど、支えあっていくことで、自殺者が減ってきている。

吉岡先生が提言するように、秋田県に自殺防止(高齢者生甲斐)対策連絡協議会のようなものを発足させたい。交通安全対策の担当職員が6人。各市町村にも交通安全対策職員が1人以上いる。自殺防止(高齢者生甲斐対策)課を設置してもおかしくない。
自殺が目に見えない秋田県の暗さだとすると、目に見える暗さは手入れのされない杉林である。間伐や枝打ちをしないから、暗い杉林が沿道のいたるところで見られる。秋田の美林が泣いている。

杉ゲリラ作戦と称して、4月4日に秋田空港からトンネルを抜けた雄物川河畔に集まった。5月末から始まる日本文化デザイン会議に合わせて決行した、という訳ではない。会議のテーマが三美。美人、美酒、美林である。

飛行機を降りてトンネルをくぐると、雄大な雄物川の自然を隠す、醜林。6人のゲリラ戦士がここを半日かけてショートカットした。 暗い杉林に入って、ドイツ製の枝打機で一本の枝を落とすと瞬時に陽光が林の中に差し込む。暗黒への一条の光。快感、汗感だった。
 家に帰って五木寛之の「大河の一滴」を又、じっくり読む。


「地域づくり実践セミナー」
★平成9年10月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「秋田県の貿易と国際化」(2)
★ 遠藤利明 氏(ジェトロ秋田貿易情報センター所長)

数字を見る限りは、秋田港を実際に利用して輸出している額というのは潜在的な、東京港や横浜港を利用して行っている量の1%に満たないということがわかったんです。
本来ならば、秋田港をそういうように改善していけば、東京、横浜を経由しないで、秋田港を使っていただける方達がもっといるだろうし、実際に貨物がそういうふうに流れている、実際にあるということがわかった訳です。
逆に輸入の方は八〇〇億円ぐらいのうちの五〇〇億円ほどが入っていましたので、七,八割ぐらいは秋田港で充分利用されていることが判明した訳です。
こんなに潜在的な貨物量があるといっても、アンケート調査でしたので、第二次的な調査を県と我々で今度は面接調査を行いました。
それでいかがでしょうかと話をしたところ、やはりそうだということがわかり勇気づけられまして、これならば是非とも秋田港を国際港として、つまり定期国際コンテナを来て貰い活用していこうと急きょ持ち上がり、県、民間からも持ち上がりまして結果的に秋田港国際化荷主協議会という団体が設立されました。平野井さんという方が会長に選ばれまして、その後の結果は魁新報等々でおわかりのように実際に韓国の興和海運という船会社が参りまして、それからトントン拍子に話が進んで、今度は大連まで行こうという形になっております。
実は秋田に国際コンテナ船ができたのは、九五年十一月なんですけれども、東北六県に国際定期航路、国際コンテナ船ができたのは非常に新しくて九四年4月に八戸に出来た。次に仙台が九五年の四月に出来まして、それから酒田港が六月か七月に出来て、それから十一月に秋田港となったんです。
 九四年から九五年の二年間ぐらいで、八戸、仙台、酒田、秋田と矢継ぎばやに国際港になってきた訳です。一回そういうルートが開かれますと、酒田港はそうでもないですが週一便から二便、それからルートも増やしていくというような形で、どんどん成長しております。そういったなかで秋田もきわめて順調なコンテナを持っております。
十一月四日に、蒲原海運という中国と提携している海運会社の第一便船が秋田港に入ってきました。
ということで、いよいよ本格的に秋田も国際コンテナを充分活用し、仕事をやっていくという時代になりました。
 秋田がそういう時期にかかっていたということもあったんですが、私が色々な事業をやらせて頂いたこと、調査を行ったり、国際化というか、海外との取引が活発化してきました。
国際化への第一段目のホップを一年半で切り上げまして、すぐにステップに移った訳です。
8年度事業になる訳ですが、秋田県の中で対外取引に対するエリート集団の設立とジェトロシンパ集団の育成、というものを第二ステップとして考えました。
ジェトロ秋田には5,6人しかいないところでして、広い秋田を動き回れる訳ではないということもありまして、効率的に仕事ができるかと、ジェトロの考え方に賛同して一緒に動いてくれる組織をつくる。アイディアと資金はジェトロが出すから、積極的に動いてくれる団体をつくろうと。飛行機でいえば、自分が主力エンジンをふかしてきたんですけれども、自ら主力エンジンをふかす人がいて、それに補助エンジンを付けてやれば、一度に3つか4つの飛行機を飛ばすことができます。

新しい企画にも参加できるシンパ、核づくりをステップの段階でつくりました。秋田大連経済交流会ですとか、秋田県国際経済協同組合とか、秋田上海交流会とか、一番新しいのは秋田県吉林省交流会。大体、全部が中国との仕事なんですけれども、矢継ぎに民意を主導とする経済交流団体が4つぐらい出来ました。こういった団体は年に1,2度ミッションを中国に派遣し、中国側からも秋田に来られるということでとても賑やかになってきました。

具体的な取引にはまだなっておりませんが、企業の方々が主体的に集まってグループをつくり、取引をしていこうという機運が盛り上がって、そういう動きが起こったことは、私共は補助エンジンでいいと思っております。
先ほどのジェトロのエリート集団というのは、一流の優良企業や帝国データバンクに載ってるとかという企業でなくてむしろ、海外取引に非常にやる気のある企業、言葉が悪いですがジェトロとしても育ち甲斐のある企業です。育てていって、中長期的に秋田県の貿易の核を担って頂けるような企業を発見、発掘してエリート集団をつくる。ただ、この指止まれといっても企業の方にはそっぽをむかれてしまいますので、何かいい餌がないかということで、協同輸入グループというものをつくったんです。元々商社というのは協同輸入の元締めですね。船一艘の物を例えば伊藤忠が買ってくるのではなくて、伊藤忠が販売する商品というのは、何とか元売りの会社がいくつかあってそれを引き受けて伊藤忠が一艘買ってくるということです。結果的にはあちらこちらの注文を聞いて、まとめる役を商社が持っていて、情報とそのパワーがあるのが大商社なんです。

ずっと分解していけば、それぞれの企業がみんな一つ一つなんです。逆にいうと共同輸入というのは企業側から意向を聞いて、アパレルを輸入したいという注文に従って、県内の企業に会って頂く一つのラウンドテーブルをつくって情報を共有化する。その中から気持ちが合えば取引をしていく。それから協同輸入し、交渉力ができてきます。船会社との輸送値段の交渉もできます。
結果的に約30社の企業がジェトロのドアを叩いてくれました。実際に動いてくれる企業は十社ほどですが、その中の横手運送の塩田謙三社長は神奈川大学の先輩でして、グループで食品、雑貨、アパレル、鞄など年間一億四,五千万円ぐらいを輸入しております。
 市場価格として三倍から、三,五倍として四億五千万から五億円の市場規模で皆さん、ご活躍していると私は理解しております。
ステップの一つ目がエリート集団、二つ目が支援団体の結成ですが、ジェトロの活動をご協力頂けるような情報を共有するシンパ、十数名のメンバーですが、銀行、商工会議所、民間企業の方々にも入って頂いております。こういった方々と四半期に一度、集まって頂いて情報交換、前向きの話をしてもらっております。

その結果、今年の3月に県内の一七〇〇企業にアンケート調査を行いました。二年前は貿易の意向調査でしたが、今回は貿易の実態調査でした。要するに儲かっているのか、やるのかどうかということです。これも三一〇社から回答を頂きました。その結果、海外取引をすでに行っていると答えてくれた会社は、一三三社あった。そのうち、直接取引をしている会社は四二社もあったんです。
四、五年前には秋田県の貿易のぼの字もなかった秋田県の県内企業の方々が、結果的に一三〇社も貿易を行い、港には国際コンテナ船が入ってくる。そして輸出入の貨物が入ってくる。税関の数字もはっきりその結果が表れております。その事実が目の前にあります。
 私の任務としては、秋田県の貿易の国際化という役割を果たしたといっていいかと思います。


我青春風来日記(98)

      早海三太郎
 新宿区霞岳町(39)

 キューバへ出発の5日前。7月4日だった。

 三太郎は幼稚園の先生になった、二村幸子さんを誘って新宿・歌舞伎町へ。西武新宿駅前のビルに「山小屋」の看板があった。歌声喫茶だった。二階に上がってみる。入口で歌集を渡される。中には若者達が多く集まっている。健康的だが、どうも照れくさい。
 中で皆、ロシア民謡を歌っている。
「若者よ」も歌われた。

♪若者よ 体をきたえておけ
 美しい心が たくましい体に
からくも支えられる日が
いつかは来る その日のために 体をきたえておけ
若者よ

若者への「大隈重信の言葉」という本がある。
”諸君は必ず失敗する。度々失敗することで大切なる経験を得る。この経験によってもって成功を期させなければならぬのである”

もう一つ大隈さんの気に入った言葉。
「人間の向上発展なるものは勇気である。ことに前途多忙の青年に最も欠くべからざるものは勇気である。しかし、その勇気は何によって出るかというに、根元はすなわち力である。力なき勇気は、一時は愚者や儒夫を威嚇することあらんも、到底、真骨頂の男児、偉大なる人物を恐れしむるに足らない」

 キューバ独立の父、ホセ・マルティの言葉を日記に書き留めていた。三太郎にとってこの言葉を心にキューバへ行こうと考えていた。
「本当の人間は、私益のある道を求めず、むしろ義務の横たわる道を求める。これこそ唯一の実践的な人間である」

山小屋では最後に、ホールの舞台に坊主頭の若者が登場した。声量があって上手い。その歌手は上条恒彦といった。
三太郎は江古田の幸子さんをアパートへ送っていった。
 池袋から西武線に乗り換え、江古田駅に着いた。日大芸術学部前を通り、彼女はアパートの前で立ち止まった。振り向いていった。

 「キューバへ行ってお役に立つよう、あなたに折り鶴の折り方を書いた箱をつくってます」(続く)


呑風日誌抄4月

 4月1日(水)秋田市新国道・銀座ライオン。ミネソタ州立大学のブラックストーン先生とハリソン・フォードに似た先生。ハーベスト音楽祭の打ち合わせ。国際交流課のリサもいて、11月に行う。
リサから習う。同じ仕事場での「どうぞよろしく」は英語で

I look forward to working with you.

十一日(土)雄和町浄水場の駐車場に集合。杉ゲリラ作戦と称して、雄物川に面している杉林の枝打ちと間伐を行う。ゲリラ戦士6人が集まる。何故か、三浦書店の三浦義明さんは立教大学の旗を持ってきて、岸部会長も連れてくる。坂本賢二医学博士や佐々木敬助ふるさと塾次長も来てくれた。井戸端ゼミの高杉会長が記録で、昼前に終わるかと思ったら、午後4時までかかった。雄物川の岸辺の杉林は、太いツルがからまっていて、杉のてっぺんから垂れ下がり、成長を止めている。こんな杉はチェーンソーで役場の池田実さんが、根元から切り倒す。軽犯罪法違反で捕まるんじゃないかと心配するむきもあったが、これがゲリラ作戦。暗い杉林が明るい美林に変身したのである。
6日(月)秋田大学医学部法医学教室。「秋田県の憂鬱を考える会」へ。前から吉岡尚文教授より出席案内を頂いていた。自殺防止対策の提言をされている。NHKの増子有人アナウンサーが取材にきていた。秋田県自殺防止対策協議会の設置を進めたい。
7日(火)荒谷紀子さんとフアンである俳優の山谷初男さんが来課。「放浪詩集・寺山修二の世界を唄う」を5月2日、角館町はっぽん館で。新装なった山王「館」にて、第一生命の学友・福永と、駅前多良へ。
十一日(土)午前中・本荘市のインターネットボランティアの石井護さんが来てくれて、「ミロのビーナスの背中」をホームページに入れてくれた。
夕方、秋田市下新城の佐藤孝之助さん宅。中国人留学生の随広軍一家が埼玉県へ就職し、離秋するので送別会。吉林省・岐新市から奥さんのご両親も来ている。旅順出身の医学博士庄先生も。佐藤家の庭に花桃の記念植樹をする。
十四日(火)秋田市・萬帝楼にて国際交流課の花見。いい人材が揃う。川反・レディにて二次会。
十六日(木)大連市投資圏環境セミナー。キャッスルホテル。
十七日(金)山王・ふきみ会館。毎日新聞秋田支局長の渡部慶一氏を祝う会。柳田弘本荘市長も出席。魁新報の那須、須藤、村上記者達本荘高校出身のマスコミ関係者が集まる。ソリューッションシステムの佐々木伸一社長も。
十八日(土)進ちゃんこと、姪の亭主、進藤隆君の新築祝いへ。秋田市御野場。未だに官舎づまいのこっちの甲斐性のなさか。
十九日(日)朝、雄物川河口の百三段海岸に新屋青年交流会の面々と雅子様の花、ハマナスの苗木の植樹。これは大島昌良君と二年前、能代市の工業団地から採ってきた白いハマナスの種が育ったものである。ここにカリブ海の砂浜を造ったら面白い。白いハマナスとカリブの白砂は似合う。
葉隠墓苑の桜が天狗巣病にやられているので、枝打ち機をもってきて切る。近くのからす沼へいってメダカを探したが一匹もいない。 夕方、娘が東京へ行き、女房と二人きりで、千秋公園の夜桜見物。 二四日(金)ふるさと塾。講師は国際交流員のリサ・ブングトソンさん。「国際化のまちづくり」と題して。アメリカには国際化という言葉はない。国際交流とは人生の友人をつくること。
二五日(土)秋田戊辰之役戦没者の墓地全良寺へ。戊辰戦争研究家の伊勢玄二郎さんと。鳥取藩士の墓の写真を撮る。伊勢さんの案内で協和町へ行き徳昌寺と、万松寺で二人の鳥取藩士の墓の写真も撮る。鳥取の友人へ写真を送り遺族探しをして貰うため。
ジョイナスでの秋田ユネスコ協会と駅前鎌田会館でのJICA帰国専門家秋田県連絡会総会へ。日赤水上安全講習会で一緒だった西目町の佐々木久尚先生と十年ぶり。 山王・トーカンビルで友愛社の小畑悟さんと森信三先生の会の件。石川公正氏を偲ぶ会となる。
二六日(日)ジョイナス。地域で支える日本語教育98へ。外国人自助グループの形成の分科会へ。 二七日(月)秋田市楢山教会。石川公正氏葬儀。稲門会代表で弔辞を読む。
 教会の白きスイートピー 遺影微笑む みっちゃん泣くなと
 二八日(火)八橋三和町・靉。毎日の渡部慶一支局長祝。渡部千秋美術館長、鈴木岩手放送支局長、山口朝日新聞支局長と。秋田テレビの谷桐子アナ、大友直記者も祝酒付きで駆けつけてくれる。
二九日(水)秋田市総社神社。昭和天皇記念祭・第七回特別攻撃隊招魂祭へ。ツバサ広業の枡谷健夫社長の挨拶には感激。
花負いて空撃ち征かん雲染めん 屍悔いなし吾等散るなり
    (高千穂空挺隊員)

どんぷう後記
陽気のせいか、呑風便の購読料振込用紙に名前の書いていない方がおりました。消印が秋田・通町とあります。心当たりの方、お知らせください。