♪ ふるさと呑風便 5月号2000 No 133
   雄 弁
  ☆☆☆☆☆☆
 

「雄弁会に入れ」と親父はいう。志望の大学に合格した時だった。私はレスリング部に入ることを決めていたので、雄弁会など考えてもいなかった。
 

 小渕さんも新首相の森さんも雄弁会出身。二人を支える青木さんは雄弁会の先輩にあたる。森さんが学生時代、幹事長選挙で青木さんを支持して幹事長にした。ところが、青木幹事長は麻雀ばっかりやってるので、森さんは雀卓をひっくり返した。怪我でラグビー部を辞めて雄弁会に入った森さんは元々体育会系の青年だった。先輩は一生先輩で、青木さんには頭があがらないだろう。

 小生は怪我をしてレスリング部を辞めて、雄弁会ではなく、中南米研究会に入った。 二年生の秋、文化祭が終わって、幹事長選挙があって立候補した。対立候補がいたが、二年生会員全員が集まって、自分は中南米研究会をこうしたいと演説をした。雄弁ではないが、真剣に話した。対立候補はそれを聞いて、「わかった、俺は降りる、お前がやれよ」といわれて決まった。
 幹事長になって、毎週土曜日に部室で幹事会を開いた。4人が来ない。麻雀やっているという。雀荘に行って彼らの雀卓をひっくり返した。
 学生時代、ここまでは森さんと似たことをした。卒業して、日本のあちこちで風来坊やった後、参議院議員の秘書になった。昭和43年のある日。議員会館の部屋に体格のいい、産経新聞をやめて石川県選出の参議院議員の秘書になったいう人が挨拶にきた。その彼(森さん)を見た女性秘書は「頼もしそうな人ね、出世するんじゃないの」という。これ以降の森さんと私は全く似ていない。
 当時、竹下さんが情報産業議員連盟を結成された。私は議員の代理で設立総会に出た。会場は赤坂のヒルトンホテル。竹下さんと小渕さんが並んでグラスを傾けていた。思い切って話しかけた。「コンピュータテクニックグループで仲間が映画を作ったりしてます。大学の後輩です」といったら、竹下大先輩がニコニコして、「事務所に遊びに来いよ」といってくれた。
 嬉しくなって後日、衆議院第二議員会館の竹下事務所を訪ねた。竹下さんはおられなかったが、秘書の顔に見覚えがある。彼もこちらを指さしてやあやあ、という。後で卒業アルバムを見たら、グループ写真に同期の彼が写っていた。そのタイトルは「吉永小百合さんに貞操をささげる会」
 彼が雄弁会だったかは知らないが後年、竹下さんの故郷島根県に帰り県議会議員になっている。
 やさしかった竹下さんのご回復を心から願い、小渕さんのご冥福を祈るのみです。
 雄弁会ではなく昂揚会の幹事長選挙で落ちたゼミの同期、栗原健昇は初期貫徹して、埼玉県熊谷市の市議会議長をやっている。官立大学出身の元官僚政治家が私学出の弁論部出身者を揶揄していたが、雄弁術で政治家になれた訳ではないだろう。雄弁は一に熱誠、二に熱誠、とある。

 昨年5月、秋田ふるさと塾で講演して頂いた元自治大臣の田川誠一先生から色紙が送られてきた。「百術一誠にしかず」と書かれていた。しかり。


 ふるさと塾地域づくりセミナー
★平成11年9月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「炭は地球を救う」
★ 鈴木 勝男氏   (炭焼きの会秋田支部長)

 ほら吹きという語源を調べてみると、壮大な話をして成し遂げられないと書いてあります。私はそうでなくて、ほら吹きというのは夢を語るという言葉に変えた方がいいと思っています。
 私が木炭に夢中になったのは、県庁を辞めてからの話ですが、県庁の木材産業課という所におりまして、特産担当でキノコであり、桐であり、栗であり、特用樹関係の仕事を担当しておった時に、木炭というのも一部にあったんです。木炭は自分で焼く技術を証明してもらったというのがあったんです。なぜ自分が炭を焼かなかければいけなかったというと、私は小学校しか入っておりません。村の役場の小使いをやって、あの当時はさんがついてました。小使いさん。(笑い)今は用務員です。そこで高校に値する以上の勉強をさせてもらいました。 何故かというと、村役場の職員というのは、そこの地域の優秀な人がいる訳でして、その中で勉強したことは基礎学より実践学に入り込んだと感じて過ごして参りました。 お陰様で建設省の測量部に入りまして、そしてGHQの仕事で終戦後の25年ですが、アメリカ候兵隊と一緒に戦争の跡地の測量調査に参加しました。アメリカの兵隊達と8ヶ月程生活しながら南方で現地調査をしてまいりました。
 私は兵隊に行かなかったけれども、戦争とは実に馬鹿らしいと思いました。何故かというと、砲台がニョキニョキ立っているところに、白骨ががらーんと並んでいるんです。上に何にもないんです。特に空から来る攻撃には何もならない防衛で、ほんとにつまらない戦争をしたもんだなと思いました。
 それが区切りでしたが、当時は親孝行とか行儀作法とかがいわれていまして、長男でもあったし、秋田に帰りました。7年間東京におって、又西木村の役場に入りました。 そこで炭焼きという実態をみていると、実に重大な村の産業でした。日本一になろうとか数の問題でなくて、経済を支える一つの大変な産業でした。そこで秋田県の60数名いた木炭検査員の実態と見ていると正しい基準でなされていると思います。しかし、その間にお酒が入ったりすると、これはほんとにうまくやっているのかなと疑問をもったりしました。(笑い)
 私も正義感が強い方ですから、どうもこれは怪しいぞと酒飲んだり、餅を食ったりしますとうまく木炭の階級が上がったりすると不信感を抱いてしまいました。そこで私は役場を辞めて木炭を作ることを勉強しようと思いました。その時は余裕がありましたから一年ぐらいは大丈夫だと思って、大館にある県の林業試験場に佐藤克蔵先生がおりまして、秋田県の木炭の改良というのは福島県の吉田来秋先生から学んだことを佐藤先生が文章化し、吉田釜を白炭という評価を高めた。私は佐藤先生の弟子入りをした訳です。それを経て自分で炭を作ってみたら、これは間違いも間違い、秋田県で一等賞になりました。全国に出したら二等賞になりました。ということで、後は二度とできないだろうと辞めました。
 それで臨時職人の木炭検査員になったというのが、そもそも私と炭の出会いです。
 炭を語るときに忘れてならないのはTDKの創設者斎藤憲三先生です。何故かというと斎藤先生は、科学技術庁の政務次官までやった先生ですが、道川にロケットを持ってきたりした人で、平沢の町長時代、松根油を作っている過程で、煙から木酢液が出てきました。その木酢液が田植えの田圃にドロドロと流れていってしまった。そこで農民が役場に押し掛けていって、「田圃に真っ黒いものが入ってきて何としてくれるんだ」 汲むわけにはいかないし、斎藤町長は秋の出来作によって精算しようとなだめた。
 さあ、出来作になっても誰も来ない。調べてみたら何と三割も増収していたという。 そこで斎藤憲三先生は、これは何かためになるぞと、自称博士の渡辺誘喜という研究員を使って木炭と木酢液の研究を始めました。木酢は何に使うかというと、農業に使おうとしました。
 斎藤先生は代議士を何度も落ちたりしましたが、後に科学技術庁の次官時代に三千六百万円の予算をつけて東大を出た岸本定吉先生に研究をさせることにします。渡辺誘喜という人にも研究をさせる。その結果は、農業と衛生面に使うということでしたが、木酢というのは酸化防止に役立つ、木酢を刺身にかけると一日か二日長持ちさせられる。味は別ですが。糖尿病にきくと渡辺誘喜先生が自分で飲みながら血糖値が下がると証明されています。本荘の保健所長の発表された事例として、木酢には殺菌効果があり、回虫にきくということです。
 農業には木酢を使ってなるだけ化学肥料を使わないようしにしようと、国会で農村出の議員を集めたら21名集まったそうです。しかし、誰も真剣にきかなかったとのことです。それにもかかわらず、岸本先生は、一生懸命に木炭の勉強をさせられたというのが、そもそもの木炭の研究に過ごしてきたきっかけでした。今、実に92歳でお元気です。 幸いにしてそういう先生と親交を深めさせて頂いております。すべて私の耳学によって知識をいただいているんですが、斎藤憲三先生は全国に先駆けて木炭の研究を熱心にされた方であることを披露してから始めたいと思います。

 木炭検査員をしながら7年間を経過して、その後は一切木炭にはふれることなく、その間、行政指導で心ばかりの指導をさせて頂きました。産業としての木炭というのは、だんだんと落ち込んでいって、それは単に燃料として考えていなかったから、化学燃料に押され、市町村の産業にはならなくなりました。
 そこで私は現職の時に、木炭を砕く機械を開発したいと密かに思ってました。上司に話したら、木炭を砕くとは何だ、木炭を固くしようと吉田来秋先生を頼んできた秋田県の歴史がある、砕くとはどういう意味だと理解を得られないまま卒業してしまいました。
 ところが私が木炭を砕くというのは、何であるかというと、加工という問題を考えたからです。当時は燃料として木炭の硬度が15度以上あれば備長炭として使えたんです。
 ところが、木炭を砕くことによって色んなものに使える。
 その発想から木炭を砕く機械を開発したいなと思った訳です。そこで各大学に連絡を取ってみました。(続く)


 我青春風来記 (120)

   早海三太郎

  メキシコ2(1)

 キューバからの帰り。メキシコ空港で緊張して手を握った。中に一ドル貨幣がある。税関を通る時に握手して相手に渡せば荷物を大目にみてくれると聞いていた。近づいた。
 手を出して握手しようとすると、背の高い税関吏は三太郎の胸を指さしてよこせと合図する。「ん?」ワイシャツの胸ポケットの中に葉巻3本を差し込んでいた。ああ、これか「ん」といって、握っていた一ドルをズボンのポケットにねじ込んで葉巻をとって渡す。それで荷物は調べられずにフリーパスだった。一ドル儲かった。
 バスに乗ってウルグアイ通りの幽霊ホテル、モンテカルロに向かう。途中、歓迎と日本語で書かれた看板が見えた。キューバと違って通りすがる車の数が多い。
 キューバの在メキシコ大使館から滞在ビザは3日間しか許可されなかった。延長するには一度隣国に入ってからメキシコに再入国するしかない。ガテマラに行くには時間も金もなかった。
 三太郎はメキシコの保養地アカプルコに行くことにした。キューバで会ったアカプルコの兄妹、レオナルドとアルモニアから誘われていた。
 8月23日。深夜12時。メキシコシティ中央バスターミナル。アカプルコ行きの切符を買う。窓口の女性にはなんと薄ヒゲが生えていた。
 メキシコシティから西へバスで約8時間。太平洋岸に着くと空は薄明るくなってきた。
 レオナルドの父はキューバのバチスタ政権に追放されてメキシコに渡った。アカプルコで海の家を経営し、カストロの革命政権が成就されて喜び、キューバの革命建設に協力しようと我が子を派遣したのであった。
 レオナルド20歳、アルモニア16歳。彼らとはハバナ郊外の美しい海岸バラデーロで会った。
 アカプルコ駅から車でマンシオンデルマールに向かった。そこはアカプルコ湾の対岸にある。坂を上っていくと瀟洒なホテルにおろされた。ロビィに入る。カウンターに色黒で精かんな男が笑顔で迎えてくれた。(続く)


 呑 風 日 誌 抄
 
4月1日(土)秋田駅前・クラフトスペース小松へ。小松正雄社長と職人学会プレイベントの相談。彼は永六輔さんとカンボジアの職業訓練ボランティアを成功させている。
 2日(日)本荘市文化会館。元市長・佐藤憲一先生の告別式。高校時代から伝説の大先輩だった。多くを教わり、何度も激励を頂いた。涙涙・・
 5日(水)昼、ブランアンと和田さんと大江戸。ラーメンをご馳走するとの約束を果たす。駅前・人情酒場久保田。総合食品研の進藤隆氏と、二次会は川反・コットンクラブ・武曽邦人マスターと昔世話になった下田の森くんの話。
 7日(金)川反5丁目橋のたもと。地主の鰍ネかやの伊藤社長。那波宗久氏と川反観音像建立の相談。伊藤氏より建立許可を得る。ホットする。
 8日(土)新屋・日吉会館、佐藤雅佳氏御尊父葬儀。ニューグランドホテルにて六旗の会実行委員会。キャッスルホテル。職人学会の実行委員会準備会
 9日(日)秋田駅前・久保田会館。ロシア語を学ぶハラショー会総会。秋田市在住ロシア人5人出席。
 10日(月)鎌倉の漫画家横山隆一さんへ福禄寿一升を送ってもらう。館。ブラジル秋田県人会40周年記念に慈善公演を行う大潟八郎さん達とブラジル公演の相談。
 11日(火)秋田魁新報社佐藤暢男社長へ佐野元彦、大島昌良両氏と早稲田フェスタあきたの協力依頼。ご快諾 12日(水)近所の佐々木文博さん宅へ。アイキャンの渡辺哲夫社長と遅くまで飲みながら勝平浜クリーン&プラント作戦の話。二人は野球部の同期で、渡辺氏はラグビーへ。
 14日(金)秋田駅前・クラフト小松。手漉き和紙とキャンドル展へ。菊池正気氏(茨城県和紙職人)、吉岡優(東京・キャンドル作家)と近くのお多福で工藤幸彦さん、小松正雄社長と一献多献。
 15日(土)アキタニューグランドホテル。稲門会幹事長会議。早稲田フェスタの相談。野球は大館。サッカーは横手。ラグビーは男鹿で開催。
 19日(水)岩城町外野の会。秋田市八橋・四季彩。加藤鉱一町長を囲み、まちづくりアドバイザーとして菅原展子秋田市立図書館長、阿部譲二弁護士他3人。皆由利本荘地区出身。
 20日(木)昼・アキタニューグランドホテル。稲門会木曜例会。フェスタの話。夜、キャッスルホテル、全国職人学会INあきたの実行委員会。
 22日(土)秋田ユネスコ協会総会で挨拶。ジョイナス。
 秋田ビューホテルにて安田琢・智子さんの結婚式。拍手に手が痛くなる程、愉快な結婚式。二次会まで若者達とつき合う。
 23日(日)秋田市文化会館。越後谷慶子さん脚本のコムソベーラ創作オペラ。女房とオペラ「魔女の息子」を観て、本荘市の組合病院へ。兄の見舞い。大したことがなく安心。
 24日(月)午前。秋田市長室。石川錬郎市長と早稲田フェスタ、全国職人学会他の相談。夕方、むつみ造園の杉村文夫専務と川反観音像設計の相談。
 27日(木)大江戸にてシンガーソングライターでラーメン研究家のケーシーランキンとラーメン。秋田県職員会館。秋田バリアフリーネットワークの会合でバウハウスの森川恒さんと会場の机の準備して、ADビル。「ぽらん」にて六旗の会、法政、慶応、東大、立教の面々、ケーシーのライブ。 お客で男鹿の大工職人の頭領と会い意気投合する。
 28日(金)ふるさと塾。講師が茶町梅の丁町内会長の中谷久之助さん。「茶町遠くて」という町内史をまとめられられられて、感動的な話。レディにて二次会。高校・大学同期の渡部薫と日本一旨いおでんや「江戸中」でじっくり。主人の長崎肇さんに川反観音建立の協力を依頼。秋田県を面白くする会発祥の店の激励。
 29日(土)秋田市・総社神社。ツバサ広業主催の第9回特攻隊招魂祭。毎年参加し、去年は黙祷の間、ラッパで「国の鎮め」を吹いたが、今年は五五柱の特攻隊戦没者の名前を朗読。うまく出来ず反省。
 30日(日)近所の佐々木文博さん宅で勝平浜クリプラ作戦の打ち合わせ。川反先人慰霊秋田委員会の伊藤寿朗会長のお見舞い。川反観音像建立のめどがたったと報告。
 どんぷう後記
 我青春風来記で、三太郎がキューバを旅した一ヶ月は省略しました。これを書くとあと何年かかるかわかりません。 キューバ旅日記が残ってすので、機会をみて掲載したいと思っております。