ふるさとを愛するものは
 ☆☆☆☆☆☆

 元本荘市長の佐藤憲一先生が亡くなられた。訃報を聞いて思わずあーっと叫んでしまった。後日、小林工業の小林忠彦会長から電話を頂いた。
 小林さんは、TDKを創立した斉藤憲三と東京電化工業時代から一緒に世界の企業となした方。
「斉藤憲三先生も亡くなり、佐藤憲一先生も亡くなってガックリしている。貴方は呑風便を続けてがんばって欲しい」
 私は激励の電話に感動し、小林会長に佐藤憲一先生への弔辞らしきを書いて送った。

 佐藤憲一先生
 母校、本荘高校時代、私にとって先生は伝説の人でした。
 東大に四浪して入った。学生時代はプールの監視人のアルバイトをしながら東大の弁論部で活躍した、等々。
 佐藤憲一先生が母校の英語教師時代、「英語教師は、一つの単語をもとに一時間は授業できなけらばいけない」といわれたと、担任だった梅津清先生から聞かされました。
 公会堂での市長選挙の立会演説会。私は佐藤市長の演説を聞いて感激し、そのまま雪の中を選挙カーを追いかけていったことを思い出します。
 親しくさせて頂いたのは、後年。六〇数年前に深沢海岸沖で遭難死したロシア・ウラジオストクの漁民ニコライ少年の慰霊碑建立を思い立ち、佐藤先生を訪ねて以来でした。
 露国遭難漁民慰霊秋田委員会会長就任を地元深沢の青年とお願いしました。
 最初は断られましたが、「君たち青年の心意気に感じた、私の名前で良ければ使っていい」と快諾され、ポンと十万円を寄付して頂きました。
 それ以来、何かと相談に訪ね、佐藤先生の高い見識、 学問への絶え間ない探求心にはお会いするたびに感銘を受けてきました。
 七年前、県内の地域おこしの仲間から小生を地方選擁立の動きがあり、先生に相談したところ、「熟慮断行」という言葉を頂きました。
 結局、私の力不足で断念しましたが、それでも若い人を愛した教育者でもある佐藤先生からは、私への励ましの言葉でした。
 ふるさと本荘を、麗峰鳥海山をこよなく愛され、青年達を愛でた先生は鳥海山の雲の上に行かれてしましました。
 これから鳥海山を眺めるたびに、尊敬する佐藤憲一大先輩の大きな笑顔と温かい激励の言葉を思い起こし、自らの志を高めて行きたいと思います。
 佐藤憲一先生、ほんとうにありがとうざいました。

 4月2日。本荘市文化会館。佐藤憲一先生告別式。演壇の上に先生の大きな遺影が掲げられている。友人代表の小林忠彦氏が「けんちゃん」と涙ながらに呼びかけられた。
 詩人の宗左近さんは語りかける。「君の21才の時の2行詩、星の如く、虹の如くは鳥海山、日本海、子吉川の光と水と風を送り込んだ。ふるさとに帰って市長をやった君は学校や道路をつくる際、木を切らせなかった。大企業を誘致しなかった。人間の命、自然の命を大切にした。・・・・
僕は悲しみません。でも何故か涙を流します」
 

 私は悲しく、何度も涙を流した。先生から聞いた湯沢市出身の歌人の歌を思い出した。
  ふるさとを愛するものは ふるさとの土になれよと鳴く   閑古鳥 (帯屋久太郎)


 ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年8月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「漁業からの地域づくり」
★ 渡辺 茂雄 氏
(鷹巣町漁業協同組合理事長)

 私は昔、全林野労働組合の専従をやっていまして、この部屋に来ましたら、(雑然としていて)何十年前のことを思い出して、懐かしく思いました。(笑い)
 今日は川の話をしてみたいと思います。
 秋田県の漁業は、内陸の漁業と海の漁業があります。海の方は一般に海面漁業、陸の方は河川漁業とか、八郎湖のような内水面漁業と二つに別れています。これを県庁の水産漁港課が管理指導しています。秋田県の内水面漁協は今、28あります。組合員が一万一千二百人、海面の方は三千三百人の組合員がおります。
 圧倒的に内水面の方が多いんですが、内容はとても海面の方には及びません。
 八郎湖には七百五十人の組合員がおります。ここには専業漁師もいるんですが、あとはほとんど兼業漁師はおりません。それでも心豊かにして、漁業管理をして、何らかのかたちで地域に寄与している人がおります。内水面の組合員一万一千二百人のうち二千二百人ぐらいが米代川に集中しております。五千五、六百人が雄物川、千七,八百人が子吉川にいます。あとは八郎湖、馬場目川、八森町などにいて一万一千人になります。

 鷹巣町漁業組合は、昭和58年にできました。組合員は八二名おりました。今は百十人です。規模も非常に小さくて、生まれたのも若くて、28ある漁業組合のなかで25番目ぐらいです。漁業者というのは保守的なところもあります。何故かというと、良い魚を人より早くとるという思想がある。世界の海でそういう悪いことをしていますが、河川においてもあります。それから、独占欲があります。魚は誰のものでもない。いい魚は誰よりもはやくとってしまう。そうした中で鷹巣漁協は非常に若くて、過去のしがらみにとらわれないで、大胆にやってきました。それが特徴だと思います。
 昭和58年に漁協がうまれまして、つくるまでに5年ぐらいかかりました。つくる理由の一つに環境問題がありました。どんどん河川が汚れ、砂利採集から、守っていきたいと。鷹巣漁協が昭和58年にうまれて59年に最初にやったのが鮎祭り。簡単にいえば、鮎を塩ふり焼きにして、みんなに飲んでもらって我がふるさとにこんなにいい魚っこがあるんだと。我がふるさとの良さをみんなで確かめようと鮎まつりをやりました。
 全国で鮎祭りというのは2つぐらいありました。最初は八〇〇円か千円で鮎食べ放題、酒飲み放題、町長、議員、当時私も議員でしたが、役場の偉い人にも全部来てもらい、青森からも参加がありました。
 それで、鮎ってこんなに旨いもんだ、鷹巣も馬鹿にしたもんではないという声が上がりました。成功しました。あんまり鮎も食うし、酒も飲まれて赤字になってしまいましたが。(笑い)
 キャッチフレーズとしての、大鮎の里は鷹巣漁協が作り出したものです。私は鮎の大きい小さいは最初わからなかった。自然がだんだん荒れてきました。その中で関東の釣り人が、本来の自然を求めて北上してきました。昭和57,8年。彼らは米代川の鮎は大きいんだいう。そこで鷹巣漁協で初めて大鮎と命名したんです。地域おこしが盛んになっていた頃でしたから、そこで大鮎の里として使い始めました。
 ところが隣の田代町で大鮎の里のイベントをやっているんです。私共の大鮎の里が盗まれてしまったんです。
 そこで昭和61年頃、私共では大鮎の本場と名前を変えて、違いを鮮明にしました。
 純然たる天然遡上の大鮎の本場としてそれからずっと使っています。
 米代川に鮎友釣り専用地域というのがあります。友釣りとは鮎で鮎を釣る手法で、最も難しい釣りですが、最も楽しい釣りなんです。
 北上を続けてきた関東の釣り人達がせっかく飛行機などで来るにもかかわらず、漁協の連中がどんどん網をかけてとってしまう。そこで秋田県の米代川を売り出すために、釣り師を守るために鮎友釣り専用地域というのを設定しました。これには釣り人には拍手喝采を受けましたが、漁協の組合員は、渡辺組合長打倒を叫んでいます。

 今は常識になりましたが、県外でもぼちぼちこれを採用し始めています。
 鷹巣漁協は大体65%を知事の認可を得て、友釣り専用地域に指定し、県外からやってくる釣り人のためにもやっています。
 結局、ふるさとの鮎を知ろう、広めよう、大きな鮎の鮎友釣り専用地域と、三つをセットにして鷹巣漁協は県外にアピールしていった訳です。
 私の釣り日誌によりますと昭和59年に鮎を友釣りで850匹釣っています。60年には、たった5匹しか釣っていません。そこで鷹巣町役場に米代川にある10の組合を集めまして、県庁からも来てもらいまして、どうしたらいいかと話し合いました。
 結局は米代川の河川環境が破壊されていたんですねえ。河川環境の悪化はある日、突然にやってくるんです。
 鮎は我々に対して、川はとんでもないところにきているんだよとメッセージを届けたんです。
 とうとう結論が出ないまま60年には鮎祭りも出来ませんでした。翌61年にはちょっと鮎が帰ってきたんです。そこで我々は、落ち込んでいないでがんばろうとなりました。必ず鮎は良くなると鷹巣漁協は期待し、そこで日本国中どこでもやっていないイベントをと、独自性のあるものとして、ある組合員が「女の鮎釣りをやったらどうだべ」
 これが後に、昭和63年に、全日本レデイス鮎選手権大会となりました。日本でただ一つの大会で、マスコミは飛びつきました。沖縄の新聞にも載りまして、沖縄から激励の手紙がつきました。
 ですが、農家が田圃の草を刈って、どんどん川に流す。たくさんの釣り人がやってくるのに、釣りにならないんです。そこで漁協では農協や土地改良区などに協力を求めたんですがダメなんです。
 昔からやってきたんでしょうが、時代が変わってきているんです。都会から農村にやって来ている、悪いことは改めようと手書きのポスターを貼ったりして、今でも漁協は続けています。
 そういうことで、我々は小さい漁協ですけど、新しい時代に向かって準備を始めたのが昭和61年だったんです。
 女の大会は最初は5人しか参加しなかったんですが、釣り具メーカーも一生懸命応援してくれました。全日本レディス鮎選手権のお嫁さん探しに、私もラブレターを随分書きました。一見派手なイベントですが、お金も随分かかりました。
 先ほどのいい魚は誰よりも先にとりたがることがあります。組合長リコールをやりたがってバタバタして状況でして、組合員の教育をしながらやってきました。
 昭和64年に、鷹巣漁協を売り出すために今、釣り具メーカーいろんなが大会をやっています。
 その大会を全部誘致する。その場合はお金がかかりません。
 前の鷹巣町長から5万円を一つの大会に頂いたことがありましたが、今の町長からは頂いていません。
 大会を一夏で四つも五つもやることは備えが大変ですね。
 お金はかかりますが、地域おこしの為になるのではないかと一生懸命やっています。
 鷹巣漁協が他の漁協との差がついたのは、今日の鮎情報というのを出しています。鷹巣で鮎がうんと釣れるという情報が入った時にはもう魚はいなくなっています。男鹿で黒鯛がいっぱい釣れるとわかると、入道崎の鯛は全部釣られてなくなっています。
 今はインターネットのホームページで情報が分かるんですが、昭和62年はまだそういう時代ではなかったんです。
 釣り人に最も新鮮な新しい情報を提供するために、「今日の鮎情報」を全国で初めてだしました。それは、米代川の水位を一日に二回、毎日測定しまして、水位と水温と濁りを記録にしまして、情報を発信してきました。
 今、何時間後には鮎が釣れる状況になるという情報を出す。そうすると、東京から釣り人が発車してくる。
「今日の鮎情報」は最初、企業秘密として隠していたんですが、他の誰も真似ができないだろうと、雑誌に書くんです。
 そのために、鮎のシーズンには私は一切家から離れられません。一切のすべてを犠牲にしてデータをとっています。

 私は毎日川に行かないと、何となく体具合が悪いんです。(笑い)川を見ないとちょっとすっきりしない。(笑い) それから私は歳ですから、そのうちくたばるだろうと、いいデータを残しておきたいとそういう欲が出てきました。10年間はやってきました。最近は米代川の心がわかってくるようになりました。これで鷹巣漁協は全国の釣り人から評価を得ました。土曜日の朝6時から夜8時までひっきりなしに電話がかかってきます。私も、女房なんかも3回くらい倒れました。
 私も歳で神経痛になってもう何年、続けられるかわかりませんが、今日の鮎情報を続けていきたいと思っています。車を持ってませんから、自転車で川にいってるんですが、釣り人が大変だろうと電動式の自転車をすすめられ、それで毎日川にいっています。
 鮎を釣るなら石を釣れという有名な言葉があります。砂利採集で石がなくなった川に、鷹巣漁協では、自前で川に大きな石を入れています。これがマスコミに取り上げられてどこにいれたのかと問い合わせが随分ありました。
 政治家よ行政よ、二度と川から石を取ってはならないと訴えたいと思います。
 鷹巣漁協が今日までやってこれたのは余り行政に頼らないでやってきたからです。今、米代川漁協の一〇のうち半分は役場の中にあります。役場の職員に仕事をやらせています。官民一体となってやることはいいことでしょうが、余り行政に頼りすぎると自立性がなくなります。はやく目覚めてもらいたいと思っています。鷹巣漁協はこういうふるさと塾の事務所の様なところから始めたんです。(笑い)
 米代川は重金属に汚染されていました。カドミューム問題が起こったとき私一人で反対運動をおこしたんです。
 ほんとに木が切られましてだめになったんですけど、まだたくさんの緑に囲まれてまして、他の川が干ばつでやられても米代川は大丈夫でした。依然として東北第一の鮎の川、米代川の将来は明るく、悪くならないと信じているんです。     (文責佐々木)


 呑風日誌抄
 3月4日(土)秋田市新屋豊町・パピオン。クリエイト・ジャパン鈴木憲一会長と。中国の王麗さんの中国健康ダンス・箸舞の写真をとる。
 5日(日)アトリオン。新作家具展へ。萩原製作所の萩原易雄氏に職人学会の相談。
 6日(月)松戸眼科へ。秋田キャッスルホテルにて全国職人学会打ち合わせ。実行委員の面々と駅前・久保田で眼の消毒。多良で二次会。
 7日(火)秋田市大町4丁目、中谷久左衛門さんにふるさと塾の講師依頼。4月に市街地のまちづくりについて快諾。酒造会館。高橋事務局長に全国職人学会の協力依頼。杜氏組合長から発起人になってもらうこととする。大内町農業改善センターにて、第2回大内町民謡の里づくり実行委員会。
 8日(水)昼、南極観測船しらせを秋田に誘致する会。秋田青年会議所事務所。秋田港をしらせの母港化する案が話される。
 秋田ビューホテルにて秋田大学留学生卒業パーティ。加藤建設の加藤俊介社長と駅前久保田。敬愛していた故加藤俊三前社長を偲ぶ。
 9日(木)秋田キャッスルホテル。工藤幸彦さんと小金井酒造社長で秋田県職業能力開発会長の高橋昌一氏に職人学会実行委員長にとの相談。大物の快諾を得る。一安心。
 10日(金)平安閣。加藤亮さんの伝承遊び研究会25周年祝賀会。盛況。彼が伝承遊びを始めた頃、こっちは雪上野球を始めた。雪上野球25周年を東由利町のフランス鴨と大森町の大森ワインのセットでやるべしといわれる。
 12日(日)秋田県緑化人大会へ。社会福祉会館。むつみ造園の彫刻家・杉村専務と。川反観音設計図の相談。
 13日(月)新潟駅ビル。小島屋ソバ。佐藤俊彦社長(山王木材)太田宥子(秋田県国際交流をすすめる婦人の会)会長達と視察。新潟県日本海企画室、環日本海経済研究所(エリナ)の視察。官と民では意気込みが違う。同学の伊藤征一氏(エリナ調査研究部長)とホテルディアモントにて懇親会。二次会あちこち。
 14日(火)新潟駅前・三菱商事。はばたけ21の会からウラジオストクの少年達招聘事業を聞く。新潟ガンセンター。元毎日新聞秋田支局長の神田順二さんの見舞。手術無しで治すと、お元気で安心。
 川崎・向丘遊園駅前・旭寿司。息子洋平と就職試験のこと。近所の東京商工リサーチの荒谷紘毅さんと呑登にて二次会。秋田の小林弁護士の話をしていたら携帯に彼から荒谷氏に電話。びっくり笑い。
 15日(水)高田馬場。メルヘンリークスの石河信昭社長と。日本ユーモワ大賞の情報、モンゴル出身の旭鷲山の切手と手形を頂く。稲穂食堂へ。中国留学生張剣波君と大学広報課の大石勇人君と早稲田フェスタの打ち合わせ。都庁へ。共同通信の橋田欣典記者と45階の展望台へ。
 東京から秋田に職人を連れて行くとのこと。夕方、阿佐ヶ谷・新東京会館。工藤幸彦さんと野坂塾へ。永六輔さんと職人学会の打ち合わせ。数分。 新宿・雀の叔父さん。戸田建設の清水亮一さん。東京秋田稲門会兼ふるさと塾東京支部結成をしたいという。
 16日(木)国会図書館で職人辞典を見る。羽田にて高橋昌一実行委員長とばったり。
 17日(金)秋田市山王・八条、39会。菅谷理市連合会長、加成義臣県議の幹事長就任祝い。二次会、すがわら。
 19日(日)秋田ビューホテル。佐々木岩男先輩の県スポーツ功労賞受賞祝賀会。卓球関係者他大盛会。逸見耕作大先輩達と駅前で二次会。
 21日(火)昼、彌高会館。ペルー協会、イネスの送別会。彌高会館の北嶋昭会長が振り袖一式をイネスに贈呈。
 24日(金)ふるさと塾。金浦町の木工職人・浜田政光氏の「職人もまちおこし」浜ちゃんは偉い。レディで二次会。
 25日(土)秋田キャッスルホテル。全国職人学会発起人会。18人出席。こぎつけた。
 26日(日)大内町農業改善センター。大内民謡の里競演会。盛会。閉会挨拶が出来ず、秋田市・榮太楼旅館へ。ここの婿、貴闘力が優勝。棚谷文雄さんのスポーツ功労賞受賞祝賀会。ボクシングだけでなく多彩な棚谷さんの人柄。
 27日(月)総社神社。秋田県郷友連盟理事会。英霊の顕彰目的の会。私は何故か副理事長にされる。 
 28日(火)秋田大学法医学教室。秋田県の憂鬱を考える会。吉岡教授の老人の自殺率は全国一の報告。自殺防止に若者によるお年寄りからの聞き書き運動を起こしたい。