呑風便 1月号 2000


  足を洗う
 ☆☆☆☆☆☆

 ここしばらく、まだ風邪をひかない。その訳は、毎朝、熱いお湯で足を洗っているからだろうか、と思っている。
朝起きると、足に汗をかいていて歩くとべとべとする。風呂場に大きな洗面器を置き、熱いお湯に足を浸して、石鹸をつけて洗う。これをほぼ毎朝一年間ほど続けてきた。
 

 昭和33年の春。中学生となって知ったアメリカは、英語の教科書「ジャック&ベティ」からだった。真空管ラジオからはアメリカの軽快な音楽が流れる。途中で聞こえなくなるラジオに耳を近づけて聞き、英語を諳んじた。その曲は「ビキニスタイルのお嬢さん」だった。

 ジャック&ベティの中に、ジャックの弟ビルが風邪をひいて、お母さんから熱いお湯で足を温めてもらってたのを思い出した。ビルは病院に行って注射をされるのを嫌がって、治ったといって学校に行った。そんなストーリィだった。
 冬、車に乗って足が冷えてくるとくしゃみが出てしまう。足をお湯で洗うようになってから、それがなくなった。

 「ジャック&ベティ」は出版社が開隆堂だと聞いた。インターネットで調べると復刻版が出ている。早速電話で注文する。
「ジャック&ベティ」には豊かで明るいアメリカがあった。 教科書の中のさし絵を想う。車に乗って出かけようとするジャックの家族の絵。家には車があり、テレビもある。ジャックはカメラも持っていて、弟のビルは広い居間のソファに座り洗面器に足をつけている絵を覚えている。
 ジャック&ベティは3日後に届いた。あこがれのアメリカを開く思いだった。あった。3冊とも同じ表紙だ。
 その絵は、ジャックとベティが楽しそうに歩いている。ジャックは左手に本を持ち、白いワイシャツにネクタイをして乗馬ズボンのようなチェックのズボンをはいている。ベティは笑顔でジャックを見て、右手に鞄、赤いブラウスにスカート。それにしても足が細くて長い。
 ビルが熱いお湯に足を浸している絵は3年次の教科書の中に、確かにあった。

 昭和33年。当時、村の学校には一時間かけて歩いていった。まだまだ貧乏だっ日本国の中学生には、ジャックとベティの姿はまぶしかった。 昔は良かったとはいわない。貧しかったが、何か夢があった、輝きがあった気がする。

 復刻版には付録が付いていた。それによると、ジャックとベティが住んだ街が実在するということを知った。五大湖南西のイリノイ州エヴァンストンという街だった。
 学生時代、アメリカのロスアンゼルスの郊外にある家にホームスティをした。広い芝生に白亜の家。ジャック&ベティのアメリカがあった。
 アメリカ並の豊かさを享受しえたかの日本。今、本当に豊かになったのだろうか。美しさ、優しさ、といったことを失われたのではなかろうか。
 2000年。美しさとは何かを見いだし、優しさを共創する年としたい。
 良き仲間といると居心地の悪い職業から、足を洗う準備をする年にもしたい。


ふるさと塾 特別講演

★平成11年5月27日(木)
★川反ふるさと塾舎
★「政治不信の病根を考える」
★ 田川 誠一 先生 (元自治大臣)

 私は佐々木さんが学生時代に、松村謙三先生のところへよく出入りされてまして、そういう関係で、今日までおつき合いさせてもらってます。今回、男鹿の方に横須賀からでて、工場を経営している人がおりまして、こちらに参りました。
 そしたら、皆さんの機関誌を見たら、私が何か話をすることになってまして(笑い)、びっくりしたわけです。
 といいますのは、一昨年の夏にガンセンターの先生方に何人か知ってる人がおりまして、講演してくれるかと話がありまして、一時間話をしました。私はその時に、一昨年の暮れをもちまして、一切講演はしないということを自ら誓いました。そして、そのガンセンターでの講演を最後に以後、今日まで団体の中でお話をすることをしていなんです。何故、そういう誓いをたてたかというと、私は大正七年生まれで、六月四日をもって、八一歳になるわけです。そして、まあどうにか、たいして呆けないで、今日まできましたが、やっぱり考えてみますと、非常に忘れっぽくなりました。そして、いうことも、話をして言ううことも、自分でひどくなったなあと。
 例えば、二〇分話すところを四〇分話しちゃったり、だいたい短く終わることがないんです。そして、これはボケの始まりだと自分からうすうす感じるようになりまして、皆さんから笑われないうちに大衆の前で、話をするのはやめようと一切やりませんでした。で、今日もする気はなかったんです。どうせ秋田のことですから、一杯飲みながら話をするんだろうと(笑い)ここへ上がって来ましたら、真面目な顔をされた方々が(爆笑)こういう机に座って待っておられた。何とか格好をつけなければいけません。

 話をしますが、ここに来るさる一〇日に、めまいをして歩けなくなりました。クラクラして急いで病院に駆けつけてしまいました。実は、病院の中でクラクラしてしまったんです。私は病院の中の床屋で三週間に一回行くんですが、床屋を出ましてから頭がおかしくなった。歩けなくなっちゃって、気はちゃんとしてるんですが、めまいがしてどうしようもならなくなりました。それで院長はじめ好意な人が多いもんですから、救急室で診てもらって三時間ぐらい点滴打ったり、一番心配な脳梗塞じゃないかとCTをとったりしましたが、脳の方は心配なかった。やっぱりストレスと神経がおかしくなって、三叉支管、脳の中の後半器官がおかしい、それは過労からきているということで、入院をしないで、家に帰りました。
 そういうことで医者がいっちゃあいかんといえば秋田まで行かなくてすんだんですが(笑い)行ってもいいということで、今日こちらにやって参りました。ということで、健康を害してますから、話があっちに飛んだりしたりするかも知れませんが、三〇分か二〇分程話をさせて頂きます。

 私は、よく今の政治はよくないというけれども、よくない理由は、一つは、ここにマスコミ出身者の人もいますが、私もマスコミ出身でございます。国会とマスコミが、既得権の上にあぐらをかいている。そして自ら痛みを感じなく、自ら犠牲を払わない。これが最大の、政治改革を進められない一番の理由だと私は思います。マスコミのことを話しますと、30分ではとてもできませんので、後で話しますが、まず国会が既得権にあぐらをかいている例を申し上げなくても、皆さんも感じていらっしゃると思います。
 規制緩和がすすめられているのに、国会は全然手が入れられてないのは、私が現職時代からの痛感なんです。
 例えば国会の委員会をご覧になっても、大臣が来なければ審議ができないなどと未だにいっているようです。予算委員会の総括質問をやると、総理大臣以下全部の、質問を受けなくともいい大臣まで出て、総括質問が終わるまで釘付けになっている。そのために役所の仕事は全部、十日間から二週間ぐらい停滞してしまう。それは昔からのしきたりだという。こういうことでどれだけ行政が停滞しているか、これは私は一番改めていかなければならない国会改革の一つだと思うんです。(現在は政府委員制度はなくなり、役人の出席は以前ほど多くなくなりましたが、答弁要旨の準備などの忙しさで省務が停滞するのは大差ないはずです)
 その他、細かいことをいうとキリがございませんが、国鉄の優待パス、皆さんはご承知かどうかわかりませんが、私が辞める十年ぐらい前、今から十六年前までは、国鉄の時代は、全部無料でパスが国会に届けられて、それをみんな使っていた。民営になってからは、我々の税金から国会議員のパス代を払っているんです。それから飛行機でないと来られない沖縄の方の飛行機代も全部払った。

 そういう既得権を何故、国会議員が持っておならければならんのか。私どもが新自由クラブを作ったのが昭和51年で、2年後にパスを返上したんです。こういうことから始めないとだめなんだと。そういう運動をやるんだったらまず、自らやらなけれあばダメだということで、やりました。長く続かなかったですよ。中には新自由クラブ脱党の理由として国鉄の優待パス返上したからというような人がいたんです。本心かどうか分からないがそれを理由に新自由クラブを離党した人がいるんです。私たちは何故、優待パス返上をやらなければいかんなあと思ったのは、赤字を抱えて困っている国有鉄道を何時までも借金を抱えて、国の税金から赤字を出していくのは良くないよ、そしてそういうことをやめさせるのは、やっぱり国会が返上していくようなことをしなければいかんなということからでたんです。しかし、長続きはしませんが、私どもと同じように、ずっと続けておった者もおります。

 優待パス返上をやって良かったと思ったのは、当たり前のことですが、自分たちが自分のポケットマネーで交通費を払って初めて、交通料金を肌で感ずることが出きる。
 私は新自由クラブがなくなってから、国会議員をやめるまで返上しましたけれども、私なんか電車通勤してますから、影響が大きかったんですけど、歯を食いしばって横須賀線に乗って、横須賀の田浦駅から新橋駅まで行き登院しました。グリーン車に乗ってたら大変な料金になるんです。定期券は5倍くらいになるんです。しょうがないから普通車で通うようになった。私が乗る駅は横須賀と逗子の間ですから、割合に朝は空いているから普通車でも座って来られました。やっぱり普通車に乗っていて、一般の人に話しかけられますよね。そういうことが、やっぱり代議士として大事なことじゃないかな。車やグリーン車で通うよりもいい事だなと思いました。そういう些細なことですが、国会が自ら範を垂れて既得権を返上するということをやれないということはない。
 特に私が申し上げるたいのは、政党助成金なんです。これは三三〇億から三四〇億になります。私が丁度引退するときにやった。私は反対したんです。結局これは共産党を除いて取るようになった。そもそも政党助成金をつくるきっかけというのは経済界からです。随分政界の腐敗事件が起こりました。それで経済界から、結局、企業献金が政治腐敗の一番の道、企業献金を止めさせるには、ドイツでやっているように政党助成をやって、企業献金をやめるようにしましょうといったことを、当時の経団連の会長が提案したんです。それに自民党がすぐに飛びついてOKした。それがきっかけなんです。
 ところが、皆さんもご承知のように政党助成金が始まった。企業献金を止めたかというとやめない。まずは金額を最高額を決めて制限をした。結局止めないで今日まできている。
 ついでに申し上げますと、私は共産党をほめたんです。今度は本当に反対したね。今までは歳費の値上げを共産党が反対して、それが通るともらっていたんです。今度も企業献金も反対するといって、政党助成金ももらうと思っていたら、とらなかった。私はどっかで話をするときに共産党はその点は評価しています。
 この政党助成があるために、どういう現象が他におきるかというと、不必要な政党がどんどんできる。つまり自分がある政党に属していた。この頃、政党をあっちこっち飛び歩く人が増えてきた。その中で一人二人でやっている人が、政党助成が欲しいもんですから、何人か集まって政党助成金をもらうために、政党を作る。政党をつくったから政党助成をもらうんじゃなくて、政党助成金をもらうために政党をつくる。そういう現象が起きているんじゃないか。ですから、こういう悪いものははやく止めさせるようにしなければいけないと私は思います。
 さっき共産党は偉いと申しましたが、偉いんだけれども共産党が反対したために、十億ぐらいの取り分が減らされたかといいますと、共産党が辞退した額は、全部にばらまかれる。(笑い)だから私は共産党にいったんです。拒否したのは偉いけれども、もらっておいてそれを他のほうに寄付したらいいじゃないか。さすがにこれは共産党には通じない話です。辞退したお金は公明選挙運動とかの予算に入れたらいいんじゃないかと思っております。

 もう一つ政治改革を阻んでいるのは、閣僚の任免です。北海道の佐藤孝行さんが、橋本内閣の時に、閣僚に入りましたね。橋本さんが入れた。大問題になって、橋本さんがついに佐藤さんに悪いけど辞めてくれといって辞めてもらった。その時に橋本さんが謝った。佐藤さんはまだ償いが足りないという意味のことをいった。その前に橋本さんがいったことは随分政治を曲げてしまった言葉ですけれども、過ちを犯した人は、何時までもそれを背負っているのは可哀想ではないかといった意味のことをいった。これは政治の正常な姿からいえばおかしいのじゃないかと私は思います。それはどういう事かといいますと、佐藤さんは、二回懲罰をくっているんです。最初は選挙違反です。その次はロッキード事件です。一審で執行猶予つきの有罪。そして控訴して二審で又同じように有罪。それで恩赦の話がくると、その直前に辞任して恩赦を受けて立候補する。だから佐藤さんのやっていることは償いをしてないんです。
 これが公の人と一般の人との大きな違いです。一般の人なら過ちを犯したら改めて出直してやる。しかし政治家の場合は、それではすまない。公職にある人は償いとして、例えば起訴をされた、有罪になったなら、一回辞めてある期間、謹慎をして出直すというのが、公の人のやるべき姿ではないかなと思います。
 そういうことを橋本さんなんかは、はき違えていっている。
 それからあの時に橋本さんが言った言葉に、代議士は誰でも閣僚になる権利があるというようなことをいっている。これはどういう思想かというと、これは皆さんもご承知のように、閣僚は派閥の順送りで、どんどん行われて、その循環をよくするために、年一回内閣改造をやる。閣僚は誰でもやれるものではなく、それに適する人格、識見、能力のある者が任命されるものであります。これが大臣の順送りになっているから、粗製濫造になっている。その為に政治が歪められている。
 こういうことが改められていないところに問題があるような気がします。
 もう一つは新聞の問題で申し上げたいのは、新聞の再販です。いまこれだけ規制緩和ができて、自由化になっているときに、新聞出版事業だけは、独禁法の例外規定に改まってないんです。再販行為というのはメーカーが作った値段で末端の売り手は、そのとおり売らなければならんというのが再販制度。そいいう行為ができるのは、今まで化粧品だとか色々ありました。ところが今、みんなはずれまして自由化されるようになった。
 にもかかわらず、新聞出版の場合は今までどおり。これは新聞記者の第一線の人も知らないんです。この再販は過当競争をやめるために、避けられないということですから、皆さんが新聞をおとりになって、仮に何十年朝日新聞をとっても割引はできない。読売新聞を何百部一緒に買ったって割引はできない。定価のとおり新聞を買わなければいけない。それからうちの新聞販売店はサービスが悪いから、隣のまちの販売店で買おうといってもできない。これは自分の住んでる地域の販売店でなければ買うことができない。
 最近少し新聞によっては、マーケットで買える新聞もあるようですけれども、新聞の価格の統制というのは、未だにはずれない。
 これが3、4年前から公正取引委員会が、学識経験者の規制緩和の委員会でマスコミに関する再販を撤廃しようという意見がだんだん出始めると、新聞の紙面で再販維持をしなければ新聞が皆さんの家に届かなくなるとか、新聞の自由がなくなるとか、というようなことをいい始めるようになりました。そして再販をやめようというような議論を吐く学者や堂々という人を言論界からシャットアウトされるようになってきた。これなどは非常にひどい状態です。読売に関係がある人がいたら失礼になるかもしれませんが、読売新聞が一番ひどいですね。再販維持の運動を大々的に、渡部恒雄という社長さんがやりました。激しい人ですから、私も新聞記者時代からよく知っておりまして懇意ですけど、今や田川誠一は政界のガンだなと(笑い)いわれたくらいです。
 私は、あの人と大喧嘩したこと、対面ではなく口で大喧嘩したことがあるんです。
 私が自治大臣をやっている時に、新聞の事業税の免除を何故いまだに続けているのかと新聞、テレビ、雑誌、週刊誌にまで事業税を免除しているのか。免除というのは、時限で当分の間免除とした。昭和24,5年頃なんです。私が自治大臣になったのは昭和58年の暮れでしたから、その期間までの間に新聞界もよくなり、調べてみますとマスコミの従業員の給料は、他の産業の4倍くらい高いんです。にもかかわらず、最初に事業税の非課税が当分の間、免除しようというのができたのは、新聞の用紙が不足になった、テレビができたてだということで始まった。それが、マスコミの景気がよくなっても、やめようとしない。ちょっとそういう議論を吐くと、新聞が文句をいう。だいたい自治省の役人が、みんなビビっちゃた。それから自民党でも良識のある人は、税制に関係にある議員は、これは改めなければ、事業税はやめなければという。ところが、みんなしない。私はあまりに目が余るし、医師税制のことばかりやるんです。
 事業税というのは地方税、都道府県税なんです。この事業税の特例をやめさせようとして、藤尾君が丁度、自民党の政調会長をやってましたから、働きかけて協力して特例を廃止させることを申し合わせました。藤尾君は読売新聞出身、それで藤尾君と新聞の権威を高めるには、事業税を何時までも免除してるのは恥ずかしくてしょうがないよと。政府の税制調査会になると、新聞の代表や論説委員が委員になって出てる。

 そういう人達が反対して、推進論の人を睨めつける。そうすると後で仕返しをするんじゃないかということで、驚いてやめちゃう。そういうことがたっぷり重なっているもんですから、藤井君、おまえと俺と二人がいるうちにやろうと、それで実は二人で非常に独断専行だけども、やったんです。テレビが随分反対しました。しかしね、やってみれば何でもないんです。反応は新聞協会で声明を出した程度。
 だから怒ったのが読売新聞のナベツネさんなんです。ナベツネが「けしからん」といって大騒ぎをして、新聞各社を回ってこれはいっぺんにやられちゃあ困るといって激変緩和(一度に大きく変えるのを少しゆるやかに変えて行くという税制上などに使う言葉)といって全部やめないで、最初は3分の1やる、次ぎに3分の1と。私が引退する平成5年までまだやってるんですよ。
 それで私は、自治省にまだ知ってる人がいましたから、こんなことをやっていいんですかといったら、もっともなことでやめさせたいんだが、新聞界が強くてという。
 新聞協会長、誰やってるんだというと朝日新聞の社長で、彼の所へねじ込んでいったんです。そしたら、田川さんのいうことは正論だから、後2年でやめさせるからという。結局、私が引退し3年目ぐらいに事業税免除が廃止。そういういきさつがあるんです。それで、新聞協会大会が終わった後の懇談会で、「田川誠一というのはひでえ奴だ、ああいう奴が政界にいるから」ということいったと聞いた。実は私の弟が読売新聞に二人もいるんですよ。(笑い)一人は家内の弟で、一人は実の弟、二人とも定年で引退してますから、ここでいっても実害がありませんから、(笑い)申し上げるんですが、これはひどいです。
 ですから、新聞界というのは全く、新聞の料金は、私も朝日新聞にいて組合をやっていましたから多少知ってるんです。新聞料金が高いというのは、新聞販売店にどんどん金をやる、だから新聞販売店は、本社の販売部から読者の数だけもらうけども、それを相当上回る数をもたされるんです。形としては販売店から欲しいといってきたという形にする。そして、そのみずまし分だけは、新聞の本社が払う。だから、販売の料金が非常に高くなる。そして販売店はその上に、今どこの新聞もやっていると思いますが、販売拡張員というのは販売店はやらないんです。販売店が販売をやるプロを雇っている。そのプロは野球のスカウトみたいなもんで、どの新聞でもいいんです。その販売店へもっていくと何割かの報酬をもらえるんです。それをみんな本社へつけで廻されますから、新聞の価格というのは、販売の費用として相当かかってくるんです。
 再販の問題は、昨年の3月の話し合いでは、少しすすめるような結論がでているようですが、非常にあいまいでまだまだどうかなと、私は非常に心配しています。
 そういうように新聞界が、もっと積極的に自ら改革していくということを努力する。
 そして国会も先ほどいいましたようにやっていく。ということでないと、政治改革はなかなか難しいんじゃないかと。私はですから、ガンセンターで政治改革の病根は、国会と新聞界にあると、これを直すことが一番大事で、これはガンセンターでも直すことができない、国民がやる以外にないという結論でございました。(拍手)


 我青春風来記(118) 

      早海三太郎
  メキシコ(12)

 メキシコ駐在キューバ大使館。立派な建物だった。駐日キューバ大使館は六本木にあった。それよりも大きく芝生も広い。書記官が対応してくれて、キューバ政府から三太郎達を招待することになっていると告げられ安心。パスポートにキューバ入国許可の判をポンと押された。それにハバナまでの飛行機の切符を渡された。出発日は七月24日。1967・7・26運動記念日がサンチャゴデクーバで開催される。7・26とはカストロ首相が26歳の時に、バチスタ独裁政権打倒のためにモンガタ兵営を襲撃した日。

 出発まで3日ある。伊藤忠商事の中島さんが、メキシコ市郊外を車で案内してくれた。 メキシコ大学。校舎に有名な壁画が描かれている。世界的に有名な画家シュケイロスがメキシコ革命を描いたもの。構内を車で走るわけだから、だだっ広い。と、車は急ブレーキして止まった。どうしたかと思うと、そこは横断歩道前だった。歩道には夏休み中だから学生姿も見えない。何と歩道の前に段差がついていて、車は物理的にストップせざるを得ない。これは交通事故防止に効果的だと思った。 その後、保養地ソチミルコへ案内された。ここは家族連れのピクニックの場所。花屋さんがいっぱいあって、レイを売っている。三太郎はいきなり目元ぱっちりのメキシコ娘から首にレイをかけられ、キスをされてしまった。気恥ずかしいことよ。これは別にサービスではない。何ペソとかいうので、ズボンのポケットから大きなコインを何枚か渡した。水路には花で飾った船が何艘も浮かんでいる。マリアッチの楽団を乗せて客を呼んでいる。

 明日、キューバに発つという晩。ホテルの部屋がノックされた。なんだ共同通信の伊高浩昭先輩だ。彼はユカタン半島に取材して帰ってきたばかり。美人の女性記者と一緒だったが、別れ際に「アスタラビスタ」(また会いましょう)ではなく、単にアディオス(さよなら)だったよ。この言葉でふられたなと教えてくれた。(続く))


呑 風 日 誌 抄

 12月1日(金)秋田駅前整形クリニカオルトへ。野球で怪我した首と膝のレントゲンを撮って、湊先生に診てもらう。まだやれる。中央公民館で外国人に日本語をボランティアで教えている「ニジアス」へ。土崎の蒼龍寺。副住職で良き仲間だった佐藤実雄氏の葬儀。まだ若いのに痛ましい。
 3日(金)平安閣。秋田市文化功労章を受賞された大友康二先生の祝賀会。先生の人徳で幅広い層の方々が集まり大盛況。幹事役の秋田テレビ長門靖彦さん達と二次会。
 4日(土)彌高神社。第一回秋田流酒道を呑む会。東京、横浜方面からも、30人集まってくれた。進行役。川口和夫社長、秋元辰二先生を主人役に集団酒道で始める。元川反芸者の若勇さんの講演と踊り。お酌の仕方等の川反接待学を学ぶ。記念写真で修了。北嶋昭宮司、高橋正社長と昔の三人組で、川反へ。
 5日(日)前秋田市議の三浦茂彦氏を北嶋宮司と弔問。ペルー協会でも世話になった奥様愛子さんを亡くされ、痛ましい限り。
 8日(水)秋田パークホテル。早稲田フェスタ実行委員会準備会。フクちゃんのTシャツのデザインを決める。
 聖セシリア教会でのモーツアルト広場。彌高会館にて懇親会。松本秋次先生達と楽市。ライオンズクラブの方々と「小樽」へ。松本先生には感服。
 9日(木)職場のボーリング大会。来年も投手をやりたいから見物。忘年会を榮太楼旅館。畳もまた良し。
 10日(金)山王・楽座にてタッチラグビー「みっちゃんず」の忘年会。元日ハムエースの工藤幹夫氏もメンバーで、野球の話。息子も投手。
 12日(日)本荘市中央公民館。国際交流ボランティア塾。押し花講習。パソコン教授の石井護氏と清吉ラーメン 15日(水)知事室。日本システム開発研究所常務の大島戌氏。寺田典城知事にロシア科学アカディミーの人材発掘の提案。雪だるま財団の審査員でもある、大島氏、秋田で行われている雪上野球を雪だるま賞に推薦するという。
 秋田アーバンホテル。NTT秋田支店主催の会合で「歴史に学ぶ地域づくり」と題して講演。銀座ライオン新国道店にて、三浦義明氏と多献。
 16日(木)NPOネットワークへ。「パートナーシップによるまちづくり」NP0活動を実践し、全国に展開しているまちづくり市民財団理事長の村岡兼幸氏の講演。偉い。
 17日(金)秋田市土崎・ホテル大和。秋田港・韓国・中国新コンテナ航路開設祝賀会。日本海の新たな海みちの開設は、民の秋田海陸運送鰍フ渡部幸男社長の英断の賜。
 18日(土)外は雪。三浦義明さんと森岳温泉へ。温泉病院の香曽我部宏先生、地域医療に長年貢献されており、老いてもパソコンの勉強している先生も偉い。秋田市川反・亀清。故小西吉則氏を偲ぶ会。故人を想い、献杯でなく乾杯。
 二次会で秋田テレビの大友直氏が裸に「c小西親父日本一」と書いて歌の供養する。
 19日(日)金浦町の畠山悟先生から「ブナの林」の絵が贈られてきた。感激。美についての手紙も頂き、美は創造の中にあると。じっくりいい手紙を書かなければと痛感。
 20日(月)ベトナム帰りの優しいシンガー・ケーシー・ランキンと秋田市中通のたこ八食堂の中華そば。ラーメン評論家のケーシー、江戸風で歴史的な味だという。彌高会館へ。連合秋田と記者クラブ忘年会へ。ケーシー、2曲披露。大町ビルのJタイム。女性にもてる菅谷理市連合会長、薫ちゃん、賀世ちゃん。流しの演歌師山本実さんを呼び、ケーシーと日米演歌決戦。
 22日(水)ケーシーは3年ぶりの大江戸ラーメン。旨い。
 27日(月)山王・館。工藤染物商店の工藤幸彦さん。十月の全国職人学会開催の相談。団体中央会の斉藤信次局長バウハウス森川恒社長、北嶋昭宮司達と。主題を「伝えよう 美と技の心意気」とする。
 31日(金)尊敬する瀧廣明先輩から呑風便へのご厚情と歌をいただきました。感謝。
 残りなき世とし思えば
  次々と 為すべきことが
   夢にうつつに  広明