呑風便2000・6月号


 

   観音さま
  ☆☆☆☆☆☆

 観音さまが日本海近くにある。石山観音と呼ばれ雄物川河口と日本海を望む高台に立つ。松林に囲まれ、四方に小さな三十三番観音像があった。
 観音さまは、正しくは観自在菩薩という。西方極楽世界阿弥陀国に在って、慈悲の象徴といわれる。観音さまが人間世界に現れるときは、三十三の姿に変化して庶民を救ってくれるという。観音の霊場が三十三あるのはこのためだ。

 秋田にも三十三観音霊場があって、第一番が横手にあって北上し、三十三番が大館にある。
 秋田市の繁華街川反五丁目。五丁目橋のたもとにも、川反観音像が建立される。

  慶応4年7月4日。今から百三十三年前、仙台藩通史一行の六人が秋田藩士に暗殺された。秋田藩に奥羽越列藩同盟から離脱するなと言いに来た使者を殺してしまったのだから、今でいえば国際法違反である。秋田県の近代史の汚点といっていい。
  この事件が秋田戊辰戦争への発端となった。秋田県の三分の二が戦火にみまわれ、有為な人材が失われたのである。

 暗殺された仙台藩士六名は川反5丁目橋のたもとにさらし首となった。
 番人の目撃談が伝えられている。「夜の闇にじょうじて一人の女が、通史代表、志茂又左右衛門の首にそっと羽織をかけていった」
 川反5丁目橋のたもとに「でんえん」という小料理店があった。暖簾をくぐると、右側が小上がりになっていて、窓を開けると、いい風が入ってくる。窓の下を鯉が泳ぐ旭川が流れている。
 ご主人の、市川史郎さんは三十年間、毎日、店で線香をあげて、仙台藩士を供養されてこられた。
 市川さんは七月四日の仙台藩殉難者慰霊祭に招かれている。仙台藩士の眠る秋田市八橋の西来院でひらかれる慰霊祭には、仙台藩志会の伊達篤郎会長も出席されている。
 ところが、「でんえん」のあった建物は橋の拡幅工事で取り壊され、仙台藩士を供養することができなくなった。
 そこで、でんえんの常連客有志から、慰霊碑を建てようとの話しが持ち上がった。これは秋田の「義」であると。
 平成8年2月に川反先人慰霊秋田委員会の発起人会が開かれ、秋田戊辰の役の歴史を学んだ。そこで、さらし首になった仙台藩通史へ川反女性の羽織の件を知り、観音像にしようとなった。
 以来、橋の拡幅工事の遅れ等から建立が遅れてしまったが、この7月4日、橋のたもとに小さな観音像が建つ。
 伊達家の家紋も入る碑文は次のとおりである。
 この観音像は秋田戊辰の役に先立つ慶応4年7月4日、この地で殉難された仙台藩士を供養し、川反をこよなく愛した先人に感謝し、慰霊するために、多くの方々のご芳志により建立するものです。
 夕されば 川反の灯はやすらげり 観音像に 路ゆく人に
                                 広 明
    川反先人慰霊秋田委員会
 今年の七月四日も又、仙台藩志会の伊達篤郎会長一行が出席され、仙台藩殉難者慰霊祭が秋田市八橋にある仙台藩殉難碑の前で催される。
 その後、川反先人慰霊秋田委員会は一行を迎え、川反5丁目橋のたもとで川反観音像建立除幕式を開催する。
 観音さまのそばに、伊達会長が宮城野萩を植樹される。


 ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年8月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「炭は地球を救う」(2)
★ 鈴木 勝男 氏
  (炭焼きの会秋田支部長)

 一橋大学に小さい木炭粉砕の機械があると聞き、、どこで作ったかを突き止め、新潟の柏原製作所でした。そこへ自費で行って来まして、実案を協議して協議して出来たのが、粉砕機です。これは何のために必要かといいますと、採石のクラッシャーは尖っています。線路に敷かれている石は尖っています。丸だと跳ねるし、三角だとはねないからです。ハンマーで回転させると丸くなるんです。
 そういう理論から木炭粉砕機を作って成功させました。これをどうやって世の中に出したかというと、私の出身地・西木村出身ですから、田沢湖のあるそこに炭焼き村を作りました。そこでこの機械を利用して、炭を砕きながら考えようとしました。

 西木村の木炭生産組合は夫婦3組、昔の人、若い人と組み合わせてやらせました。
 岐阜県に白鳥木材加工協同組合というのがあって、そこから機械を見たいといってきました。2泊3日でそこの女社長が来まして、ゴルフ場に使いたいという。ゴルフ場にはすごい量の農薬、化学肥料が入る。そうすると下流の生態系を壊す。塩素系の物質が流れていくわけですから、それを止めなければいけない。その能力があるのは木炭しかない。ゴルフ場に木炭を使おうと白鳥木材加工協同組合が全国に先駆けて始まった。ところが日本国内に炭を焼く人が少ないものですから、マレーシアで木炭を作って岐阜に持ってきて砕いておった。
 ところが問題は丸くなる。丸くなると機械で散布する能力が半減する訳です。ネットに引っかかる。そこで私共の所に来て、これでよしとなりました。それが2号機としてマレーシアに渡りました。マレーシアから袋詰めにして船積みしてえらい儲けた。
 それは一つのゴルフ場に木炭が3億円入ったんです。向こうで作るもんですから、コストがかからない。
 当方は特許も取ってなかったから儲けもありません。一回売った分20万儲かっただけです。
 私の身の回りに何人かガンでなくなった人がおります。彼らが末期症状になって何を訴えるかというと枕です。高いとか低いとか、熱をもつからほてるとか、苦情はみんなそこだというんです。

 さて、見舞いに来てもらっt言葉で頑張れといったってもらっても本心は困るんです。内心は自分を見られたくないんです。
 そういうなかで、何か喜んでもらえるものをおくりたいと考えたのが枕でした。私が特産担当をしていた時に、桐の本質的な良さ、木炭の良さ、これをくっつけることによって、何かが起きるだろうと考えていました。理論的にはプラスとマイナスがあると常に考えなければいけない。
 男と女がいるというこの世界になかで、柔らかいものと固いものを合体することによって、クローンというのはいいものをくっつけるといい。
 ところで、まは枕言葉でマクローンという枕を開発しました。(笑い)
 フトン枕を研究した人は何人かいます。ところがマクローンというのは開発したのは、毎日使うんだけれども何か恥ずかしいような、布団や枕は見られたくないと普通、皆さん感じておられる。何か大事なんだけれどもマンネリ化して使っています。
 ところがガンにおかされた人々というのは、枕が気になってくる。そこで私が全国で初めて開発したマクローンは、柔らかいものと固いものを変化させて、その人に合うように工夫して、作ったものです。
 これは全国的ニュース性があり紹介があったりしました。
 税務署にいた人が定年前にガンにおかされ、税理士を初めて2年後、入院して私の枕について色々なアドバイスをしてくれました。 

 マスコミというのは悪いことをすると真っ先にくるし、いいことをしてもしばらくたってからくるんですね。ついにNHKが取材にきて、北海道のテレビ局がきて一時間番組をやったんです。そうしたら、私の家に電話が5本あるんですが、爆発的にかかってきて商売にならないんです。一週間たってやっと落ち着いてきました。一日で枕が百個を出さなければいけません。
 実用特許をとっていませんでしたから、それをかぎつけた業者が次々と真似をされまして、最後は大きいところにかないません。私の所のは一つも売れなくなりました。
 そこで別のを考えたのが、6年がかりで特許をもらったのが旅行に行くときに、安全な枕であり、防毒マスクである磁気も、非常袋をついている組み合わせをしたものがあり、これはどこでもやっておりません。今これは防衛庁のゲリラ訓練、生物化学対策費で五億円の予算を来年度、野呂田先生にこれを自衛隊で使って欲しいといったら、礼状がきましたから、化学兵器に木炭を砕いたものが役に立つ時代がくると思います。

 いずれ木炭というものは、燃料ではなくて、科学が進歩していくと同時に必要になってくると思います。
 大きい問題としては、最近、宮大工の人が相談にきてたんですが、住宅産業に関する問題として、百年住宅を作っていかなければ、秋田県経済はたちいかなくなると話しました。今の若い人は住宅は25年持てばいいと思っています。ところが経済的に考えてみますと、25年で一回ずつやっていったら35年でローンを組んでいったら十年残ることになります。次の世代が払うことになります。 行政でも後回しでやっていくと後でごっそり貯まってしまう。それであってはならないと思います。平田篤胤先生の家は拡幅工事のために、庭木を移動しなければなりませんでした。私のところでやれとなりまして、人生のチャンスと思いました。軽く引き受けたんですがこれは大変なことでした。移動するということは場所を代える、根を切られることになります。いずれ一年前から根回しをしておいて、吸収根を出しておいて、移動しなければ活着しません。それをやるために、活力をつけるために木炭を使いました。
 そして、斎藤憲三先生が研究した木酢液は発根促進効果が非常に高い。これは土壌改良材として出せるんです。
 これが認められた木炭を昭和六十一年、岸本博士、杉浦銀治先生が国に働きかけて認められた。
 平田先生宅にオンコの木がありました。あれが一本枯れてしまった。これには吸収根が他に松とかに比べてないんです。他の庭木は今は青々としています。次ぎに建物です。百十五年の古い建物です。平田篤胤先生が亡くなった所です。秋田スギの厚板が保存されていましたので、先祖の想いを残そうと思って、そのまま壁面に使い、木炭を敷き詰めてやりました。
 それで何が一番よかったかというと、お手伝いさんがゴキブリがいなくなったことだといってました。快適な環境にあることは間違いないです。
 何でもかんでも新しいものに変えればいいという訳ではないんです。一番難しかったのは板塀です。和服よりも帯なんです。帯にあたるのが板塀なんです。堅さ、材質、色といい、道路側は真っ白、内側はブルーというか、十三年たってますが変色しません。 平田篤胤終焉の地としてボランティアで百年の建築をと私が心血を注いだところです。
 今、木炭の話題として、静電気を解消するということです。備長炭に紐をまきつけて電極に等しいものを作りました。 コンピュータの会社でアメリカで十ドルで売れたというんです。これを握ることによって静電気が防止されるんです。木炭にはこういう力もあるんです。
 昨日、高清水小学校の歩道橋の渡り初めがありました。そこの四カ所に電極をつくるために炭を埋設しました。何故、炭を埋めたのか子ども達に考えてもらいたいという意味でもあります。

 炭は子ども達の交通事故の防止にも役にたっているんです。


我青春風来記 (121)

        早海三太郎

  メキシコ2(2)

 マンシオン・デル・マールはアカプルコ湾に面した高台にある。瀟洒な白亜の建物だった。まだ朝早いのに太陽がまぶしい。玄関を入ると、奥のカウンターの前に初老の紳士が立っている。三太郎を笑顔で迎えたくれた。「日本の学生で、キューバでレオナルドを会いました」というと、「オオー」と叫び、手を差し伸べてきて三太郎の手を強く握った。「レオから聞いている。よく来てくれました」。レオナルドの父だった。「娘のアルモニアは妻と今、カナダの万博に行っていないが、レオは下の港にいるよ」
 三太郎はボーイから外にある部屋に案内された。特別室だ。広い。窓の下は紺碧のアカプルコ湾。海水パンツにはきかえて、椰子の木が茂る階段を下りていく。
 レオナルド、アルモニア兄妹とはキューバの海岸、バラデーロで会った。キューバ政府から招待された世界の若者グループの中で彼らとは特に仲良くなった。
 いた。湾の入江にそびえる椰子の木に登っていた。下は船着き場になっている。「レオナールド」と叫ぶと、椰子の葉っぱの横から顔を出し、三太郎を見つけて、ギャーと奇声をあげた。そして、海に飛び込んだ。ザブーン。彼は白い波間から顔を出した。 
 ずぶ濡れのレオナルドと握手。よく来たと肩を抱かれる。 一ヶ月ぶりの再会。彼は椰子の実を食べようと、側にいた少年へ、木に登って椰子を採ってこいと命令する。ホテルの使用人の子どもらしい。その子はスルスルと椰子に登っていった。そして、椰子の実をねじって海に落とす。3個の椰子の実が浮かんでいる。レオナルドは海に飛び込む。水の中から、三太郎を手招きする。三太郎も飛び込む。椰子の上から少年も足から飛び降りてきた。椰子の実を一個づつつかんで、船着き場に上がった。少年が山刀で椰子の上の部分を削り、小さな穴をあけた。そこに口をつける真似をして、三太郎に渡した。両手に椰子の実を持ちあげ、穴に口を付けて椰子の実の天然ジュースを飲む。甘くはない。味気もない汁だ。(続く)


呑 風 日 誌 抄
 
5月1日(月)メーデー参加。秋田市市民広場。スローガン「働く者の連帯でゆとり豊かさ社会的公正を実現し自由で平和な世界を作ろう」
 大江戸ラーメン後、女房と青井陶器店でコーヒー。夕方千秋公園の彌高神社で宵宮祭。
 夜桜が美しい。直会で隣りがいつもの「石の勘左エ衛門」の高橋正社長。川反観音の話しになって、「うちに白御影の小さい観音様がありますよ。綺麗な顔してます、やりますか」「おお、もらった」
 2日(火)大森町コミュニティセンターへ。我が柴田康二郎大先輩の御母堂ヒサ様の葬儀。西行の歌を詠まれた喪主の言葉に感動する。
 大内町の実家の墓参りして、西目の勘左エ衛門により白い顔の美しい観音像を車に積んで運ぶ。 3日(水)秋田市の工藤染物店。工藤幸彦さんが職人学会用の大漁旗「ふるさとづくり研究所」作成で一日染師入門。工場にて縦1b40a横2b10aの布に色差しを行う。鯛の絵柄に糊づけされた部分の周りを刷毛を押さえるように塗っていく。ペンキを塗るようにしてはダメ。バウハウスの大漁旗の字体の色差しに失敗。
 6日(土)雄和町・光悦洞美術館へ女房と。日本画家千住博展、雄大な水墨の滝の世界。秋田キャッスルホテルにてバウハウスの森川恒社長、工藤幸彦さんと職人学会の会場下見。夕方、秋田文化会館。ほろ酔い学会へ。暉俊康隆早大名誉教授の講演。洒脱な先生の秋田での一句
「こまちよりつめたい秋田の 酒うれし」
 7日(日)早朝、中通小学校グランド。500歳野球の練習開始。14人も集まる。
 8日(月)井戸端ゼミの甲山知苗さんが子連れでアメリカバージニア州に留学壮行会。わざあり。NPOの勉強して、活動したいという。偉い。
 10日(水)東北電力秋田支店。秋田デレクターミーティングの会。秋田の酒から木をテーマに研究していくことに。山王・一の坊にて懇親会。
 12日(金)朝、建設省茨島出張所へ佐々木文博さんと。6月4日の勝平浜クリーン&プラント作戦の協力依頼。佐藤所長は快諾され、軍手とゴミ袋も提供してくれる。
 13日(土)秋田県児童会館。8月20日の早稲田フェスタでの子ども一日博士体験の協力依頼。館内2会場を借り上げ。秋田市手形の井上英子さん宅へ花を届ける。お元気。夕方、川反・迎賓館。五百歳野球「中通クラブ」の球始め会。主務で久保田の湯川隆さんからメンバーで有楽町の藤島義城さんの寿司店に連れていってもらう。旨い。
 17日(水)TDKの創設者斎藤憲三先生の仁賀保町企画課へ今野鍠司先輩と。須田課長に早稲田フェスタ子ども一日博士体験の協力依頼。快諾。岩城町・島式漁港公園の道の駅仮オープン祝賀会へ。懇談会で前川盛太郎前町長の挨拶に感動。前川さんの町づくりのロマン、集大成がここであった。
 18日(木)全国職人学会あきた発起人会。秋田キャッスルホテル。24人集まって頂き安心。大漁旗協賛依頼。実行委員達と二次会は焼き鳥「からす森」鈴木勝男氏、佐々木孝先生と三次会。
 19日(金)県庁同期の中山、菊地、野呂達と駅前人情酒場「久保田」大病を患ったりでそれぞれ色々。平安閣秋田。「秋田雪の会」と「しらせを誘致する会」合同の懇談会へ。職人に詳しい渡部景俊先生と会い、ふるさと塾の講師を依頼。
 23日(火)山王・館。仙台稲門会野球部の中野三樹さんと我が方の小野監督、大島主務と。秋田の仙台・山形との対抗戦は矢島町で開催。
 24日(水)川反先人慰霊秋田委員会役員会。川反・エーワン。観音像の設計図検討、募金開始。新会長に中島康介氏に決定。パブレディに行き、川反観音募金缶を置いて貰う。
 23日(金)ふるさと塾。川反塾舎。講師が山田実先生。「職人の世界」職人技が竿燈の妙技につながると話に納得。
 28日(日)大町・第一会館。秋田長野県人会。去年から入れてもらった。日本三大県民歌「信濃の国」と秋田県民歌を歌う。二次会レディで中島康介長野県人会会長に川反先人慰霊秋田委員会会長就任にに那波宗久氏から説得。
29日(月)彌高会館。ブラジル秋田県人会創立40周年記念「ふるさと芸能奉仕団壮行会」大潟八郎さんが七月、10年ぶりにブラジル日系人の芸能奉仕に行かれる。
 30日(火)朝、職場までの通勤クリーンアップ作戦。空き缶5個の収穫あり。