ふるさと呑風便2000年9月号


   

  そごう

 ☆☆☆☆☆☆

 「有楽町で逢いましょう」とフランク永井ばりに、伊豆の合宿で知り合った女子大生と待ち合わせをした。駅の改札口で一時間も待ったが来ない。ふられたといって電話をよこしたクラブの同期・山本と新宿に行って飲んだ。

 学生時代の昔のこと。有楽町駅を降りてすぐ右側に「そごう」があった。7階だったかに読売ホールがある。授業料値上げ紛争で、大学が封鎖され、読売ホールで全学討論会が開かれた。私は4番目に壇上へ上がり、演説をしたが、テレビライトに照らされた。 その日の夜、私の横顔が、田舎のテレビ画面に大きく写った。親父が何やってんだとと電話をよこした。会場が読売ホールなので、読売新聞系のテレビは日本テレビ。秋田でも放映されたのは、日本テレビ系列の秋田放送だった。
 そごうが1兆8700億円もの負債をかかえて、民事再生法によって再生を目指すことになった。読売巨人軍のオーナーが優勝セールは「そごう」でやらないといった。

 こんな時こそ優勝セールは「そごう」でやって、清原をオリンピックに出場させたら、株が上がったろうに。

 巨人の清原が生まれ変わって復活したが、そのきっかけをつくった一人がその球団オーナーである。
「怪我して二軍落ちした彼に『邪魔さえしなければいい。これでチームが勝つ要素が増えた』と言い放った。清原は『あの言葉だけは、死ぬ間際まで、いや、死んでも忘れへんわ』と吐き捨てている。

 もう一人の清原復活の原因となったのはアート引越しセンターの兄ちゃん。
 二軍落ちしていた清原は嫁さんの引っ越しを見てて、引越センターの兄ちゃんの手際よさに感心した。「その頃、俺も二軍におるし、不安になるやんか?で、冗談で『兄ちゃん、なんぼぐらい稼ぐの?大変そうやけど』『けっこういいんですよ』なんて話してて、で、『もし、俺、雇ってくれ言うたら、どや?』って聞いたら、その兄ちゃんが笑顔で『即戦力です』って。それで俺、何か知らんけど、妙に安心してしもうて」 (信用情報9・1より)

 有楽町のそごうは閉鎖されることになったが、それは正解だろう。そごうは流行らないといった方が数十年まえからいた。亡くなられたが評論家の扇谷正造さん。秋田市で講演を聞いた。天声人語を聞いているような、歯切れのいい短文調の講演だった。
 「関西からそごうが東京進出したが、そごうの経営者は『パーキンソンの法則』を知らなかった。その法則の中にパーティの法則というのがある。人はパーティの会場に入ると、まず左側に寄って、入口から右奥へ集まる傾向にある。知らない駅に降りると人は大概、左側の方向に向かう。それは心臓が左にあり、心臓をかばうために左に寄る習性となるらしい。有楽町駅に降りると左側は銀座、右側にあるそごうは当然に不利である」
 

 そごうは発祥の地である関西から再生を図ると聞く。再起の近道は原点に戻って、経営者と社員の精神力にかかっていよう。某オーナーの「金さえあれば、自分たちさえよければ」という考えは、そごうの水島元社長と一脈つうじよう。ソニーの井深大さんはいった「最後は人間、人間性」。 


ふるさと塾地域づくりゼミ ナール
★平成12年1月27日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「北の海みちの復活」
   (秋田港・ポシェット港定期航路開設)
★西宮公平氏(秋田海陸運送鰹務)

 生まれは男鹿半島の船川です。ただ、母親が里帰りして産んだというだけのことで すから、その後、36年ちょっとは東京と神奈川で暮らしておりました。

 東京で就職し、朝日生命の営業畑を歩んで、最後は品川の営業所長でした。4年前に縁ありまして、秋田に戻ってきました 戻ってきたんですが、全然畑違いの仕事で、前はわがままなオバさん相手で今度は、オジさん相手でして、組合は強いし、毎日地図を見ながら何ができるかなと考えていました。
 その頃、ある人から「秋田港にフェリーが来てくれとか、ハブ港にしようとかい ろんな話があるけれど、秋田港は新潟港と比べて何が優れているのか、何がいいの」といわれて、考え込んでしまいました。
 市場規模も、港湾の整備状況も七大港と言われているところとは比べようもない。ならば、地方港湾だけれども、他の地方港湾とは違う、何かキラリと光る特色を持つしかないと思ったわけです。

 特色を色々考えたのですが、結局、対岸と一番近いという地勢的な存在しかないなと思いました。それから色んな本を読み始めたんですね。3年前に図們江開発に関する論文を読みまして、吉林大学の王勝今教授が最初に言い始めたという事がわかりました。
 元々、私は一人で旅行するのが好きでして、学生時代には「地球の歩き方」という 本の特派員をやっていました。
 ずっと小学校の時から「過去の悲惨な状況から目を逸らしてはいけない。過去に学ばないものは、同じ過ちを繰り返す。」と父親に言われていたのですが、ユダヤ人虐殺のアウシュビッツに行ってみなければいけないと思っていまして、軍事政権下のポーランドに行って来ました。

 その翌年、20年ほど前ですが、中国に行って来ました。当時、森村誠一の「悪魔の飽食」という本がベストセラーになっていまして、真偽が議論されていました。自分で行ってみなければ真相は分からないと思い、730部隊の跡を訪ねて行ったんですが、夜行列車の中で婆さんに泣かれました。自分の旦那も親も日本人に殺されたと。あなたのビザは、「旅遊ビザ」だが、そんなもので行くのかと。それで、このまま沈陽の方に行くのはどうかなと思いまして、パキスタン国境のシルクロードの方に流れていってしまった旅でした。

 で、図們後悔発の論文などを読んだ頃、たまたま県のミッションがあって長春に行った時に、吉林大学の王勝今教授に是非会いたいと連絡を取りましたら、今思うと恐ろしい気がしますが、ホテルに来てくれました。そこで図們江開発の話を1時間以上話してくれました。

 王教授と話して、自分のスタンスがはっきりと決まりました。自分は単なるビジネスマンだけれど、単なる金儲け以上の意義ある仕事が出来る。誇りと志を持って動けると。それは、中国東北地方と秋田を結ぶ事なのだと。それから、毎月、中国東北地方に行っていました。

 会社では、一体何をやってるんだと思われていました。批判もあったんですが、行かせてもらいまして、行くたびに人脈が広がっていくんですね。延吉市の副市長とも懇意になりまして、会う度に、航路をひきたいんですよと言っていました。

 当時、私はロシアのポシェット港の南、北朝鮮の羅津港という所との航路開設も考えていましてが、ピョンヤン以外の北朝鮮には、なかなか入れなかったんです。

 我々の商売というのは、荷物が通る道を自分で歩いてみないとわかりません。そこで、ボロボロのランドクルーザーに乗せてもらい、羅津に行ってきました。24時間監視がついていまして、精神的には嫌な視察でしたが、結局この道ではちょっと運べないなと思いました。帰りは晴れだったんですが、わずか二時間ぐらいで中国に帰って来れましたが、行きは10時間以上かかりました。雨が降ると木の橋なんがが落ちてくるんですね。これではダメですね。

 航路に関しては、一年以上足踏みしてたんですが、その間、中国の塩田から融雪剤を入れてみたりしました。当時、中国では赤字企業の取りつぶしをやっていまして、秋田県がその年に融雪剤を買ってくれなければ、従業員一万人の工場が閉鎖になるところでした。結果的に四千トンの輸入が出来まして、一万人の雇用確保ができたと喜んでもらいました。この一件から、中国の様々な人の協力が得られるようになったわけで、秋田県の対応には、今でも感謝しています。

 足踏み状態になっている原因は、中国側に言わせると、「ロシアが神戸や新潟との航路でなければ、港を貸さないと言っている。」という事でした。

 それでは、ロシアに行って説得してみるかと思いまして、ロシアのビザを取って、琿春という所から国境バスに乗ってポシェットに行ってきました。

 バスと言っても、ボロボロのマイクロバスなんですよ。乗客は、ほとんど中国人・ロシア人と北朝鮮人です。私一人が日本人で、そしたらポシェットの税関管理官とか入国管理官とかはガイドなしで来た日本人を見たことがなかったんじゃないかと思います。向こうは英語も通じないし、生まれて初めて、旅の会話集が役に立ちました。相手が何を言っているのかわからないので会話集を渡しました。

 係官がページを広げて「ピストル」を指さすので、こちらは「ニエット」。(笑い)次の言葉はどうしてもわからなくて、数字の3とか7とかを一生懸命さすんですよ。これは滞在期間かなと思ってカレンダーに線を引いたら「ハラショー」 結局、私一人で40分ぐらいかかったんです。で、ポシェットに入って港の管理者と会いたいと騒いだら、ポシェット税関本省の人には英語がわかる人がいたので助かりました。

 税関長に会った時に、入国手続きの大変さを話すと、出国時にこれを見せろと言って、制服の袖章をくれました。出国時に国境事務所に行くと、中の男が「あいつ、又来ちゃったよ。」といった顔をしまして(笑い)、その襟章を見せましたら、えっと驚いて「オーチンハラショー」といって、入る時には40分かかったのが、ウソのように一分もかかってないんです。(笑い)

 ポシェットに行った時、ポシェット港の管理者、ミャスニコフというんですけれども、彼が来てくれまして、話をしたら、「率直に言うが、お前はリスクを負えるのか。」と言われたのです。リスクとは何だと聞くと、荷物が集まらなかったら、その分の補償金を払うかという事でした。

 実は、このミャスニコフ家は、親父さんがナホトカ港の使用権を持っていて、長男の彼がポシェット港の使用権を持っているんです。弟がナホトカとポシェットの荷物の取り扱いの権利を持っているんです。

 彼は、荷物の補償金を払えるんであれば、ポシェット港の使用について、中国側に許可を出すと言ってくれまして、やっとスタートラインに立てたわけです。

 今、毎月、数百万円払っていまして、近い将来回収できればと思っています。

 また、ロシア・中国とも人脈がものを言う世界ですから、李徳洙さんという民族大臣に会えた事が大きな転機になっています。会った時に、「君が引いた航路は、私が朝鮮族自治州の州長だった時に、ゆめみていた事だ。大変だろうが、頑張れ。」と言ってもらえました。それから、色々な人とのアポイントメントが取りやすくなりました。

 今、中国とやってみて、様々な問題が出ています。中国の黒竜江省、吉林省の人と話していて、彼らは言うんです。「我々は取り残された辺境の人間だ。」と。それだけ貿易は不利なんですね。航路ができればすぐ荷物ができるとは思っていませんでしたが、これほどすごいと思わなかったのも事実です。日本と黒竜江省、吉林省との交易はほとん どなく、主な貿易相手国は、ロシアだったのです。

 今、なかなか荷物が集まらない現状を見て、「条件が整ってからやれば良かった。」と言う人もいますが、私はそうは思いません。タイミングを逃せば、話は進みません。「条件が整ってからやれば良かった。」と言う人は、決して自分で条件を整えることの出来ない人だと思っています。それまで待っていたら何もできません。

 一方、ロシアの方は非常に面白い動きが出てきました。秋田の貿易関連の木材産業の場合、フィンランドやスエーデンから木材を入れているんですよ。今だいたい二ヶ月ぐらいかかります。それをシベリア横断鉄道を使ったらどうかと。ソ連の当時は非常にいい鉄道だったんですが、ロシアになってからマフィアが暗躍しまして、荷物が正確に着かない状況になりました。 

 それを何とか出来るんじゃないかという話になりまして、一〇日ぐらいかな、ヘルシンキからポシェットまでずっと、空のコンテナを運んでみようという事になりました。これができますと、月に百とか百六十コンテナとか可能性があるなと思っています。それがうまくいったら、積極的にシベリア鉄道を使おうと話しています。

 それがうまくいったら、とりあえず荷物に入っているのが一個でもいいよと木材屋さんからいわれています。ただ、無くなったら自分で弁償だぞという話しであって(笑い)このくらいは総合保険会社が保険をつけるかどうかでだいたい危険度がわかるんですね。 東京海上でいろんな話しをして、やっと保険をつけますという話しになりました。(続く)


 我青春風来記 (123)
    早海三太郎

   メキシコU(4)

 メキシコにはやたら教会が多い。アカプルコもご同様。 とある教会に入ると、中は暗い。と、入口の左横に、長いガラスケース。中に裸身の人間が横たわっている。何とそれはロウ人間のキリスト像だった。日本人として初めて太平洋を渡った支倉常長も教会を訪ねただろうか。

 アカプルコより太平洋の遙か彼方、宮城県牡鹿半島の月浦から出帆した支倉常長。1614年(慶長19年)伊達政宗の命により、慶長遣欧使節として太平洋を渡りアカプルコに到着。木造帆船「サン・フアン・バウテスタ号」は船体四七b、五〇〇トン程度の小さな船だったらしい。

 180人も乗ってきて、アカプルコにしばらく滞在した。 当然、国際交流も盛んにあったと思われる。アカプルコには今でもトシローとか日本人の名前を持つ者がいると聞いた。

 教会をでた後、そとは大分薄暗くなってきた。レオナルドは飯を食いに行こうという。 案内された所は、市街地からちょっと離れた、公園のなかにある大きな野外レストラン風。真ん中に丸い大きなカウンターバーがあり、舞台ではマリアッチのバンドが演奏している。丸テーブルに座るとすぐ、若い女性がやってきた。座っていいかという。レオナルドは何故か、「ノー」。次ぎにやってきた女性も「ノー」三太郎はいいじゃないかというと、レオナルドは聞かない。やっとレオナルドが「シエント(座れ)」といった女性は悪友の若林好みの目がぱっちりした女性だった。ビールを注文し、再会を祝して「サルー」と乾杯。

 やがてレオナルドが聞く。「金持ってるか」「あるよ」三太郎はズボンのポケットから五〇ペソ紙幣を出した。彼はそれをさっと指でつまんで自分のポケットにいれて、「ちょっと待ってて」といい、彼女と一緒に立ち上がって、どこかへ消えてしまった。しばらく一人でビールを飲んで待っていたがなかなかこない。

 やってきたボーイに日本語でいった。「あいつら何処いっちゃったんだ」 (続く)


  呑 風 日 誌 抄
 8月2日(水)午前。男鹿市役所。佐藤一誠市長へ早稲田フェスタのラグビー教室開催のお願い。フナモクの鈴木美敏社長と吉永小百合さんに毎年あきたこまちを送っている早稲田ラグビー部OB吉田典雄氏と。帰りに若美町の彼の娘、さゆりちゃんを紹介される。
 昼。パークホテル。早稲田フェスタ実行委員会。午後、秋田予備校、北都銀行の佐々木専務、秋田銀行の新開専務の諸先輩を廻り、新聞とプログラム広告をお願いしてご快諾。夕方、山王・以和世。ラグビー教室の打合わせ。ラグビー協会副会長の佐藤忠男先生、秋田テレビの大友直氏他3名。準備の旨酒。佐忠先生がラグビー部OB秋田会として、新聞広告を出してくれることに。深謝。レスリング部OB秋田会としても出そう。
 4日(金)県立大学グランド。課対抗試合で対管財課、3塁守ってエラー、打点1だが後はさっぱりで負け。野呂克彦選手は何とあの年で二塁打を打つ。
 7日(月)県自治研修所にて意志決定セミナーの講習3日間。岩手県立大学の天野巡一教授による政策法務。条例の作り方を学ぶ。
 9日(水)秋田駅前「わざあり」井戸端ゼミナール。黒一点と思いしがタウン誌「きたかぜ」編集長で名文家・長谷川健悦さん。秋田商業レスリング部OBもいた。
 10時過ぎに秋田ビューホテル。石川直人氏が立ち上げたベンチャー起業家の集いへ。
 10日(木)秋田市通町・佐野薬局会議室。早稲田フェスタ実行委員会。秋田魁新報に一面広告が載る。講師の日程スケジュールの打ち合わせ。一日博士体験の申し込み少なく、委員に募集努力を。  大分より札幌の八木美智雄さんから電話、大分市の名物酒場こつこつ庵の大将と話す。
 11日(金)秋田市通町。関谷商店駐車場にて民謡の夕べ。ボクシングの棚谷文雄さんが中国の田奇氏からのおみやげを持ってきてくれた。川反・鳥八と三次会。
 12日(土)札幌の八木さんを新屋の葉隠墓苑、川反観音を案内。藤田嗣治の壁画のある平野美術館長さん、藤田のエッフェル塔の絵が何枚か、川反のレストランに残っているはずとおっしゃる。発見されたら大変なお宝だ。
 13日(日)娘を女房と秋田空港に迎え、そのまま大内町の実家へ。
 14日(月)本荘市・小林工業の小林忠彦会長へ。早稲田フェスタ用プログラムの斎藤憲三顕彰会理事長として広告代5万円をポンと出していただく。有り難し。ふるさとの海小砂川へ。姉と叔父土門三之丞の墓参り。海に入ってカタノリをとる。大内に帰って美佐子食堂で同級会。菊地秀治がでかいアワビを持ってきた。彼は同じ小砂川の海でアワビを捕ってた。  16日(水)早稲田フェスタ実行委員会打ち合わせ。講師のスケジュール管理。打ち上げ場所を皆に通知し、旨酒を飲もうと。
 17日(木)靉にて、サハリンで南極探検隊アイヌと犬隊員の慰霊をしてきた金浦町の渡部幸徳氏、佐々木久弥氏達の帰朝報告会。ロシア語翻訳のグーリャ嬢も。
 18日(金)ラグビーの佐藤秀幸講師一行の歓迎会。秋田駅東の楽味(らぐび)にて。佐藤忠男先生他、ラグビー部OB達と。秀幸元監督とガッツポーズの論争。
 19日(土)秋田駅。奥島総長、安井潤一郎、見城美枝子さんを出迎え。早稲田フェスタあきた開会式。秋田ビューホテル。開会式後、鼎談「美しいまちを創る」総長「志は高く頭は低く」安井講師「商店街に感謝の心」見城講師「車窓の3分の2が美しい空の秋田」安井、見城講師を秋田空港に見送り、アキタニュウグランドホテルにて交流会。総長一行と第一会館にて二次会。総長、早稲田実業の杉山雅洋先生は名校長だった、もう一年いてもらいたかったという。元気のいい後輩のフランカー三木基司君を誘って、吉田典雄氏と有楽町の「おげんき」。
 20日(日)児童会館で一日博士体験、進学ガイダンスの手伝い。商学部の学生に杉山雅洋教授の授業を受けないと損するぞと脅かす。5時半。駅前人情酒場「久保田」にて実行委員会約30人で打ち上げ。大成功だと皆で美酒を飲み、こころのふるさと母校校歌を歌い上げる。皆飲み足らないのか二次会は「多良」で又、歌う。 21日(月)ミネソタ州派遣職員の壮行会。山王・楽座にて。
 23日(水)合川町・北欧の杜公園にて、秋田フィンランド協会総会へ。帰り、五城目町の加賀谷力司大先輩に早稲田フェスタ協賛のお礼。弓矢を作っている長沢さんを紹介してもらう。
 県老人クラブ連合会の斎藤秀樹局長に寄り、猛虎会と六大学チームを結成し、佐々木満先生から甲子園で始球式をさせる相談。
 25日(金)女房と朝、雄和町の池田農園で、ブルーベリー摘み。
 土崎温泉にカミサンを降ろし、武石豆富店の武石社長へ。近くでうまれた脚本家内舘牧子さんと仲良しの武石さんに職人学会大漁旗協賛お願い。ふるさと塾。川反塾舎。講師佐々木文博氏、演題「雄物川河口物語」河口祭りを又。
 26日(土)割山町内会集会所。大納涼会に老若男女二〇数名。川反演歌師山本実さんに来て貰って、本物のギター伴奏で大受け。高橋庶務部長と豊寿司で二次会。
 27日(日)朝、勝平地区市民憲章協議会の水辺公園の清掃
 29日(火)11弦ギターの辻幹雄さんと日赤短大へ。竹本吉夫学長と音楽療法の話。
 どんぷう後記
 この夏、早稲田フェスタinあきたをやって、秋は秋田市で一〇月13日全国職人学会inあきたをやります。ご参加ください。