職 人  

 

 ☆☆☆☆☆☆

 「職人という言葉を聞くと涙がでる」と長谷川如是閑がいった。如是閑とは反ファシズムの論陣を張った反骨のジャーナリスト。
 長谷川如是閑の「日本歴史の性格」を再読してみる。
「日本文明は、平安時代からあらゆる形は、模倣を脱して純日本的になった。ー中略ー
古代からの日本人の創意にある科学性が、自然とそうさせたのであった」

 野添憲治さん著の「秋田の職人たち」は一六人の職人さんから聞き書きした名著。四十八年発行のあとがきに、「職人衆の素晴らしい人生の見方や生活に対する考え方に、ハッと心が清められた。長い生活の苦労を刻んで、皺くちゃになっている顔の美しいことに、目を見張ることが多かった」とある。
 今、十六人の職人さんの多くは、亡くなったり、後継者はほとんどいないと聞いた。
 

 職人(手でモノを作る職業の人)という言葉を調べる。
 平安後期から室町にかけて、農業以外で生活する職能民は道々の輩とか道々の者と呼ばれており、これらの職種にはそれぞれの技術や芸を示す道があった。ー中略ー
  近世になって「工作を職にする人」としての職人という言葉が定着した。ー中略ー

 工業制機械工業が急速に発展した近代は、職人の後退期でもあった。生活様式の変化や手工業生産を犠牲にした産業の合理化は、職人を賃労働者化させ、またとりのこされた手工業分野でほそぼそと経営と技術の伝承をつづけていった。とくに第二次世界大戦後から高度経済成長期にかけては、オートメーション化による大量生産と大量消費の時代をむかえて、職人は原材難と後継者不足から存亡の危機に直面していく。

 大量生産、大量消費の結果、ゴミ問題、ダイオキシン、地球温暖化となってヒマラヤの氷河が解け出し、下流の人々が押し流されて地下に埋まる。

 先般、秋田朝日放送の「世界一の職人ワザ・町工場の達人」を見ていた。
 日本人がモノづくりに専念できたのは平和だったこと。
 日本人は四季折々の自然の豊かさのなかで、繊細な感覚を持ち、小さな美しいものを愛でる。使いやすく、丈夫で美しいモノを作ることにかけては神業である。二十一世紀は町工場からと結んでいる。
 

 第一回全国職人学会が去年十月、小樽市で開催された。 我が国経済の建て直しは「モノづくり」の復権からが主旨。 言い出しっぺは小樽市の伊藤旗店の伊藤一郎さんだった。大漁旗フォーラム十周年記念にと、業種を越えた職人を全国から集め、大成功に終えた。
 第二回目は今年十月、何故か秋田で開催が決まった。小樽市で受諾演説をしてこられたのが、秋田市・工藤染物店の工藤幸彦さんである。

 秋田市川反・たかの家。先日、小樽の伊藤一郎さん、岐阜、金沢の職人さん達とも飲んだ。実にいい顔との先酒だった。紹介者の工藤幸彦さん曰く。「秋田でやるといったのは、佐々木さんが思い浮かんだからだ」おだてられるとすぐ乗っかる。
 この十月、「伝えよう 美と技の心意気」をテーマに全国の職人さん達が集まる。美しい顔にお目にかかれよう。


ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年6月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「ハマナスの海を」
★ 植田 一 氏(新屋青年交流会)

 新屋の植田でございます。前に一度だけここのふるさと塾に参加させてもらいました。その時は一〇〇キロマラソンの話で、軌道に乗るまで大変だったなあと思いました。地域おこしにがんばっている皆さんの話を聞いて、私なんかは参加する資格はないなと感じてました。
 今年の4月一一日、ハマナスの移植会を百三段海岸でやってました。そこで佐々木さんからふるさと塾で話をするようにと言われてしまいました。ま、新屋のことと、ハマナスの話だったらできるかなと思い、やってましりました。

 まず百三段海岸にハマナスを植えることになったきっかけは、新屋青年交流会でした。
 昭和六三年頃、国道7号線のバイパス開通に伴いまして、新屋の商店街や街の空洞化が懸念されました。特に新屋で商いをしている方々が危機感を覚えられました。その中で新屋を何とかしなければいけないと新屋青年交流会の初代会長の小野隆三さんが中心なって、四〇人ぐらい集まって、青年交流会ができたんです。

 新屋をどうするかという危機感から、かなり激しい議論を重ねてきたようです。
 やった事業としては、雄物川放水路50周年のお祭りがあったとか、筏下り等のお祭り的な地域おこしをやってきました。三代目の石沢千秋会長、現在日吉神社の宮司をやってます。彼が新屋の歴史にこだわっておりまして、昔は新屋の地名が百三段(ももさだ)と呼ばれていた。雄物川の放水路が開通するまえは、とてもにぎやかな海水浴場があった。そこで昔のようなにぎわいを戻せないかとなりました。青年交流会としましても、百三段海岸にこだわってみようとなりました。
 自然なままの海岸を残して、夕陽の見える日本一美しい海岸にしようと考えました。
 秋田市で、昭和六三年に6大プロジェクトの中で西部地区の新屋海浜公園の整備がありました。市の方で具体的な青写真ができていました。地元の意見を聞きたいと新屋振興会に相談がありました。
 雄物川河口の南岸、百三段海岸は遊泳禁止になっています。当時は人の行かない地域でした。三菱金属の鉱滓捨て場とか、屎尿関係の処分場とかがあった所でした。そこに公園を作るのは何となくピンときませんでした。そこで整備計画を青年交流会にまかせようとなりました。
 百三段海岸に長く滞在させようと、百三段海岸フェステバルとしてステージでバンド演奏したり、お祭りをやりました。市の公園緑地課と協議し、夢の百三段海岸の鳥瞰模型を作りまして、それをフェステバルに展示したりしました。市で五百万円の公園整備費を予算化しました。そこで青年交流会に何をしたらいいか聞いてきたんです。
 私たちも最初、海岸までの取り付け道路を要望してそれが通り、次の五百万は何かモニュメントを作ろうとなって、百三段カエルが作られました。 何でカエルなのか、昔のにぎわったキレイな百三段海岸にカエル、遊びにきた人が事故なく無事カエル、そしてゴミを捨てずに持ちカエルとの願をかけて建てたものです。 このカエルだけが海岸にポツンと建ってまして、盗難にあって後で帰って来たり、マスコミに何度も登場しまして、カエルに百三段海岸の知名度をあげてもらいました。
 

 公園の整備は現在も続けられており、当時からみると公園らしい所が見えています。
 それから青年交流会として意義のあったことは、国立倉庫です。新屋振興会に二棟の国立倉庫を残すことになったので、その利用方法を考えてもらいたいと市から話がありました。二棟だけ残して、跡地に国家公務員用のテニスコートを作るという案に我々はカチンときました。八棟全部残そうということから議論を始めようと委員会でいったらひんしゅくをかいました。結果的にはその二棟がアトリエももさだとして残り、新屋図書館、秋田工芸美術短大の施設として全部八棟残ったんです。そんな訳で、交流会の先輩達からは、物事を長いスパンスで考えるように教えられたの印象に残っています。
 交流会の規約によって、会員は厄年を迎えると退会になります。交流会の活動をとおして継続は力なりでして、最初は生意気だと見られてましたが、評価されるようになりました。ですがだんだん会員も減りまして、実働は五人ぐらいでやるようになりまして、新屋の方々の期待に答えるには実体が伴わなくなりました。
 私が二年間、会長をやったんですが、これ以上運営が難しいということで一端、解散することになりました。

 百三段海岸にハマナスを植えるに至ったのは、八年の十二月に前会長の大島さんと佐々木さんが能代にハマナスの種を取りに行きました。大島さんから連絡があって、このハマナスの種をみんなに配って植えようとなりました。かなりの数のタネでしたので、実の中に三十個ぐらいの種が入っています。この種を交流会で百三段海岸に植ようとなりました。我々の手で種から苗木を育てて、植えよう。そうして海岸に愛情を育てようと始めました。
 実は我々は百三段海岸クリーンアップもやっていまして、その時にカエル像の側に五十本ほど植えたことがありました。ハマナスを植え始めて色んな方々からアドバイスを頂きました。ハマナスがバラ科だということも初めて知りました。(笑い)
 発芽率が著しく低くて、発育が非常に遅い、一年に何センチも伸びない。根付くと野生のものだから強いということも分かってきました。種類が非常に多くて、野生のものや造園用に品種改良して発芽も良いものあります。苗を育ててくれる人を募集したところ、五十人ほどおりました。四月に入って種を三十粒づつ二袋にいれて配布しました。一袋の種は佐々木さんが取ってきた種を林業試験場で聞いたマニュアルとおりに冬に保管して管理をよくした種、次ぎは我々、素人がやった管理のやや悪い種です。結果的にはその差はほとんどでませんでした。(笑い)
 自分も百粒ほど植えたんですが、七本しか発芽しませんでした。ハマナス日記をつけて生育状況を観察してきたんですが、六月になって双葉に次ぎにギザギザの葉っぱが出て来るんです。ここに持って来ています。
 十二月になって発芽状況調査をしました。五十人中、発芽に成功した方が十六人、発芽したのが百八本ありました。移植希望が四十本、これは発芽が遅くて、やっと芽が出たので愛着がわいたのだと思います。浜に植えるのが惜しい、自分の家で育てたい。(笑い)
 翌年の四月十九日に何とか百三段海岸に五二本植えることができました。一年後に、二〇センチから三〇センチぐらいになって植えることができました。新聞で見たという浜田の方から畑にある立派な木になったハマナスを五本、提供してもらいました。結果として、種から移植した五〇本は根付いています。ただ、木になっていたハマナスは5本とも死んでしまいました。植える場合に根の処理が悪かったのかと思っています。
 二年目には一人の方に多く渡すということで、五〇に分けて配りました。発芽した人数は一六人で、発芽本数は五〇本ほどに落ちてしまったんですね。これが交流会の解散の時期と重なりまして、とりあえずいったん、このハマナスの植樹運動はストップしようとなってしまいました。

 この年の一二月に交流会は解散したんですが、種を配った責任は当然あります。四月十一日、二回目のハマナスの植樹をやりました。植えた本数は四十本ほどです。
 ハマナスの植樹の二年間やって、交流会は終わってしましましたが、自分としては意外な結果に驚いています。それというのは、自宅の庭に手入れのしない、マニュアルどおりにしないで、半分やけくそ気味にまいた種が今年の春、凄い本数の芽がでているんです。(笑い)七十本ほど出ているんです。面白いもんでこの運動をやめるといった途端に芽吹きだしたんです。恐らくハマナスがもっと続けろといっているんでしょう。(笑い)
 これから、ハマナスの簡単な育て方をまとめてみたいと思っています。来年の春には、七十本のハマナスを配って、植えたいと思っています。

 佐々木さんは、白いハマナスで百三段海岸をいっぱいにして雅子様をご招待し、ご用邸を誘致しようといってますが、そんな夢を抱いて、ハマナスを植え続けたいと思っている植田です。(文責佐々木)


呑 風 日 誌 抄

 1月1日(土)秋田市・彌高神社に初詣。北嶋宮司と彌高泉神社歳旦祭へ。日本歩け歩け協会の縄田方々と泉地区を数百b歩く。カミさんと土崎の温泉での正月でした。
 3日(月)秋田市大町ビル。箱根駅伝秋田の会(嘉藤晋作会長)へ。元箱根駅伝出場者とテレビ観戦。駒沢大学のアンカー高橋正仁選手(秋田工業高校出身)が優勝の襷。駅伝は襷で心が繋がっている。
 4日(火)アメリカの石原剛から夜中にFAX。レスリング部同期の藤村の奥さんが亡くなったことを知り、彼の住所を教えてくれとある。
 5日(水)秋田市添川・工藤幸彦さん宅。十月の全国職人学会の話。バウハウスの森川恒氏、小松染物店の小松正夫氏と。美と技の心意気というテーマにし、秋田職人の会を立ち上げることにする。
 8日(土)午後、石川錬治郎秋田市長宅。仙台から中国人の靖博士が来てくれる。秋田銘酒で稲門会機関誌等の話。
 9日(日)朝、秋田市添川・聖体奉仕会修道院へ女房と。
 奥の畳の部屋に木彫の「マリア像」を見る。涙を流すマリア観音で全国的に有名。フィリピンのアキノ元大統領も昨年訪ねている。75年から81年まで百一回涙を流したという。当日、我々俗人には涙なし。
 12日(水)秋田駅に金沢の旗職人、玉作さんを出迎え。
 夕方、平安閣で秋田青年会議所新年会に出席後、川反。たかの家にて、小樽の伊藤一郎さん(全国職人学会の仕掛け人)、玉作さん、岐阜の吉田さん達、染め物職人さん達と飲む。いい顔の人々と先酒。
 13日(木)秋田市保戸野・舞酔。佐々木満先生を囲む会。西仙北町町議の佐々木正信さん他十人。先生、東大赤門近くに住んでて、朝食は東大食堂。ホームレスに間違われるといわれる。甲子園六大学OB野球試合で投げてもらおう。
 14日(金)彌高会館。県庁大内会。故郷大内町役場の課長以降が集まり恒例の新年会。
 幹事達と駅前人情酒場「久保田」で二次会。
 18日(火)平鹿町の佐藤清作氏とみずほ苑。元笹山茂太朗代議士の秘書をやっておられた方。日光の太郎杉から毎年、笹山先生に年賀状が来てた話。林野庁の山林局長時代、東条英機の伐採命令に体をはって反対し、お陰で全国の神社仏閣にある杉の命は助かったが、笹山先生は熊本営林局長に左遷された。戦後、笹山先生を熊本から農林省に戻し、次官にしたのが松村謙三先生。大臣にはならなかったが、笹山先生のような気骨のある政治家は秋田県の誇りである。
 秋田パークホテル。早稲田フェスタの準備会。吉永小百合さんにふられたので鼎談の講師は乙武君に交渉することに。野球教室は大館、サッカーは横手稲門会にお願いする。
 中国留学生の父、佐藤孝之助さん、里子であった王さんが中国の大学医学部教授となって秋田大に再留学。秋田駅東のしゃぶしゃぶ店で歓迎会。 21日(金)秋田平安閣。韓国慶州ナザレ園の宋園長のワピエ主催の歓迎会へ。
 22日(土)秋田コミュニティ放送へ。秋田ふるさとづくり研究所所長として、職人学会、雄物川河口北のクリーンアップ&プラント作戦の話をし、音楽のレクエストはジャズのセントジェイズム病院とさだまさしの「案山子」
 那波商店の那波宗久氏とウラジオ会等の相談。紹介して頂いた大町5丁目の中谷町内会長から「茶町遠くて」という本を頂く。ふるさと塾の講師をお願いする。
 キャッスルホテル。工藤幸彦さん、森川恒さん達と職人学会の打ち合わせ。会場はキャッスルホテルに決定。
 24日(月)新潟駅前「あわしま」大学レスリング部同期の野口明と飲む。去年奥さんを亡くした川崎の藤村孝次に電話したらアメリカの石原から花が送ってきたと、泣かれてしまった。ホテル新潟で環日本海経済研究所のやはり同学の伊藤部長と。彼と親交を温めるのが仕事。
 26日(水)アキタニューグランドホテル。秋田稲門会新年会。幹事長として初めての会。演歌師の山ちゃんに来てもらい「人生劇場」
 28日(金)秋田ふるさと塾。秋田海陸運送の西宮公平氏。「北の海みちの復活」ロシア・ポシェット港開港の立て役者。彼のヒューマニズム、勇気、実行力には敬服。
 29日(土)昭和町ブルーメッセ。世界蘭展へ女房と。すごい人出。  
 30日(日)本荘市公民館。外国人花嫁の前で、山形県戸沢村の韓国人花嫁、淳浩さんから「キムチの作り方」大内町の実家。菊地洋さん宅へ弔問。