ふるさと呑風便8月号
宣 誓☆☆☆☆☆
「甲子園球場。野球というスポーツを愛する私たちにとって何と心に響く言葉なのでしょうか。1900年代最後の夏。私たち選手一同は今、この甲子園に集うことができた喜びをかみしめています。スタンドで応援してくれる控えの選手をはじめ、私たちの野球を支えてくれるすべての人たちに感謝し、暑い日もまた吹雪の日も気力で継続してきた練習を信じ、21世紀に大いなる希望を持って前進するために、全力でプレーすることをここに誓います」
これはこの夏、高校球児が集う甲子園の開会式での宣誓の要旨である。新潟明訓高校の今井也敏主将が、絶叫調でなく、たんたんとさわやかに、甲子園出場の喜びと21世紀への希望を素直に表現した感動的な内容だった。スタンドから大きな拍手がわき上がった。
この宣誓文の内容はチームメートや監督、部長たちとの相談してつくったものらしい。それにしても素晴らしいのは内容だけでない。
今までの宣誓は絶叫調というか、「われわれはー、スポーツマンシップにのっとりー、せいせいどうどうとー」といった調子でないのがいい。
実家の姉のごときは、今井主将の宣誓をテレビで見た後、涙を流しながら拍手したという。
新潟明訓高校野球部の部訓は「前進、感謝、気力、継続」だとある。このチームの選手はタイムリーを打っても塁上で歓喜のガッツポーズはしないだろう。
ダイエーが躍進している。王貞治監督率いる野球のことだが。王監督が早稲田実業のエースとして甲子園優勝を果たした。東京に戻って兄さんからほめられると思ったが、怒られた。どうして。「優勝した時、ガッツポーズをしたのはいけない。相手に失礼じゃないか」と。新潟名訓高校の部訓の一つにある、感謝という言葉。この心があれば、甲子園ではガッツポーズなどは出ないはずである。
ひるがえって今の政界。なんだかイヤーな感じになってきた。
前進、感謝、気力、継続があろうか。党利党略でうごめいている。次の選挙で自分は勝てるかどうか、党が伸びるかどうかだ。
某政党のごときは、スタンドで応援した観客といえる、国民への宣誓である公約を反古にして、権力側に恥も外聞もなくついてしまった。政治は数だが、数の横暴がまかりとおりるのではたまらない。
30年前だが、私の国会議員秘書時代のこと。
「政治には美がない」と、当時、共同通信論説委員長の井出武三郎さんが語ってくれた。
「首相官邸のキャップ時代、議事堂の中で政治家同時が笑いながら肩を叩き合っている姿を見て、実に醜く感じた。それから私は国会の中には入らないことにしている」井出さんは三木内閣の官房長官をされた井出一太郎氏の弟さんだった。
「兄貴は私を大学に入れてから自分が大学に入った。小さい頃、小川の側にあった風呂に入るのを嫌う私を入れるため、兄貴は源平盛衰記と太閤記を話してくれた。お陰で日本歴史の基礎を風呂で学んだんだよ」とも語ってくれた。
新潟明訓高校は残念ながら2回戦で北海道の旭川実業高校に敗れた。テレビ観戦したが、ガッツポーズは見られなかった。負けてもお互いに笑顔で肩を叩き合う姿は美しい。今井主将も、部員も泣かない。その夜、宿舎の大広間には黒板が用意されていた。第5番目の部訓を決めようとしている。
今井主将は大きく「飛躍」と書いた。部員全員が笑顔と拍手で新しい部訓を承認した。
ふるさと塾地域づくりセミナー
★平成11年3月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「大変革」めだかのデモクラシー
★ 村岡兼幸 氏
(日本青年会議所直前理事長)
秋田ふるさと塾は、日本ふるさと塾の萩原先生との関係で知っておりました。私がずっと青年会議所で活動してきて考えてきたことを限られた時間のなかでお話してみたいと思います。
日本青年会議所の会頭をやるまで、色々なステップ、10ぐらいの階段がありました。私は本荘なので、由利本荘青年会議所の理事長をやること。県の会長をやること。東北地区全体の会長、日本青年会議所に行ってからは、専務理事や副会頭をやることで会頭をやることになります。
10年ぐらいかけて、地元由利本荘や秋田青年会議所の人達、秋田県全体でバックアップをしてくれて、2年前に会頭をやりました。
たった一年間でしたけれども、その後の一年というのも結構、前会頭ということで忙しくて、2年前は全国で65回、講演で歩きました。半年で47都道府県すべて歩きました。昨年が58回、2年間で123回です。そんなに話も上手でないのに、会頭という立場上、全国を2周半ぐらいくまなく回ったのかなあというのが実感です。今年はJC(青年会議所)とはきっぱり縁を切ろうということで、講演活動はしないと決めていたんですが、断りきれない性格で4月まで20回ぐらい入っています。呑風便に全日空の秋田支店長の鈴木さんのお話が出ていましたが、彼が本荘の自宅まで来てくれて全日空のプラチナカードを持ってきてくれまして、貴方が秋田県で一番飛行機に乗ってくれてますと。2年間で地球を10周ぐらい回ったことになります。
会頭時代は家族の理解もあって、私には10歳と5歳の男の子が二人、海外で女房と出かける時は、秋田の実家の両親が子どもの面倒を見てくれました。全日空から貰った無料航空券はこの間プレゼントして、ハワイに行って来ました。
今、地方分権やNPOの時代といわれています。私はこの二つをずっと追いかけてきました。一年間の会頭時代もそれをテーマに掲げて、運動を展開しました。
「大変革」という本も会頭時代に作りました。一年間ぐらいかけて作ったんですが、これには今話題の三重県の北川知事と対談したり、佐賀に行って青年会議所の先輩の鹿島市長とも対談した内容の地方分権とNPOの本を出版しました。
この本は自分の訴えたいことだけをいうのではなく、それをイソップ風に対比をしながら、読み手がそれを読みとってくれるような本にしました。今日もその物語の最初と最後に簡単に紹介したいと思います。
最初にデモクラシーということを考えてみたいと思います。
初めにニワトリたちのデモクラシーです。その次の今考えている三つのテーマ、公共とは何か。次に住民参加のまちづくり。そして次にパートナーシップ型社会とは何か。結びの部分で、幸せの方程式、これからの幸せの方程式をどう考えなければならないのか。最後に、もう一つのニワトリたちのデモクラシーとして、最初のと対比した話を紹介したいと思います。
あるニワトリ小屋にブロイラー君とレグホン女史のつがいの夫婦がいました。狭いケージの中で毎日同じ時間に起きて、同じ量の餌を食べて、そして卵を産んで、同じ時間に寝るという生活にだんだん疑問を持ち始めていました。ちょうどブロイラー君は、ニワトリ小屋のはじっこにいましたから、窓から外の世界を見ることが出来ました。外の世界では太陽に光を浴びながら、牛達が美味しそうに草を食べている。
ブロイヤー君はかって我々ニワトリ達もあの大空を飛び回った自由があった、我々ニワトリ達の尊厳を取り戻そうとニワトリ小屋の仲間に訴えました。日頃からニワトリ小屋の主人には大切にされていないと思っていた仲間達が決起をしました。
騒ぎを聞きつけてニワトリ小屋の主人がやってきました。ブロイラー君が主人に詰め寄りました。
「ニワトリ達にも自由をくれ。我々ニワトリ達の手で民主化したニワトリ小屋と作るんだ」と訴えました。「我々に自由をくれないならば、卵を産まない、絶食をもいとわない」
ニワトリ小屋の主人は先祖代々ニワトリ達には平等に餌を分け与えることを教えられてきました。
ただただ驚くばかりですぐさま、ニワトリをケージから解放して自由にしました。
ニワトリ達は思い思いに外に出て散歩したり、又仲間と歓談を始めました。ある意味でニワトリ達にとっては、記念すべき独立の日になった。ところがしばらくたたないうちに、ブロイヤー君達、数羽のニワトリが、悲鳴をあげながら逃げ帰ってきました。「外に出たら猫が私達を襲ってきました。主人どうにかしてください」
主人はそれに対しこう答えました。
「それは猫とあなた達で解決しなければいけない問題でしょう」
次に妻のレグホンが、自分の居心地のいい場所に卵を産もうとしたら、そこにはすでに若い娘のニワトリがいました。
「ご主人様、生意気な小娘が私の場所をとってしまってます」
主人はこう答えました。
「それはあなたと小娘の問題でしょう。ニワトリ達で話し合って解決してください」
次に同じ量の餌を大きなバケツに入れて、ニワトリ小屋の真ん中に置いておきました。ニワトリ達がいっせいにその餌を食べようとしたために、首が抜けなくなってしまいました。それで、主人が行って、ニワトリ達の首をどうにかこうにか、引っこ抜いてあげました。ニワトリ達はいっせいに
「ご主人様、前のように私達に平等に餌を与えて下さい」というふうにいいました。
これには主人は簡単に答えることが出来ました。
「君たちがニワトリ小屋のケージに入ってきた時には、ケージのはしに餌を流し込めば、自動的に平等に餌を分け与えられていたではないか。君たちはケージを出て自由を得た瞬間、それは君たちが解決すべき問題でしょう」
翌朝、ニワトリ小屋にいってみると、ニワトリ達は、何事もなかったかのように、ケージの中に入って居心地良さそうに餌を食べていました。
たったこれだけで終わりですが、これはニワトリの笑い話ではないですね。
地方分権、NPO、行政改革、様々な構造改革をしなければいけないといいながら、その必要性を感じながら、具体的な何かしているでしょうか。
このニワトリの話は今の人間社会に当てはまるのではないかと思います。
日本は四方を海に囲まれている島国です。世界一の造船国ともいわれています。潜水艦を含め、造れない船はないといわれています。
ですが、造れない船が一艘だけあると、世界中からいわれているんです。何だと思いますか。
「リーダーシップ」を作れない。(笑い)今、リーダーシップ以上に求められているのが、パートナーシップなんですね。勿論リーダーも大事なんですが、今の社会状況で求められるのが、パートナーシップだ思うんです。
これが今日の3つのテーマの中心になるかなと思います。
3つの中の、公共とは何か。
公と共にとあります。公共という言葉を「みんなのこと」と置き換えてみて下さい。(続く)
我青春風来記(113)
早海三太郎
メキシコ(7)
バスが停留所でないところに止まるわけはない。でも、停まったのである。満員バスの運転手はすぐ後ろに座っていた三太郎を呼ぶ。運転手の横に立ったら、窓の外を指さす。「あそこだ」指さされた方向に、「レストランナイル」の小さな看板が見えた。三太郎はびっくり、感激して運ちゃんに礼をいって、停留所でない所にバスを降りた。
メキシコシティの建物には番号がついている。レストランナイルのあるビルにも、上の方に大きく38と数字が書かれている。親切なバスの運ちゃんも住所と建物の番号を示せばすぐ分かるわけだ。
しかし、ここは市内の一体どこなのか分からない。そんなに繁華街ではない。ティファナから3日半かけてのバスの中で知り合った女子大生。叔母さんのレストランの住所だけ教えてくれて、彼女の名前を聞くのを忘れていた。
三太郎は別に会えなくともいいと思っていた。小さな冒険のつもりだった。
レストランナイルは閉まっていた。午前10時前だからまだだろう。そんなに高級レストラン風ではない。
三太郎は1時間ほど近くを歩いた。と、銃がウインドウに飾られている店があった。中に入る。客は一人もいない。店員も見当たらない。壁には様々なピストルが置かれていた。ちと、薄気味悪い。物騒なので、すぐに外へでた。レストランナイルに戻る。ドアが開けられる。押して入った。誰もいない。「ごめんなさーい」といってしまった。奧のほうから誰が出てきた。「キエン」誰?といってオバサンが出てきた。三太郎緊張する。彼女はいてくれないほうがいいと弱気になった。片言のスペイン語で何とか、ティフアからバスに乗って来た彼女のことを話す。そのオバサン、途端にマリーアと叫んだ。そうか、マリアという名前だったのか。
二階から降りてきたのはまさしく悪友若林正彦好みの吸い込まれるような大きな黒い瞳の彼女だった。三太郎を見て驚いて、抱きついて、来る訳はない。一体どうしたの、といった風だった。
横にいるオバサンがまあ、座んなさいと勧められテーブルに座る。お客はいない。三太郎は別に会えなくともと思っていたから、何を喋っていいかわからない。彼女も笑顔でしばし無言。
オバサンがやってきて、食事はまだだろうと聞く。(続く)
呑 風 日 誌 抄
7月3日(土)秋田市文化会館。早田貫一先生の「シベリア回想展」へ。ホームページに掲載して、後世に残したい作品。午後、秋田メトロポリタンホテル。同僚の清水康成君の結婚式へ。
4日(日)雨。秋田市八橋・西来院にて132回仙台藩士殉難者慰霊祭。伊達篤郎仙台藩志会会長にさらし首になった場所への慰霊碑建立は、役所の反対で来年7月4日までには建立したいと説明。 仙台藩通史代表志茂又左右衛門の子孫、石川浩司さんもご出席。
9日(金)仙台市。政府開発援助民間モニター参加者選考会。くじ引きの仕事。新幹線こまちに乗る。司馬遼太郎の「歳月」を読んで秋田駅。同じ並びの窓側に見た顔。何と佐賀の大草安幸さんだった。秋田駅前の人情酒場「久保田」、二次会多良。奇遇酒。
11日(日)500歳野球「中通クラブ」の早朝練習に参加。中通小学校グランド。朝6時、14人も集まっている。心良く受け入れてもらう。ユニフォーム姿で、ワシントンホテルへ。佐賀の安幸さんを訪ね、仙台の杵島さんと3人に挨拶。本荘清吉のラーメン。
12日(月)役所の課内対抗市内。対会計課。四面グランド。先発で4回投げ12対2。何と10数年振りに勝利投手。みずほ苑にて勝利の美酒。川反「秋田の瀧」にて、国際交流員セーラの送別会
14日(水)秋田市山王・山王屋台。中小企業問題研究所の会合。メンバーで高井宏二公認会計士の面白話。呑風便編集長鳥海良寛氏も合流し、荒磯ラーメン。
16日(金)秋田駅前人情酒場「久保田」ハンガリーの造園技師のタマス・ビローさんと中国蘭州の考古学者建威さんと。英語、中国語の片言ちゃんぽん。仲良し酒場「道心」で二次会。グスネムとはハンガリー語でありがとう。
18日(日)中通小グランド。野球早朝練習。大町・ADホールにて「木の椅子展」へ。金浦町の美智子皇后の後輩の恩師、濱田政光さんの作品。慶応出身で平鹿町の髭の歯科医俵谷勉先生と。五城目町の大先輩加賀谷力司さんと会い、大町ビルでの「新しい炭やき秋田会議」に送ってもらう。参加者多数、炭への関心度が高い。
本荘の石井護先生に来てもらい、HPを直してもらう。
21日(水)彌高会館。女房とモーツアルト広場。モーツアルトアンサンブル。会員番号271番「ジュノム協奏曲」ピアニスト久元祐子の美しい演奏。
22日(木)昼、平安閣。世界子ども音楽祭全体委員会。山王・むつみ造園土木へ。ハンガリーの造園技師タマちゃんを佐々木吉和社長に研修依頼。ご快諾、ブタペストに日本庭園を作る話へ。
東北電力秋田支社。秋田デレクターミーティング。秋田流酒道入門講座を10月に開催計画。二次会はメンバーで電力の関場博広報課長の本社栄転のお祝い。
23日(金)川反塾舎。秋田ふるさと塾。「これからの地域のあり方」講師は浅利悟氏。新興住宅地のまちづくりを20年以上、町内会長としてハード、ソフト面での活動された。ふるさとづくり総理大臣個人賞を受賞。モットーが「住民は、行政が住民に何をしてくれるのかではなく、住民自身が行政に何をしてやれるかを考えるべきである」大いに学ぶべき。
25日(日)中通小学校グランド。野球早朝練習。アトリオンにて「秋の風物つかみどり写真展」
26日(月)秋田空港。秋田銘菓金萬持って羽田から渋谷。余りに暑くてNHKエデケーショナルの奥津憲仁氏に電話してハチ公前に来てもらう。新宿紀伊国屋地下で学友小田豊二と飲む。彼の著書「幇間(たいこもち)の遺言」と三木のり平の聞き書き「のり平のパーッといきましょう」を貰う。秋田で聞き書き運動をやれ、青年達の前で聞き書きの仕方の話を秋田でやろうという。これは高齢者の生き甲斐づくり運動にもなる。 娘と歌舞伎町の海鮮料理へ。学芸大学駅前の焼鳥屋で又一杯。
27日(火)参議院議員会館。岸宏一議員事務所。秘書から国会図書館に電話。酒道の書物を探してもらうよう依頼。国会図書館の正面玄関から入ったのは初めて。館内に「真理がわれらを自由にする」と書かれている。携帯電話に岸先輩から電話、「何勉強してんだ」。昭和3年発行の「酒譜」という本を見つける。酒憲法をコピーして貰う。7階食堂で昼食。
新宿で土壌浄化法の新見正彰氏を会い、秋田で土壌浄化法を勧める話。京王プラザにて秋田へのALT英語指導助手40人の前でオリエンテーション。明日は美しい秋田に着くと話すと何故か拍手。
末広亭で三笑亭笑三の小噺を聞く。
学芸大学駅前の寿司やで娘の友達(女)三人で飲む。
29日(木)秋田市寺内小学校。世界子ども音楽祭出場者のリハーサル。平安閣にて世界子ども音楽祭歓迎会。秋田商工会議所青年部長の近藤隆平氏達と山王・館。
31日(土)出戸浜海岸へ。日中友好協会主催の中国留学生招待地引き網。あいにく波が高く中止。
県民会館。世界子ども音楽祭。モンゴルの少年が優勝。辻良之会長、佐野元彦実行委員長、秋田で世界音楽祭成功の自信がついた。