誇りと思いやり 

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 秋田市千秋公園内の彌高神社斉館の大広間。12月4日。秋田流酒道を呑む会が開かれた.。三〇人の雅懐のある方々が集まっている。

 酒道とは酒を通して教養を養い礼儀作法を修養させる道。
正しい酒の知識、楽しい秋田の酒の美学を学ぼうというのが、秋田流酒道の酒旨である。
秋田晴酒造の川口和夫主人の挨拶で始まる。秋田市の繁華街「川反いまむかし」の著者である黒川一男先生から呑む会へのメッセージを披露する。
「趣旨大賛成。庶民文化を伝承することは二〇世紀人の大きな責任と思います。軽薄な文化論が横行しておりますが、人間関係を重視してきた数千年の歴史を持つ日本人、少し足許を見直し、ユーモア溢れる楽しい人生を送る心掛けを忘れないでほしいと思います」
 川反芸者の接待学として、若勇さんから「誇りと思いやり」と題して講演をお願いした。
厳しい修業時代の話、接客の失敗談。「無粋な客もいたがお客様に育てられてきました。川反芸者としての誇りと思いやりでえやってきました」と話された。
講演後、若勇さんから小唄「酒の秋田」の踊りが披露された。
 小唄「酒の秋田」
      作詞 小島彼誰 作曲 中山晋平
一ハア朝にゃ 米とぐな
          サテドッコイサト
 朝にや米とぐ 米とぎ水の
          アーラヨイヨイ
 白くながれて 雪となる サテ
 秋田米の国 テサテ サテサテ
 酒の国
 くんで行かんせ 一夜さは
           クマンセノマンセ
           サシタリ ツイダリ
四ハア樽になる杉ナ
           サテドッコイサト
 樽になる杉 ふか雪育ち
           アーラヨイヨイ
 つめたお酒も 雪育ち サテ
 秋田米の国 テサテ サテサテ
酒の国
くんで行かんせ 一夜さは
クマンセノマンセ
サシタリ ツイダリ

 若勇さんの師匠、若吉姐さんは昭和五七年の芸妓座談会で語っている。
「川反は変わりました。昔の情緒はありません。(中略)でもきっと日本情緒の時代がきます。日本人が日本に戻ってくる時代が必ず来ますよ」
 川反の情緒をなしている流しの演歌師、誇りを持っている山本実さん。彼から人生劇場の台詞を教えてくれて頼まれていた。北海道出身の彼のイメージで人生劇場の四番の台詞を少しアレンジして作ってみた。

 昨日も聞いた今日も見た
 秋田の街を山本実が歩くという
 尾崎士郎先生原作 人生劇場

四 「嗚呼 夢の世や夢の世や いと なつかしき父母や 十有余年のその 間 朝な夕なに眺めたる
  春は花咲 き 夏繁り 秋は紅葉の錦絹 冬は 雪降るふるさとの宿世の恋いの   はかなさに
  一人旅立つ北海道  学びの庭は 我が秋田」
   ♪ はした演歌の俺ではあるが
     秋田に学んで 波風受けて
     ゆくが男の この歌道を
     人生劇場  いざ序幕
 

 酒道を飲む会は次に集団酒道として、二つの大杯に酒を注ぎ、主人役の川口社長と初代川反会長の秋元辰二先生から飲み廻される。
 石の勘左エ門高橋正社長の皿回しが披露されて宴席は大いに盛り上がった。
 最後は愉快な秋田流となり、笑顔の記念写真で、修了。


ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年4月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「メダカの学校」
   ー最近の自然に対する考えー
★ 木川 弘 氏  (羽後虫の会会長)

 私は昭和4年、秋田市のここの近くで育ちました。この十二月で七十歳になります。戦時中、秋田市内で強制疎開された所で当時、ここの側を流れる旭川の水位は2bもありました。川船が米を積んで、あきた倶楽部のところに大きな柳の木がありました。そこに船を繋いで上がって、親方は秋田倶楽部にでんと上がって荷がさばけるまで酒を飲んでいるわけです。
 旭川にダムができたものですから今では浅くなってしまいました。
 メダカの学校という話ですが、日本には本当のメダカというのは3種類しかいないんです。
 和名でいうメダカと蚊絶やしともいって、アカイエカを退治するため、水田のボウフラを食べるメダカを1916年に台湾から日本に持ってきて、田圃に放したんです。これがものすごく増えてきました。
 もう一つはグッピーといって観賞用として持ってこられましたが、これは北海道以外の温泉地の温水に生息するようになりました。

 私は県庁に42年間お世話になりました。ほんとは県庁といいたくなんです。(笑い)
 日本人はどうも組織の中でしか生きられない傾向があります。組織を出てしまいますと、ものすごく不器用に人間になってしまいます。町内会に入ってきますと、元公務員はどうも生活しにくい。自分の言うことが組織の中で通され、かばわれ、威張りちらしてきたものですから、町内会で会長になっても組織の中でやってきたことと同じようにするものですから、誰もついてこないんです。
 私が秋田市旭川クリーンアップの会長にされた時、青年会議所の青年達に企画立案はすべて任せて、私たち年寄りは力仕事、ゴミ拾いをやればいいんです。そうしてきました。
 私は河辺町戸島小学校の先生もやってました。教育界にいて色々感じてきましたが、講演会などで一番、訳のわからない質問をするのは残念ながら先生方です。それは人の話を聞こうとしないからです。それから医者です。日本国中で一番偉いのは医者だと思っている。
 外国ではバーテンの地位が高いそうです。それは色んな方々の話を聞けるように相当の教養がなければいけない訳です。
 私は秋田市に生まれて物心ついて60年になりますが、秋田ほど古いものを簡単になくしています。今になって頭を抱えている。広小路がありますが、空洞化して問題になっています。
 竹下さんの一億創生の時、県庁にいましたが、知事が職員にアイディアをだせといわれ、私はペットランドを造って、ペットを自由に飼える施設を造って、そこへお年寄り集めようと提案しました。そしたら、これは却下されましたが、その後静岡県のどこかで同じものをつくりましたよ。
 秋田県とは不思議な県です。
 私は県庁で後半は、保健衛生と虫と自然保護の仕事しかやりませんでした。好きな仕事だけをして、幸せな男でしたなあ。
  今の秋田県の自然保護の面でいいますと、白神山地。今まで誰も相手にしてなかった。ここで一番考えなければいけないのは、自然保護とは何なのかということ。自然を修復するとか、これはあり得ないことだと思います。この地球の上に住んでいる人間。小さな蟻のような存在なんです。
 白神へはほんとうに山の好きな人だけが行けばいいんです。
 農耕民族である日本人は自然破壊をして生きてきたんです。自然破壊はすべて悪いことではないんです。いい破壊と悪い破壊があるということです。

 年寄りは昔は良かった、旭川も魚がいっぱいいてよかったというのは年寄りの泣き言です。今の旭川は、今にあった改修をしてできてきたんです。
 メダガの学校も少子化問題があって、生徒がいなくなってつぶれてきてしまってますな。これはなぜかというとすぐ、農薬のせいだといいますが、違います。
 国有林の伐採があまりにも急激に進んだ。そのために山に保水力がなくなって河川の絶対水量がなくなってしまった。今、田圃で使う農薬というのは、我々の目の届くところにしか田圃は広がってないいんです。そうしますと、一つの流れの途中から農薬のしみ込んだものが入って来るわけです。その水を調べると農薬の汚染されていると騒ぐわけです。ところが山から流れてきた水は入っていない。ところが一番困ったことは、ヘリコプターを使って山林に薬剤を散布することは、川の水源を汚染する。これが困ったことなんです。ところが木があって根が濾過してくれればいいんですが、その木がない。杉は根が浅く、保水力が弱い。ブナのように根を地下に張って保水力があれがいいのですが、面の木は柔らかいくて、一度倒れて腐ってしまう。二次林となってまた、保水力を蓄えて海に流れて海草を育てる。こういうことから、鳥海山のように海の人が山に植林するというのは今まで考えられないことですが、大事なことで進めていかなければなりません。

 メダカがいなくなったというのは私にはピンときません。全体からみればメダカはまだたくさんおります。秋田市内では秋田経済法科大学の裏の田圃には困っただけいます。ちょっと足を運んで身近な所でたくさん見られますよ。メダカは水温が高くても低くても、水が濁っていても生きていける丈夫な魚なんです。メダカがいなくなったということは大変な事なんです。丈夫そうでそうでないのはドジョウです。ドジョウはきれいな水の中にいるんです。ドジョウのいない所には蛍が育たないんです。
 それでも蛍はいる所にはいるんです。メダカと同じで観光地にいって蛍がいないと騒ぐ。秋田市の千秋公園で蛍を育てようとしたが出きるわけがない。それで蛍を買ってきて放した。いる所に行かないでいなくなったと騒ぐ。 こっちの水は甘いぞと歌われますが、岐阜から蛍の雄と雌を買って育てても、水と気温が合わないから育たないんです。
 今、我々これからできることは、人をあんまり観察することは不調法ですから、自分の周り、自然の環境を含めた環境をを常に注意深く見ているということは、世の中の変化を見つけ、認識していくことです。できるだけそれ以上、進まないような手だてを考えて行くことが一つ。
 そのための観察力をつけることが大切。小さいものがいなくなったり、増えていたり、そんなことに関心を持つことだと思います。最後は人間がどこにいくかということですから、人間の末路ということを考えれば、残るのは人間の側で生きてきたネズミやゴキブリ。ゴキブリに言わせればなんで自分は害虫なんだと思っている。(笑い)
 人間というのは古いものに興味を持って、新しい自分の周りのことに何にも気づかない。老人力もいいですが、周りの自然、環境に対して観察力をつけてもらいたいものです。(文責 佐々木)


 我青春風来記 (117)
       早海三太郎
   メキシコ(11)

 メキシコでも生水を飲んだら一発でお腹をこわす。三太郎はコ−ラかビールを飲んでいた。しかし、とうとうやられてしまった。
 ホセが自宅に招待してくれた。スペイン系の彼の家はなんと白亜の豪邸。門から入口まで50bもある。玄関口に足の短い日本人を出迎えてくれた家族を見てビックリした。一六歳のホセの妹を頭に七人の兄弟が歓迎してくれた。お母さんは赤ん坊を抱いている。
 ここでご馳走になったのが生魚だった。帰りはホテルまでお母さんが車で送ってくれた。ホセが三太郎に英語で話しかけると怒る。「サンタロウはスペイン語の勉強に来たんだからカッコつけて英語なんかで話さないで」
 ホテルに戻ったらお腹が鳴りだした。「イタタタタ」トイレに駆け込む。持ってきた正露丸を飲んでも治らない。ベットに潜っても眠れない。3時間おきにトイレへ往復。
 翌朝、食欲もない。親しくなったホテル向かいの果物屋で、バナナとマンゴを買って食べる。それでも下痢は止まらない。原因はホセの豪邸で頂いた小さな生魚の切れ身に違いない。2,3日は果物生活が続いた。日本の薬は効かない。結局、紹介されていた伊藤忠商事の駐在員の家を訪ねた時、あなたもやられましたかと、ドイツ製の液状の薬を飲まされたら、一発で治ってしまった。

 大事なことがある。メキシコのキューバ大使館へ行かねばならなかった。キューバのビザをとらねばキューバへいけない。メキシコはラテンアメリカ諸国のリーダーとしての矜持を持つ。アメリカに対峙して、キューバとも国交を維持している。
 キューバ革命のリーダー、カストロは26歳の時にバチスタ独裁政権を倒そうとサンチャゴデクーバのモンガタ兵営を襲ったが失敗。メキシコに渡り、ここでアルゼンチン出身のチェゲバラと会い、メキシコでバチスタ政権打倒のためゲリラ訓練を行った。そして、十二人乗りのヨット・グランマに八十人乗ってキューバに向かった。メキシコはそれを邪魔しなかった。(続く)


呑 風 日 誌 抄
 
11月1日(金)県高度技術研究所。ロシア・ポシェット港アンドレイ所長の講演。ビクトル先生が同時通訳。ポシェット港開港は秋田にヨーロッパから物資が早く着く。シベリア鉄道経由で荷物が途中で紛失しないかの質問に、機関銃を持った警官がいるから大丈夫だと聞いた。
 2日(土)秋田市文化功労賞祝賀会。大友康二先生の組。同じく受賞者でお琴の野口裕子先生のVサイン写真、産業の三宅一郎氏ご夫妻の写真を撮る。嬉しい写真は楽しい。
 3日(水)五百歳野球「中通クラブ」の球納会。川反・迎賓館にて。
 4日(木)あきたパークホテル。早稲田フェスタin秋田準備会。9人集まる。福ちゃんのTシャツを作ることに。夜、アトリオンでの仏ピアニストパスカル・ロジャコンサートへ女房と。
 8日(月)平安閣。ナイトセッション。秋田海陸の渡部幸男社長、おぐら製粉の小倉隆夫社長のシンポ。バウハウスの森川恒氏、道光産業の工藤道男氏と山王・八条。
 9日(火)ペルーの看護婦イネスを秋田市添川の遊心園に迎え、広面の田中玲子先生宅へ。秋田ペルー協会でキリタンポ料理歓迎会。
 10日(水)秋田市文化会館。女房と「再会」という中国での日本人の戦争責任を問う重い芝居。
 11日(木)麺の日。秋田市役所裏の大江戸ラーメン。ハンガリーの盆栽研究家タマビロと秋田市写真家協会の伊藤大会長と。タマビロと大江戸の若夫婦、記念の麺写真。
 14日(日)スカイドーム。タッチラグビー大会。みっちゃんずのオーナーとして、今年からは観戦。夜、キャッスルホテルの車屋。秋田晴酒造の川口和夫社長、バウハウスの森川恒社長、横浜の出村企画社長と酒道を呑む会の打合せ。川口社長からごやっかいに。
 15日(月)山王・八条。秋田市環境部長飯塚明氏、元甲子園球児で神宮と野球の話。
 16日(火)秋田青年会議所例会。アキタニューグランドホテル。祭りの話を会員交流委員会の面々と。青井智さん達と川反・蔵にて竿燈時に旭川に灯籠流しをやろうとの話。
 17日(水)県民会館。十朱幸枝の雪国の芝居を女房と。 日頃、妻不幸をしているだろうと、華道の根本柳月先生からのご招待。
 19日(金)彌高神社の北嶋宮司と川反・酉の蔵へ。元芸者の若勇さんへ酒道の会への講演依頼、ご快諾を頂く。「あざみ」に寄る。今月の二七日に店を閉めるとの事。昔ここに世話になった札幌の三木賢治毎日新聞北海道支局報道部長に電話したら、来るという。
 20日(土)昔、雪上野球で東京での利雪克雪シンポに呼んでくれた日本システム開発研究所の大嶋戌常務と秋田市文化会館へ。秋田自然エネルギー自治体サミット。栗原史郎一橋大学教授が「環境市民革命と自治体」と題して講演「今市民になにができるかと問いかけ、市民参加を誘い出すきっかけをつくれ」
 23日(火)秋田市文化会館。踊りの瑞峰流の発表会へ。超満員であった。
 25日(木)タッチラグビー協会設立十周年記念祝賀会。榮太楼旅館にて。ラガーマン達と川反・スナックレディへ。
 26日(金)ふるさと塾人間道場。彌高会館。今年のゲストは狂言の中野三樹氏。狂言の笑い方を習う。カラオケ大賞は二人のラガーマン。審査委員長の佐々木市雄さん達とスナック小樽へ。紅雨にて、中野さんと人生劇場を歌う。伴奏は流しの演歌師山本実さん。人生劇場の台詞を頼まれる。
 27(土)昼、アキタニューグランドホテル。東京六大学野球連盟理事会。立教の三浦義明氏が来年、応援部の六旗の会を秋田市で開催計画。
 毎日新聞北海道の三木賢治部長を秋田空港に迎え、駅前で坂本智尚記者と3人。川反・料亭いくよ。秋田流酒道等の話。仲居さんから杯洗を持ってきてもらいお猪口とコップの洗い方を習う。今日で店をしめる「あざみ」へ。沢木香代子ママ、大変お世話にありがとうございました。
28日(日)彌高神社へ。北嶋昭宮司と4日の秋田流酒道を呑む会の打ち合わせ。若勇さんから「川反芸者の接待学」の講演依頼。小唄「酒の秋田」の踊りも披露される。
どんぷう後記
今年も色々ありました。眠られない夜、明後日はなんとかなる、何時かは笑い話になるだろうと楽観して動くしかない。笑いの芸術「狂言」の笑い方を習いました。膝を下げて起きあがりながら、「は は は は は はアー」
笑門来福