ふるさと呑風便11月号
ボルネオの山と海
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クアラルンプール・ホテルニューワールド。早朝のレストランでボーイさんと目があった。笑顔を返すと話しかけてきた。ボルネオを行くというと、彼はにっこり笑って、ボルネオのサバ州出身だという。
クアラルンプール空港。待合室でボルネオ島サバ州の首都コタキナバル行きの飛行機を待っていた。突然アナウンス「ミチオササキ カウンターテン」と呼ばれる。慌てる。税関をまた戻って一〇番カウンターに向かう。飛行機の切符が帰りのもので、行きのと交換してくださいとことだった。売店で民族衣装バティックの本とハンカチを数枚買った。
濃い緑の島が見えてきた。エアアジア航空の機上から、青緑の海面の先に現れた。上空からみる島は、緑のジャングルの中を褐色の川が蛇行していた。
コタキナバル空港。外へ出ると、熱い風が出迎える。10月8日昼前。中国人ガイドのケンさんがマイクロバスで市街地のショッピングセンターへ案内。街路樹は合歓木に似た木で、黄色い小さな花が咲いている。港には水上船が数多く停泊している。昼食はカレー料理。テーブルの小皿にある唐辛子を箸でつまんで口にする。激辛だ。舌が焼けるように辛い。出てきたカレーはそれほど辛くはない。
日本人経営の岩瀬書店で「河の民」と「熱帯アジアの花」を買う。
マイクロバスはキナバル公園に向かう。2時間ほどして強い雨が窓を打ってきた。山腹を少し上がって晴れ間が見えてくる。止まった。バスを降りると、霧が煙る中に市場がある。カダザン族のマーケットだ。ガイドのケンさんが、トンガリアがあるという。ボルネオ産バイアグラだ。これは坂本バイオファームの坂本賢二博士から研究材料にしたいといわれていたもの。木の根のカンナ屑が入っている箱だった。250リンギ。一箱約八千円。高いよといったら、カダザン娘が錠剤入りの瓶を持ってきてこれを付けるという。買った。坂本バイオファームがボルネオ秋田産バイアグラを製品化したら安いものだ。古代米も買ってカダザン叔母さんと一緒に写真を撮ってもらう。
キナバル公園入り口に到着する。バスを降りると薄ら寒い。更に上がっていくと、外は暗くなる。コッテージ風の建物の明かりが見えた。そこは中に二部屋あって、風呂が共同、地下に暖炉付きの広いキッチンがあった。
近くのロッジ風レストラン。キナバル登山目的のオーストラリア人と日本人一行が二組。我々九人の国際観光開発視察団は、タイのプーケット島のリゾートと違った、ボルネオの自然の観光資源の視察が目的である。少し熱気味で食欲がない。ヌードルスープと書かれたラーメンを頼んだが不味い。コテージに戻ってベッドに潜る。
翌朝9日。外へ出ると目の前にガリガリとんがった山頂が見えた。キナバル山だ。カダザン族がアキナバル(離れてゆく魂の家)と名付けた。海抜4101米。荘厳な山。これからあの山の中腹まで登る。ロッジの前のブナの木に、朝顔が包むように咲いている。
登山口の見晴台に上がった。花崗岩質の山頂。その下には鬱蒼としたブナ林が覆っている。地元の高校生達が騒いでいた。キナバル山を背景として彼らと一緒に写真を撮った。
登り始める。毛糸のジャケットに娘が買ってくれたポシェットを腰に付けて。途中、ガイドのケンさんが熱帯植物の説明をする。蘭の花、ウツボカズラ、黄色いシャクナゲが見える。汗が出てきた。二合目当たりの東屋でTシャツ一枚になる。更に一時間ほど登る。富士山の八合目ぐらいの高度になるが、周りは森が続く。熱帯登山の魅力だ。茨城県大洗から来た一行は頂上目指して追い越して登っていった。
コタキナバルの北の保養地にあるロサリアリオートは五つ星のリゾートホテル。一階の部屋からは砂浜が続き、東シナ海へ。10月10日朝。ベランダからサンダルのまま海岸へ歩く。熱帯の花木が多い。ポトスの化け物のような葉が茂っている。砂浜に水牛と思われる足跡が東側の森へずっと続いている。渚を小さな白い虫が走る。追いかけて捕まえると、砂蟹だった。
部屋に戻ってベランダに白い長椅子を出して「河の民」を読む。これは戦前にボルネオの部族「河の民」の探検記。しばし眠って夢を見ていた。バナナの葉を打つ雨の音で目が覚めた。雨がやんだ。再び海へ歩く。少し波がある。沖までゆっくり泳ぐ。戻って砂地に足をつけたら、固いモノに当たった。取り出してみると一枚貝に、きれいな小さな貝がいっぱいついている。
ボルネオの海で泳いで貝発見
これが妻への一番みやげ
ビーチハットの白い椅子に寝転がる。砂地にハマヒルガオがはっている。
隣にはヨーロッパから来ただろう、老夫婦が本を読んでいる。南の島で時間がゆっくり過ぎていく。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年3月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「大変革」
ーめだかのデモクラシー(4)
★ 村岡 兼幸 氏
(まちづくり市民財団理事長)
それぞれの税金とか、NPOの会費とか企業の収益が真ん中の市民社会にいいように使われれば、循環すれがいいことだと思います。税金で払ってもそれが効率的に使われれば、それがぐるっと回ってNPOから使われても良いんです。日本はその部分がまだ薄いと思います。
このことをある青年会議所のメンバーが立体的にモニュメントに作ったんですね。ガラスでできた正三角錐で、それぞれの断面は、NPOと行政と企業の面、当然その正三角錐の真ん中にいるのが市民なんです。
行政が悪い、NPOが育たないといいますが、実はそれを生み出しているのが真ん中の市民なんです。真ん中の市民の意識が変わらないとNPOが育たないと行政も変わらないんだなと思います。
そういう意味でバランスと多様性のとれた正三角錐、社会を日本のなかで構築していかなければならないと思います。そういう意味で日本はNPOの三角錐の面が小さいですね。バランスがとれてないと思います。NPOの面積は黙っていれば小さいままなんです。社会全体で育てようという力が働かないと正三角錐の面が広がっていかないんです。多分欧米とかのNPO活動が盛んなところは、そういう部分を育てていこうという意識があるんだなと感じます。
NPOが進んでいるアメリカの例です。昨年12月1日にNPO条例が県で施行されました。県内2つが申請しているということですが、12月1日の朝日新聞の社説をみてびっくりしたんです。記事にはアメリカという社会は正三角錐の真ん中にいる市民がNPOを支えるために寄付を10兆円するというんです。百万を越す市民団体、10兆円の個人からの寄付がある。行政や企業を除いてです。かたや日本は500億円。
ここからは私の勝手な積算ですが、10兆円を2億人の人口で割ると5万円なんです。日本の500億円を1億人で割ると500円なんです。5万円と500円とでは百倍の開きがあるんです。同じ土俵にはあげられないんですが、日本の今の経済力、ボランティアやNPOに対する意識を考えるとアメリカの十分の一ぐらいの力は充分にあると思います。育てようという力が働いたら今の状況が随分と変わってくるはずです。
私もNPOをやっていますが、一般に直ぐ行政からお金を引っ張ろうとしています。それは勿論大事なことですが、官から引っ張るだけではなくて、民が民を育てるような動きが日本の社会になければならないかなと思っています。
まちづくり市民財団の理事長をやっていますが、民から民へのお金の流れをつくる財団、1億五千万円のちっちゃな財団です。財団ですからお金の運用益で活動できる訳ですから、三百万円の年利と五十万円のトヨタ自動車から協賛を頂いて年間六百五十万円の助成活動をしています。各団体に20件ぐらいの助成、30万から50万です。20件の助成に全国から三百件の申請があります。
そんな意味で民から民にお金の流れをつくることが日本の社会で大事なのではないかと思います。
アメリカには全米各地にボランティアセンターが五百カ所ぐらいあります。日本でも社会福祉協議会にボランティアセンターという名前はあります。アメリカのテレビ広告を見ていると、やかんでお湯を沸かしている十五秒のコマーシャルですが、やかんを湧かせるのなら誰かの役に立てるはずです ボランティアセンターとあります。そのいわんとするところは、どんな小さなことでもいいから力を発揮したら、それが社会の役に立つはずだというメッセージなんです。
日本の社会の場合は私も含めて、月に一回だったら、第三週土曜日の2時間、自分の得意分野でボランティア活動をしたいという気持ちがあると思います。したいと思っても受け入れてくれる場がなければできない話なんです。ボランティアをする側と受けるがあるとすると、受ける側の事情のなかでボランティアをしないとボランティアは成り立たない。アメリカの社会はボランティアセンターが五百カ所あって、そこに訪ねていって自分の希望する日時と場所と得意な職種を伝えると全米のネットワークの中から5分後に、その人の希望するボランティア活動を紹介してくれるシステムが出来上がっています。ということはボランティアの受ける側の事情でなくて、する側の事情にたった環境づくりを社会全体がしているということなんですね。 するとボランティアの多い少ないではなくて、どんな小さな一人一人でいいから、社会の中で生かしていこうというシステムがアメリカ社会では出来上がっているのだというふうに思います。
そういう意味では日本はNPO元年、ボランティア元年とかいわれていますが、まだまだこれから整えていく部分がいっぱい残っていると思います。
パートナー社会をどう考えるかという話を終わりたいと思います。
幸せの方程式という話に移っていきたいと思います。
これまでの幸せの方程式は欲望分の財なんですね。分母に欲望、分子に財。分子の財を大きくするほど、我々は幸せになれると思ってずうっときたんですね。確かに戦後、財を増やすことによって豊かさを勝ち得たと思います。
例えば戦後20年代は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機とかが目標でした。それが終わると次は車とか暖冷房、財はどんなに豊かになっても次々と新しい物を求めていかなければなりません。何故ならば分母の人間の欲望もそれを追いかけるように分子も大きくなっていくからです。
そういう意味で、この欲望分の財の幸せの方程式は成り立たなくなってきました。ましてや、まちづくりのすべてに係わってくる地球環境問題を考えると、これ以上財を増やすことによって幸せを得ようとすることは無理があるんだと思います。今までの幸せの方程式の原点は拡大とか、成長発展とか、効率とかにたった方程式なんですね。数値での答えが求められる幸せの方程式なんです。でも多分これからの21世紀の社会の新しい幸せの方程式は、拡大とか効率、成長じゃなくて、それと対峙するような成熟とか、循環とか、プロセスとか、そこに幸せを見いだすような方程式に変えて行かなければならないと思います。
と考えれば成熟とか循環とかプロセスというのは、数値ではなかなか答えがでない方程式なんです。この成熟、循環、プロセスの中に豊かさを求められているのではないかと思います。
では私を含めて仲間がどんな活動をしているか、ちょっと紹介したいと思います。
これはSCDという世界中の恵まれない子どもを救おうというイギリスに本部があるNGOです。そのSCDの日本支部の機関誌があります。最後のページにSCDグッズのあるこんな店、あんな店という紹介があります。
青年会議所で同期だった白石さんという、愛媛県の新居浜なんですが、自分達でボランティアショップを作ったんです。紹介記事を読んでみます。
このグッドウイッドの目的は阪神大震災に芽生えた地域のボランティア活動を側面支援すること。店で販売したグッヅの売上金は、提供団体に返され、その団体の活動資金に組み込まれます。
セイブザチルドレンのネクタイがあるんですが、その売上げはSDCに戻す。社会福祉協議会の売上げはそこに戻す。その場を提供しているというボランティア団体です。
一部を支援金として貯めておき、財政的に弱い市民団体に寄付をします。評議委員会の審査によって配分先を決定。SCDも2回かなりの売上金を受け取りました。この店は小さなNGOにとってはとても強い味方。でもお店の運営資金はどうなっているかと余計な心配をしてしまいますが、当面は白石氏らがロックバンドの演奏会などの積立金を資金にして運営するという話。お店は現在、金土日の週3回正午から7時まで開いています。
私も去年のお盆にJCの同窓会があって、この店を訪ねてきました。売上げに協力するために商品を買いました。今出たロックバンドのCDを5枚とネクタイ2本と本を一冊買いました。請求は後からということで、たぶん一万ちょっとかなと、請求書を見たら2万5000円なんです。(笑い)高いなと思いましたが、ボランティアショップとは安いイメージがありますが実は高いんです。素人のバンドにも係わらすCDがプロと同じ2500円、5枚買うと一二五〇〇円なんですね。ネクタイ1本五〇〇〇円なんで一万円。ですから二万五〇〇〇円ぐらいなるんです。でもそのお金の一部がそういう活動に使われるということですから、安くはないんです。でもおしゃれでいい物でなければ買われませんからそれなりに商品の工夫をしています。
ロックバンドとありますが、我々はコミックバンドといってます。JCの仲間を集めてコンサートを開いているんです。さよならコンサートの私、4回行ってます。さよならコンサートとめいうって人を集めるんです。さよならコンサートの反省会で次のコンサートの打ち合わせをしているんです。次のコンサートの名前を変えるだけなんです。それは皆んなわかっているんです。コンサートは缶ビール一個で三千円の会費で、ボランティア半分で楽しんでいるんです。
一回、コンサートの売り上げが30万円ぐらいになる。これを全部運営資金につぎ込んでいます。
私の本「大変革」も社会に訴えるために本屋さんで買ってもらえる本ということで作りました。JCメンバーに半強制的に買わせまして、一万部の売り上げの中から四十万円をまちづくり市民財団に寄付をしました。これは私のNPO活動の一環です。民から民へカネの流れを作ろうという実践です。出版社にとっても本が売れるということは仕事として有り難いことです。そこから税金を行政に払うのも大きな社会貢献だと思います。社会の基盤である行政とか、企業の仕事は99%一生懸命やって税金も払って、日本の社会に育たなかった正三角錐の少しバランスのとれたものにするためには1ポイント2ポイントとみんなが力を注いでNPOの部分を育て上げてことが大事だと思います。
そしてNPOを育て上げることだけがいいことではなくて、それがある意味では循環とか成熟といった社会に繋がるきっかけというか、扉を開くことになるのではないでしょうか。アメリカ社会では、膨大なGNPの6、7%はNPOが生み出しているんです。雇用の6、7%もNPOが生み出しているんです。そういういう意味で、NPOは日本の経済的な落ち込みの部分に次のヒントになるのではないかと思います。
ここでもう一つの「ニワトリたちのデモクラシイ」のお話をして終わりたいと思います。
その日の朝、ニワトリたちの主人はいっこうに現れなかった。そして代わりに現れたのが、まだ小さな主人の子供だった。彼は桶に入ったエサを重そうに持っていた。年長のニワトリが聞いた。「おやまあ、いったいどうしたんだい?坊や」「お父さんが病気で働けなくなったんだ。だからこれからボクがみんなの世話をするんだよ。でも、ボク小さいから、こんなにたくさんの卵を拾って市場に行けないや」朝から産み落とされた卵をみて、その小さな主人は途方に暮れたように肩を落とした。
ニワトリたちはそれを聞いて、口々に不安をもらした。「卵がたくさん売れなきゃ、エサも変えないよ」「主人がいなきゃ、だれが掃除をしてくれるの?」そうやって、大騒ぎになりはじめたニワトリ小屋の中で、小さな主人は一生懸命にエサを分け始めたが、仕事はなかなかはかどらなかった。それをじっと見ていた年長のニワトリは、小さな主人に言った。
「ねえ、坊や。あなたどう考えても一人じゃ無理よ。私たちを自由にしてくれない?」彼は少し考えたが、これから毎朝こんなことが続いたら、きっと今度は、自分が病気になってしますような気がしたので、みんなをケージから放してあげることにした。
年長のニワトリは、小さな主人を指してみんなに言った。
「私たちの主人は突然、こんなに小さく弱くなったわ。さあ、私たちは何をすべきなの?」みんながでんでに考えをいった「私、早くエサを食べたいから、みんなにエサを分けるわ」「じゃあ私はその間、小屋の中を掃除するわ」「坊やが卵を集めやすいように、転がして集めようか?」
次の日の朝、小さな主人がやってきて扉を開けると、ニワトリ小屋はもうすっかりきれいになっていて、エサを分配しやすくするために、いくつかのグループに分かれていた。
扉の近くを見れば、今朝彼女たちが産んだ卵が、きれいに並べられていた。ニワトリたちが自分で集めてくれたのだ。
ニワトリたちの世話をしなくてもよくなった小さな主人は、その時間を使って卵を一輪車に乗せ、市場に売りに行った。もちろん帰りにはエサをたっぷり買って帰った。
ニワトリたちは、新しい仕事のせいで、産む卵の数が減ってしまった。でも、小さな主人の交換してくるエサの量が減ることはなかった。なぜなら、自由のおかげで健康になったニワトリたちの産む卵は、大きくて殻も厚く、前よりもずっと高く売れたのだ。いつの間にか、そのニワトリ小屋の卵は、市場で最も評判の卵になっていた。
我青春風来記(116)
早海三太郎メキシコ(10)
アラメダ公園の一角に「ある愛の歌」が流れている。ティファナからバスでやってきたマリアは、公園で知り合った19歳の大学生と親しそうに話している。三太郎には何を話しているかさっぱり分からない。ある愛の歌を聞いているのかどうか、マリアはその学生に一枚の写真を見せている。これは誰かと聞くまでもない。なかなかいい男の写真だ。歌を聞いて彼氏のことを思い出したのであろうか。マリアッチの歌が終わった。三太郎のある愛の歌も終わった感じだった。マリアッチの楽団にお金をやって、大学生にまた会おうと別れた。もう10時を過ぎている。メキシコではまだまだこれからだ。 マリアに叔母さんのいるレストランまで送ろうといった。
近くのバス停まででいいとマリア。マリアッチの音楽のさんざめきを後に、マリアと別れた。来るはずのホセが来ない。午前9時の約束の時間から一時間は過ぎている。三太郎はホテルモンテカルロで待っている。どうも一時間ぐらい遅れるのはここでは普通らしい。海抜二三五九米にある首都では、空気が薄いから、万事のんびりしている。二時間ちかく遅れてホセがホテルにやってきた。遅くなってごめん、なんてことはいわない。いきなり、パレードをやってるから見に行こうという。外へ出て行くと何かの祭りのパレードだ。先頭には花輪をもった男女がゆっくり歩いている。
教会に向かっていくらしい。ホセと後ろについて歩いた。隣に姉妹がいる、二人とも美人だ。どこから来たと聞かれた。ハポンだ、というとオーラと驚く。日本がどこにあるかは知っているようだ。ホテルの名前を教えた。その日の遅い夜、ホテルの部屋の電話が鳴った。先ほど会った美人姉妹の姉だろうか。名前も聞いてなかった。三太郎は知ってるスペイン語を並べて話す。しばらく話していて、結婚の話になって、今結婚はしていないというところを、忙しいといってしまった。彼女、電話先で「ごめんなさい」といって切ってしまった。また、三太郎の失敗だった。(続く)
呑 風 日 誌 抄
10月1日(金)国際観光開発センターでの最後の講義。「観光開発としてのホテル業」「タイの観光促進事情」「地域に役立つ観光開発」終わって壮行会。四谷の焼鳥屋で互明商事の真下勝幸部長と。彼はナッツの専門家。新橋のスナックでピスタチオの話。イランとアメリカから買ってきて中国の工場で食べやすいように割れ目を作らしている。隣の女性客が読んでいる本「危機と克服」
2日(日)学芸大学駅近くの蕎麦屋「夢呆」で娘と。夜。渋谷のハチ公前。女房を迎えて、親子4人で息子も呼んで学芸大学の娘のアパート。
3日。朝。近くの碑文谷公園で女房とラジオ体操。新宿の京王プラザ。4人で昼食。成田空港へ。ANA特別室でビール。17時発ANA。隣のアメリカ帰りのラオス人母娘。バンコクへ6時間。21時到着。時差2時間遅れ。バンコクは雨上がり。1バーツ3円。空港で両替。マイクロバスで30分。メリディアンプレジデントホテル。ガイドから聞いた屋台へ青森の久保君を誘って。運河沿いに屋台がいっぱい。蕎麦を見つけ、出てきたのがワンタンメン。実に旨かった。鈴なりライチと臭くないドリアンや珍しい果物をどっさり買って、ホテルの部屋で久保君と高いビールで飲る。
4日(月)タイ政府観光庁へ。投資部長からタイの観光事情の説明。観光資源はタイ人のもてなしの心だという。午後からエメラルド寺院。夕方、ホテルにSMIトラベルの菊地久夫社長。中学野球部後輩と一八年ぶり。運転手付きの車で会員制のバンコクラブへ。奥さんも来てくれる。上着着用とのことでボーイさんが袖の長い背広を持ってきて着させられる。中華料理にザーサイなし。タバコもタイ製もなし。二人でサクラというナイトクラブへ。日本人だけ。トイレで日本人が携帯で怒っている。
5日(火)早朝、空港でプーケット島へ。空港を降りると熱風が迎える。マイクロバスで岬へ。火炎樹の真っ赤な花が美しい。ホテルでの中華料理に日本の歌が流れる。夜、海岸沿いの海鮮レストラン。久保君と足裏マッサージ。一時間で気持ちよく眠る。床屋さんを見つけてタイ式カットをしてもらう。タイ式ボクシングを見て、娘にローレックスの偽物を買う。高台の傾斜地にあるリゾートホテル・ダイヤモンドクリフのサービスは抜群。
6日(水)ゴム林を通って空港へ。クアラルンプールへ。
緑の中に高層ビルが多く近代的な街。ホテルニューワールドから外へ出て散歩。ツインタワーの隣の高層ビルに伊勢丹デパートがある。エミーマストーラのCDを店の女子高校生に探してもらう。ホテルに大学クラブの後輩、日商岩井の佐伯裕一君が来る。客家飯店で中華料理。ここでナマコを食べ、ゴーヤーはなし。
チャイナタウンの夜店へ。目的はブリタニカ百科事典のCD。アメリカで買えば一〇万円が値切って三〇〇〇円也。ニ個買う。佐伯はビトンやブランド物の革製品を二〇分の一ぐらい値切って買う。彼のの行け付けのナイトクラブへ。くたびれた感じの日本人客が宇加多ヒカルの歌を歌っている。インド人の代行車で帰る。
7日(木)朝食のレストランでザーサイを見つける。マレーシア政府観光局のアドブラ総裁に表敬訪問。午後、国立美術館。雷雨となり足止め。交通ラッシュ。マレーシア料理店へ。やっとニガウリを見つけるが、沖縄産の方が旨い。舞台に呼ばれ、マレーシア民族衣装の新婚夫婦に米と水をかける儀式。チャイナタウンの夜店に行って、ブランド品革製の偽財布を定価の二〇分の一で買う。セブンイレブンでビールを買い、タクシーでホテルへ。明日はボルネオ。
11日(月)六時45分。成田着。家に電話すると女房がいきなり「お帰りなさい」
13日(水)横手市セントラルホテルへ。小西吉則氏の一周忌.。渡部慶一毎日支局長と。
16日(土)山形県上山球場。仙台・山形・秋田稲門野球大会。エースが不参加で投げる。蔵王温泉「樹林」で交流会。
22日(金)AIグループ。益山武夫総裁、北嶋昭幹事長と川反・鳥八。山王・館へ。
23日(土)秋田市奈良工務店へ。昔の畑ニッポンの仲間伊藤三男社長を訪ね、育てている名古屋コーチンを見せてもらい卵をどっさり頂く。卵焼きにして食べる。超美味。
31日(日)葉隠墓苑。佐賀藩士慰霊祭。11年目の今年から地元町内会が主催。大内町のとろろ飯大食い大会へ。仕掛け人は消えていい。